アベレーション・ライフ

あきしつ

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五月:開戦

アベライEX① 告白大作戦

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まだ朝霧が立ち込める5月の早朝。路上を彩る植木の葉を滴る朝露が鼻をつんと刺激する。昨夜が雨天だったせいか、アスファルトの上がしっとりと湿っている。人通りもまだ多くなく、早朝に出勤するサラリーマン風体の人達が疎らにいる程度だ。『渋谷駅』と大きく表示された建物、そう、ここは渋谷である。
渋谷駅前に設置された忠犬ハチ公の像の前を少女、有都色音は右往左往していた。
(少し早く来すぎたかな…)
いや、少しではない。早すぎるのだ。今の時刻は6時に差し掛かろうとする頃。彼女が待ち合わせているのは7時半である。
「楽しみ過ぎて早く来ちゃったぁ…どうしよう…」
ゴシック衣装ようなハイウエストスカートと黒いロングTシャツで身を包む有都は爪先で足元の小石を弄る。その浮かないようで輝きを含んだ絶妙な深紅の瞳は、先日の出来事を起因していた。


「もう…誰もあなたを責めてないわ」
アイテールが帝英学園に現れ、事態の収集がついた頃だった。アイテールにより致命傷を与えられていた有都は一晩保健室に宿泊状態だった。白いベッドの傍らに置かれた三脚の椅子に座る少年、宮川電樹に見守られ、宮川電樹を見守りながら。
「……ちっ…くしょう…なんだってこんな…全部俺と冬真のせいじゃねぇか…」
「ううん、違うと思う。私はあなたを信じてるから…」
有都は泣き崩れる電樹の頭をそっと撫でる。男の泣き言は、有都にとってあまり好印象のものではなかった。だが、あくまでそれは自分自身が第三者であることを前提としている。今までどの男にも泣きつかれたことがなかった。だからこそ嬉しかったのだ。彼は私に全てを見せてくれている。必要としてくれていると。
「なあ…なんでお前は俺にそこまで言ってくれるんだ?お前はそれと同じ声を冬真に言ったのか…?」
「え………」
言えるはずがない。こんなこと、他の誰かに。快や祐希のような異性の友達には当然、女友達ですら素直に言えるかは怪しい。
好きだから。そのたった5文字を言えばいいだけだ。なんら重くもない。ただの日本語。
「す」「き」「だ」「か」「ら」
それだけだ。それだけなのに、何かが発言を妨げる。喉に何かが張りついたように言葉がつっかえる。
「いや…言いたくないならいいんだ。冬真はそうゆうの気にしねぇからな」
──違う 
「俺が目の前にいるから、そうだろ?」
──違うよ、そんなんじゃない
「まあでも、皆にも改めて謝っておくか、皆の総意、聞かせてくれてありがとな」
──総意じゃない。私が、私だけがあなたを好きだから
心ではなんとでも言えた。でもそれを言の葉に乗せることは出来ない。
「ごめん…私なんか変みたい…先に寮に戻ってて…」
「ああ、そうするわ」
本当はずっと寄り添って欲しかった。痛いと言ったら痛みを分かち合って、一緒に笑っていたかった。でもそんなのは夫婦めおとのすることであってただのクラスメートのすることではない。
「じゃあな。早く治せよ」
電樹は笑顔で振り返り、扉を開く。その後ろ姿を見て、有都は妙な違和感を感じ、その背中に声をかけた。
「あの…さ、何で来てくれたの?」
「あ、やっべ!忘れて帰るとこだったぜ!」
有都の発言を受け、電樹は慌てながら頭を掻き、制服のポケットから紙切れを3枚取り出した。その紙切れの見出しを見た有都は思わず絶句した。
「嘘…それって…」
「ああ、お前に遊びに行こうって言われてたから取っといたんだ。遊園地と、水族館のプレミアチケット。ま、優勝は愚か皆に迷惑かけちまったけど…ってお前何で泣いてんの!?」
「ごめ…ちょっ…嬉しくて…ありがとう電樹。一緒に行こう?」
「え、良いのかよ」
「だってお金の無駄じゃない」
瞳から溢れる涙を拭い、有都は電樹の手を握った。理想の関係に、少し近づけた気がした。そして有都はある決意をした。それは──


「覚悟は決まったわ…今日は私は人妻になる!」
多くはないが人もいる中で有都は早すぎる人妻宣言をする。周りから放たれる冷たい視線を彼女は全く気にしない。
「とはいえ少し、じゃなくてすごく緊張する…フラれちゃう可能性も考えなきゃ…望美辺りにコツを聞いておこうかしら」
有都は近くの木製ベンチにスカートを気遣いながら座り、バッグからスマホを取り出す。一切のデコレーションを施さないそれは彼女の清楚性を表現している。
「もしもし…」
『何よ、こんな朝早くに』
起こされて不機嫌なのか、不満気な声がスマホの奥から響く。
「ごめんなさい…こんな早くに。それで1つ聞きたいことがあるんだけど…」
有都は大きく息を吸った。そして、言う。

