35 / 64
第四章・小さな偶像神
【第十一節・空の器】
しおりを挟む
五ヶ月少々――新人への教育は二度目だが、あそこまで自分に自信が無いのも珍しい。いや、勤務初日から居眠りをするあの新人と比べているわけではない。劣っている自覚すると口に出すのが口癖になっているのか、すぐ悲観的になる彼女が嫌いだった。私達は完璧な神々によって創られた【天使】。信仰を集める対象の人間について学習し、より完璧に近付いていかなければならない。
だからこそ、【地上界】の生物と【天使】の存在を天秤へ掛けてはならないのだ。彼らは【天使】や神々に利用されるだけの存在で、【天使】もまた神々へ尽くす立場。搾取し、搾取されるだけの関係。それ以上でもそれ以下でもなく、互いの均衡を保ち続けることで神々への信仰心は現在まで保たれている。【天使】の重労・犠牲もその輪廻に加味された考えであり、私達が手足となる事で巡り続けるのだ。
それを意図的に阻害するのが、私の示唆する【使えない天使】である。ニーズヘルグの【自分の意思通りに動かない天使】とは意味と重みも違う。だが周囲がいくら言葉を投げかけたとしても奴が新人へ残した爪痕は大きく、ポラリスが主導になってからも払拭しきれているとは言い難い。彼女の性格も重なり【天使】としての能力を満足に発揮できない、重石になってしまっている。
ニーズヘルグはもう【地上界】に居ない。【冥界】でどのような仕打ちを受けているかなど知る由もないが、【ルシ】も自分の情報を流されるような生半可な【堕天】はしないであろう。おぞましい地下室のあった教会も新しい教会へと建て替え、直属上司も屑から半端者とややマシになった。新体制になって約二ヶ月。靴を舐めるような嫌気がさす奴の元から解放された生活は、良くも悪くも充実している。今は奴の痕跡が強く残る新人も、時が経つにつれ優秀な【天使】へ成熟していくと――――そう考えていた。
「僕ら【天使】は、生まれながらにして歪で欠けている。【地上界】の全ての生き物達が、生まれながら持ち合わせている感情や感覚が無いんです。その欠けた感情を皆さんと関わり、経験として穴埋めしていく。【天使】として完璧であるとは、彼らに近付くことでもあるんじゃないかなって思うんです。……アダムはどう思いますか?」
教会地下の台所にある机で、その日の業務報告を纏めながら対面へ座るポラリスが話しかけてくる。またいつものかと思い、溜め息が出た。こいつとの問答はこちらと対照的でありながらも、本人はこちらの考え方を否定しない所に腹が立つ。
ペンを置き、手元の紅茶を一口含んで毒づきそうになるのを抑える。上司と部下、その関係は徹底するのだ。同期であれど最低限の礼儀は弁えろ、アダム。
「人間の感情や感覚を共感することで、【お告げ】の作業は効率的にはなるでしょう。彼らの【思考】を通し、生活を知ることで【天使】として成熟していくと私も考えています。ですが私達は神々の手足である【天使】。存在そのものが全く異なる者同士が、劣っている側へ進化が近付くなどあり得ません。……理解の度を超え、そこまで至ってしまったら退化でしょう」
「うん、【天使】としてはそうかもしれないですね。ですが、僕はなんというか……自分自身を【道具】と考える固定概念に囚われてしまうのは、とても勿体ない気がするんです」
「勿体ないとは?」
ポラリスも書く手を止め、座った姿勢のまま軽く伸びをする。
「【下級天使】は常に値踏みされている。神々や上司の【天使】、【お告げ】を行う対象の人間達からも。【道具】として有能であるか、無能で使えないか。……ニーズヘルグが僕をしっ責する時よく口にしていた言葉です。あなたも言われていたかわかりませんが、当時の【私】は彼の便利な【道具】として振る舞い、【ポラリス】という個を押し殺して十年間過ごしてきました。ですが、皆さんと過ごしたこの二ヶ月間は大変ながらも充実していて、僕にとって色の濃い時間だったんです。まるで――――」
「――自分が人間や他種族になったように、ですか? それはただの錯覚です。私達は彼らに成り得ないし、彼らが【天使】の境遇を理解する事など絶対にあり得ません。司祭もアポロも新人も、皆さんもっと【天使】としての誇りや役目の重大さを自覚してください」
手厳しいですね。そう言って紅茶の入ったカップを手に取るポラリスは苦笑いする。違う。私が手厳しいのではない。お前の緩み切った考え方が部下二人へ悪影響を与えている。錯覚や妄想に浸るのは自分だけにしてくれないか。私があれらと同一視されるようなら、【天使】という便利な【道具】であった方がマシだ。
一息つき、奴は少し困った表情でこちらを見る。灰色の少しくすんだ瞳。以前はもっと色素が薄かった気がするが、それも【昇級】や【信仰の力】の影響か?
「アダム、君は強い。僕なんかよりもずっと勤勉で努力家、後輩の面倒を見てきたのもいつも君だった。でも僕は同じ【天使】として、君の方が人間に近い感情や感覚を持っているんじゃないかって思う事があるんだ」
「どうでしょうか。私は司祭やアポロの方が、人間やスピカさん達と近しい感情を持っているように見受けられますが。いえ、質の悪い流行病のように伝染し感化され、本来不要な感情に振り回されていると言い切った方がいいですかね」
「その通りだ。僕は彼女や皆に感化されて……錯覚しているのかもしれない。感情が無いのに、感情を持っていると脳が判断し、疑似的に振る舞ってるだけなのかも。……味覚も嗅覚も、こうしてカップを通して手のひらに感じる紅茶の熱も。蓄積された経験や人間の【思考】を反映し、ある筈のない感覚を認知している。自分が【天使】という名の【道具】と考える度、不安になるんだ。僕らは本当は何もない、空っぽな器みたいな物なんじゃないかなって……」
そう話すポラリスはカップを両手で包み、手のひらで温もりを感じるような仕草をして目を細めた。
蓄積された感情を元に生き物らしく振る舞い、不安を覚える、か。……考えたことも無かった。例えるなら【空の器へ感情や経験という液体を流し込んでいる】ようなものか。だが【道具】である以上、あり得なくはない。【天界】で生まれ育った頃の記憶も朧げで、【受肉】して【地上界】で過ごした時間の方が長くも感じる。これも長期間【下級天使】であったが故の欠落か、単純に風化して思い出せなくなってしまっているか。
だが、奴がそれを不安に思う意味を理解できなかった。最初から五感も持ち合わせていたし、死に近い存在に対して強い恐怖心は未だあれど、【天使】であり【道具】である事実など遥か前に受け入れている。
「正しいと思いますよ。どんな物質でも血肉へ変換し、人間と近しい感情や五感を持ち、神々に創られた信仰を集める【道具】。老い衰え、病による死を恐れることも無い特異な存在。それが【天使】です」
「……でも、それを受け入れられない【天使】もいる。新人が心に抱えている原因も、自分自身の立場や存在を理解しながら、過去に引き摺られ葛藤しているからだ。これを完全に断ち切るのは……僕らにはできない。彼女自身の中で区切りをつける必要がある」
ポラリスは細めた目を開けてカップを机へ置き、私の書きかけた新人に関する評価資料を指差す。部下の評価報告は常に互いに公平性を持って作業しているが、新人の不安定さが常に気掛かりであった。参拝者へ感情移入し過ぎてしまったり、結果を出そうと焦るあまり【お告げ】を失敗してしまうことや、時折【思考】を読み取る能力が使えなくなるなど……以前は一度指摘や注意をすれば翌日には訂正し対応していたことも、最近は特に繰り返し失敗してしまうことが多い。
