【完結】番じゃなくても愛してる

秋良

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18. 未来のかたち



 アンリとの優しい時間は、番を亡くした俺の心を慰めてくれた。
 けれど、同じくらい苦しい時間も増えた。

 ヴィヒトリを喪って、それからまもなくしてアンリに出会ってからの数年間を思い返す。最愛のいない非日常が何気ない日々へと緩やかに変化していった、愛しくも苦しい日々。
 表面上は、それなりに『なんてことはないんだ』と振る舞えていたと思う。

 番を喪ったオメガの末路は悲惨だ。
 だから、同情や哀憫を抱かれ、気の毒に思われる。それが普通。

 でも、それを甘んじて受けて、その環境に迎合して生きてきたら、俺はダメになっていた。優しい人に囲まれて、穏やかな毎日を手に入れることもなく、哀しみに暮れ続けて、どこまでも深く暗く沈みこんでいたと思う。
 だから、なんてことはないって自分に言い聞かせて、優しくて親切な人たちに囲まれながら、にこにこしながら生きてきた。そうしないと、俺はこの命を全うできなかったんだ。

 最愛への想いを抱き締めながら、残された日々を生き抜く——それが先立ってしまったヴィヒトリに向けられる俺の精いっぱいの愛。それは優しくも切なく、苦しい日々だけれど、そう自分に課さないと死んでしまいそうだった。
 ともすれば深い闇へと転げ落ちてしまいそうな苦しさの中、なんとか生きてこられたのは、いろんな時、場所、方法で慰めてくれていた人たちがいたからだ。そして、その中にはもちろん、アンリもいる。今はもう、とても、大きな存在として。

「苦しいんだ、すっごく」

 アンリの視線を感じながら、俺は自分自身の両手の指を絡めて、祈るような仕草で天を見上げた。
 そこに広がるのは、なんてことはない店の天井。温かみを感じる木製のそれは、俺が大好きなパン屋の雰囲気そのものだ。あたたかくて、親切で、幸福な日常そのもの。

 そのさらに向こう、どこかに存在を感じる番に心を飛ばす。

「俺がヴィヒトリを大切にしてやれなくて、誰がヴィヒトリを大切にするんだ? ヴィヒトリは今でも俺だけを愛してくれているのに、俺が心のぜんぶを明け渡さないなんて、そんなのしていいはずがない。なのに、アンリさんのことも好きになっちゃうなんて、どうかしてるよね。けれど……止められないんだ。こんなの……ヴィヒトリへの裏切りだよ。こんな不誠実なこと、許されるはずがない」

 はぁ、と胸の苦しさを吐き出す。
 どんなにため息をついたところで、この苦しさは晴れない。祈ったところで、こんなこと許されるはずもない。なのに、心は、動いてしまった……。

「ヴィヒトリは、こんな俺に何も言えないのに」

 死者の時間は止まったままだ。生者とはともに生きられない。
 生きている俺が間違った行いをしようとして、死んでしまったヴィヒトリは、道を違えようとしている俺を止めることも、声をかけることもできない。ただ空の彼方で指を咥えて見ていることしかできないのに。

 それがわかっているのに、俺は不誠実な心を止められない。

「リスト」

 柔らかな声が耳に届く。
 飛ばしていた心を戻して、目の前のアンリへ視線を向けた。どんな話であっても聞くと言ってくれた優しさが声に灯っていて、俺の救いのない懺悔にじんわりと沁みる。

「私は、二人の人間を同時に愛していると話すきみが不誠実だとも、ダメなやつだとも思わない」
「そんなわけ……」

 ない、という言葉は彼の眼差しによって遮られた。

 真っ直ぐに見つめてくる瞳に吸いこまれそうになる。
 いつも身につけている闇色のローブも、癖のある黒い髪も、冷たい夜の色を纏っているのに、彼はどこかあたたかい。その瞳すらも、優しく温度をしている。

「今から話すことは私の考えだから、きみに共感しろとか同じ考えになれと強要するつもりはない。私の勝手な妄想であり、そうであってほしいという願望だ。それでも言わせてもらえるのなら——」
「うん……」
「きみの番、ヴィヒトリ殿は、きみが独りきりで寂しい日々を過ごすよりは、心安らげる誰かと笑顔を交わすことを望んでいるのではないかと思う」