『告白しようと思うn…』
「えええええええええぇ!!」
甲高い叫び声が有都の耳をスマホ越しに破砕しにいく。
「そ…そんな驚かなくてもいいじゃない…」
『失礼、取り乱したわ。でも驚かずにはいられないわ』
自分が想い人に好意を伝えようとするのはそんなにも意外なのだろうか。望美から放たれた意外な反応に望美は眉を潜める。
「むぅ…」
『とりあえずまずは距離を縮めなさい、積極的にいくのよ』
「あ、ありがとう…」
『あと、私なんかより解華とかに聞いた方がいいと思うわ』
「ええ…」
望美のアドバイスに有都は言葉を濁した。正直なところ、有都は解華が「嫌い」である。入学して初対面から淫乱体質だった彼女に生理的な嫌悪感を抱いていた。それは日常を共に過ごすうちに薄れていったが、それが消えることはなかった。望美との通話を切った有都は渋々と解華に連絡する。
「もしもし…」
『なによ、クソ処女清楚系音楽家』
「……相変わらずの憎まれ口ね、クソビッチ変態ドS新宿キャバ嬢」
悪態には悪態で返す。有都に言い返された解華は平静を保つように高圧的な口調で切り返す。
『あら、あなた私にそんな偉そうなこと言える立場だっけ?自分のマンホールにバナナ入れたことのないような女にビッチだなんて言われたくないわ』
「あなたこそ何言ってるの?毎日のように男の裸体に絡みついて媚○と精○剤飲みまくってるような女に処女だなんて言われたくないわ」
スマホ越しに熱い火花を散らす2人。性格がまるで正反対の2人が意気投合する日はあと何回ほど来るのだろうか。いや、もう2度と来ないのかもしれない。
『……それで何の用?二度寝したいから手短に終わらせなさい』
「またそうやって上から…簡単な話よ。電樹とその…付き合いたいな、とね?」
『ブフォッッ!!』
有都はまたもや想定外の反応をされたことに訝しげな表情をする。
「何笑ってるのよ」
スマホの奥で何かを吹き散らかす解華にため息を漏らす。有都は次第に苛立っていき、指先でスマホをつつく。
『あーそれで私の意見を得たいわけね。いいわよ、私が指導してあげる』
「それで、私はどうしたらいいの?」
引き受けてくれたことに対する驚きと興奮を隠しつつ有都は話を進める。解華は、その返事に誇らしげに応えた。
『いい?美しさは女の最強の武器よ。男を惑わせる顔も胸も腰も尻も、癪だけどあんたには備わってる。電樹だって所詮は男、でも露出は最低限避けなさい。見えてりゃエロいってもんじゃないのよ。あとは告白のタイミングと雰囲気も必要よ?デートでしょ?どこ行くのよ?』
圧巻された。こういう面においては彼女の右に出るものはそういないだろう。解華は男の喜ぶ仕草、服装、表情などを知り尽くしている。それは幾千もの修羅場を潜り抜けて来た経験が物を言っている。そんな解華に少し感心しながら有都は今日のデートプランを解華に伝えた。
『ふぅん…まあいいじゃない。となると観覧車当たりが妥当なところね。でも夜限定よ。昼間の遊園地なんて色気のないキッズまみれの場所、行くべきじゃないわ』
「下調べは済んでるわ。伝えるなら噴水と花火とスポットライトが重なる瞬間に観覧車の最高到達点にいること。乗る時間も計算済みよ」
『やるじゃない。じゃ、私からはこんなトコ。眠いから切るわ。せいぜい頑張りなさいよ』
そう言い残し、解華は通話を切った。全てを備えたつもりだ。あとは自分自身だと、そう言い聞かせる。深い深呼吸をする。あとはもう、その時を待つのみだ。


