【完結】番じゃなくても愛してる

秋良

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12. 魔法と抑制剤の恩恵



 ある初冬の日。
 遅い昼食をとっていたとき、それは起きた。

 店番をエイラに任せて、店舗裏の工房でご主人お手製の賄いを食べる。今日は卵やレタス、トマトにベーコンを挟んだバゲットだ。ご主人はちょうど、午後に並べる追加分のパンを焼き終わったところで、俺はその良い匂いを嗅ぎながらバゲットを食べて、甘くないカフェラテでひと息ついていた。
 と、ふらっと視界がわずかに揺らいだ。軽い目眩だなと思ったときには、持っていた食べかけのバゲットをテーブル代わりの作業台へと落としてしまっていた。

「……リスト?」

 寡黙なご主人が心配そうに視線を向ける。

「……あ、これ……やばい、かも」

 止まらない目眩に作業台に手をつく。その気持ち悪さに思わず目を瞑るも、目蓋越しに世界が回り始めた。訳もなく心臓がバクバクと速くなる。

 いや、訳はある。
 体の内側から何かが漏れ出るような感覚。頬や腹が火照って高まる熱。じわじわと劣情が強まる本能。渇いていく体を満たしてほしいという浅ましい欲求。それにずぶずぶと浸りたいと思う身体。——ヒートだ。

(く、くすり……!)

 俺は足をもつれさせながらも、なんとか荷物置きに寄って自分の鞄を漁る。お財布やハンカチやらを掻き分けて、小さなポーチを取り出した。その中に入っている小瓶の蓋を開けて、中身を一気に煽る。
 空になったのをしっかり確認すれば、自然と力が抜けた。

「……もしかして、来たのか?」

 気遣わしげに近づいてきたご主人が、俺の目の前にそっとしゃがみ込む。
 ふわふわし始めた思考をなんとか留めながら、俺は頷いた。

「そうか。今年はこの時期だったか」
「うん。はぁ……ごめんね。いつもいつも、急でさ」
「気にするな。……送ろうか?」
「いいよ、大丈夫。もうちょっとしたら、薬も効いてくるだろうし。そしたら一人で帰るよ。それまで、ここにいていい?」

 そう訊ねれば、深く頷かれた。
 エイラに話をしに行くと店のほうへと向かったご主人の背中を見送って、俺は作業台に顔をうずめる。食べかけのバゲットが虚しく天板に転がっていた。普通の人なら、これから来る本格的な発情期に向けて体力をつけるため、少しでも食事をしておいたほうがいい。けれど、俺はどうせ戻してしまうから……。

(ご主人たちには、ほんと頭が上がらないな……)

 最後まで食べることの叶わなかったバゲットに申し訳なさを覚えながらも、これからのヒートを考えると、いっそう気持ちが沈む。

 ご主人が「今年は」と言ったように、俺は年に一、二度ほどヒートの予定日が狂うときがある。オメガには、普通の発情期とは別に『突発的なヒート』というのがあるんだけど、俺のこれはそれとは違って。単純に、いつもの発情期で周期が乱れる時期があるのだ。
 体質なのかと言われると、正直よくわからない。この困ったことが起き始めたのは、ヴィヒトリと番になってからだから、誰かと番になったらそうなる体質だったのかもしれないし、年齢を重ねたからの体質の変化かもしれない。

 いずれにせよ、この厄介な傾向は番が亡くなっても変わらなかった。でもそんな厄介さも理解したうえで、ご主人とエイラは俺を雇ってくれていた。

(あー、また迷惑かけるなぁ。仕方ないことなんだけど、へこむ……)

 さっき飲んだ小瓶の中身は、抑制剤だ。
 年に何度もないけれど、こういうことが起きることがわかっているから、俺はいつも鞄の中に抑制剤を常備している。

 俺には番がいるから、発情期を迎えたところで不用意に異性を誘惑してしまうことはない。でも抑制剤を飲まなければ、あの狂いそうな劣情を宥める方法がない。誰彼構わずに誘うなんてことも絶対ないけれど、そういう自分になる可能性を少しでも排除したかった。
 ただ、抑制剤を飲むと、今度は尋常じゃない体調不良が待っている。だから、どうにも立ち行かなくなって部屋で蹲るしかできなくなる前には、職場をあとにしないといけない。

