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9.想定外の身代わり
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月日はあっという間に過ぎ、卒業するまであと三か月という頃、ハイジがアデレイドの姿で学院から帰ってくると、門と屋敷をつなぐ石畳をうろうろしていたギーゼラが駆け寄ってくる。
「お帰りなさいませ、お嬢さま。大旦那様がこれからお出かけするので、お嬢様もご一緒にとおっしゃっておられます」
「え?」
ギーゼラはハイジだとわからないようだ。手を引いて屋敷の中へ入ろうとするのでハイジは焦る。
「ま、待って、ギーゼラ」
あわてて門を振り返ってみても、さっき別れたばかりのデニスの姿はもうない。
「ちょっと、離れに寄らせて」
ハイジが振りほどこうとしても、ギーゼラはしっかり彼女の手をつかんでいる。
「ハイジに御用ですか? 内線をかけてもつながらないし、今、見に行ったら、離れには誰もいませんでしたよ」
どうやら入れ違いになったらしく、すでにアデレイドは出かけたあとだったようだ。
アデレイドと入れ替わることができないハイジは、「早くご準備をいたしましょう」とギーゼラに引っ張られていく。屋敷のアデレイドの部屋で、侯爵夫人がソファーに座って待っていた。
「ああ、アデレイド、やっと帰ってきたのね」
八年前に、彼女に髪を切られた恐怖を思い出して、ハイジはぞっとする。
侯爵夫人のほうは、ハイジの様子に気が付かず、衣裳部屋のドアを開けて、クローゼットのドレスを吟味しだした。
「これがいいかしら? それともこっちのピンクのドレスのほうがいいかしらね」
ギーゼラが背中をおすので、ハイジは恐る恐る侯爵夫人のそばへ行く。
「本当に、あの家はマナーがなっていないわ。ジェフリー様が王都のお屋敷に戻ってきたから会いにこいだなんて、急に言われてもこっちはいい迷惑よ」
ぶつぶつと文句を言いながら侯爵夫人がドレスを数着取り出す。
「ジェフリー様?」
首をかしげるハイジに、侯爵夫人は選び出したドレスを次々と彼女の体に当てる。
「そうよ。あなたの許婚者であるヒルト子爵家のジェフリー様。十年前に一度顔合わせをしただけだから、忘れてしまった?」
許婚者と聞いて、ハイジはびっくりした。
アデレイドが婚約しているなんて、誰からも知らされていないし、彼女にはデニスという恋人がいる。
呆然としているハイジに、侯爵夫人は「これがいいわね」とドレスを決めた。
「ギーゼラ、アデレイドを着替えさせてお化粧をしてやって」
「はい、かしこまりました」
ギーゼラがハイジの着替えを手伝う。
彼女や侯爵夫人がハイジをアデレイドと間違えるとは、思いもしなかった。けれどそれなら、一度会っただけで十年ぶりのヒルト子爵家でも、ハイジがアデレイドのふりをしていることなどわからないだろう。
アデレイドの身代わりで、許婚者に会うのは絶対に嫌なので、ハイジは逃げ出すチャンスをうかがった。
「お手洗いに行ってくるわ」
着替えた後、ハイジはギーゼラに断って衣裳部屋を出ると、居間には侯爵夫人がソファーに座ってお茶を飲んでいる。
「どうしたの? アデレイド」
「あの、お手洗いに……」
そういって、ハイジがドアへ向かうと、侯爵夫人が「待ちなさい」という。
「どこへ行くつもり? お手洗いなら、そっちでしょう」
侯爵夫人がさすドアは衣裳部屋の向かい側で、廊下へ出るドアではない。
「ご、ごめんなさい」
ハイジは言われたドアを開ける。そこは寝室で、アデレイドの部屋には専用のレストルームやバスルームが付いているようだ。
寝室の窓はバルコニーにつながっているが、そこから出るすべはない。二階のこの部屋から飛び降りればけがをしてしまうだろう。外へ出るには居間を通らなくては行けなくて、そこでは侯爵夫人が目を光らせている。
「いったいどうしたの、アデレイド? 様子が変よ」
形だけの手洗いを済ませて寝室から出てきたハイジに、侯爵夫人がいぶかしむように言う。やっとアデレイドではないと気が付いたのかと固唾をのんだ。
近づいてきた侯爵夫人はそっとハイジを抱きしめる。
「わかっているわ。ヒルト子爵家が気に入らないのでしょう。でも、あなたの幸せのためには、我慢も必要なのよ」
なだめるように言ってハイジの髪をなでた。入れ替わっていることに全く気が付いていないようだ。
侯爵夫人は、ハイジを衣裳部屋の化粧台の前に座らせると、ギーゼラが施す化粧に細かい指示を出した。
「眉を整えて、口紅はもっと上品な色にして。下品な子爵家に格の違いを見せつけるようにね」
「はい、大奥様」
ハイジは、間近に来るギーゼラの顔をじっと見つめる。彼女は視線に気が付くと、ハイジには見せたことのない甘い笑顔を浮かべた。
「そんなに見つめられると照れてしまいますわ。お嬢様」
赤ん坊の頃からハイジの面倒を見てくれて、アデレイドとも毎日顔を合わせているのに、ギーゼラはハイジたちの見分けがつかないのだ。赤の他人の彼女はもとより、血のつながった祖母である侯爵夫人ですらわかっていない。
(誰も私たちを見分けられないの?)