周囲の環境が変わり、私やポラリス、アポロも【中級天使】へと短期間で立て続けに【昇級】したことへ焦りを感じている。それで彼女の重石が更に大きくなり……負の連鎖を起こしている。確かに私達で彼女の精神を正常に戻すのには限界がある。【天界】から毎週末送られてきている、階級別に記載された記録の平均実績値以下へ新人一人が【下級天使】内で下の方へ落ちる点もだ。この事実を知れば、益々彼女の中に潜む重石は悪化してしまう。
胃がチクチクと痛む。経験の浅さ、過去の重石、周囲の【昇級】、未熟さ故の焦り――――時間で解決するかと思われた問題さえ、取り組み始めると上手くはいかない。司祭や副司祭という立場も楽ではないな。
「……何が足りないのだろうな。私やお前、アポロでも、彼女をニーズヘルグが残した重石から完全には救えない。時間は解決してくれず、環境を整えようとも彼女自身が決着を付けられない。……感情というのは、私達にとって煩わしい存在だ。これのせいで皆引き摺られ、上手くいかずにいる。仕事は仕事として割り切れるよう、脳ごと切り替わりでもすれば楽になるのかもな」
「君のそういう冗談を含んだ考え方が人間らしいね」
「皮肉か?」
「ふふふ、それだけ【天使】として優れているってことだよ。気分を悪くしたらごめん。でも、感情を持つのは悪い事ばかりじゃない。僕らもうまく自分の感情に付き合っていかないと」
ポラリスは再び手元の作業へ戻る。現状出せる案は無い。だが手詰まりでありながらも、彼女へどうにか区切りをつけてやりたいのはこいつもアポロも同じだ。……胃が痛む。こいつの調子のせいか、新人に何もしてやれない自分の無力さか。
「あまり調子が良さそうに見えないね。置き薬があるか見てくる」
「いや、いい。手持ちが――――ありますので、お気遣いなく」
「後輩のことを真剣に考えて胃を痛める君も十分優しいよ。あと二人の時くらい、敬語じゃなくてもいいんじゃない?」
「はぁ……お前のような抜けた上司や後輩と、今後付き合っていけるか不安だ」
「でもニーズヘルグよりはずっといい。君が上司になったとしてもね」
「当たり前だ。私は優秀な【天使】だからな」
***
新人が【銃】を持ち、屋上から【白の一団】を撃つ姿が見えた。【天使】同士には使えない筈の【思考】の声と共に。だが――――今はそれどころではない。目の前の巨大な犬に背を向ける方が危険だ。
「後ろはお嬢と姐さんが行ってるっすっ!! 俺らは前を叩くっすよっ!!」
「狙撃手は?」
「狙いは【白の一団】ですっ!! ……来ますよっ!!」
「――――――!!」
内蔵にまで響く咆哮をあげ、地響きを鳴らし、巨体を揺らし迫る巨大な一頭の犬。背後からの銃声は止めどなく聞こえ続けているが……集中しろ。奴の視線は私達へ向けられている。左右の路地へ逃げ込む? いや、犬が先回りしている。最初あえて注意を引いていたのは、この布陣を敷く為か。
アラネアが街灯へ飛び乗り、街道を跨いで建物の間へ太い糸で素早く蜘蛛の巣を作り上げていく。犬は出来かけた蜘蛛の巣へ頭から突っ込むと、ブチブチと嫌な音をたて糸を引きちぎった。顔面についた蜘蛛の巣を振り払うように首を左右に振り回し、糸を切り損ねたアラネアは叫び声を上げながら犬の背へ消えていく。足止めは出来たが直ぐ動き――――
「――でっかい犬っころ……【冥界】の三頭犬を思い出すっすねっ!!」
「無駄口不要。眉間と鼻の頭を狙いなさい」
バリバリと音と淡い光を出し、ローグメルクは自分の腕と同じ太さの長い【黒の杭】を二本生成し、ティルレットは地面を蹴って飛ぶように犬との距離を詰めた。彼女は近くにあった鉄の箱を踏み台に跳躍――街道の右端から左端へ跳びながら――頭を振り回す犬の左眼球へ、呪詛蠢く黒いレイピアを突き刺した。
眼球へ呪詛を流し込まれた巨大な犬は激痛に咆哮をあげて悶え、左右へ頭を激しく振った後、同胞達の亡骸を蹴り飛ばしながらこちらへ再び走り迫ってくる。あれだけ大きいとこの剣では簡単に折られてしまうが、彼女と同様に軟らかい目を狙えば……?
「おいっしょおおぉっ!!」
隣に立つローグメルクは生成し終えた二本の杭のうち一本を豪快に投げ、真っ直ぐと飛んだ杭は風を裂く唸りをあげて犬の眉間に刺さる――――が、止まらない。先程の犬達もそうだったが骨が厚く、完全に脳へは到達しないのだろう。二投目――――間に合わない、速過ぎる。
剣を右手に持ち替え、犬の右目を潰すべく走る。奴の左目は既に青い炎をあげ、顔の毛皮に燃え移り始めていたが、呪詛だけで巨体を焼き切るには無理だ。あと数歩、少しでも私が足止めできれば隙が――――
「――――――!!」
「な――」
ぎょろりと動いた目と目が合い、奴に顔を背けられ突きを躱された。犬は前脚二本を軸にその場で方向転換し、私を食い殺そうと大口を開け――――頭上に太く鋭い歯が、何十本も見え――――足元はざらついた真っ赤な舌――――これは――
――濃い血の臭いと頭痛で目を覚ます。暗い。何も見えない。ぐちゃぐちゃとする足元。立ち上がろうとするも、何かがおかしい。右足は床を踏ん張ろうとするも滑り、左足には床へ設置している感覚がない。くそ、左足だけ噛み切られたか。そっと触り、どこまで持っていかれたか確認する。腿から下……左手の指先に固い感触が当たる。骨か? 相当酷い状態なのは確かだが、幸いにも脳が正常な判断を受け付けなくなっているのか、痛覚は麻痺しているらしい。
「う……ぇ」
血の臭いで気分が悪い。吐きそうだ。前屈みになると、伸ばした右手へ何かが当たる。硬くて柔らかい――人間の肌と肉の塊――
「ああああぁうぇっほっ!? ああぁぁ……げっほげぼ……っ!?」
恐怖で衝動的に叫ぶ。気管へ気化した状態の血が入り、むせる。ようやく惚けた頭が理解した。私は今、奴の胃の中に居る。左足を噛み切られ、手元に剣も無い状態で。小刻みに胃の底がブルブルと震え、体内に奴の雄叫びが反響する。目は……やはり何も見えない。いや、空気中の濃い血煙で目が機能していないのかもしれない。
時折来る衝撃は……奴が戦闘で走り回っているから――――恐怖心で脳が今感じている五感を拒絶し、気が遠のきそうになる。駄目だ。気を失えばそこの肉塊と同じことになる。胃の中から食い破る? 可能だろう。これほど柔らかい胃の壁なら、中からズタズタに切り裂ける。
……集中できない。【信仰の力】を、背に集め――――何故だ、何故だ何故だ何故だ。
いつも通りにやればできる筈だ。想像ができない。剣の形も。どのようにして【信仰の力】を集めていたのかも、思い出せない。
――――血を流し過ぎた。意識が遠のく。追い打ちをかけるように左足の痛覚も徐々に戻ってきた。ああ痛い、痛いぞクソ。歯を食いしばって両腕を胃の底へバシャバシャと叩きつけ、背中へなんとか意識を向けようとする。
見えない死がやってくる。急げ急げと私自身が急かす。力の流れを制御できない。簡単にやってのけていたことが、いざという時に出来なくなる。何度も、何度も何度も練習した。自在に扱えるよう、例え直接手が触れていなくとも感覚だけで距離を測り、正確にその場へ突き立てることもできるようになっただろう?
何故、肝心な時にできない?
