『天翔(あまかけ)る龍』

キユサピ

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第十章:「孤立する正義」

第百三十八話:「街のざわめき」

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蒼嶺国の門をくぐった瞬間、烈陽国の一行は異様な静けさに包まれた。
大通りには行き交う人々の姿があったが、誰もが目を伏せ、遠巻きに彼らを眺めるだけ。笑い声や商人の呼び声さえも、どこか作り物のように薄かった。

「……歓迎されている、という雰囲気ではないな」
小声で蘭舜が呟く。

ビスは人々の視線を鋭く感じ取り、唇を固く結んだ。
「違う。これは恐怖だ。兵士の目を気にしてる……」

確かに、通りの至る所に蒼嶺国の兵が立ち並んでいた。槍を構えたまま石像のように動かず、視線だけが冷たく一行を追う。民衆は彼らの影に怯え、うつむいて通り過ぎていく。

「この国の人々は、竜よりも兵に縛られているようですね」
玲霞が皮肉をこめてつぶやいた。

リンは足を止め、近くの露店に目を向けた。売り物の果実は熟れているのに、店主は声を出さない。視線を交わした途端、慌てて布で覆い隠してしまった。
「……本当に妙だ。俺たちを避けているというより、『何かを見せるな』と命じられているようだ」

ビスは僅かにうなずいた。
「監視されてる。兵だけじゃない、民衆の中にも目付役が紛れてるはず」

その言葉を裏付けるかのように、群衆の中から一人の女が足早に立ち去った。彼女の衣の裾から、鉄製の徽章がちらりと覗いた。
蘭舜の目が鋭く光る。
「密偵か……」

一行は表向き何事もなく進みながらも、それぞれに緊張を高めていた。
この街は、竜の影に守られた国ではなく、恐怖と監視に縛られた檻。
烈陽国の使節団にとって、最初の「違和感」は確かな警告となった。
 昼下がりの市街は、いつもと変わらぬ喧噪に包まれていた。行き交う人々のざわめき、屋台から漂う香ばしい匂い、子どもたちのはしゃぐ声。
 しかし、リンの足は自然と止まっていた。

 ──妙だ。

 人の流れは一見普段通りに見える。それなのに、どこか歯車がかみ合っていないような違和感が胸の奥をざわつかせる。
 すれ違った男がこちらを一瞥したあと、すぐに目を逸らした。その仕草はさりげないものの、同じような行動を取る者が二人、三人と続く。

 「……視線が散っている」

 リンは心の中で呟いた。特定の一点を狙うのではなく、群衆の中から誰かを探しているような、あるいは誰かを監視しているような……。

 隣を歩く玲霞は、街路の小さな書店のショーウィンドウに目を向けながら、研究資料になりそうな書物を指差していた。
 「リン、この店、あとで寄っていいかしら?」
 「もちろん。ただ──」

 リンの視線は周囲を巡り、すぐに言葉を切った。
 玲霞を不用意に不安がらせるべきではない。だが、この胸騒ぎは単なる気のせいで済むものではない。

 護衛役である二人──影のように控える警護の者たちもまた、気配を張り詰めているのが伝わってくる。
 リンは人混みを抜ける前に、かすかな空気の乱れを探るように深く息を吸った。

 街中に漂う違和感は、確かに「誰か」の意志を孕んでいた。
 リンは視線の端で、人混みの向こうに立つ男の姿を捉えた。
 帽子を深くかぶり、衣服は街に溶け込む無地の上衣。しかしその立ち位置は、群衆の流れに逆らうようにわずかに停滞している。
 そして──玲霞が動けば、その男もまた数歩遅れて移動する。

 「……やはり」
 リンは心の中で呟いた。

 尾行。
 それも素人の真似事ではない。一定の間隔を保ち、視線を交わさぬよう徹底している。
 ただ一つの誤算は、獲物に選んだのがリンであったことだ。

 玲霞はまだ気づかぬまま、目を輝かせて新刊の並ぶ棚を見やっている。
 護衛の二人もまた気配を察しているのか、視線を交わさぬまま配置をわずかに変えた。

 リンは自然な動作で足を止め、街角の屋台に視線を移した。
 「玲霞、少し喉が渇いたな」
 「ええ、私もそう思っていたところ」

 二人が屋台に近づくと、尾行者もまた距離を保ったまま人混みに紛れる。
 その影を、リンは確かに見逃さなかった。

 「──ここで炙り出す」

 紙コップを受け取ったリンは、玲霞の肩越しにさりげなく護衛へ視線を送った。
 合図は短く、しかし十分だった。

 街のざわめきの奥で、静かに罠が動き出そうとしていた。

 人混みの中に潜む影──リンが視線を送った先を、蘭舜はすでに捉えていた。
 彼の目は竜のごとき鋭さを帯び、逃げ場を塞ぐように静かに動き出す。

 一方のビスもまた、ただ守られる存在ではなかった。
 蘭舜に鍛えられた身は、群衆の流れを利用しながら尾行者との距離を測る。

 「ビス、右へ回れ」
 短く蘭舜が囁いた。
 その声に迷いなく頷いたビスは、屋台の間をすり抜けて別の路地へ。

 尾行者は不意の動きにわずかに体を硬直させた。
 その一瞬を、蘭舜は見逃さない。

 「──捉えた!」

 竜巻のごとき速さで間合いを詰め、尾行者の腕をねじ伏せた。
 同時に背後からビスが回り込み、持ち手を逆に取りながら足元を払う。

 ごろり、と石畳に尾行者の身体が転がった。
 周囲の市民は何事かとざわめいたが、リンがすかさず微笑みを浮かべて「大丈夫、こちらの知人です」と場を和ませる。

 尾行者のフードが外れ、その顔が明らかになった。
 若い男──だが眼差しにはただならぬ緊張が張り付いている。

 「誰の差し金だ?」
 蘭舜の声が低く響く。

 ビスもまた、その視線を真正面から受け止めた。
 ただ捕えたのではない、自らの手で危機を退けたのだという確信が、胸に熱く灯っていた。
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