愕然としながらも、ハイジは、子供の頃ここでアデレイドと着せ替えごっこをした時のことを思い出す。あの時、侯爵夫人がアデレイドを呼びつけたのは、同じ格好をしていてどちらかわからなかったからだろう。
可愛がっている孫のアデレイドのこともわからないのだと思うと、ハイジは侯爵夫人に対してびくびくしていることが馬鹿らしくなった。
準備が整って侯爵夫人と一緒に階下へ降りていくと、玄関ホールで侯爵が杖をついて待っていた。初めて間近に侯爵を見て、ハイジは緊張したが、彼はちらりとみるだけだ。
「遅かったな。さっさと行くぞ」
侯爵もまた、疑うことなくウルリヒが開ける玄関のドアに向かってすたすたと先へ行った。
前庭のポーチには、後部座席が対面になっているリムジンが止められている。運転席とさえぎられている後部のドアをウルリヒが開けた。進行方向に向かう座席に侯爵夫妻が乗り、ハイジは彼らの対面で運転席と背中合わせになる席に座った。
全員が座ったのを確認して、ウルリヒはドアを閉めて運転席に座る。ギーゼラに見送られて、ハイジは侯爵夫妻と一緒に子爵家へ向かった。
車の中で、侯爵夫人があれこれと貴族の噂話をして、侯爵は寡黙で気難しい顔をしている。侯爵の機嫌が悪いのかと思っていたが、夫人がまったく気にしていないところを見ると、これは普段通りなのだろう。ハイジは侯爵夫人に話を振られると、適当に相槌を打っておいた。
「お帰りなさいませ、お嬢さま。大旦那様がこれからお出かけするので、お嬢様もご一緒にとおっしゃっておられます」
「え?」
ギーゼラはハイジだとわからないようだ。手を引いて屋敷の中へ入ろうとするのでハイジは焦る。
「ま、待って、ギーゼラ」
あわてて門を振り返ってみても、さっき別れたばかりのデニスの姿はもうない。
「ちょっと、離れに寄らせて」
ハイジが振りほどこうとしても、ギーゼラはしっかり彼女の手をつかんでいる。
「ハイジに御用ですか? 内線をかけてもつながらないし、今、見に行ったら、離れには誰もいませんでしたよ」
どうやら入れ違いになったらしく、すでにアデレイドは出かけたあとだったようだ。
アデレイドと入れ替わることができないハイジは、「早くご準備をいたしましょう」とギーゼラに引っ張られていく。屋敷のアデレイドの部屋で、侯爵夫人がソファーに座って待っていた。
「ああ、アデレイド、やっと帰ってきたのね」
八年前に、彼女に髪を切られた恐怖を思い出して、ハイジはぞっとする。
侯爵夫人のほうは、ハイジの様子に気が付かず、衣裳部屋のドアを開けて、クローゼットのドレスを吟味しだした。
「これがいいかしら? それともこっちのピンクのドレスのほうがいいかしらね」
ギーゼラが背中をおすので、ハイジは恐る恐る侯爵夫人のそばへ行く。
「本当に、あの家はマナーがなっていないわ。ジェフリー様が王都のお屋敷に戻ってきたから会いにこいだなんて、急に言われてもこっちはいい迷惑よ」
ぶつぶつと文句を言いながら侯爵夫人がドレスを数着取り出す。
「ジェフリー様?」
首をかしげるハイジに、侯爵夫人は選び出したドレスを次々と彼女の体に当てる。
「そうよ。あなたの許婚者であるヒルト子爵家のジェフリー様。十年前に一度顔合わせをしただけだから、忘れてしまった?」
許婚者と聞いて、ハイジはびっくりした。
アデレイドが婚約しているなんて、誰からも知らされていないし、彼女にはデニスという恋人がいる。
呆然としているハイジに、侯爵夫人は「これがいいわね」とドレスを決めた。
「ギーゼラ、アデレイドを着替えさせてお化粧をしてやって」
「はい、かしこまりました」
ギーゼラがハイジの着替えを手伝う。
彼女や侯爵夫人がハイジをアデレイドと間違えるとは、思いもしなかった。けれどそれなら、一度会っただけで十年ぶりのヒルト子爵家でも、ハイジがアデレイドのふりをしていることなどわからないだろう。