「くっそ……くっそぉ……出ろ……出ろよぉ、くそぉ……っ!!」
前方の肉塊がバシャバシャと崩れ、動く気配がする。顔を上げるも何も見えない、が――誰かが這って近付いて来る。飲み込まれた奴らの生き残りか? 【思考】は読めない。……やがて何者かの小さな手が、私の右手に触れた。
「い゛…………っ!!」
手を引くも動いた拍子で左足に激痛が走り、胃の底へ頭を打ち付ける。グニャグニャとした軟らかく湿った質感、血の水溜まり――――狂いそうだ。手の主は小さな悲鳴を上げバチャバチャと後退りし、気配を殺す。いや、もう私には気配も感じ取れないのかもしれない。激痛で意識が朦朧としている。嗅覚は駄目だ。もう僅かに残った聴覚と触覚だけが頼りである。
【信仰の力】を集中は――もうできない。地面でもがく死にかけの蟻のようで、とても惨めだ。
暗く、汚い血反吐と肉の部屋で……私の精神は死に逝こうとしている。次に目が覚めた時は、すべてが夢であるか――あるいは【冥界】か――――
――水音をたてて、何者かが再び近寄る。ピタピタと血濡れた手で頭を触られるが、もう抵抗する気力も起きない。やがて手は顔の横に垂れた三つ編みに触れ、感触を確かめるよう握り――――手の主が再び声を出す。
「……みつあみ……せん……ぱい?」
聞き覚えのある声。先程【銃】を構え、慈悲の言葉と共に兵士の頭を撃ち抜いた声。まさか、食われた兵士の胃の中にまで来るのか。……声の主の方へ顔を上げると、二つの黄色い目が見えた。目しか見えなかったが……特徴的な黄色く大きな瞳……ああ、間違いない。新人の【天使】だ。猫のように暗闇で光る目と目が合う。彼女は三つ編みから手を離し、私の胃の底へ突いた両手へ触れた。
小さく震え、それでも自分はここに居ると示すかのように、力強く手の甲を握る。泣いているのか……すすり泣きを堪える押し殺した声と、二つの光る目が瞼に隠れやや細くなる。
「ごめ……ごめんなさい……わ、わたし……また……しっぱいして……で、できると、お……おもったんです……みなさんのように……わたしも……わたしも……ほ、ほんとうに……ちからになれるって……うかれて……それで……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……いい……もう、いい……私も……ぐ……」
私もお前を道の誤った【天使】として、切り捨てようとしていた。痛みで言葉が続かない。彼女に握られた両手の感覚を中心として、右足先から私の世界が小さくなっていく。――今繋ぎ止めているこの感覚が無くなれば、私はそのまま逝くだろう。世界を閉じ、二度と覚めない眠りか、【冥界】へと。
「は……辛い……な……できる筈のこ、ことが……でき、ない……のも」
「……せんぱい……ごめんなさい……わたしは……」
「懐かしく……感じる……その……呼び方……私の方こそ……すまなかっ――――……っ!?」
吐血。再び頭を付けそうになるも、細い両腕と身体で抱き留められる。ゆっくりと狭まっていた世界が、手の甲から頭部の周囲の感覚へ託される。……情けない。ポラリス達が見たら、酷く滑稽だと下品に笑うだろう。いや……あいつはまた困ったように微笑むだけか。
「私は……あいつに、なれない……負けて……ばかり……部下であるお、お前も……あの男の言葉の……お、重石から――――う……解放して、やれなかった……すまない、な……口先ばかりの……使えないせ、せんぱいで……」
「い、いいえ……いいえ……っ!!」
「あ……ああ、悔しいな……今になって……ようやく……き、気付くなんて……くそ……」
感情など不要だ。理解すればするほど、辛くなる。空の器に溜まった強い感情。哀しみや苦しみ、痛みや妬みが性格を形作り、無垢な【天使】を狂わせる。【思考】を読まずとも、感じてしまうだけで溜まっていく――――
――――私は、それ以上の物で満たされないよう蓋をした。今の自分自身が幸福だと、醒めない呪いをかけた。ポラリスを空っぽだと感じるのは、私の方が満たされ過ぎていたから。奴が私を人間らしいと言ったのも、私が人間の感情を理解し過ぎたから。そうなるように、我々は神々によって創られているのだ……【天使】という名の【道具】は。
染まる力、染まらない透明な力、自分自身でその【色を覆い隠す力】――――無かったんじゃない。
私の色は私自身が見えないよう、隠していたんだ。
背が熱くなる。背骨と肋骨が皮膚を突き破り、背から飛び出る想像をしろ。太陽のように、剣で輪を描こう。暗がりを照らすように。この小さな【天使】の瞳の色のように。金色の太陽。神々しく、全ての悪を照らし、焼き尽くすような太陽だ。足は失った足と同じ物を想像し、【信仰の力】で義足を作れ。失った血は――――【受肉】の特性を生かせば、簡単に補える。
「……せんぱい?」
頭から血を被った新人の顔が見える。涙が伝った部分だけが、綺麗に血を洗い流していた。周囲のバラバラになり、肉塊となった死体も金色の光で照らされる。てらてらとした胃の壁がおぞましく、気持ちが悪い。怖い……死が近いこの肉の部屋が怖い。
私を抱き止めるその小さな体を、私も強く両腕で抱きしめる。例え【天使】という【道具】であったとしても、私もお前も使えない【道具】じゃない。
敵わない星へ劣等感を抱いたとしても、神々や【天使】に仇名す悪を激しく憎んだとしても――――
「――――私自身の心は、ずっとここにあったんだ」
***
「おおおおおぉ吐き出せクソ犬ぅっ!!」
「落ち着いてください、ローグメルクっ!! 吐き出させるにしても一度足を止めないとっ!!」
目の前でアダムが左足を残して巨大な魔物に飲み込まれ、取り乱すローグメルクへ冷静に対処するよう促す。ボクとペントラさんが目を離してる僅かな間に犠牲者が出てしまった。彼の視点では左足が牙に引っかかるもそのまま噛み千切られたらしいが、別角度で目撃したティルレットには残りの身体は丸呑みされたと報告したことから、消化液や胃の内容物で窒息していなければ、生存している可能性は十分ある。
今は前線でアラネアとティルレット、ペントラが糸・呪詛とレイピア・鉄線で暴れる魔物をどうにか止めようとしているが、大きさが大きさだけに手が付けられない。お兄さんもこちらへ近付いてきているものの、今だ現れ続ける小さな個体相手で精一杯。ローグメルクも巨大な杭で足を縫い付ける作戦を実行したが、刺さっても自力で噛んで引き抜き、足をそのまま千切って新たに再生するなど……簡単に抜けられてしまった。
魔力による爆発も黒い毛皮に耐性があるのか意味をなさず、奴相手にボクの魔術はただ弾けるだけの泡に等しい。胴体や頭部は特に肉厚で固く、刃を通さない。呪詛による燃焼も時間が経つと無力化され、ティルレットが立て続けに流し込み続けないと再生能力の方が上回る。
人の精神が生み出した魔物達。生きたいという強い願いを反映し、人の姿や理性と引き換えに再生能力と頑丈な身体を手に入れた。そうまでして生にしがみつく【防衛機能】達は、長い時間を掛けて自らが生きた人間であると錯覚を起こしてしまっているのか?