──7時15分
あれから小一時間ほど涼やかな駅前の通りを右往左往しながら時間を潰した。地面が昨夜の小雨のせいで湿っているが、空は群青、まばらに散らばる白い雲が有都の好きな天気を演出してくれる。
「そろそろ来てくれてもいいんだけど…」
次第に人通りが多くなるにつれ、不安が煽られる。ふと、渋谷駅から溢れてくる人だかりに視線が移った。有都はその人だかりへゆっくりと足を進める。恐らく今電車が到着し、それに搭乗していた人達が外に出てきたのだろう。間違いない。有都は確信した。雷獣はそこにいる。人混みを掻き分け、本能的に電樹を探す。
「悪ぃ、待たせちまったか?」
普段学校で顔を合わせて普通に話しているが、プライウッドで顔を合わせるのは初めてかもしれない。その男─宮川電樹の顔が普段より一段と輝いて見える。
「ううん、私も今来たところだから…」
有都はおずおずと近づきながら口を動かす。そんな自分を電樹が怪訝そうに見つめている。全身から汗か何かが垂れる。動機が荒くなっているのも分かる。
(あ、ヤバい)
「とりあえず朝飯食ってから行こうぜ…ってオイィィィィィィィ!!どこ行くんだぁぁぁぁ!!」
自身の身の危険を感じ取った有都は一目散に駆け出し、人混みへと姿を消す。
──ああもう、どうして!さっきまでは全然平気だったのに…これじゃあくっつけないじゃない!
有都は緊張を極めた自分を心の中で責める。これでは駄目だ。一度精神統一をしなければ、と有都は再び深呼吸をする。有都にとって異性と一対一で出かけることなど初めての体験だった。幼少より男という性別を忌み嫌うよう教育されてきた。それは母親が何人ものの男に騙されてきたという確固たる経験による物だった。だからそれを「間違っている」と否定出来ずに高校に入るまで異性と距離を置いてきた。だが、電樹には他とは違う何かを感じた。その横顔が、息遣いが、有都を癒し、異性にたいする見方を大きく変えたのだった。そう、いわば恩人、そんな人物と会うだけなのになぜもこんなに赤面が止まらないのだろうか。
「おい、大丈夫か?スゲー勢いだったけど」
「え、ええ大丈夫よ。ちょっとスマホが自我を持っちゃったみたい」
「スマホが自我を持つって何?AIの暴走ってもうそこまで来てんの?パンドラの箱開いちゃってんの?」
どうにかスマホが暴走したという事実を飾り、2人は水族館へ向かう前に近くの喫茶店で軽い朝食を済ませる。
「お前何でずっと顔伏せてんの?」
「いや…いいのかなーって思って…」
「何が?」
サンドイッチを頬張りながら電樹は聞き返す。有都は下を向きながら答えた。
「だって前回あんなシリアス回だったのに拍子抜けの日常回でいいのかなって」
電樹は頬張っていたパンをゴクリと飲み込むとコップの縁をなぞる。
「そりゃあ作者も息抜きが必要なんだろ。ま、こんな作品誰も読んでないだろうから大変も努力もクソもねえけどな。仮に誰か読んでたにしてもどうせSNSでたまたま見かけて軽い気持ちでポチッと押してみました程度なんだよ。こんな駄作オブ駄作はよー。だからたまには自由に書ける日常回が必要なんだよ」
流暢と語る電樹は呆れたように両手を挙げる。有都は「なるほど」と唇の先でストローを咥えながら小さく頷く。
「ま、一応13人読んでくれる人がいるみたいだから、期待には応えなきゃって感じだけどな」
「えぇ…そうね」
そうして漸く向き合った2人はサンドイッチやコーヒーを吟味しながら話を弾ませる。その時間は長くなかった。緊張しているから喉を通らないんじゃないかと思っていたものの、料理は案外トントン拍子で失くなっていく。喫茶店を出た時には既に時刻は8時に差し掛かろうとしていた。肌寒かった気温も今は日の出により上昇し、日光がアスファルトをジリジリと炙っている。これからは再び電車に乗車し、最初のデートスポットである『東京青空海水族館とうきょうそらうみすいぞくかん』へ向かう予定だ。だがここでは至って観光の類いをするだけだ。正念場は解華に指摘された通り、第二のデートスポット、『ハイライトランド』、夜にしか開園しない遊園地だ。そこの目玉遊具である『ホエール・アイ』という名を持つ観覧車だ。その規模はロンドンの『ロンドン・アイ』とも匹敵すると言われ、多くのカップルを世に放ってきた『今最も乗りたい観覧車ランキング』を3年連続で独走トップである。  なんでもある特定の時間に特定のゴンドラに乗ると、最高到達点で噴水、花火、スポットライトが重なり、何とも言えない幻想的な空間を作り出すそうだ。そしてその特定の時間も特定のゴンドラも特定済みだ。抜かりはない。後は楽しむだけだ。
数十分も待てばプラットホームに電車が到着する。『東京青空海水族館』がある土風つちかぜ市の土風駅までの快速列車だ。割りと早朝であるのと、渋谷駅であることから降りる人の方が圧倒的に多い。人混みに揉まれながらも有都は電樹のTシャツの裾を掴んでどうにかやり過ごす。彼らがほぼ全員降りたとこでようやく電車の中に入れる。やはり全て出しきったのか、満員電車とは言い難い実に快適な車内だ。2人は席を取られまいと競歩で相席を取った。歩き回った疲労で、いや、先日の出来事による精神的な苦痛が余計に体が重く、座席に座れた時の解放感が普段とは桁違いだ。
駅の構内で購入したカフェラテに唇を付着させ、ちびちびと啜る。仄かな甘味と程好い苦味が有都の心を落ち着かせる。
数分経つとアナウンスと共にゆっくりと電車が動き出し、体が小さく左右に揺れる。向かいの中年の男性はもう眠っている。
「……なあ…遠くね?」
「遠くなんてないわよ。土風市は渋谷から電車で1時間程度…割りと近いのだと思うけれど」
やけに小さく聞こえた電樹の問を当然のように返す。
「いや…そうじゃなくてさ…俺と、お前が」
「え」
気づくと有都は電樹と間に人が3人座れるほどの距離を開けていた。緊張のあまり無意識に遠ざけていたのかもしれない。このままではいけないと慌てて取り繕う。
「あっ、違うの!これはその…下手にくっついて卑しい女だと思われたくないから…」
「いや誰もそうは思わねぇって。くっつけとは言わねぇけど隣に座るくらいはいいんじゃねぇの?」
「む…それもそうね…」
電樹に手招きされ、前屈みになって恐る恐る隣に座る。幸い、電樹に特別な感情は無いらしく、水族館に着くまでは安泰の時を過ごせそうだ。
電車に揺られること約30分。朝早くに寮を出たせいで、脳の微睡みが始まった。意識を保とうとしても瞼が言うことを聞いてくれない。思わず首がカクンとなり、電樹に寄りかかりそうになるも、ハッとしてすぐに起き上がる。それでも睡魔は手を弛めようとしない。やがて本当に意識が遮断された。肩に寄りかかって眠る有都を一瞥して、電樹は微笑ましそうに笑う。

