アベレーション・ライフ

あきしつ

文字の大きさ
上 下
29 / 35
五月:開戦

第28話:3年A組のスタートライン

しおりを挟む
アイテール・クラウド、男はそう名乗った。年老いた老人とはまた別の綺麗な白髪。スラリと華奢な美丈夫。世界の全てを俯瞰して見るような態度。男、アイテールの存在はただただ異質だった。細く鋭い目をしており、頬に奇妙な黒い紋様が張りついている。アイテールは涼しげな笑みを浮かべ、死体の玉座から「よっ」と言って飛び降りた。
「驚いた顔が1つ、2つ、3つ……いいね、お前ら。想像より遥かに良い表情だよ」
驚愕、恐怖、戦慄、嫌悪、拒絶。それらが入り混じった一同の凍りついた表情を見てアイテールはクスクスと笑っている。
「な、にが…可笑しい…」
快の斜め後ろから、声を絞り出すように祐希は掠れた声を出した。
「ハハハ、いいね。じゃあ俺も頑張って息してるお前らに免じて誠心誠意、ありのままで話そうじゃないか」
答えになっていない答えを返したアイテールは軽快な動きで快達に詰め寄る。その軽快な動きに警戒せざるを得ない一同は反射的に態勢を後ろへと崩す。
「そう身構えんなよ、な?」
「あうっ……」
警戒の表情が消えない一同を見下すように嘲笑ったアイテールは爪先で何かを弄る。下を見ないアイテールの足元から、女の、弱々しい呻き声が聞こえた。
「──ッ!有都ッ!」
その声の主は有都色音だ。頭部から夥しい量の血を流し倒れる彼女は、腰辺りをアイテールの爪先、踵、足裏に押し潰されてる。
「この女、気絶する直前まで…誰だったかなぁ…あ、そうだ。稲妻のヤツ。お前の名前を囁いてたぜ?健気なもんだなァ。電樹…電樹ィ…ってw」
吐き気と、寒気がする。今まで色んなタイプのクズと接してきたが、ここまでの男を見るのも快は初めてだ。人の心とはこうも弄ばれて、踏みにじられていいものなのか。いや、そんな筈がない。
「──ッ!てめぇ…、まずはその足を退けろクソカス。有都に近づくなクソ野郎が」
その汚らわしい言動に電樹は怒りに肩を奮わす。唇を噛み、怒りのまま踏み出しかけた一歩を己で沈めた。
「賢明だ、色男。今この場でお前らが喚こうが暴れようが俺には敵わない。ていうか相思相愛かよ、キモい」
「そういう話じゃねぇんだよ!!さっさと退けろ!!」
「はいはい」
処置なし、と言うように両手を挙げたアイテールは呆れ顔で有都の背中から足を下ろす。快は改めて足元を見る。おぞましい。至って彼らへの侮辱を意味するものではない。アイテールの言動一つ一つが快の神経を逆撫でし、とてつもなくおぞましいのだ。
「ああ…この黒い服も良いなぁ…上手くやりゃ相当かっこよくなりそうだ」
今もアイテールはやり場のない怒りに燃える快達を無視して、死体からお気に入りの服を選別している。そのおぞましい奇行の一端に快は嫌悪感しかない。
「お前…この人達…全員殺したのか…有都や皆も…殺すつもりなのか…?」
快は喉を奥から声を出す。その声が届いているかどうかは分からない程に小さくか細い声だったと思う。
「この人達ってこの肉塊のこと?そうなら、うん。殺したよ?それが何?だってこんな雑魚に人権なんかねぇだろ。それにコイツら俺を見て血相変えて飛びかかって来たぜ?人間様お得意の正当防衛ってヤツだろ。でも安心しなよ。お前らの仲間は意識刈り取っただけだし殺すつもりはねぇよ」
つらつらと、流暢に語るアイテールは殺した客等を見下し嘲笑する。信頼に置ける仲間が無事であることを安堵するべきか、無辜の民を守れなかったことを悔いるべきなのか、意識してその間を狙ってきたのなら達の悪い話だ。アイテールは冷ややかな笑みを浮かべながら続ける。
「だってよ、お前らだって俺に殴られたらやり返すだろ。そういうもんだろ。まぁそういう理屈抜きにも俺は興味ねーんだよなぁ…こういう…」
そう言ってアイテールはしゃがんだ。倒れている男の頭を掴み、快達全員に見えるようにその男の顔を無理矢理上げた。
「威勢だけの雑魚は」
「──ッッ!!」
その男の顔を見てこの場にいる全ての人間が息を呑んだ。溢れんばかりの筋肉、剃り残された無精ひげ、四角い顔。見覚えのある、どころではない。この学校に来て2年間、毎日のように見てきた顔だ。