アデレイドの身代わりで、許婚者に会うのは絶対に嫌なので、ハイジは逃げ出すチャンスをうかがった。
「お手洗いに行ってくるわ」
着替えた後、ハイジはギーゼラに断って衣裳部屋を出ると、居間には侯爵夫人がソファーに座ってお茶を飲んでいる。
「どうしたの? アデレイド」
「あの、お手洗いに……」
そういって、ハイジがドアへ向かうと、侯爵夫人が「待ちなさい」という。
「どこへ行くつもり? お手洗いなら、そっちでしょう」
侯爵夫人がさすドアは衣裳部屋の向かい側で、廊下へ出るドアではない。
「ご、ごめんなさい」
ハイジは言われたドアを開ける。そこは寝室で、アデレイドの部屋には専用のレストルームやバスルームが付いているようだ。
寝室の窓はバルコニーにつながっているが、そこから出るすべはない。二階のこの部屋から飛び降りればけがをしてしまうだろう。外へ出るには居間を通らなくては行けなくて、そこでは侯爵夫人が目を光らせている。
「いったいどうしたの、アデレイド? 様子が変よ」
形だけの手洗いを済ませて寝室から出てきたハイジに、侯爵夫人がいぶかしむように言う。やっとアデレイドではないと気が付いたのかと固唾をのんだ。
近づいてきた侯爵夫人はそっとハイジを抱きしめる。
「わかっているわ。ヒルト子爵家が気に入らないのでしょう。でも、あなたの幸せのためには、我慢も必要なのよ」
なだめるように言ってハイジの髪をなでた。入れ替わっていることに全く気が付いていないようだ。
侯爵夫人は、ハイジを衣裳部屋の化粧台の前に座らせると、ギーゼラが施す化粧に細かい指示を出した。
「眉を整えて、口紅はもっと上品な色にして。下品な子爵家に格の違いを見せつけるようにね」
「はい、大奥様」
ハイジは、間近に来るギーゼラの顔をじっと見つめる。彼女は視線に気が付くと、ハイジには見せたことのない甘い笑顔を浮かべた。
「そんなに見つめられると照れてしまいますわ。お嬢様」
赤ん坊の頃からハイジの面倒を見てくれて、アデレイドとも毎日顔を合わせているのに、ギーゼラはハイジたちの見分けがつかないのだ。赤の他人の彼女はもとより、血のつながった祖母である侯爵夫人ですらわかっていない。
(誰も私たちを見分けられないの?)
愕然としながらも、ハイジは、子供の頃ここでアデレイドと着せ替えごっこをした時のことを思い出す。あの時、侯爵夫人がアデレイドを呼びつけたのは、同じ格好をしていてどちらかわからなかったからだろう。
可愛がっている孫のアデレイドのこともわからないのだと思うと、ハイジは侯爵夫人に対してびくびくしていることが馬鹿らしくなった。
準備が整って侯爵夫人と一緒に階下へ降りていくと、玄関ホールで侯爵が杖をついて待っていた。初めて間近に侯爵を見て、ハイジは緊張したが、彼はちらりとみるだけだ。
「遅かったな。さっさと行くぞ」
侯爵もまた、疑うことなくウルリヒが開ける玄関のドアに向かってすたすたと先へ行った。
前庭のポーチには、後部座席が対面になっているリムジンが止められている。運転席とさえぎられている後部のドアをウルリヒが開けた。進行方向に向かう座席に侯爵夫妻が乗り、ハイジは彼らの対面で運転席と背中合わせになる席に座った。
全員が座ったのを確認して、ウルリヒはドアを閉めて運転席に座る。ギーゼラに見送られて、ハイジは侯爵夫妻と一緒に子爵家へ向かった。
車の中で、侯爵夫人があれこれと貴族の噂話をして、侯爵は寡黙で気難しい顔をしている。侯爵の機嫌が悪いのかと思っていたが、夫人がまったく気にしていないところを見ると、これは普段通りなのだろう。ハイジは侯爵夫人に話を振られると、適当に相槌を打っておいた。
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