「…と……ると!……有都!」
それからどれ程が過ぎたころだろうか。眠っていたから感覚的には数十分ぐらいだが。激しく肩を揺さぶられ、有都は重い瞼をゆっくりと開いた。
「あ!ご、ごめんなさい、私ったら」
口角から垂れた唾液を存在そのものを消し去るように荒っぽく拭う。改めて周囲を見渡すと何やら騒がしい様子だ。
「何かあったの?」
「一番前の車両に包丁持った男がいるらしい。それで騒ぎになってやがる」
「ええっ!大変じゃない!痛っ」
突然の事件に驚愕した有都は思わず勢いよく立ち上がり、頭上の荷物置き場に頭を強打する。頭を押さえながら有都は周囲の状況を確認する。その男の居場所から離れているからか、この車両は慌てている様子は感じられない。
「電樹…!」
「ああ、意地でも運命様は俺達を戦いから背かせないらしい」
それは戦いの道を選んだ彼らに呪いのようにつきまとう。どれだけ安寧を願い、道を踏み違えても必ず戦いの道へと引き戻される。この世から悪が消えないことなど頭では理解しているが、それでも彼らは平和を生きたいのだ。だからこそ、かもしれない。戦いの道を選んだのは。
「乗客の避難は車掌に任せる。俺達は行くぞ」
振り向き様に有都に指示をし、有都はそれを黙って頷いて同意を示す。その男に気づかれぬよう、騒ぎを収めつつ男の乗る一車両目に向かう。
二車両から一車両目に移るその手前で、電樹は足を止めた。
「?どうしたの?」
「いや…オイ冗談だろ…」
口を押さえ、息を殺している。その様子を見て状況の緊迫感を察した有都も恐る恐る一車両目の奥を覗く。有都はそこに広がる景色を見て、思わず息を呑む。
「─ッ!嘘…あれって…」
「ああ…よりにもよって『哄笑の道化師』かよ…」
『哄笑の道化師』。ここ数ヶ月に渡って20人以上の民間人を殺害した指名手配犯だ。黒いニット帽を被り、まるで世界の全てを大口を開けて笑うような、つまりは哄笑しているようなピエロの仮面で顔を隠した男だ。『哄笑の道化師』を一度見て生きていられたものなど被害者の中では少数派だ。仮に生きて帰れても心になんらかのトラウマや後遺症を残されるという。それらを起因する理由としてはその温厚に見えて恐怖させることができる道化の仮面だった。分厚い唇に三日月状に曲がった目。ピエロとはサーカスや遊園地に遊びに来た子供達を多彩な芸能で笑顔にする良心的な存在だ。だがその顔は人によって恐怖の対象となることもある。その心理的な解釈を利用し、その男は『哄笑の道化師』と名乗った。
「てめぇ…昼間から…調子乗ってんな」
「所詮は愚者の戯れ…あなたの手を煩わせる必要はないわ」
有都の口調が大人びる。戦闘モードだ。一歩前進する電樹を仮面により阻まれた視界で『哄笑の道化師』は視認する。
「……!おっお前ら…!!」
瞬間、道化師のとった行動に2人は目を丸くする。幾度となく人を殺し、多くの修羅場を潜ってきたはずの『哄笑の道化師』は、2人を認識すると慌ててたじろいだ。
「あ?随分と及び腰だな」
「まさか……紛い物…」
その弱者のような態度に2人はある結論を見出だした。目の前にいる『哄笑の道化師』は偽者であることだ。狂気に染まった殺人鬼は時として人を魅了する。道化師の曲芸に魅せられ、道を踏み誤ったということだ。
「まあ…ニセモンならそれでありがてぇ」
電樹は短く息を吐くと、脚部に力を込める。帯電により強化された身体能力で床を蹴る。
「く、来るなあ!!」
弱々しく叫んだ『哄笑の道化師(仮)』は、猪突猛進してきた電樹の蹴りを情けなく受け、鼻血を垂らして後ろに倒れた。
「ヒィッ!」
「観念しやがれ。悪ふざけが過ぎたな間抜け」
涙を浮かべながら踞る『哄笑の道化師(仮)』を電樹は無理矢理立たせ、緊急停止した電車の元へ警察がやってくるのを待った。それから間もなく10分程経って警察がやってきた。「北原」という刑事は2人に感謝を伝え、『哄笑の道化師』を騙った男を連行した。後々の調査で分かったことらしいが、やはりその男は『哄笑の道化師』に心酔していたらしく、聞き取れも出来なかった譫言を呟き続けていたらしい。2人はその後の調査を拒み、デートを続行した。多少予定が狂ってしまったが、安否確認した電車は当初の予定通り運行する。
それからは何事もなく目的地へ着いた。大自然と都市を隣接させたことから『境町』とも呼ばれている土風市だ。この街の名の由来は農業に適した土壌と、年中吹きつける涼やかな風から来ている。特産品である『ツチノダケ』という新種の食用キノコで有名だ。味は賛否両論あるらしいが、賛の部分の方が多いらしい。
「風が気持ちいいわね」
「だな~。久々にこういう空気を吸ったぜ!」