「か……また、せんせい…?」
それは快達を更に恐怖させるには充分過ぎるものだった。鳥束翼がこの学校にやってくる以前に快達を指導していた担任、蒲田力。今日も体育大会が始まる前に快は廊下で蒲田とすれ違った。その時は、蒲田に軽く会釈しただけだった。それが最期となるのも知らずに──
「嘘……だろ?なん、で…こんなぁ……」
彼の性根は熱血漢を体現したものであり、その熱さが快は嫌いだった。何度も意見が衝突したことがある。それでも、蒲田が教えたことは全て正しく、心の芯に響くものだった。今の自分がいるのは紛れもない蒲田のお陰だ。快はそのショックに項垂れる。
「ん、ほらよ。最期の挨拶でもしてやれ。コイツはまぁだ生きてるぜ。つっても虫の息だけどな」
愕然として放心状態の一同の足元に、アイテールは蒲田をゴミでも捨てるように投げた。歯はほとんど抜け落ち、腕や足は黄色い脂肪や桃色の筋肉が剥き出しになっている。無能力者である蒲田がこれから命を吹き返すことはないと、心では認めてしまう。
「せんせ……」
快はしゃがみ込み、蒲田の削ぎ落とされた頬に触れた。リンチに遭ったようにタコ殴りにされ腫れた瞼を蒲田はゆっくりと開け、涙目の愛弟子達を見つめる。
「お、れは……情けねぇ奴だ…お前達に…おし、え…た…正義も…道理…も…、あ、ぐ…つ、強さ…だって…全部自分てめぇが…実践しねぇで…どうすんだっつう…話だよな…」
「そんなことないですよ…!あんたはいつも自信満々で、俺達なんか軽く倒せるとか言って強がって…でも結局負けて、それでもあんたは挫けなかった。俺達に強さと正義は説いてくれた!そんなあんたが…死ぬなんて許せねぇよ……」
「そうよ!らしくないこと言ってないでさっさとまた偉そうに語ってなさいよ!」
蒲田の手を握りながら死を拒絶し、生を懇願する快の後ろでも、解華が口をつぐみ、大粒の涙を流しながら金切り声をあげた。祐希は悔しそうに唇を噛んで俯いており、怜奈は大声をあげて泣きじゃくっている。電樹は弱る有都を抱き締めながら嗚咽を繰り返す。冬真は涙1つ流さずにいるが、真っ赤に充血した目でアイテールを睨んでいる。
「馬鹿野郎…俺はもう…お前らの先生じゃねぇよ…だから…もう…関係のねぇことだ…」
蒲田は輝きを失って目で遥か先を、これから自分が離れる世界を、悲しげな瞳で見る。未練などない、そう言うような顔つきだった。
「強いて1つ…俺に悔いがあるなら…それは……お前らの卒業を見届けてやれねぇ…こと、だなぁ……」
「何言ってるか分かんねぇよ。未練はないって…そうじゃないのかよ……」
生気を感じられない。その虚ろな目に、心に映るのはなんだろうか。それが快達であることを祈るしかない。蒲田は掠れた声で低く呟いた。
「だが…安心しろ…お前らには…新しい…先生が就いてる…だろ?あいつは……よく分からねぇタイプ…だ、けど…な…きっと…お前らを…導いてく…れるはずだ…」
蒲田は鳥束の名を口にする。あの心の読めない、謎に満ちた男を。なぜ、この場にいないのか。龍と一戦を繰り広げた直前までは快の隣にいたが、気づいた時にはその姿は無かった。この場に鳥束がいればどれほど心強かっただろうか。
「……桧山……俺はもう…長くねぇ…最期に言わせてくれ……」
「最期なんて言うな!ちゃんと生きて言え!」
快にとって身近な人物の死は2度目だ。最初は今でも夢で魘される両親の死。父親の首が飛び、母の身体が崩れる瞬間を今でも忘れられない。だからこそ、もう誰にも死んで欲しくない。死を受け入れる蒲田は、虚ろな瞳で快と皆を見つめた。
「…卒業………おめでとう……」
それは二度と言えないメッセージ。今ではなく、未来へ向けたたった一言のメッセージだ。自分が存在しない世界で、華々しく卒業する快達へ向けた言葉。それは蒲田が一度、生徒に向けて言いたかった言葉。こんな風に、血にまみれた惨劇の中は蒲田にとっても望まない状況ではあったが、それを告げられた蒲田の心に、一切の淀みは無かった。そうして初めて、蒲田力は息を引き取った。
「──────」
まるで何か重い鉄の塊のような物を乗せられている圧迫感に駈られる。精神的に肺や心臓を圧迫され、息が上手く出来ない。喉が閉鎖したように、掠れた吐息しか出てこない。眼前で横たわる男がみるみる内に冷たくなっていく。これが、死。快にとっては2度目となる体験。死に馴れることなど、あり得ない。
「アイテールゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥゥッッ!!」
息を引き取った蒲田を優しく寝かせ、快は振り返り元凶の名を叫ぶ。今は憎悪を投げることしか快には出来ない。
「なに?やり返すつもり?」
ヘラヘラとした態度と表情で、余裕綽々な声色で快に言い返す。快はその腕に燃えカスのような炎を灯す。かがり火程度の低火力な炎でアイテールを倒せるとは思っていない。このどうしようもない気持ちをこうすることで放つことしか出来ないのだ。
「やめろ!確かに先生のことも…コイツがクソ野郎だってのも分かる…でも今はやり返すのは愚策だ!改めて対策を練ろう!コイツにやり返せるのは僕らしかいないんだぞ!今反抗したら僕らだって死ぬ!そうしたら…この後のことはどうするんだよ…」
アイテールを殴らんと引いた腕を祐希が掴み抑えた。震える声で、自分でも今にも爆発しそうな怒りを抑えて祐希は快に懇願する。
「なんだよ…良いヤツばっかじゃん。まぁそういうことだから余計な手出しはするなよ、桧山快君。俺も今日はお前らを殺しに来たわけじゃないんだぺ」
アイテールの言葉の語尾が曖昧になり、片腕が宙を舞う。直後、周囲を一斉に揺るがした風圧が、一同の恐怖を緩和させた。
「随分と勝手をしたようだ。おいたが過ぎるぞ。アイテールとかいうヤツ」
その暴風を巻き起こした男──鳥束翼は凛とした表情で崩れるアイテールを見据えた。
「なに、お前」
突然の不意打ちにアイテールは混乱しつつも、鳥束を前に悪態を吐く。
「せ…んせい…?」
「そう!ヒーロー参上だ」
人差し指を天に向け、笑顔で言い放つ。不思議と安心感の出る笑顔だ。意図して見せているのかもしれないが。
「先生…?コイツらの教師はそこのゴリラじゃねぇのかよ」
「ふむ…君はさっき桧山君を名前で呼んだね。彼は名乗ってなどいないのに。つまり僕の生徒達のことは知っていて……それで僕は知らない…はて?どういうことだ?」
「あぁ…そういうことかよ…お前が…『特異点により産まれし生命』か」
「聞き慣れないな。それは改めて調べるとして…こっちから聞いてもいいかな?」
あくまで対等を保とうとする鳥束はアイテールの機嫌を損ねないように慎重に交渉する。
「……なんだよ」
「君達は……起源種ジェネシス…なのかい?」
一瞬、鳥束の質問の意味が分からなかった。そもそもこの数秒の会話で聞き慣れない単語が多すぎる。アイテールが口にした方は鳥束も理解していないようだ。
「え…じぇねしす…って?」
快は硬直していた口をようやく開いた。鳥束が来てから不思議と身体の萎縮は収まっていた。気づかない内に…鳥束は自分にとってこんなにも大きな存在になっていたのか。蒲田はそれを、気づいていたのか。これからは、自分でもない。お前だ、と。
「これが片づいてから話すよ。それより少し下がっていな」
「……そうだ。人間や、あらゆる全てが生物の原形となった存在。それが俺達起源種ジェネシスだ。それよりヒーローさんよぉ…あんたがそのつもりなら俺だって合わせてやってもいいぜ?」 
「もとよりそのつもりだよ」
一歩、鳥束は重みのある脚を踏み出す。触れた地面が穿たれ、地面が歪に変形する。風圧が迸り、それがアイテールの髪をなびかせる。
「やるじゃん。それじゃあこっちも…」
アイテールは手刀の構えをとると、頬に描かれている紋様が蠢き、拡散していく。腕に到達したそれは腕を黒く染め、黒い瘴気は身体から溢れ野太い大剣を生み出す。
「──ッッ!!」
その威圧感に快は思わず身を引いた。一言に尽きる、それを表すには。多くを語る必要などない。
神、快はアイテールの姿を万物の創造者と重ねた。
「それじゃぁいくぜ?」
アイテールは黒剣をゆらりと天に掲げた。その刀身や先端から、赤黒い稲妻が走っている。鳥束はその剣先に目を細め、極限の集中状態だ。
「らぁっ!」
そしてその黒剣を振り下ろした。
「ダメだ!避けろ先生!!」
快はその刹那の瞬間に叫んだ。その一瞬でアイテールの放った斬撃に、圧倒的な恐怖を感じたからだ。こんなものを食らえば、命は保証できない。