 それは私ではない誰かでも、いいのだけれどね、とアンリは穏やかに笑った。

「私もアルファだから、最愛に対する独占欲はよくわかる。経験こそないが……それこそ、死してなお、自分だけを見つめていてほしいと思うだろうことも」

 アンリが紡ぐ『最愛』という響きに小さな痛みが走る。
 こんな些細なことで、気持ちを自覚してしまう自分が恨めしかった。俺にとっての最愛はヴィヒトリに違いない。けれど、アンリにとっての最愛がどうしても気になってしまう。俺のすべてを渡せないのに、なんて身勝手なんだろう。

 ままならない胸中を抱えた俺を知ってか知らずか、アンリは俺から目を逸らさずに、淀みなく言葉を続けた。

「だが、おそらくその独占欲と同じくらい『最愛には笑っていてほしい』とも思うだろう。それに、どうしたって自分が相手を守ることができないのなら、そのときは信のおける誰かに託してでも、最愛の笑顔を守りたいと願うだろうな。——リスト、きみは今、心の底から笑えているか?」

 アンリの言葉に俺は、はっとした。

 すでにこの世にいないヴィヒトリは、俺を守ることはできない。
 彼は今、俺を見守りながら何を思っているのか——本当に、きちんと考えたことはあったかな……?

 俺を愛して、幸せに暮らしてほしいと願っているはずだ。けれど……どこかで無理をしている俺に気づいて、心配してくれているのかもしれない。
 ヴィヒトリは、俺のことを誰よりも気にかけてくれていたから。気分が落ち込むとき、彼は俺のちょったした仕草にも気づいて、俺の不安ごと包んでくれた。そんな思いやりと愛情に満ちた人だった。

 そんな彼が、俺がたまに上手く笑えていないことに気づかないわけがない。いま目の前で、俺を諭してくれているアンリと同じように。きっと、笑顔の裏に隠れた寂しさに気づいている。

「リスト。きみは不誠実でも、ヴィヒトリ殿を裏切ってもいない。心の真ん中に唯一無二の番がいて、その心のままに新たな想いを育むのは決して罪ではない。掛け替えのない愛を捨てることも、比べる必要もない。きみが望めば、きみは二つ分の愛情を大切にできる」

 断言したアンリの瞳に、嘘は欠片も見えなかった。
 本心からの言葉をもらい、思わず声が震える。

「……そう、かな?」
「ああ。私が保証しよう」

 ヴィヒトリを愛していながら、アンリを好きになってしまった俺を二人は許してくれるのか。なんて都合のいい話だろう。
 でも、アンリのどこまでも真摯な言葉に、肩の力が抜けたのは事実だった。

 不誠実だとか、そうじゃないとか、そういうことじゃなくて。
 誰かから見れば顔を顰めるような葛藤を馬鹿みたいにし続けている俺を否定しないで、受け入れてくれたことがただ嬉しい。

「……正直言うとさ。ずっと、一人で生きていくのには限界があるって、思ってはいたんだ……。それでも俺はヴィヒトリを愛しているから、それで十分だって思ってた。俺の心にはヴィヒトリがいるから、一人じゃない。二人で生きているんだって……そう、思っては、いたんだよ」

 けれど、どんなに想いを重ね続けても、ヴィヒトリと歳を重ねることは叶わない。
 日々を生き抜いていけば、俺はおのずと歳をとる。ヴィヒトリが亡くなったときには二十一だった俺も、二十四歳になり、もうあと数ヶ月もすればさらに一つ歳をとる。この先、何年も俺だけが年齢を重ねていくけれど、そばで笑うヴィヒトリだけは歳を重ねない。二十七歳の笑顔のまま。

 それが、どんなに切ないことか……。

 何気ない日々のなかに、ヴィヒトリの姿が見えないこと。
 その日あった楽しかったこと、嬉しかったことを一番に話したい相手から、本当の返事は返ってこないこと。
 落ちこんだことがあっても、抱き締めてくれる腕はもうないこと。
 発情期のときはただただ、ひらすらに苦しく、つらいこと。