「……お兄さんも頑張ってくれていますが、まだ時間が掛かります。ローグメルク、巨大な網か物理的に行動を阻害できるも――――」
「――――あぶねぇっすっ!!」
後方を見ている間に目の前まで迫ってきていた魔物の口を、ローグメルクに身を引き寄せられ難を逃れる。街道の端まで跳躍し、建物を背後に魔物と対面する。三人は――――ティルレットが魔物の右目へレイピアを突きたて、飛び退きながら刺さったレイピアを左足で蹴って更に深く差し込んだ。右目を中心に青い炎が噴き出て、魔物はレイピアを引く抜こうと顔を左右に振り回すが抜くことができない。
「アラネアっ!!」
「わかってるっ!!」
追いついたペントラとアラネアが、鉄線と蜘蛛の糸を暴れる魔物の顔へ集中的に巻き付け、絡ませていき――上下に口を開けない口輪の状態となった。前足の爪で懸命に引き裂こうとしているが、その間にローグメルクも左目に杭を叩きこみ、引き抜かれる前に爆発させる。
お兄さんはもうそこまで来てる。囲まれながら――――
――――タァン
「あ……え?」
右足に力が入らず、その場へ倒れ込む。血だまりが足元から広がるのが見え……撃たれた? どこ――――
――――タァン
「いっつ……ああぁ……!?」
二発目の狙撃音が聞こえ、左足が痛い――痛い、痛い。――――対面の建物屋上――白装束のあの子が、銃口をこちらへ向け――――
――――タァン
――――三発目は脳天へ向けられていた――――が、間一髪のところでお兄さんが割り込んで盾で防ぐ。でもお兄さんも消耗していて、大きくひびが入ったは【翼の盾】では次弾は持たない。皆は――――再び路地から飛び出してきた魔物や、巨大な魔物に妨げられこちらへ来れない。逃げようにも右足は膝から下が半ば千切れかけ、皮膚でつながっているような状態。左足も太腿を撃ち抜かれていた。抱えて逃げるのは……無理だ。
運が良ければティルレットが滑り込めるが――――集中して狙われては、さっきの白装束の兵士の二の舞。お兄さんのコートの裾を掴み、逃げてと叫ぼうにも痛みで声が出ない。……情けない嗚咽だけが、口から漏れる。彼は振り返らず、彼女から隠すように立ち塞がる。
――――タァン
【翼の盾】が砕け、衝撃の反動で吹き飛ばされまいと、その場で耐えるお兄さんの後ろ姿。彼の頭の右横から、金色に光る瞳の彼女の顔と銃口が覗いていた。
「――――――!?」
雄叫びを上げる魔物の腹部から血に塗れた何かが飛び出し、お兄さんの前へ血と肉片を撒き散らしながら滑り込む。
――――タァン
『ばぁん』っと、初めて耳にする分厚い金属音を出し、大口径の銃弾は黄金に輝く浮遊する剣数本に弾かれた。状況が理解できずにいるお兄さんはボクを守るようにもう一歩下がると、何かは抱えていた小さな人をその場へ下ろし、顔についた血液を右手で拭い、ちらりとこちらへ視線を向ける。
「あ……あ、アダム? どうして君が……その子は――――」
「話は後だ。新人を頼む」
見覚えのある服装、小さなその子は――――新人の【天使】? え?
***
足りない血は犬の肉と血で代用した。胃に入ればどんなものでも栄養として取り込める【受肉】の肉体構造が、精神世界で役立つとは思いもしなかった。血の味や胃がむかむかするのは不愉快だが、最早口にする物に拘ってられない。顔の血を拭って視界を確保し、剣で作った壁の隙間から奴を覗く。【銃】の先端はこちらに構えた姿勢のまま崩さず、少しでも隙を見せたら後ろの奴らを撃ち抜く気でいた。
これは挟撃の流れか。犬が路地から飛び出し、左右から二つの唸り声が近付く。壁にした両端の剣を意識し、目線は奴から逸らさず、左右の音源へ飛ばす――――当たり、発砲――――少し壁をずらし、後ろへ着弾するのを防ぐ。次弾装填の間に剣を引き抜き、元の位置へ戻して再び完全に覆い隠す。少数ならこれでもいけるが……こちらの剣は全部で十本、壁用の剣は最低八本はないと厳しいか。
考えを読んだかのように、続けて複数匹が左右の路地から飛び出してくる。なら、二本で全部捌く――――
――――タンッ、タンッ、タンッ、タンッ、タンッ、タンッ
背後から軽い音がすると同時に犬達の動きが止まり、その場で倒れこむ音が聞こえた。ポラリスか?
「左右は任せて。アダムは正面を抑えてください」
「殺したのか?」
「………………」
「……その……すまない」
「何か変な物でも食べました?」
「犬の肉と血を少々。胃がむかむかするな」
「いや、そうじゃなくて」
そんな会話を尻目に奴との睨み合いが続く。完全に正面は防げてるとはいえ、何かしらの動きがあって隙間が広がれば撃たれる。油断できないが……こちらの狙いはスピカの治療完了までの時間稼ぎや、四人を巨大な犬へ集中させる為でもない。私達の中で最も威力の高い攻撃を出せる、理不尽には理不尽で立ち向かえる存在――――あの【魔女】だ。
『パチン』と指を鳴らす音。目の前の建物屋上へ白い光が轟音とほぼ同時に落ちた。縁で構えていた狙撃手は全身が真っ黒に煤け、火のついた翼を背負い屋上から地上へと落下する。着地音は肉々しい音ではなく、どさっと砂袋を落としたような乾いた音であり、接地と同時に灰が舞い上がった。相変わらず恐ろしい魔術を使うな。
「イーヒッヒッヒッ!! お褒めの言葉をドーモッ!!」
口元の血を舐めながら、ベファーナが箒で剣の壁の上へ飛んで来た。姿こそちらりとしか見えなかったが、恐らく奥の方で狙撃手によって念入りに肉塊にでもされていたのだろう。
「全知全能の【魔女】ともあろう人が、不意打ちで落とされるのはどうなんですか?」
「魔力も身体能力も普段の半分だからネッ!! ここはウチの庭じゃないシ、仕方ないのだァヨッ!!」
両手の指先をバチバチと音を鳴らし、左右と建物の内部から忍び寄っていた犬達へ魔術の雷球を飛ばす。私達の頭をかすめるように飛んだ複数の雷球は硝子の扉を破壊して屋内へ入り、犬達へ鞭のように雷を伸ばして撫でていく。
剣の壁を消し、少し遠くで四人がまだ暴れ狂う巨大な犬をくい止める光景を見て安堵する。ポラリスは……スピカの止血と、新人から話を聞いているか。スピカの千切れかけていた右足も出血は止まり、紅い花弁で覆われ治療の段階に入っているらしかった。
「羨ましいかイ?」
「いいえ、司祭と違って子守りは苦手です」
「フーン……サボった分の仕事はキッチリするヨッ!! 温厚なウチも流石に激おこプンプンッ!! 偶然にも動物の調教は大得意ダッ!! ナァニ、チョ~ト撫でてやるだけで大人しくなルッ!!」
抑えつけようと躍起になっている四人へ手を振りながら彼女は暴れる犬の頭上へ陣取ると、箒から飛び跳ねそのままストンと頭上へ乗った。そして左腕を犬の頭部へ肩まで埋めると――――犬は暴れるのを止め、その場へぐったりと横になる。犬の瞳は見開いたままベファーナを捉え続けているも、身体が自分の意思で動かないといった印象だ。
四人もその様子に追撃の手を止め、こちらへと駆けて来る。周囲の個体は……ベファーナの先程放った雷球に仕留められ続けていた。増援はあれど、即座に無力化されていっている。残党は彼女に任せてしまっても、しばらくは大丈夫か。
自慢の俊足でローグメルクが痛みをこらえるスピカへ一番に抱きつき、泣きながら何事かを叫んでいる。両足の酷い怪我も含めて主の変化に戸惑い、心配だったのだろう。スピカももらい泣きしたのか、嗚咽混じりに話しながら彼の腕を掴む。ティルレットも無表情でハンカチを取り出し、主の顔を丁寧に拭う。
ペントラは全身血塗れの新人に怪我は無いかと手早く触診し、無いとわかると安堵の表情を浮かべ抱きしめる。アラネアはその様子をみて自分の出る幕はないと判断したのか、周囲にまだ伏兵がいないか見回していた。ポラリスは……その場で情けなくへたり込んでいる。
「……調子が良さそうに見えないな。悪いが置き薬は無いぞ」
「安心して腰が抜けました。……君は君で調子良さそうですね。……左足は?」
ポラリスは義足のままの私の左足を指す。そうだ……忘れていた。……精神世界での怪我や欠損は問題ないのだろうか?