「がぅあッッ!!」

世界がやけに遅く感じた。快の視界には、腹部から多量の血を流す鳥束がゆっくりと倒れる姿が映っている。何が起きたのかすらも分からない。本当に、瞬きの間だった。一秒にも満たない一瞬で、鳥束翼はアイテールの黒剣に腸を抉られた。
「先生!!」
倒れてようやく、名前を呼べた。快は素早く駆け寄り、鳥束を起き上がらせる。
「か、ふ…ふ…いいねぇ、ようやく始まりって感じだな。アイテール…この借りはいつか必ず返す。首を洗って待っていろ…!!」
口から血反吐を吐き、大量出血により意識が混濁し初めても尚、鳥束は虚勢を保った。一撃を耐えた鳥束を一瞥して、アイテールは意外そうな顔を見せる。
「へぇ…すごいな…これはこっちも楽しめそうだ。じゃあ今日は帰ることにするよ」
「待てッ!!」
「いいや、追わない。見ろ、ゲートのような物が奴の目の前に顕現している。深追いは危険だ」
黒い渦へ入り込もうとするアイテールを追おうとする快を祐希の手と鳥束の口が止めた。悔しいが、今はこれが最善手だ。
「あぁそうだ」
半身を渦に埋めたアイテールは寸前で振り返り、半身の状態で微笑む。
「さっきのゴリラが卒業おめでとうとか言ってたけど、叶うといいな。折角だから宣言しといてやるよ」
「は…」
今まで以上に清々しく、屈託のない笑みでアイテールは告げた。その、重い一言を。