年中都市暮らしの2人は久しぶりに田舎──自然の空気を吸えてご満悦。土風市は市というくらいだから至って田舎ではない。だが市街地より自然の面積が広いため、田舎のような扱いを受けている。東京の町外れ、とも言うべき土風市に建つ『東京青空海水族館』が本日最初のターゲットだ。土風駅から徒歩で20分程度。水色の壁に青と黄色、白の紋様が彩られた独創的なデザインの建物。港に接しているそこが、『東京青空海水族館』だ。
「いやーやっと着いたなぁ!」
「そうね…色々な意味で長かったわ…」
緊張やら『哄笑の道化師』やらでここまでの道のりがやけに長く感じられた。水族館特有の匂いが鼻を刺激する中、2人は受付を済ませる。窓口に立った時点で、はしゃぐ子供の声とそれを宥める親の声が聞こえる。微笑ましいなと思いながらチケットを差し出し、本館に入る。受け取ったパンフレットによるとこの水族館は本館と別館、屋外ブースに分かれているらしく全て回るのは時間がかかりそうだ。なので遊園地の時間を少し削ぐしかない。最悪遊園地では『ホエール・アイ』にさえ乗れれば問題はないのだ。2人はそうプランを立て、淡水魚エリアへ入った。この水族館で最も幻想的でネットの評価が高いのは皆大好き海月だ。月の美しさ切なく儚いもの、それを水の世界でライトアップするともなると、目を疑うような光景が広がることだろう。なのでこの淡水魚エリアは完全に観察や実験の類いを行う時の気分だ。
「すっげ。なんかバカデケェのがいるぞ。なんだありゃ」
目の前を優雅に泳ぐ巨大な魚を前に電樹は子供のようにはしゃぐ。
「あれはイトウって淡水魚。簡単に言ってしまえば鮭の仲間ね。その保全状況はつまるところ深刻な状況で、絶滅危惧種にも認定されてるわ」
「そんなん展示してていいのかよ」
という電樹のマジレスをさておき、2人は淡水魚エリアを充分に見て回った後いよいよ海洋生物へと移る。濁ったような淡水魚エリアの水とは一転し、サファイア色の群青の世界が2人を向かい入れた。
「綺麗…」
色とりどりの熱帯魚が群れで動きまるで魚のパレードだ。電樹との色恋を一瞬忘れ、生命の神秘さを、尊さを垣間見れた気がした。中にもイワシのような地味な魚もいるが、それもそれで銀冷の体躯が反射し華麗と言える。
「知らねぇ魚ばっかだな…お、あれサメじゃん」
男子とはやはり綺麗よりかっこよさに惹かれるのか、電樹は目敏く小型のサメを見つけると一目散に駆け出していく。
「このガラスぶっ壊したらどうなるんだろう…」
「そんなバカなこと考えてないで行きましょう」
なんだかこの空間にこれ以上いると我慢出来なくなってしまいそうだから有都は電樹の服を引っ張って次の場所へと転々と移動する。
しばらく館内を周り、2人は3階へと到達した。3階の目玉といえばやはり『たゆたう海月夢想』というクラゲ展示エリアだ。種類によっては人間を殺傷させられる程の毒性を持つものもいる海月だが、そのイメージは人間の創意工夫によって生まれ変わる。僅かな光で、毒々しい見た目は一瞬にして海を漂う風鈴だ。
「うおぉ……」
「素敵……」
そんな海月達の舞いを前にし、2人は思わず称揚する。ネットで調べた時に見た画像とは比にならない程の美麗さだ。さらに静かな周りの空気も相まって錦上添加だ。見惚れる程の幻想空間は、まさに『夢想』の名に相応しいものだった。
「見た目はキモい癖にこんなんになんのかよ」
と、海月の絶妙にダサい被り物を装着した電樹が感嘆の息を溢す。
「そうね…人に危害を加える存在でも、扱い方を変えるだけでこんなにも…さすが『海の隠れた秘宝』と呼ばれてるだけはあるわね」
海月がそう呼ばれるようになったのは2年前だ。以前から海月がこういう目的で使われてはいたが、あくまでもそれは水族館の中での話だった。しかし、世界自然研究機関とアメリカの名門大学『ユーリワールド大学』の調査で発見された七色の魚『サテーンカーリフィッシュ』が放つ光により、自然界でもその真なる美しさを体現するようになった。
「お前何でも知ってんのな。クラゲみてぇな頭してんじゃね?ごちゃごちゃした」
(クラゲみたいな頭してんのはアンタよ!)
と、心の中に突っ込みを留め、有都は自重する。
ふと周りを見てみると、カップルで溢れかえっていた。どこもかしこも至近距離でくっついて、今にもキスとかしだしそうだ。今日、有都が内に秘める想いを伝えれば、もしかすると彼ら彼女らの仲間入りだ。仮にそうなったとて、公共の場でこんなにも密着出来るだろうか。未来は不確かだが、望むことは出来る。そもそも、ここには成功するつもりで来ているのだ。尻込みなんてしてられない。
「そろそろお昼ね…」
ごちゃつく頭を一旦整理し、金色の腕時計を見て電樹に時刻を報告する。
「ん?うおっマジじゃん。どうりで腹減ったと思ったら」
スマホを取り出して時間を確認した電樹は納得した様子でお腹を撫でる。
「昼っつーと別館になるな」
「………!!急ぎましょう!!」
「え、あ、オイ!」
有都はふと大事なあることを思い出し、一目散に駆け出す。それはこのデートにおいて絶対にやらなければならないことだった──