「お探しの物はこれかいアダム副司祭?」
街道を見回していたアラネアが、申し訳程度に切り口を糸で覆った私の左足を両手で丁寧に持ってきてくれた。どうやら伏兵探しではなく、私の噛み切られた足を探していたらしい。両足の施術は治療が終わった後にスピカへ頼むか……最悪、【魔女】に頼むしかあるまい。
「ありがとうございます」
「ハンカチも使うといいっ!! 全身血塗れで綺麗な顔や青い髪にコートも全部台無しだっ!!」
足を受け取り、真っ白なハンカチも続けて手渡される。自分の姿がどうなっているかなどわかりもしないが、アレウスが仕事を終えて井戸を探している時のような姿か。そう考えると精神衛生的にもいい気分ではない。【受肉】の肉体でなければ、得体の知れない感染症になりそうだ。
顔や頭をハンカチで拭っていると視線を感じ、足元を見る。いつもの少し困ったような表情で、ポラリスが私を見ていた。
……こいつは私を見て、いつも何を考えているのだろう。優れている、君が司祭になるべきだと常々言ってくるが、それが本心なら憎しみや妬みは抱かないのか? こいつなら【天使】ではなく人間のように、自由に生きたいと願っていてもおかしくはない。
「お前は……無いのか。憎んだり妬んだり、私の言葉に苛立つことは?」
「? 僕がアダムを憎む?」
目を丸くしきょとんとした表情を浮かべ、少し考えるように口元へ右手を当てる。……待て、思い出すほどのことか? それともこいつは本物の間抜けか?
「……大体僕の方が悪いし、君は優秀で正しい。いつも余計なことばかり持ち込んで、迷惑かけているのも僕だ。憎まれ口や皮肉を言われても仕方ないと思ってる。なんだろう……僕自身が空っぽだから、そう思えないだけかもしれない。でも――――僕がアダムを憎んだり、逆に憎まれたくはないな。助けてくれてありがとう、本当に助かった」
邪心なく、透明でありながら未だに染まらない。常に転びそうで危くもあり、目が離せない困った同僚。自分の地位や力を必要以上に誇示せず、【地上界】の一員として皆と接する。天地の差……いや、地と天の差か。私とポラリスの絶対的な違いを無くすには、どちらかが変わっていくしかあるまい。なら【天使】の同胞として、私がやることは一つだ。
へたり込むポラリスへ手を差し伸べる。
「立て、ポラリス。【箱舟】を止めに行くぞ。まだお前達には、学ばなければいけないことが沢山ある。堕落した無能共に【使えない天使】と二度と言わせない、完璧な【天使】を皆で目指すんだ。……お前が染まり切るか私の毒が抜けきるか、根競べといこうじゃないか」
「おお、好敵手宣言だねっ!! やっぱり青春はそうでなくっちゃっ!!」
アラネアの言葉が少々癇に障ったが、【好敵手】……互いに競い合う相手ではある。ポラリスとの関係を言葉として表すのなら、最も適切な表現。奴は私の言葉に困ったように笑い、差し伸べた手を握り返す。
「うん、これからも頼りにしてる。よろしくね、アダム」
だからこそ、【地上界】の生物と【天使】の存在を天秤へ掛けてはならないのだ。彼らは【天使】や神々に利用されるだけの存在で、【天使】もまた神々へ尽くす立場。搾取し、搾取されるだけの関係。それ以上でもそれ以下でもなく、互いの均衡を保ち続けることで神々への信仰心は現在まで保たれている。【天使】の重労・犠牲もその輪廻に加味された考えであり、私達が手足となる事で巡り続けるのだ。
それを意図的に阻害するのが、私の示唆する【使えない天使】である。ニーズヘルグの【自分の意思通りに動かない天使】とは意味と重みも違う。だが周囲がいくら言葉を投げかけたとしても奴が新人へ残した爪痕は大きく、ポラリスが主導になってからも払拭しきれているとは言い難い。彼女の性格も重なり【天使】としての能力を満足に発揮できない、重石になってしまっている。
ニーズヘルグはもう【地上界】に居ない。【冥界】でどのような仕打ちを受けているかなど知る由もないが、【ルシ】も自分の情報を流されるような生半可な【堕天】はしないであろう。おぞましい地下室のあった教会も新しい教会へと建て替え、直属上司も屑から半端者とややマシになった。新体制になって約二ヶ月。靴を舐めるような嫌気がさす奴の元から解放された生活は、良くも悪くも充実している。今は奴の痕跡が強く残る新人も、時が経つにつれ優秀な【天使】へ成熟していくと――――そう考えていた。
「僕ら【天使】は、生まれながらにして歪で欠けている。【地上界】の全ての生き物達が、生まれながら持ち合わせている感情や感覚が無いんです。その欠けた感情を皆さんと関わり、経験として穴埋めしていく。【天使】として完璧であるとは、彼らに近付くことでもあるんじゃないかなって思うんです。……アダムはどう思いますか?」
教会地下の台所にある机で、その日の業務報告を纏めながら対面へ座るポラリスが話しかけてくる。またいつものかと思い、溜め息が出た。こいつとの問答はこちらと対照的でありながらも、本人はこちらの考え方を否定しない所に腹が立つ。
ペンを置き、手元の紅茶を一口含んで毒づきそうになるのを抑える。上司と部下、その関係は徹底するのだ。同期であれど最低限の礼儀は弁えろ、アダム。
「人間の感情や感覚を共感することで、【お告げ】の作業は効率的にはなるでしょう。彼らの【思考】を通し、生活を知ることで【天使】として成熟していくと私も考えています。ですが私達は神々の手足である【天使】。存在そのものが全く異なる者同士が、劣っている側へ進化が近付くなどあり得ません。……理解の度を超え、そこまで至ってしまったら退化でしょう」
「うん、【天使】としてはそうかもしれないですね。ですが、僕はなんというか……自分自身を【道具】と考える固定概念に囚われてしまうのは、とても勿体ない気がするんです」
「勿体ないとは?」
ポラリスも書く手を止め、座った姿勢のまま軽く伸びをする。
「【下級天使】は常に値踏みされている。神々や上司の【天使】、【お告げ】を行う対象の人間達からも。【道具】として有能であるか、無能で使えないか。……ニーズヘルグが僕をしっ責する時よく口にしていた言葉です。あなたも言われていたかわかりませんが、当時の【私】は彼の便利な【道具】として振る舞い、【ポラリス】という個を押し殺して十年間過ごしてきました。ですが、皆さんと過ごしたこの二ヶ月間は大変ながらも充実していて、僕にとって色の濃い時間だったんです。まるで――――」
「――自分が人間や他種族になったように、ですか? それはただの錯覚です。私達は彼らに成り得ないし、彼らが【天使】の境遇を理解する事など絶対にあり得ません。司祭もアポロも新人も、皆さんもっと【天使】としての誇りや役目の重大さを自覚してください」
手厳しいですね。そう言って紅茶の入ったカップを手に取るポラリスは苦笑いする。違う。私が手厳しいのではない。お前の緩み切った考え方が部下二人へ悪影響を与えている。錯覚や妄想に浸るのは自分だけにしてくれないか。私があれらと同一視されるようなら、【天使】という便利な【道具】であった方がマシだ。
一息つき、奴は少し困った表情でこちらを見る。灰色の少しくすんだ瞳。以前はもっと色素が薄かった気がするが、それも【昇級】や【信仰の力】の影響か?
