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第三章:まつろわぬ民
29:月光
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演奏に集中できていないことは、龍進自身もよくわかっていた。音は不安定で、弾き間違いも多い。
それでも今は、弾き続けたかった。
今更、動揺しているのは何故だろう。己の手で睡蓮を殺すことは最初から決めていたことではないか。
しかも、彼女の素性は、勢州一族の生き残り。いずれこの国を根底から覆す可能性のある脅威だ。若榴以外にも、彼女を利用しようとする輩も出てくるに違いない。脅威の芽は速やかに摘まねばならない。それが、大君の間諜として生きる龍進の役割だ。
たとえ睡蓮が、幼少の頃に自分が出会った少女であったとしても。
やがて演奏を終えた龍進は、鍵盤から手を離し、顔を上げ、小さく息を吐く。
と、部屋の入口に誰かが立っているのに気づいた。
睡蓮だった。
窓から差し込む薄い月明かりが、湯上がりで微かに上気した肌を照らしだし、濡れた黒髪を漆のように輝かせている。
龍進は動揺を悟られないように、気丈に尋ねる。
「今日も、一緒に弾くか?」
「はい」
彼女とはここ数日、毎晩一緒にピアノを弾いていた。演奏曲は、満天の星空を表現した、初心者向けの楽曲。
彼女を椅子に座らせと、鍵盤に置かれた小さな手の上に、そっと己の手を重ねる。まるで陶器に触れたかのように冷たい。
「いつもの曲でいいか?」
だが、彼女にしては珍しく首を横に振った。
「先ほど、旦那様が弾いていた曲では」
「『月光』は、かなり難しいが」
「…………」
切望するような瞳で見上げられ、
「……わかった」
違和感を覚えながらも、ゆっくりと曲を奏で始める。
とはいえこの曲は和音が多く、手を添えたとしても容易に弾けるものではない。
つっかえながらも、しばらく演奏をし続けたとき、彼女が不意にこちらを見上げ、不安そうな顔つきでぽつりと言った。
「旦那様、さきほどから、ときどき手が震えておられます」
「え……?」
思わず自分の手を見る。自覚は無かったが、言われてみればそうかもしれない。
「……疲れているのかもしれないな」
その理由は自分でもわかっている。今、目の前にいる少女のことが頭から離れないのだ。
「今日はここまででいいか」
「はい」
彼女は椅子から降りると「ありがとうございました」と深々と頭を下げる。
「今日はゆっくり休むといい。それに明日の朝食は用意しなくて構わない。折角、仕立屋が来て、ドレスをあつらえてくれるんだ。目の下に隈など作っていてはもったいないからな」
と、睡蓮がなにかを思い出したかのように目を見開いて、そして、言った。
「……旦那様、その件で、お伝えしたいことがあります」
「なんだい?」
「折角、綺麗なドレスを仕立てていただくのです。ですから、旦那様が私を殺す際には、ドレスを着ていないときにお願いできますでしょうか」
「………………な」
なにを言われたか、一瞬、理解できなかった。頭の中で、彼女の言葉を反芻する。
彼女の濡れたような瞳が、なにかの決意を感じさせる瞳が、じっとこちらを見つめている。
「血で汚しては、もったいないですから」
「いや……、そういうことじゃない。どうして、僕が君を殺すなどと……」
喉が乾き、声がうまく出ない。
彼女が淡々と言った。
「とうに覚悟は出来ています。私は人斬り。舞踏会において、お役目を果たした後は、どうか旦那様の手で地獄に送っていただきたく存じます」
沈黙が落ちる。
秋の夜長、庭から虫の鳴き声が葉擦れとともに聞こえてくる。
龍進は小さく息をつくと、表情を殺して言った。
「嘘をつくのはやめよう。そうだ、最初から僕は君を処分するつもりだった。咎人は必ずその責めを負わねばならないからだ」
彼女がこくりとうなずく。
「だが、それがわかっていて、どうして君は、甘んじて受け入れようとするのか。自分の命は惜しくないのか」
しばしの沈黙の後、
「……私は旦那様に出会ったときに、既に死んだも同然の身ですから」
「だが、君は今、生きている。殺されることがわかっていて、どうして逃げ出そうとしなかったのか。いくらでも方法はあったはずだ」
睡蓮の目が微かに伏せられた。長い睫が震える。
それからややあって、彼女が視線を上げて言った。
「それは……、旦那様が、私に、家族を与えてくださったからです」
「…………」
「朝食の後、旦那様をお見送りする。日中はお召し物を洗濯した後、お屋敷の掃除。そして、夕食の支度をし、ご帰宅された旦那様をお迎えし、一緒にお食事をいただく。お休みの日には旦那様とお出かけ。私には一生望んでも手に入らないものだと思っていました」
彼女の声が震えているのがわかる。
「端から見れば、偽りの婚約者、偽りの家族かもしれません。ですが、私にとって、旦那様は、初めての大切な家族でした」
一瞬声を詰まらせたかと思うと、強い意思を宿した瞳を向けて言った。
「最後に幸せを与えてくださった旦那様へのご恩返しには、到底ならないかもしれません。ですが、舞踏会の場では、身命を賭して旦那様をお守りいたします」
睡蓮の目の端に光るものが見える。
龍進は狼狽をおさえながら、彼女から目をそらすと、ピアノの鍵盤カバーを閉じながら言った。
「……そうか。君にそこまでの覚悟があるなら、僕から言うことはなにもない。当日の働きに期待している」
「はい」
睡蓮が下がり、部屋の前で深々とお辞儀をする。
「おやすみなさいませ、旦那様」
彼女の足音が遠ざかる。龍進は鍵盤カバーの上に両手をついたまま、しばらくその場から動くことが出来なかった。