「俺達はこれから1年以内に地球を滅ぼす。せいぜい足掻くといいさ」

どこかで聞いたような言葉だった。そう遠くない日に。誰もが知っている。それを。
地球──滅ぶ──1年─地球──1年──滅び──滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ滅ぶ。


「それじゃあ…また会おうぜ……ヒーロー…」


それは、終わりの始まり。やがて世界を巻き込む戦争が今この瞬間から始まったことになる。この戦争がもたらすのは災厄か、平和か。全ての命運は、天才高校生達に託された。誰も望まない、悪夢。それに抗うヒーローの物語。それが彼らに課せられた、


異常な生活アベレーション・ライフ




未曾有の戦乱が起きた今日のこの日の、街の街頭が仄かに辺りを照らし、見るも綺麗な夜景が完成する頃合いのことだ。
「なるほどな…今のところは成長過程ってところか」
「まぁ…アイテールの『支配』を上回るってのは正直驚いたかな」
帝英学園を見下ろすことの出来る近郊の丘の上に立つ、黒いマントを羽織った男の声に、その肩に乗った青い小振りな鳥が応答する。鳥は毛繕いを肩の上でする。足で掻いた鳥肌から虹色の鱗粉が散る。
「とはいえ俺達が出るにはまだ早い。念入りな準備が必要だ」
男は腰に巻かれたベルトに乱暴に挟まった剣の柄のようなものを掌で撫でる。
「これからどうするわけ?」
鳥は男の耳元で囁いた。男はマントに付属している同じく黒いフードを乱雑に下ろす。明らかになった男の顔は、黒真珠を彷彿とされる頭髪に瞳、そしてアイテール同様、左目に黒い筋のような紋様が刻まれていた。
「タイミングが良い時に奴らに近づき、中に取り入る。今は羽を伸ばしていろ」
男は芝生の上に座り込み、懐から少し汚れた袋を取り出した。袋を掴む手首に、鳥も素早く飛び乗る。袋を開き、男が手を突っ込もうとしたその時───
「おい!こんなところで何やってるんだ!!」
男の全身を眩い閃光が照らした。丘を管理する警備員だろう。男は手際よく袋を懐を隠し、「すんません」と頭を下げた。
「ったく…早く帰りなさい。夜は立ち入り禁止だよ」
警備員の男は、注意喚起をしてすぐに立ち去った。無言で立ち上がった男は、丘の下に広がる、まるでダイヤモンドを散りばめたような景色を眺める。車のヘッドライトがドット絵を描くように動いている。建造物から放たれる彩色のネオンサインが周辺を虹色に染める。
「………綺麗なもんだな…人間の作るもんは。それでいて尽きねぇ。俺は人間に産まれたかったよ」
その絶景を前に、男は切な気な表情で、自身に対する不平不満と、人間が生み出した創造物に対する賞賛を口にした。
「ただ…これもいつまで持つか……」
男は全身に力を入れるように、姿勢を屈めた。すると、まるで嵐が急に巻き起こったような暴風が辺り一面を多い尽くした。男は膝を曲げ、永遠の黒に呑まれそうな空を見上げた。
「待っていろアイテール。お前は必ず…俺が倒してみせる!」
男は飛び去った。それに鳥も羽を広げついていく。何も残さず、まるで始めから存在しなかったように、跡形も無く。アイテールへ宣戦布告をする男、これが巻き起こすのは、台風か、あるいは勝利を警鐘する新風か。男の放った風は、どこか悲しげに空間を漂っていた。そして──