「アダム、君は強い。僕なんかよりもずっと勤勉で努力家、後輩の面倒を見てきたのもいつも君だった。でも僕は同じ【天使】として、君の方が人間に近い感情や感覚を持っているんじゃないかって思う事があるんだ」
「どうでしょうか。私は司祭やアポロの方が、人間やスピカさん達と近しい感情を持っているように見受けられますが。いえ、質の悪い流行病のように伝染し感化され、本来不要な感情に振り回されていると言い切った方がいいですかね」
「その通りだ。僕は彼女や皆に感化されて……錯覚しているのかもしれない。感情が無いのに、感情を持っていると脳が判断し、疑似的に振る舞ってるだけなのかも。……味覚も嗅覚も、こうしてカップを通して手のひらに感じる紅茶の熱も。蓄積された経験や人間の【思考】を反映し、ある筈のない感覚を認知している。自分が【天使】という名の【道具】と考える度、不安になるんだ。僕らは本当は何もない、空っぽな器みたいな物なんじゃないかなって……」
そう話すポラリスはカップを両手で包み、手のひらで温もりを感じるような仕草をして目を細めた。
蓄積された感情を元に生き物らしく振る舞い、不安を覚える、か。……考えたことも無かった。例えるなら【空の器へ感情や経験という液体を流し込んでいる】ようなものか。だが【道具】である以上、あり得なくはない。【天界】で生まれ育った頃の記憶も朧げで、【受肉】して【地上界】で過ごした時間の方が長くも感じる。これも長期間【下級天使】であったが故の欠落か、単純に風化して思い出せなくなってしまっているか。
だが、奴がそれを不安に思う意味を理解できなかった。最初から五感も持ち合わせていたし、死に近い存在に対して強い恐怖心は未だあれど、【天使】であり【道具】である事実など遥か前に受け入れている。
「正しいと思いますよ。どんな物質でも血肉へ変換し、人間と近しい感情や五感を持ち、神々に創られた信仰を集める【道具】。老い衰え、病による死を恐れることも無い特異な存在。それが【天使】です」
「……でも、それを受け入れられない【天使】もいる。新人が心に抱えている原因も、自分自身の立場や存在を理解しながら、過去に引き摺られ葛藤しているからだ。これを完全に断ち切るのは……僕らにはできない。彼女自身の中で区切りをつける必要がある」
ポラリスは細めた目を開けてカップを机へ置き、私の書きかけた新人に関する評価資料を指差す。部下の評価報告は常に互いに公平性を持って作業しているが、新人の不安定さが常に気掛かりであった。参拝者へ感情移入し過ぎてしまったり、結果を出そうと焦るあまり【お告げ】を失敗してしまうことや、時折【思考】を読み取る能力が使えなくなるなど……以前は一度指摘や注意をすれば翌日には訂正し対応していたことも、最近は特に繰り返し失敗してしまうことが多い。
周囲の環境が変わり、私やポラリス、アポロも【中級天使】へと短期間で立て続けに【昇級】したことへ焦りを感じている。それで彼女の重石が更に大きくなり……負の連鎖を起こしている。確かに私達で彼女の精神を正常に戻すのには限界がある。【天界】から毎週末送られてきている、階級別に記載された記録の平均実績値以下へ新人一人が【下級天使】内で下の方へ落ちる点もだ。この事実を知れば、益々彼女の中に潜む重石は悪化してしまう。
胃がチクチクと痛む。経験の浅さ、過去の重石、周囲の【昇級】、未熟さ故の焦り――――時間で解決するかと思われた問題さえ、取り組み始めると上手くはいかない。司祭や副司祭という立場も楽ではないな。
「……何が足りないのだろうな。私やお前、アポロでも、彼女をニーズヘルグが残した重石から完全には救えない。時間は解決してくれず、環境を整えようとも彼女自身が決着を付けられない。……感情というのは、私達にとって煩わしい存在だ。これのせいで皆引き摺られ、上手くいかずにいる。仕事は仕事として割り切れるよう、脳ごと切り替わりでもすれば楽になるのかもな」
「君のそういう冗談を含んだ考え方が人間らしいね」
「皮肉か?」
「ふふふ、それだけ【天使】として優れているってことだよ。気分を悪くしたらごめん。でも、感情を持つのは悪い事ばかりじゃない。僕らもうまく自分の感情に付き合っていかないと」
ポラリスは再び手元の作業へ戻る。現状出せる案は無い。だが手詰まりでありながらも、彼女へどうにか区切りをつけてやりたいのはこいつもアポロも同じだ。……胃が痛む。こいつの調子のせいか、新人に何もしてやれない自分の無力さか。
「あまり調子が良さそうに見えないね。置き薬があるか見てくる」
「いや、いい。手持ちが――――ありますので、お気遣いなく」
「後輩のことを真剣に考えて胃を痛める君も十分優しいよ。あと二人の時くらい、敬語じゃなくてもいいんじゃない?」
「はぁ……お前のような抜けた上司や後輩と、今後付き合っていけるか不安だ」
「でもニーズヘルグよりはずっといい。君が上司になったとしてもね」
「当たり前だ。私は優秀な【天使】だからな」
***
新人が【銃】を持ち、屋上から【白の一団】を撃つ姿が見えた。【天使】同士には使えない筈の【思考】の声と共に。だが――――今はそれどころではない。目の前の巨大な犬に背を向ける方が危険だ。
「後ろはお嬢と姐さんが行ってるっすっ!! 俺らは前を叩くっすよっ!!」
「狙撃手は?」
「狙いは【白の一団】ですっ!! ……来ますよっ!!」
「――――――!!」
内蔵にまで響く咆哮をあげ、地響きを鳴らし、巨体を揺らし迫る巨大な一頭の犬。背後からの銃声は止めどなく聞こえ続けているが……集中しろ。奴の視線は私達へ向けられている。左右の路地へ逃げ込む? いや、犬が先回りしている。最初あえて注意を引いていたのは、この布陣を敷く為か。
アラネアが街灯へ飛び乗り、街道を跨いで建物の間へ太い糸で素早く蜘蛛の巣を作り上げていく。犬は出来かけた蜘蛛の巣へ頭から突っ込むと、ブチブチと嫌な音をたて糸を引きちぎった。顔面についた蜘蛛の巣を振り払うように首を左右に振り回し、糸を切り損ねたアラネアは叫び声を上げながら犬の背へ消えていく。足止めは出来たが直ぐ動き――――
「――でっかい犬っころ……【冥界】の三頭犬を思い出すっすねっ!!」
「無駄口不要。眉間と鼻の頭を狙いなさい」
バリバリと音と淡い光を出し、ローグメルクは自分の腕と同じ太さの長い【黒の杭】を二本生成し、ティルレットは地面を蹴って飛ぶように犬との距離を詰めた。彼女は近くにあった鉄の箱を踏み台に跳躍――街道の右端から左端へ跳びながら――頭を振り回す犬の左眼球へ、呪詛蠢く黒いレイピアを突き刺した。
眼球へ呪詛を流し込まれた巨大な犬は激痛に咆哮をあげて悶え、左右へ頭を激しく振った後、同胞達の亡骸を蹴り飛ばしながらこちらへ再び走り迫ってくる。あれだけ大きいとこの剣では簡単に折られてしまうが、彼女と同様に軟らかい目を狙えば……?