 時期を見計らっているうちに、エイラがご主人と入れ違いで作業場へとやってきた。ちょうど客足がはけたところだからと言うけれど、きっと気を遣ってくれたのだ。

「ごめんね、エイラさん。また一週間くらいお休みもらっちゃうや」

 少しずつ薬が効いてきているのを感じながら、エイラに頭を下げる。

「いいの、いいの。リストには、いつもしっかりすぎるほど働いてもらってるんだから。たったの一週間くらい大丈夫よ! それにね、最近はカロリーナもしっかりしてきたじゃない? 家事も手伝ってくれるから、随分ラクになったわー」

 エイラは気配りに長けた人だから、その話が事実かはわからない。でも、彼女の言うように最近のカロリーナは数ヶ月前と比べるとしっかり者さが増してきた。子どもの成長はあっという間だっていうけれど、本当にそうなんだなぁと思う。
 店の手伝いも、少し前まではお願いしたことを精いっぱいやったら満足という様子だったのに、率先して掃除をしたり、やりたいことを提案するようにもなった。このままどんどん大人へと近づいていくんだろう。

「いつも面倒見てくれるから、リストにも似たのかもねぇ」
「あはは……それだったら、光栄かな」

 可愛いカロリーナやライノの成長をそばで見守れる今の環境は好きだ。

 オメガなのに、愛する人の子どもを得られなかったことは寂しく思っている。その寂しさを他人の子どもで埋めていると言われれば、そうなのかもしれない。
 でも、どうしようもないことにくよくよしたって、ヴィヒトリが蘇るわけでもないからさ。今、与えられて恵まれた時間と場所を少しでも楽しまないと。

「じゃあ俺、行くよ」
「顔色は……良くないわね。大変だろうけど、気をつけて帰るのよ」

 発情期に入ると、どうにも気が滅入りがちだ。
 それをエイラも知っているからこそ、変に気を回しすぎないでいてくれる優しさが有り難かった。

 きっとカロリーナもライノも、彼女やご主人に似て、優しくてしっかりした素敵な大人になっていくだろう。明るい未来を想像して、小さなきっかけで沈みかけた気持ちを浮上させて、俺は鞄を手に取る。

「いつもありがとう、エイラさん。また来週」

 エイラに裏口まで見送られ、重い体をなんとか動かしながら、俺は大好きな職場をあとにした。

 それから、徒歩三十分ほどで着く家までの道のりをいつもより遅い歩調で進んでいく。少しずつ、着実に悪くなってきている体調。でも、足を止めるわけにはいかない。
 シニリントゥで突然の周期がやってきて、今日みたいに早退を余儀なくされたことはこれまでにも何度かある。そのたびに、俺は一人で家までの道を歩いてきた。ゆっくりでも一歩ずつ足を前へと進めれば、いずれは必ず家に着くのだ。

 けれど——。

「……っ、……きつ……」

 想像していた以上に具合が悪くなるスピードが速くて、俺は頭の中でまずいなと思っていた。発情期の症状や程度、それを抑えてくれる抑制剤。そのどちらも、周期によって違いはある。吐いても吐いても気持ち悪さが治らないこともあれば、抑制剤の副作用が軽く済むときもなくはない。
 だから、今日も『運の悪い周期』で、いつもより副作用がきつかったり、そもそも薬の効き目が甘かったりしても、驚いたりはしない。

 でも、きついものはキツイ。
 どうやら今回は薬があまり効かず、そのくせに副作用は酷いというハズレを引いたみたいだ。

(だめだ……ちょっと、休もう……)