三日月が照らす夜の繁華街。通りはサラリーマンやキャバ嬢、ホストや酔っぱらいでごったがえしている。月の儚くも切ない光を無効化する様に、爛々と光る街頭はその周辺の活気を無意識にもアピールしていた。はらはらと降る五月雨も、またいとをかし。
その中でもやけにひっそりと、誰の目にも触れないような路地裏に入口を構える、レトロな雰囲気のバーがある。壊れかけ、傾いている看板には『ルナ・ライト』と英語で表記されている。薄暗く、居酒屋の壁に囲まれたそこにだけ、白い月光が照らしている。
多くの人々が行き交う中、その内の1人、フードを目深に被った男がそのバーに入っていく。
男がその木製の扉を開くと、上側に設置された鈴が歓迎し、それに反応したバーのカウンターの前でグラスを拭いているマスターが「おや、いらっしゃいませ」と歓迎の挨拶をする。男は雨に濡れたフードを豪快を下ろし、その素顔を明らかにする。オールバックに、無精髭、厳つい体格が似合う顔立ちだ。男は無言のまま、1人の中肉中背の男を除いたがら空きのカウンターに座る。
「ご注文は」
「コイツと同じものを」
男はそのただ1人カウンターに座っていた青年の隣に座り、彼の飲んでいた酒を指差し注文した。マスターは「かしこまりました」と返事をすると、『ブルー・ムーン』とラベルに表記されたカクテルを取り出した。
「『ブルー・ムーン』には様々な言葉が含まれているんだ。数年に一度起こる月が青く見える現象から、『極めて稀なこと』など刺すらしい」
綺麗な水色の頭髪に、黒縁眼鏡をかけた青年が、男に『ブルー・ムーン』の意味を語る。それにタイミング良く、マスターはカクテルを差し出した。
「ハッ、相変わらずの物知りだなぁ、耳が痛くなるぜ」
「『極めて稀なこと』、今のこの状況にぴったりじゃないか。地球が滅びるかもしれないなんて、あと何回転生してもこれが最後だろうね」
青年は、グラスの端に口を着け、ちびちびとカクテルを飲む。
「レモンの酸味にジンの奇特なハーブの香り、アルコール度数は中々高そうだ」
青年は口にした『ブルー・ムーン』の味わいを詩的に語る。男も数秒、カクテルの水面を眺め、少しずつその中身を身体に注いでいく。1口飲み終えた男は勢いよくカウンターにグラスを叩きつけ、青年を睨む。
「んで?話を聞かせてもらおうじゃねぇかよ…鳥束翼君よー」
青年の名を、鳥束翼。帝英学園3年A組の担任教師だ。鳥束はグラスをカウンターに置くと、グラスを縁をなぞりながら今日の出来事を思い返しながら語った。
「想定外だらけだった。まず第一にが描いた未来と相違点が多すぎる。本来なら奴らは体育大会のBリーグが終わった表彰式の最中に、魔物のようなものを引き連れてやってきた。彼らの臨機応変な対応に怪我人は出るも死人はゼロのハッピーエンドだ。五神龍が暴走した時から違和感を感じていたよ。今日起きたことは今言ったことの全て真逆だ。体育大会のAリーグの最中に、奴は1人で来て、会場の一般客は全員死亡のバッドエンドだ。さて、君の意見を聞かせてもらおうか」
息継ぎをほぼせずに一気に全ての事象を言い表した。鳥束は男の方へ向き直り、頬杖を突きながら男の名を呼ぶ。
「ねぇ…月陽連、月陽十二傑『睦月』虎爪新こづめあらた君?」
げつみょうれん 、鳥束は、男、虎爪の所属する組織の名を語った。数年前、前任の内閣総理大臣を殺した疑われ解散した、違法捜査組織の名を。
「なんでぇ、他人事みてぇに。てめぇも似たようなもんだろうが」
虎爪の悪態に鳥束は微笑で返す。似たようなもの、それは鳥束の正体へ核心へと迫る物だった。しかし虎爪はそれ以上を語らない。
「そのアイテールってヤツが口にした『支配』。十中八九その影響で間違いねぇよ」
「そうだよね、彼らにも後で話をするつもりだ。それより…奈々美はまだ来てないのかい?」
「そろそろ着くらしいぜ。もう繁華街には来てる」
鳥束はポケットからスマホを取り出す。開いた画面いっぱいに不在着信があったのを見て顔をしかめる。
と、同時にバーの扉が勢いよく開いた。
「やっほー!2人とも久し振り!元気してた?」
バーの神妙な雰囲気をぶち壊すように、鳥束によく似た白衣と、水色の頭髪を持った少女がずかずかと入ってくる。あっけらかんとした態度を肯定するように、無邪気な瞳や雪のように白い肌を併せ持つ。間違いなく美少女と呼べるレベルだ。
「月陽連、月陽十二傑『如月』氷川奈々美」
「今夜は転機だ。俺達日陰者も、そろそろ本気で動かなきゃなんねぇな」
虎爪は大きく腕と背を伸ばす。鳥束の横にストンと座った氷川は鳥束の横顔を見つめながら、胸ポケットから一枚の紙を取り出す。
「頼まれてたやつ、ちゃんとやってきたよ」
「おい、聞いてねぇぞ」
氷川がカウンターに置いたその紙を覗き見ようとはせず、鳥束を睨んだ。
「なんだぁそりゃぁ」
「ナンバーワンファイター、黒野燐太郎との面会の切符さ」
紙をヒラヒラと虎爪に見せるように動かし、その内容を見て絶句する。黒野燐太郎、それはこの日本に於いて最も強いと称される最強にして最凶の男だ。虎爪はそれに会うという鳥束を今まで以上の形相で睨む。それはまるで凶暴な虎が牙を鳴らしているように。
「てめぇ…消されるぞ」
「覚悟の上さ。さてと…アイテール。これからが本番だよ…我々の足掻きを見せてやろう」
虎爪の忠告を軽く受け流した鳥束は、その冷めた目を細め、視界には映らない遥か先を睨む。
神とも見紛う圧倒的力。それを肌身で感じたからには尻込みなんてしてられない。