「おいっしょおおぉっ!!」
隣に立つローグメルクは生成し終えた二本の杭のうち一本を豪快に投げ、真っ直ぐと飛んだ杭は風を裂く唸りをあげて犬の眉間に刺さる――――が、止まらない。先程の犬達もそうだったが骨が厚く、完全に脳へは到達しないのだろう。二投目――――間に合わない、速過ぎる。
剣を右手に持ち替え、犬の右目を潰すべく走る。奴の左目は既に青い炎をあげ、顔の毛皮に燃え移り始めていたが、呪詛だけで巨体を焼き切るには無理だ。あと数歩、少しでも私が足止めできれば隙が――――
「――――――!!」
「な――」
ぎょろりと動いた目と目が合い、奴に顔を背けられ突きを躱された。犬は前脚二本を軸にその場で方向転換し、私を食い殺そうと大口を開け――――頭上に太く鋭い歯が、何十本も見え――――足元はざらついた真っ赤な舌――――これは――
――濃い血の臭いと頭痛で目を覚ます。暗い。何も見えない。ぐちゃぐちゃとする足元。立ち上がろうとするも、何かがおかしい。右足は床を踏ん張ろうとするも滑り、左足には床へ設置している感覚がない。くそ、左足だけ噛み切られたか。そっと触り、どこまで持っていかれたか確認する。腿から下……左手の指先に固い感触が当たる。骨か? 相当酷い状態なのは確かだが、幸いにも脳が正常な判断を受け付けなくなっているのか、痛覚は麻痺しているらしい。
「う……ぇ」
血の臭いで気分が悪い。吐きそうだ。前屈みになると、伸ばした右手へ何かが当たる。硬くて柔らかい――人間の肌と肉の塊――
「ああああぁうぇっほっ!? ああぁぁ……げっほげぼ……っ!?」
恐怖で衝動的に叫ぶ。気管へ気化した状態の血が入り、むせる。ようやく惚けた頭が理解した。私は今、奴の胃の中に居る。左足を噛み切られ、手元に剣も無い状態で。小刻みに胃の底がブルブルと震え、体内に奴の雄叫びが反響する。目は……やはり何も見えない。いや、空気中の濃い血煙で目が機能していないのかもしれない。
時折来る衝撃は……奴が戦闘で走り回っているから――――恐怖心で脳が今感じている五感を拒絶し、気が遠のきそうになる。駄目だ。気を失えばそこの肉塊と同じことになる。胃の中から食い破る? 可能だろう。これほど柔らかい胃の壁なら、中からズタズタに切り裂ける。
……集中できない。【信仰の力】を、背に集め――――何故だ、何故だ何故だ何故だ。
いつも通りにやればできる筈だ。想像ができない。剣の形も。どのようにして【信仰の力】を集めていたのかも、思い出せない。
――――血を流し過ぎた。意識が遠のく。追い打ちをかけるように左足の痛覚も徐々に戻ってきた。ああ痛い、痛いぞクソ。歯を食いしばって両腕を胃の底へバシャバシャと叩きつけ、背中へなんとか意識を向けようとする。
見えない死がやってくる。急げ急げと私自身が急かす。力の流れを制御できない。簡単にやってのけていたことが、いざという時に出来なくなる。何度も、何度も何度も練習した。自在に扱えるよう、例え直接手が触れていなくとも感覚だけで距離を測り、正確にその場へ突き立てることもできるようになっただろう?
何故、肝心な時にできない?
「くっそ……くっそぉ……出ろ……出ろよぉ、くそぉ……っ!!」
前方の肉塊がバシャバシャと崩れ、動く気配がする。顔を上げるも何も見えない、が――誰かが這って近付いて来る。飲み込まれた奴らの生き残りか? 【思考】は読めない。……やがて何者かの小さな手が、私の右手に触れた。
「い゛…………っ!!」
手を引くも動いた拍子で左足に激痛が走り、胃の底へ頭を打ち付ける。グニャグニャとした軟らかく湿った質感、血の水溜まり――――狂いそうだ。手の主は小さな悲鳴を上げバチャバチャと後退りし、気配を殺す。いや、もう私には気配も感じ取れないのかもしれない。激痛で意識が朦朧としている。嗅覚は駄目だ。もう僅かに残った聴覚と触覚だけが頼りである。
【信仰の力】を集中は――もうできない。地面でもがく死にかけの蟻のようで、とても惨めだ。
暗く、汚い血反吐と肉の部屋で……私の精神は死に逝こうとしている。次に目が覚めた時は、すべてが夢であるか――あるいは【冥界】か――――
――水音をたてて、何者かが再び近寄る。ピタピタと血濡れた手で頭を触られるが、もう抵抗する気力も起きない。やがて手は顔の横に垂れた三つ編みに触れ、感触を確かめるよう握り――――手の主が再び声を出す。
「……みつあみ……せん……ぱい?」
聞き覚えのある声。先程【銃】を構え、慈悲の言葉と共に兵士の頭を撃ち抜いた声。まさか、食われた兵士の胃の中にまで来るのか。……声の主の方へ顔を上げると、二つの黄色い目が見えた。目しか見えなかったが……特徴的な黄色く大きな瞳……ああ、間違いない。新人の【天使】だ。猫のように暗闇で光る目と目が合う。彼女は三つ編みから手を離し、私の胃の底へ突いた両手へ触れた。
小さく震え、それでも自分はここに居ると示すかのように、力強く手の甲を握る。泣いているのか……すすり泣きを堪える押し殺した声と、二つの光る目が瞼に隠れやや細くなる。
「ごめ……ごめんなさい……わ、わたし……また……しっぱいして……で、できると、お……おもったんです……みなさんのように……わたしも……わたしも……ほ、ほんとうに……ちからになれるって……うかれて……それで……ごめんなさい……ごめんなさい……」
「……いい……もう、いい……私も……ぐ……」
私もお前を道の誤った【天使】として、切り捨てようとしていた。痛みで言葉が続かない。彼女に握られた両手の感覚を中心として、右足先から私の世界が小さくなっていく。――今繋ぎ止めているこの感覚が無くなれば、私はそのまま逝くだろう。世界を閉じ、二度と覚めない眠りか、【冥界】へと。
「は……辛い……な……できる筈のこ、ことが……でき、ない……のも」
「……せんぱい……ごめんなさい……わたしは……」
「懐かしく……感じる……その……呼び方……私の方こそ……すまなかっ――――……っ!?」
吐血。再び頭を付けそうになるも、細い両腕と身体で抱き留められる。ゆっくりと狭まっていた世界が、手の甲から頭部の周囲の感覚へ託される。……情けない。ポラリス達が見たら、酷く滑稽だと下品に笑うだろう。いや……あいつはまた困ったように微笑むだけか。
「私は……あいつに、なれない……負けて……ばかり……部下であるお、お前も……あの男の言葉の……お、重石から――――う……解放して、やれなかった……すまない、な……口先ばかりの……使えないせ、せんぱいで……」
「い、いいえ……いいえ……っ!!」
「あ……ああ、悔しいな……今になって……ようやく……き、気付くなんて……くそ……」
感情など不要だ。理解すればするほど、辛くなる。空の器に溜まった強い感情。哀しみや苦しみ、痛みや妬みが性格を形作り、無垢な【天使】を狂わせる。【思考】を読まずとも、感じてしまうだけで溜まっていく――――
――――私は、それ以上の物で満たされないよう蓋をした。今の自分自身が幸福だと、醒めない呪いをかけた。ポラリスを空っぽだと感じるのは、私の方が満たされ過ぎていたから。奴が私を人間らしいと言ったのも、私が人間の感情を理解し過ぎたから。そうなるように、我々は神々によって創られているのだ……【天使】という名の【道具】は。
染まる力、染まらない透明な力、自分自身でその【色を覆い隠す力】――――無かったんじゃない。
私の色は私自身が見えないよう、隠していたんだ。