別館の内装は主にお土産屋や飲食店がメインだ。この水族館でしか手に入れられない激レアアイテムやお菓子が立ち並び、可愛げなデザインに目を惹かれるが今はそんなことをしている場合ではない。どうしてもやらなければならないこと、それはこの別館に実装されている『青空カフェ』という喫茶店で数量限定販売されている『メガビッグコーヒーゼリーパフェ』を食すことだった。昼の12時から13時にかけて100品ほど販売されている。現在の時刻は12時14分。早くもなく遅くもない絶妙なタイミングだ。幸いにも行列はなく、待ち時間もないので一番手前の席に座る。数秒も経たない内に店員がやってきて、メニュー表を渡してくる。
「……よし。まだあった」
『メガビッグコーヒーゼリーパフェ』の安否を確認し、ひとまず安堵する。
「お前これ食うのかよ。太るぞ」
「いいのよ。背に腹は代えられないわ」
電樹はハンバーグを選んだらしく、いち早くフォークやらナイフやらを準備し始める。店員は2人の注文を受け、笑顔で接待し忙しそうに走り去っていった。
「いやーただ歩いてるだけなのにもう疲れたなー。次の電車は俺も寝ちまいそうだせ」
椅子の背もたれに体重を乗せ、後ろにだらしなく項垂れる電樹。再び顔を合わせなければならない状況に、有都は困惑し、おずおずと話題を変える。
「ずっと気になってたことがあるのだけれど」
「ん?何?」
「アイテールに受けた攻撃…その傷…凄く再生が遅かったわ」
電樹の表情の色が変わった。後ろのめりの状態から身体を起こし、有都に顔を近づける。
「どういうことだよ…それ」
有都は自身の腰をかつて傷痕を辿るようにして撫でた。血みどろの記憶を辿って、アイテールの言動ひとつひとつを思い出す。
「あいつは、起源種ジェネシスって言ってた。異能力者の再生能力を弱体化させる力を持ってるのかもしれない」
「ってことは…奴は複数以上の異能力を保有してるってことか?」
人知を超えた怪物。考えれば考える程、アイテールという男の存在がおぞましく感じる。何か触れてはいけないものに、禁忌に触れた気がして有都は胸が苦しくなる。何故か自分の異能力を知り尽くされていた摩訶不思議。簡素な脳内処理でも、想像したくない想像が頭を渦巻いた。
「ねえ電樹。ひょっとして私達は──」
「お待たせしました!『メガビッグコーヒーゼリーパフェ』と『旨味濃縮ハンバーグ』です!」
核心に迫る言葉を妨げるように外部から声が飛んできた。店員がバカでかいパフェと絶妙な匂いを醸し出すハンバーグを持ってきたのだ。
「……お、おいしそう…」
闇に染まっていた脳内を、コーヒーの香ばしい香りが霧散させる。口元から垂れてきた涎を拭い、有都は震える手でスプーンを握る。
「パフェに命でも賭けてんのかよ」
まるで黒ひげ危機一髪をやってるようにスプーンをクリームに突き刺す有都を見て、電樹はハンバーグを咀嚼しながら呆れ顔で嘲笑する。
「うるさい」
電樹のツッコミを軽く一掃し、クリームの中に疎らに散らばった立方体状のコーヒーゼリーをクリームごと口に入れる。
「ん~~~~~~ッ」
苦味と甘味が混じり、「まるで苦味と甘味のカーニバルや~」と言いたくなるような深い味わいが口の中に広がり有都は悶絶する。そんな有都を呆れ顔で見つめる電樹。この時間は無限には続かないが、少しだけ有都の望む世界へ近づけた気がした。