 不幸中の幸いにして、今回は吐き気はあまりない。代わりに強烈な目眩と、頭が割れそうなほどの頭痛が襲う。
 街中で吐き戻す心配はなさそうなので、俺は通り沿いにある小さな公園へ身を寄せた。ちょうど園内に人気はない。でも、通りからは園内が見えるから、万が一、俺に何かあっても助けを求めることはできるはずだ。

 木製のベンチに崩れるようにして座り込み、じっと目を閉じる。
 開けても閉じても世界は回り、なかなか目眩は止みそうにない。

 少し歩いただけで神経も体力もすり減ってしまった俺は、せめて体力だけでも回復を待とうとベンチに蹲っていた。
 時折、遠くで鳥の鳴き声がした。昼下がりも過ぎ、夕暮れにはまだ早い時間だ。けれど、冬が始まったから陽が沈むのは早くなった。今日は風も吹いていないから、コートを羽織っていればそんなに寒くはないとは思う。でも発情期が始まったから体温が上がっているだけかもしれない。

 ベンチに座り、両腿に膝をつきながら両手で顔を覆って、じっと微動だにしないままひたすらに体力の回復を願う。そうして十分ほど経った頃だろうか。

「リスト……?」

 馴染みのある声が聞こえて、俺は回る視界を堪えながら、両手から顔をわずかに上げた。揺れる視界が男を捉えたときには、彼は俺の前に跪いて心配そうな顔を向けていた。

「どうした? 具合が悪いのか?」

 駆け寄ってくれたのは、アンリだった。
 そういえば、アンリがよく店を訪れる時間帯だ。前に来たのは二日前だったから、今日訪れるのはいつもの流れだ。俺の通勤路は、塔からシニリントゥまでの道のりとも被ってる。だから、彼が俺を見つけても不思議じゃない。

 そっと覗きこむようにしながら、心配そうに問うアンリ。
 俺は詳しく答える余裕もなくて黙ったままだったけれど、アンリはそれだけで状況を察してくれたらしい。

「もしかして、ヒートか。薬は?」
「飲ん、だ。俺……副作用が、ひどくて……。目眩と頭痛が……」

 なんとか言葉を絞り出せば「家まで送ろう」と申し出てくれる。
 これからどこかへ——それこそ、シニリントゥへ行くつもりだったんじゃないかと思うと申し訳なくて断ろうとも思ったけれど、正直に言って体調は最悪だ。もう少しベンチで休めば動けるようになるだろうけど、そうでなかった場合に自宅へ帰るのは今以上に困難を要する。だから、有り難く手を借りることにした。

「ごめん……ありがと……」

 目眩も頭痛もあまり変わらなかったけれど、これ以上待って快復するかわからない。背負おうかとも訊かれたけれど、そこまで迷惑はかけたくなかったからアンリに支えられながら立ち上がって、俺はまたゆっくりと歩き始めた。

(見苦しいところ、見せちゃったな……。でも正直、アンリさんに見つけてもらえて助かった。俺のこと、知ってる人だとだいぶ気もラクだし……)

 体調の悪さに気を遣ってか、アンリは特に言葉をかけることもなく、ただそっと支えてくれていた。それがとても有り難い。アンリは直接見たことはないにせよ、俺の発情期がそれなりに重いことに気がついてはいるだろうから。
 そうして、何十分とかけて、やっと家へと帰ってきた頃。

「……魔法は、やはり使いたくないか?」

 呟くように訊ねられた問いかけ。俺はそれを急だとは思わなかった。

 アンリが言っていることも、気持ちも、わかるから。
 わかってはしまうから……。

 俺の態度を頭ごなしに否定しているわけじゃないってことくらい、十分に理解はできていた。
 だって、公園のベンチで顔色を悪くして、ぐったりと座っている知り合いを見かけたら、誰でも心配するだろう。彼は本当に、心の底から俺のことを気にかけてくれているのだ。

 健やかに過ごせる手段ができたから、やらないか、と——。
 でも……でも、やっぱり……。

「できない……。できないよ……そんなの……」

 俺の呟きは、一粒の涙とともに零れ落ちた。


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