──そしてそれは同時に、味方に限った話ではない



数時間前──
「転送終了っと…」
黒い渦から慎重に地面へと脚を運び、少し体制を崩しながら男、アイテールは元の世界へ回帰した。血が混じったような穢らわしい大地、肺を凍てつかせるような空気、精神を破壊するような不快感、いずれもそれはアイテールって前には無効化されるが。
「人間共はぁ?どうだった?」
直後、見下すような軽率な声がアイテールの背後から響く。
「………グランドか」
百足や蜘蛛によく似た得体の知れない生物が蠢く岩盤に腰をかける浮浪者のような小汚ない男の名をアイテールは呼ぶ。グランドと呼ばれた男は「そのとぅーり」とお茶らけた調子で返答し、岩盤から飛び降りた。
「別に何も。となんら変わりはねぇよ。ただ…」
アイテールは言葉を濁らす。それを横目で見たグランドは、頭の後ろで手を組みながらアイテールの方へ歩いていく。
「『特異点により産まれし生命』、が想像以上に強かったと!そういうこと?」
「安心しろ、俺やお前程じゃねぇよ。それよりエンリルは見つかったか?」
「まだ」
エンリル、という人物の発見を問いただしたアイテールにグランドは素っ気ない返事をする。アイテールは「そうか」と曖昧な返事をすると、やがて空間が入れ替わり、城の最上階のような場所に到着する。豪奢とは程遠いお粗末なデザインの王座にアイテールはつくと、眉間に皺を寄せグランドを睨んだ。
「見つけ次第殺せ、裏切り者は絶対に許さん。そして…」
アイテールは天井の小窓から見える宇宙の仰いだ。その方向へ凝視すれば青い水の惑星が宙を浮いている。


「今だけ言ってろ。人間共。必ず地球を俺のものにしてやる…」


互いに戦意をぶつけ合う両勢力。この戦いに意味はあるのか。それは誰にも分からない。


そしてこの後──輪廻が動き出す



しおりを挟む

処理中です...