『天翔(あまかけ)る龍』

キユサピ

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第六章:「禁苑の双頭」

第八十六話:「亡者の夢」

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陳譚の牢獄に、週に一度の牧師の訪問とは別に、新たな人物が現れるようになった。
それは罪人に反省を促すための教会の取り組みであり、今回は志願した一人の女性が彼の前に姿を見せた。

面会室の小窓越しに現れたその女性の顔を見た瞬間、陳譚は無意識に息を呑んだ。
――どこか、幼い頃に死に別れた母の面影に似ていたからだ。

「……私は、あなたのような人にも、まだ人としての心が残っていると信じています」
女性は恐れることなく、静かにそう告げた。

陳譚の口元には、嘲笑とも嗤いともつかぬ表情が浮かぶ。
「心、だと? 人の命など、ただの実験材料だ。信じるも信じぬも勝手にするがよい」

言葉は冷ややかだった。しかし、その日から陳譚の心の奥底に、ほんのわずかな揺らぎが芽生えた。
彼は反省など一片もしていなかった。だが夜ごと夢に魘されるようになったのである。

夢の中、彼が過去に弄んできた数多の人々が現れる。
薬物で肉体を変質させられた者、死者として蘇らされ苦痛に呻いた者――皆が陳譚を取り囲み、無言で彼を睨む。

「やめろ……近寄るな……!」

叫んでも声は届かない。次の瞬間、彼らは一斉に牙を剥き、爪を伸ばし、陳譚の肉を引き裂いた。
その痛みは夢の中であるはずなのに生々しく、焼けるようだった。

陳譚は目を覚ますたびに息を荒げ、冷や汗で寝台を濡らしていた。
だが夢は終わらない。翌晩も、その翌晩も、彼が殺めた人々が現れ、同じように彼を襲った。

「……なぜだ。なぜ私が……」

かつては木偶のように使い捨て、研究材料としてしか見なかった命が、今になって生々しく彼の夢を食い破っていく。
陳譚は頭を抱え、牢の隅で呻き声を漏らす。

それは懺悔でも悔悟でもなかった。ただ、己が創り出した亡者たちの影に怯える、惨めな呻きでしかなかった。

陳譚の悪夢は日を追うごとに深刻になっていった。
最初は眠りの中だけであった亡者の影が、次第に昼の牢内にも忍び込んでくる。

食事の皿を差し入れる看守の姿が、かつて実験で殺めた村人の顔に見える。
通路を歩く囚人の影が、かつて解剖した死者兵士の呻き声を響かせる。

「……幻覚か? いや、これは夢の続き……?」

陳譚は額に汗を浮かべ、鉄格子に爪を立てて呻いた。
現実と幻覚の境が曖昧になり、彼の心はじわじわと侵食されていく。

ある日、再びボランティアの女性が訪れた。
彼女は以前と変わらず、穏やかに陳譚へ言葉をかける。

「……あなたは、まだ生きています。生きている限り、償う道は残されているのです」

だが陳譚には、その声が遠くに霞んで聞こえた。
彼の耳には、背後から群がる亡者の呻き声の方が鮮烈に響いていたからだ。

「償う……だと? 私は……私は研究を成し遂げただけだ! あいつらは材料だ! ただの材料だった!」

陳譚は鉄格子に縋りつき、血走った目で叫ぶ。
女性は言葉を失い、ただ哀れみの眼差しを向けるしかなかった。

夜になると、再び夢が彼を襲う。
亡者たちは数を増し、今や牢獄の壁をも突き破る勢いで押し寄せてくる。
彼らは口々に叫んだ。

――「返せ」
――「苦しい」
――「なぜ我らを弄んだ」

陳譚は必死に耳を塞いだが、声は脳裏に直接叩き込まれる。

「やめろ……私は悪くない……黄楊だ……あいつのせいだ……!」

必死に責任をなすりつけようとするが、亡者たちは笑うように牙を剥いた。

「お前が手を下した」
「お前が楽しんでいた」

その声に陳譚は膝を折り、獣のようなうめき声を上げた。

現実の牢獄の中、彼は誰もいない闇に向かって喚き続ける。
その姿は、もはや科学者の威厳などかけらもなく、ただ悪夢に囚われた哀れな亡霊に過ぎなかった。

夜の牢獄。
冷たい石床にうずくまった陳譚の周囲に、亡者たちの影が蠢いていた。

彼らは壁をすり抜け、天井から這い降り、足元から這い上がってくる。
かつて陳譚が弄んだ人々――老いも若きも、女も子どもも、皆が血にまみれた姿で彼を取り囲む。

「……やめろ……来るな……」
陳譚は耳を塞ぎ、目を閉じる。しかし、声は頭蓋の内側に直接響き、瞼の裏には亡者の顔が鮮明に浮かんだ。

「返せ」
「苦しい」
「お前も同じ苦しみを味わえ」

その瞬間、陳譚は絶叫し、鉄格子に頭を打ちつけた。
乾いた音が何度も響き、額から血が流れる。

「私は……私は悪くない! 私は偉業を成したのだ! 死を越えた力を……科学の勝利を……!」

だが亡者の群れは、彼の言葉をあざ笑うかのように歪んだ声で重ねた。

「お前はただの人殺し」
「満たしたのは己の欲望」
「命を弄んだ罰を受けよ」

陳譚は狂ったように壁に爪を立て、血が滲むまで引っ掻き続けた。
やがて、見えぬ手に捕まれたように首を仰け反らせ、虚空を掻きむしる。

「来るな……やめろォォッ!」

その叫びが牢を震わせた時、看守たちが駆け込んできた。
だがそこにあったのは、痙攣しながら泡を吹き、虚ろな瞳で宙を見上げる陳譚の姿だった。

「……く、くる……亡者が……わしを……」

そう呟いたきり、彼は声を失った。
その後、医師の診断で命に別状はないとされたが、陳譚の精神は完全に崩壊していた。

彼の目は生気を失い、何を見ても怯え、何を聞いても亡者の声としか感じられない。
研究に心血を注いだ科学者の面影は、もはやどこにもなかった。

闇の中に立つ陳譚の前に、次々と現れる兵の影。
かつて己が血肉を削って造り出した生物兵士たち、そして命を弄ばれた末に倒れた死者兵士の亡霊たち。
その眼差しは憎悪と怨嗟で染まり、声なき叫びが空気を軋ませる。

「やめろ……近寄るな……! 私は……お前たちの主だぞ!」

必死に叫ぶ陳譚の腕に、腐り落ちた指が絡みつく。
次の瞬間、彼の全身は黒い影に呑まれ、肉を裂かれるような苦痛が走った。

「これは……わたしが……作った……ものの……」

最後の言葉は呻きのように漏れ、血を吐きながら崩れ落ちる。
彼の身体はやがて影に溶け、骨も肉も呑み込まれて消え去った。

残されたのは怨霊たちの嗤いと、深い沈黙。
陳譚の野望は、己が生み出した地獄に引きずり込まれるようにして潰えたのだった。

――それは、命を弄んだ者が辿る、あまりに無様で哀れな終焉であった。陳譚は誰にも看取られる事なくひっそりと命を終えた。
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