『東京青空海水族館』を一通り見回った2人はそのままバスに乗り、最後のデートスポット、『ハイライトランド』へ向かう。既に日は落ち始め、夕焼けが眩いくらいの時間。想定していた時間とは若干ズレたが観覧車に搭乗するには時間的にはお釣が出るくらいだ。バスに揺られながら睡魔と戦いつつ20分。バスは煌めく夢と希望の世界の前に停車する。既に夜仕様になっており、入り口のゲートには『ハイライトランド』と大きく見出しされている。
「ようやく着いたわ…ここからが本番よ」
入場の手続きを済ませた有都は拳を握って気合いを入れる。観覧車『ホエール・アイ』の目標搭乗時間まではあと3分程しかない。観覧車はそこまで遠くないから走れば間に合う程度だ。だが他のアトラクションに付き合っている暇はない。有都は電樹の手首を掴み、観覧車へ走り出す。
「いくわよ!!」


「ハァ…ハァ…間に合った…」
「おい…なん、だってそんな急いでんだよ」
額から垂れる汗を拭いながら有都は腕時計を凝視する。目標の時間まであと23秒。
時間は刻一刻と迫っていき、慎重にタイミングを窺う。そして──
「今よ!!」
若干の待ち時間も加算して考えると残り20秒を使うべきだ。カップルが2組前にいる。一組が97号にもう一組が98号に乗った。
(計算通り…!!)
全てが上手くいった。お決まりのセリフとポーズを見せ、件の99号。この時間にこのゴンドラに乗れれば、あらゆる装飾が観覧車の最高到達点に来たときに重なり絶景を生み出す。そのいい感じの雰囲気の中で想いを告げ、本丸のミッションを遂行する。
首尾よくゴンドラに乗った2人は割りと広いくらいのゴンドラ内に向き合って座る。磨かれた視認すら出来ないほどのガラスの向こうにはまるで暗闇に宝石を散りばめたような景色が広がっている。
「100万ドル…とはいかねぇが…壮観だな」
ガラスに手をつきながら電樹は感嘆の息を洩らす。そんな電樹の真正面で、夜景すら見ずに有都は俯く。
(さっきまでは平気だったのに…心臓の音、聞こえてないかしら…)
真っ赤に頬を赤面させ、有都は胸を撫で下ろした。以前の自分なら、普通に乗って特に何もせずに降りてきただろう。幼き頃に母親に言われ続けた言葉。
『男に近寄るんじゃありません』
当時は意味すら分からなかった。少し容姿が異なるだけで同じ人間じゃないか。始めはそう思いつつ、言われるがままに避け続けてきた。だが現実とは唐突に突きつけられるものだ。中学2年の夏頃である。吹奏楽部に所属していた有都は使った楽器を戻そうと楽器倉庫に向かい、体育館の前を横切った。
瞬間、無人のはずの体育館から少女の声が響いた。
「やめてって言ってるでしょ!!離して!」
「いいだろ胸ぐらい!俺達付き合ってるんだからよ!!」
中学生というのは誰もが大人へ近づく時期、いわゆる思春期というものの真っ只中にある。男子は今まで以上に女子の肉体に執着心を持つようになり、女子はそれを刺激する身体を構築する。仕方ないと割りきって見て見ぬふりと落ち着かせる手もあったが、当時の有都のポジションは『風紀委員会』とあった。だから、
「あなた達!何やってるの!!」
勢いよく扉を開け、有都は怒鳴り込んだ。目に映ったのは涙目で顔をぐしゃぐしゃにしながら暴れる女子生徒と、それに股がろうとする男子生徒だった。
「ちっ…風紀委員の有都かよ」
男子生徒は短く舌打ちし、負け犬のように走っていった。女子生徒を残して。有都は男子生徒の退却を確認すると、女子生徒の元へ駆け寄った。
「あぐっ…」
「大丈夫?……湊谷雫…ちゃん。変なことされてない?」
ネームプレートを彩るのは青色だ。つまり1年生。ネームプレートに刻まれた名前を呼び、精神の安定化を図る。
「わたっ、私…もう…ヤダ…死にたい…」
「大丈夫…お姉さんが助けてあげるから。彼の名前、教えてくれる?」
酷なことを聞いた、と後から後悔する。だが裁く立場としては知っておかなければならない。
「……江口…淫太郎…」
「えぐち…いんたろう…名前だけでも不埒ね」
割りと片寄った偏見を口にし、有都はしばらく彼女、湊谷雫を落ち着かせた。この事件以来、有都は男への見方がおぞましい怪物の一端へと変わった。男子の下ネタ混じりの談笑を聞いて嘔吐したこともある。湊谷に植えつけられたトラウマが有都にもそのまま移植されたのだ。いや、共有と言うべきであろう。
だからこそ、宮川電樹という男と出会った時の衝撃は奇特なものだった。学校の廊下でただ自分の落としたハンカチを届けてくれただけである。嬉しかったのだ。ただ単に。
「そこのポニーテール。ハンカチ、落としてたぜ」
だが有都はそれをいつも通りに返した。それを今になって後悔している。
「私の物に気安く触らないでくれる?穢らわしい男風情が」
そう冷たく言い切ってしまった。その後の切なげな彼の表情が今も妙に引っ掛かっている。それを確かめるべくでもあり、贖罪の為でもあった。許される、挙げ句に結ばれるだなんて虫のいい話だ。恐らくどちらかが失敗するだろう。後者の方が確率は高いが。
過去との邂逅、おぞましい記憶との逢瀬を終え心を落ち着かせ、窓の外を見る。間もなく最高到達点だ。
(大丈夫…謝るだけ…ただそれだけ…)
有都は聞こえないように深呼吸をする。出来る限りのお淑やかを、淑女の姿勢を保つ。
「あの…電樹…」
「ん?何?」
有都の呼びかけに電樹が振り向く。ますます顔が向けられなくなる。
「謝りたいことがあったの…どうしても言い出せなくて…それでこの場を借りてもいいかしら…」
「………おう」
「入学した時に…あなたにハンカチを拾ってもらったわ。でもその時、失礼な態度をとってしまったことを謝りたくて……ごめんなさい」
「何で、今さらそんなこと?確かにビビったけど…お前の家庭事情を知りゃ、納得したよ。気にすんな。それより見ろよ。なんか色々混ざってて綺麗だぜ?」
聞いておいて話を変えないで、と普段なら返したところだ。だが今それを返してやれるような心境ではない。
「それは…本心…だけど…もう1つ、言いたいことがあって…その切欠みたいな…」
夜景を眺める電樹の後ろ姿に言葉をかける。窓の向こう側では噴水やライトが煌めき、逆光で電樹が薄暗く見える。言いたいことを喉から絞り出せない有都を囃し立てるように無数の閃光が鮮明に輝く。