いつの間にか庭の虫の声は止み、窓の外からは秋風による葉擦れの音だけが聞こえていた。
それでも今は、弾き続けたかった。
今更、動揺しているのは何故だろう。己の手で睡蓮を殺すことは最初から決めていたことではないか。
しかも、彼女の素性は、勢州一族の生き残り。いずれこの国を根底から覆す可能性のある脅威だ。若榴以外にも、彼女を利用しようとする輩も出てくるに違いない。脅威の芽は速やかに摘まねばならない。それが、大君の間諜として生きる龍進の役割だ。
たとえ睡蓮が、幼少の頃に自分が出会った少女であったとしても。
やがて演奏を終えた龍進は、鍵盤から手を離し、顔を上げ、小さく息を吐く。
と、部屋の入口に誰かが立っているのに気づいた。
睡蓮だった。
窓から差し込む薄い月明かりが、湯上がりで微かに上気した肌を照らしだし、濡れた黒髪を漆のように輝かせている。
龍進は動揺を悟られないように、気丈に尋ねる。
「今日も、一緒に弾くか?」
「はい」
彼女とはここ数日、毎晩一緒にピアノを弾いていた。演奏曲は、満天の星空を表現した、初心者向けの楽曲。
彼女を椅子に座らせと、鍵盤に置かれた小さな手の上に、そっと己の手を重ねる。まるで陶器に触れたかのように冷たい。
「いつもの曲でいいか?」
だが、彼女にしては珍しく首を横に振った。
「先ほど、旦那様が弾いていた曲では」
「『月光』は、かなり難しいが」
「…………」
切望するような瞳で見上げられ、
「……わかった」
違和感を覚えながらも、ゆっくりと曲を奏で始める。
とはいえこの曲は和音が多く、手を添えたとしても容易に弾けるものではない。
つっかえながらも、しばらく演奏をし続けたとき、彼女が不意にこちらを見上げ、不安そうな顔つきでぽつりと言った。
「旦那様、さきほどから、ときどき手が震えておられます」
「え……?」
思わず自分の手を見る。自覚は無かったが、言われてみればそうかもしれない。
「……疲れているのかもしれないな」
その理由は自分でもわかっている。今、目の前にいる少女のことが頭から離れないのだ。
「今日はここまででいいか」
「はい」
彼女は椅子から降りると「ありがとうございました」と深々と頭を下げる。
「今日はゆっくり休むといい。それに明日の朝食は用意しなくて構わない。折角、仕立屋が来て、ドレスをあつらえてくれるんだ。目の下に隈など作っていてはもったいないからな」
と、睡蓮がなにかを思い出したかのように目を見開いて、そして、言った。
「……旦那様、その件で、お伝えしたいことがあります」
「なんだい?」
「折角、綺麗なドレスを仕立てていただくのです。ですから、旦那様が私を殺す際には、ドレスを着ていないときにお願いできますでしょうか」
「………………な」
なにを言われたか、一瞬、理解できなかった。頭の中で、彼女の言葉を反芻する。
彼女の濡れたような瞳が、なにかの決意を感じさせる瞳が、じっとこちらを見つめている。
「血で汚しては、もったいないですから」
「いや……、そういうことじゃない。どうして、僕が君を殺すなどと……」
喉が乾き、声がうまく出ない。
彼女が淡々と言った。
「とうに覚悟は出来ています。私は人斬り。舞踏会において、お役目を果たした後は、どうか旦那様の手で地獄に送っていただきたく存じます」
沈黙が落ちる。
秋の夜長、庭から虫の鳴き声が葉擦れとともに聞こえてくる。
龍進は小さく息をつくと、表情を殺して言った。
「嘘をつくのはやめよう。そうだ、最初から僕は君を処分するつもりだった。咎人は必ずその責めを負わねばならないからだ」
彼女がこくりとうなずく。
「だが、それがわかっていて、どうして君は、甘んじて受け入れようとするのか。自分の命は惜しくないのか」
しばしの沈黙の後、
「……私は旦那様に出会ったときに、既に死んだも同然の身ですから」
「だが、君は今、生きている。殺されることがわかっていて、どうして逃げ出そうとしなかったのか。いくらでも方法はあったはずだ」
睡蓮の目が微かに伏せられた。長い睫が震える。
それからややあって、彼女が視線を上げて言った。
「それは……、旦那様が、私に、家族を与えてくださったからです」
「…………」
「朝食の後、旦那様をお見送りする。日中はお召し物を洗濯した後、お屋敷の掃除。そして、夕食の支度をし、ご帰宅された旦那様をお迎えし、一緒にお食事をいただく。お休みの日には旦那様とお出かけ。私には一生望んでも手に入らないものだと思っていました」
彼女の声が震えているのがわかる。
「端から見れば、偽りの婚約者、偽りの家族かもしれません。ですが、私にとって、旦那様は、初めての大切な家族でした」
一瞬声を詰まらせたかと思うと、強い意思を宿した瞳を向けて言った。
「最後に幸せを与えてくださった旦那様へのご恩返しには、到底ならないかもしれません。ですが、舞踏会の場では、身命を賭して旦那様をお守りいたします」
睡蓮の目の端に光るものが見える。
龍進は狼狽をおさえながら、彼女から目をそらすと、ピアノの鍵盤カバーを閉じながら言った。
「……そうか。君にそこまでの覚悟があるなら、僕から言うことはなにもない。当日の働きに期待している」
「はい」
睡蓮が下がり、部屋の前で深々とお辞儀をする。
「おやすみなさいませ、旦那様」
彼女の足音が遠ざかる。龍進は鍵盤カバーの上に両手をついたまま、しばらくその場から動くことが出来なかった。
いつの間にか庭の虫の声は止み、窓の外からは秋風による葉擦れの音だけが聞こえていた。
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