 毎日を生き続けているからこそ思い知る。
 孤独でなくても……孤独ではないからこそ、一人で生きていく日々は、寂しい。

「ヴィヒトリを愛したまま、アンリさんを愛してもいいのかな」

 迷いながら訊ねる。
 するとアンリは、殊更に優しい笑みを浮かべて答えた。

「唯一の番を愛しているきみごと愛していこう」

 その言葉で、俺の涙腺は呆気なく崩壊した。
 押し寄せる愛おしさに委ねて、おずおずと手を伸ばせば、アンリは椅子から立ち上がり、俺の両腕をそっと掬い上げた。繊細な指先が一本一本、俺の指を撫でて、最後には両手を一纏めにして、すっぽりと手の内に収める。そこに性的な匂いは一切ない。ただ、ただ、慈しみと愛情だけを灯した大きくあたたかな手だった。

 番のいる俺は、肉体的に誰かと愛することは叶わないから。
 キスの一つもできない相手に、最大級の愛をアンリは惜しみなく与えてくれた。

「あの魔法……」
「ん?」

 涙に視界が歪む。それでも、俺を見つめるグリーントルマリンの瞳が優しい色をしているのはわかる。

「前に、アンリさんが教えてくれた『番を解消する魔法』。……あの魔法を受けるのは、もう少しだけ、待ってくれない?」

 アンリと心を通わせたのなら、うなじに残る噛み痕を消して、ヴィヒトリとの番関係を解消するのは、ある種の道理であることはわかっている。
 俺だっていい歳した大人だから、単純なプラトニックな愛だけをアンリとのつながりにしたいわけじゃない。きちんと、彼に応えたいって想いはちゃんとある。

 でも、ヴィヒトリとのつながりを絶つと……考えるだけで、胸が苦しくて、呼吸すらできなくなりそうだった。

「ヴィヒトリと……番でなくなるのは、もう少し……もう少し、待ってほしい……」

 涙だけでは飽き足らず、体が強張り、震えた。
 アンリへの恋慕の自覚とは別にして、やっぱりヴィヒトリとの大切な——本当に大切なつながりを断ち切るのはとても怖い。

 すると、震える俺に「いいか?」という断りの声が降った。俺がコクリと頷けば、包まれていた手を離された代わりに、ぐっと抱き寄せられる。
 何度かアンリに体を支えてもらったことがあるから、彼が意外にもしっかりした体つきであることは知っていたけれど、頼り甲斐のあるそれを意識したのは、この瞬間が初めてだった。

「なあ、リスト。大丈夫だ。何一つとして焦ることはない」
「でも……」

 アルファというのは、本来、独占欲の高い性だ。
 人によって程度の差はあれど、アルファであるアンリだって「好きな人を手に入れたい」という気持ちはベータやオメガよりも強いはずだ。それがまして、誰か別のアルファのものであったオメガ相手じゃ、今すぐにでも自分のものにしたい、という気持ちが激情として溢れてもおかしくない。

 それでも彼は、穏やかに笑う。

「いつまでも待とう。きみの心が、きみを許せるその日まで」
「……いい、の?」

 アンリの声色は落ち着いていた。
 我慢をしているのかもしれないけれど、そんなことを俺には一切見せることのない柔らかく、甘い声。

「私は、きみを丸ごと愛すると決めたから」

 丸ごと——。
 それは、ヴィヒトリを愛したままでアンリへ想いを向けていいというだけじゃなくて、自分の不誠実さに悩むことも、番への裏切りだと心が裂けそうになることも、どうやって形づけていけばいいのか戸惑っている愛おしさが含まれたアンリへの感情も、すべて……。葛藤と戸惑いを抱いている不純な俺だとしても、愛情を注いでくれるということなんだ。

 そんなに大きな愛情で包みこんでいいの?
 あなたはそれでつらくはないの?

 そう訊ねようとして……でも、違うなと思い直す。
 本当に伝えなきゃいけないのは、きっといつか来てほしいと俺が願う未来の形。

「うん。ごめんね……でも、ありがとう。アンリさんの優しさに甘えさせてもらうね。今は、まだ……だけど、いつか……ヴィヒトリにもきちんと報告して、俺の覚悟が決まったら……あの魔法を受けたい。それに、家族にもちゃんと話しておきたい。アンリさんのことも、大切にしたいから」
「ああ、それで構わない。大丈夫だ、リスト。ゆっくりでいい」

 孤独を癒す抱擁に、視界がまた滲む。

「私の心は変わらないし、私はどこにも行かないから」

 ——だから、きみの思うがままに心を傾けてくれたらいい。


 ◇◇◇

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