花火が上がった。その瞬間、何かに背中を押された気がした。無心になったような感覚だ。そして、告げる。

「入学して…会った時から…あなたのことが…ずぅっと…す、好きでした!!私と…恋人に…なって下さい…!!」

遅れて花火のけたたましい破裂音が鳴り響いた。花火の逆光であまり顔の見えない電樹に向かって思い切り頭を下げ、好意を伝えた。
「──マジかよ」
「………………」
電樹は少し周囲を右往左往して申し訳なさそうに頭を掻く。
「いやー…なんつーか…女の子にそんなこと言われるの初めてだからさ…なんつーか嬉しい。それに、俺もお前のこと好きだから」
「──えっ?」
一瞬、電樹が何を言ったのか分からなかった。両思いだとでも言うのか。
「あなたが…私を…?」
「そ、俺が、お前を。お前の顔を見て、一目惚れってやつだよ。だからハンカチ拾えた時はチャンスだと思った。案の定バッサリ斬られたけど」
「…それは……」
「いや、良いんだよ。お前──色音からその答えが聞けて。それだけで嬉しい」
「いろね…」
急に下の名前で呼び捨てされ、有都は口をモゴモゴ動かす。
「でも、ちょっと待ってくれないか?」
「え」
「いや、俺は色音のことが好きで、色音も俺のことが好きなわけだろ?そんなウィンウィンな状況で断る訳にはいかないけど…でもまだ早い気がする。言っとくがフッた訳じゃねぇぞ?俺は色音のこと好きだからな?超好きだ!……けど悪いが先延ばしにしてくれないか?」
断れた感覚ではなかった。恐らく何かが電樹を抑えているのだろう。
「どういうこと?」
「こっち来いよ」
そう言われ窓際に立つ電樹の隣に寄り添うと、急に肩を抱かれた。
「やんっ…」
「綺麗なモンだよなぁ…景色も色音も。なあ…見てみろよ」
有都は急に肩を触られ少し卑猥な声を出し、言われて電樹の見る方向を見やる。広がっているのは人々遊園地を楽しむ絵面だけだ。黙ってその様子を見ていると電樹が口を開いた。
「あそこさ、ガキがなりふり構わずはしゃいでやがる。それを見て親が止めて、周りに謝ってる。あっちのアイスの屋台では高校生のカップルがイチャついてる。あの老人はベンチに座って微笑ましく談笑してる」
意図があまり読み取れない。電樹は何を言ってるのだろうか。次第に肩に触れ合う掌に熱が帯びてきて、有都はそっと電樹に寄り添った。そして聞く。
「何を言ってるの?」
「あーゆう何でもない会話や挙動、全部日常的なモンなんだよ。そうだよ。普通なんだ。今日お前と色んなところへ行った。普通で、日常的なことをしてる、そんな奴らを見てきた!何も知らないで…平和に過ごしてる奴を…なぁ色音。じゃあ俺はどうしたらいい?」
「え………」
「そんな平和をブッ壊しちまった俺はどうしたらいいんだよ…」
「───ッッ!」
有都の胸を何かが抉った。笑って、笑顔で振る舞っていた裏でこんなことを考えていたのか。
(私最低だ…電樹があんなに悩んでたのに…)
有都は自責の念に駆られる。どうして気づくことが出来なかったのか。だが、ここで慰めという蜜を与えるのも私らしくないと自重する。
「あなたは悪くないと言った先の言葉は…撤回するわ」
「ああ…」
「あなたはアイテールに操られ、脆弱な自我の自立性を見せつけた。そしてその場を混乱させ、アイテールに優位な状況を作り上げた。それは許すまじ行為よ。でも…」
有都は電樹の胸に顔を近づけ、力の籠った眼差しを向ける。
「それを1人で抱えるのもまた…愚かで許すまじき行為の一端よ」
「………かもな」
「あの時、怖くて立てなかったのは私も同じ。私だけじゃない。桧山君や他の皆も。だから皆で背負いましょう」
やはり自分として筋を通すべきだった。なのでこの言葉は的確だと思った。これは突き放しなどではないと、電樹も理解しているはずだ。
「そうだな…俺だけの戦いじゃない…だから、勝って今度こそ、お前にちゃんと想いを告げるよ」
「待ってるわ。それまで、ただのクラスメートの関係を保ちましょう…って電樹?」
何やら地上との距離を確認していた電樹を見て有都は目を細める。
「……けどまぁ…なんもせずに終わるのもつまんねぇよな…よしっ!」
ふと視界が揺らいだ。唇に舌に何か柔らかく暖かいものが絡まっていることに気づく。
「………ん…く…」
熱が出たみたいに頭がチカチカし、無心になって目の前にいる電樹の身体にしがみついた。やがてそれが接吻だと気づく。
「ぷはっ…何するのよ!!」
有都は息継ぎをして電樹に向かって怒鳴る。電樹は構わない様子で言葉を有都に投げ掛ける。
「好きだぜ…未来の色音をな」
「もう……私も愛してるわ…遥か先のあなたを…」

結果は失敗。今までの努力が水の泡だ。だけど、成立しなかった訳ではない。夜空に浮かぶ虹の華が見守る中、2人は互いの未来に愛を誓ったのだ。


「いきなりキスだなんて…酷すぎるわ…」
不貞腐れたように有都は電樹と一定の距離を保って夜の道を歩く。
「でもそんな離れる必要もねぇだろ」
初めてのキスの余韻が残る中、2人は帰路に着いていた。もう辺りはすっかり暗く、星の1つも見えない。あるのは朧気な月だけだ。どうにか会話と思い有都はお腹辺りを撫でながら電樹に問う。
「身体が熱くなったわ…なんか…この辺が疼いたの…なんでだろう」
「発情」
「死ねッ」
即答した電樹を有都は瞬時にしてフルボッコにした。
「全く…これだから男は…」
ハンカチで手を拭いながら有都は道端で倒れる電樹を置いて進んだ。
「まあ、冗談だっての。そう怒んなって。お前の気持ちは分からんでもないぞ。俺も自分のソーセージが硬く焼き上がっ…ブラジリアンワックス!?」
「気持ち悪いこと言わないで」
「あのなぁ…仮に俺とお前が結婚したら嫌でも俺の一物を撫で回さなきゃいけないんだぞ…ぐほぉっ!!」
「卑しい」
「だーからそう怒るなって!俺は冗談で言ってるわけじゃn…ボハァッッ!!」
有都はふと振り返った。自分は何もしていない。だが後ろで電樹はしりもちをついていた。だがその原因を悟って有都は安心する。
「悪ぃ…大丈夫か?」
電樹は黒服の男と衝突したのだ。まあ無理もない。この暗さで相手は全身黒なのだ。
「ああ、お前も気をつけろよ」
「ああ」
短い会話をして、男は颯爽と闇に溶けていった。
「分かったでしょう…早く帰らないと危ないわ」
「ああ、そだな」
ふと、電樹は振り返った。街灯1つない通りはまさしく黒洞と言うに相応しい。そんな暗闇の奥へ目を凝らす。さっきの男がこちらを見ている。気味が悪くなり電樹は身震いしながら有都の小さな背中を追った。だが、その男の視線は曲がり角を曲がった後でも蛇のようにしつこく追ってくるように感じた。それは延々と──
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