背が熱くなる。背骨と肋骨が皮膚を突き破り、背から飛び出る想像をしろ。太陽のように、剣で輪を描こう。暗がりを照らすように。この小さな【天使】の瞳の色のように。金色の太陽。神々しく、全ての悪を照らし、焼き尽くすような太陽だ。足は失った足と同じ物を想像し、【信仰の力】で義足を作れ。失った血は――――【受肉】の特性を生かせば、簡単に補える。
「……せんぱい?」
頭から血を被った新人の顔が見える。涙が伝った部分だけが、綺麗に血を洗い流していた。周囲のバラバラになり、肉塊となった死体も金色の光で照らされる。てらてらとした胃の壁がおぞましく、気持ちが悪い。怖い……死が近いこの肉の部屋が怖い。
私を抱き止めるその小さな体を、私も強く両腕で抱きしめる。例え【天使】という【道具】であったとしても、私もお前も使えない【道具】じゃない。
敵わない星へ劣等感を抱いたとしても、神々や【天使】に仇名す悪を激しく憎んだとしても――――
「――――私自身の心は、ずっとここにあったんだ」
***
「おおおおおぉ吐き出せクソ犬ぅっ!!」
「落ち着いてください、ローグメルクっ!! 吐き出させるにしても一度足を止めないとっ!!」
目の前でアダムが左足を残して巨大な魔物に飲み込まれ、取り乱すローグメルクへ冷静に対処するよう促す。ボクとペントラさんが目を離してる僅かな間に犠牲者が出てしまった。彼の視点では左足が牙に引っかかるもそのまま噛み千切られたらしいが、別角度で目撃したティルレットには残りの身体は丸呑みされたと報告したことから、消化液や胃の内容物で窒息していなければ、生存している可能性は十分ある。
今は前線でアラネアとティルレット、ペントラが糸・呪詛とレイピア・鉄線で暴れる魔物をどうにか止めようとしているが、大きさが大きさだけに手が付けられない。お兄さんもこちらへ近付いてきているものの、今だ現れ続ける小さな個体相手で精一杯。ローグメルクも巨大な杭で足を縫い付ける作戦を実行したが、刺さっても自力で噛んで引き抜き、足をそのまま千切って新たに再生するなど……簡単に抜けられてしまった。
魔力による爆発も黒い毛皮に耐性があるのか意味をなさず、奴相手にボクの魔術はただ弾けるだけの泡に等しい。胴体や頭部は特に肉厚で固く、刃を通さない。呪詛による燃焼も時間が経つと無力化され、ティルレットが立て続けに流し込み続けないと再生能力の方が上回る。
人の精神が生み出した魔物達。生きたいという強い願いを反映し、人の姿や理性と引き換えに再生能力と頑丈な身体を手に入れた。そうまでして生にしがみつく【防衛機能】達は、長い時間を掛けて自らが生きた人間であると錯覚を起こしてしまっているのか?
「……お兄さんも頑張ってくれていますが、まだ時間が掛かります。ローグメルク、巨大な網か物理的に行動を阻害できるも――――」
「――――あぶねぇっすっ!!」
後方を見ている間に目の前まで迫ってきていた魔物の口を、ローグメルクに身を引き寄せられ難を逃れる。街道の端まで跳躍し、建物を背後に魔物と対面する。三人は――――ティルレットが魔物の右目へレイピアを突きたて、飛び退きながら刺さったレイピアを左足で蹴って更に深く差し込んだ。右目を中心に青い炎が噴き出て、魔物はレイピアを引く抜こうと顔を左右に振り回すが抜くことができない。
「アラネアっ!!」
「わかってるっ!!」
追いついたペントラとアラネアが、鉄線と蜘蛛の糸を暴れる魔物の顔へ集中的に巻き付け、絡ませていき――上下に口を開けない口輪の状態となった。前足の爪で懸命に引き裂こうとしているが、その間にローグメルクも左目に杭を叩きこみ、引き抜かれる前に爆発させる。
お兄さんはもうそこまで来てる。囲まれながら――――
――――タァン
「あ……え?」
右足に力が入らず、その場へ倒れ込む。血だまりが足元から広がるのが見え……撃たれた? どこ――――
――――タァン
「いっつ……ああぁ……!?」
二発目の狙撃音が聞こえ、左足が痛い――痛い、痛い。――――対面の建物屋上――白装束のあの子が、銃口をこちらへ向け――――
――――タァン
――――三発目は脳天へ向けられていた――――が、間一髪のところでお兄さんが割り込んで盾で防ぐ。でもお兄さんも消耗していて、大きくひびが入ったは【翼の盾】では次弾は持たない。皆は――――再び路地から飛び出してきた魔物や、巨大な魔物に妨げられこちらへ来れない。逃げようにも右足は膝から下が半ば千切れかけ、皮膚でつながっているような状態。左足も太腿を撃ち抜かれていた。抱えて逃げるのは……無理だ。
運が良ければティルレットが滑り込めるが――――集中して狙われては、さっきの白装束の兵士の二の舞。お兄さんのコートの裾を掴み、逃げてと叫ぼうにも痛みで声が出ない。……情けない嗚咽だけが、口から漏れる。彼は振り返らず、彼女から隠すように立ち塞がる。
――――タァン
【翼の盾】が砕け、衝撃の反動で吹き飛ばされまいと、その場で耐えるお兄さんの後ろ姿。彼の頭の右横から、金色に光る瞳の彼女の顔と銃口が覗いていた。
「――――――!?」
雄叫びを上げる魔物の腹部から血に塗れた何かが飛び出し、お兄さんの前へ血と肉片を撒き散らしながら滑り込む。
――――タァン
『ばぁん』っと、初めて耳にする分厚い金属音を出し、大口径の銃弾は黄金に輝く浮遊する剣数本に弾かれた。状況が理解できずにいるお兄さんはボクを守るようにもう一歩下がると、何かは抱えていた小さな人をその場へ下ろし、顔についた血液を右手で拭い、ちらりとこちらへ視線を向ける。
「あ……あ、アダム? どうして君が……その子は――――」
「話は後だ。新人を頼む」
見覚えのある服装、小さなその子は――――新人の【天使】? え?
***
足りない血は犬の肉と血で代用した。胃に入ればどんなものでも栄養として取り込める【受肉】の肉体構造が、精神世界で役立つとは思いもしなかった。血の味や胃がむかむかするのは不愉快だが、最早口にする物に拘ってられない。顔の血を拭って視界を確保し、剣で作った壁の隙間から奴を覗く。【銃】の先端はこちらに構えた姿勢のまま崩さず、少しでも隙を見せたら後ろの奴らを撃ち抜く気でいた。
これは挟撃の流れか。犬が路地から飛び出し、左右から二つの唸り声が近付く。壁にした両端の剣を意識し、目線は奴から逸らさず、左右の音源へ飛ばす――――当たり、発砲――――少し壁をずらし、後ろへ着弾するのを防ぐ。次弾装填の間に剣を引き抜き、元の位置へ戻して再び完全に覆い隠す。少数ならこれでもいけるが……こちらの剣は全部で十本、壁用の剣は最低八本はないと厳しいか。
考えを読んだかのように、続けて複数匹が左右の路地から飛び出してくる。なら、二本で全部捌く――――
――――タンッ、タンッ、タンッ、タンッ、タンッ、タンッ
背後から軽い音がすると同時に犬達の動きが止まり、その場で倒れこむ音が聞こえた。ポラリスか?
「左右は任せて。アダムは正面を抑えてください」
「殺したのか?」
「………………」
「……その……すまない」
「何か変な物でも食べました?」
「犬の肉と血を少々。胃がむかむかするな」
「いや、そうじゃなくて」
そんな会話を尻目に奴との睨み合いが続く。完全に正面は防げてるとはいえ、何かしらの動きがあって隙間が広がれば撃たれる。油断できないが……こちらの狙いはスピカの治療完了までの時間稼ぎや、四人を巨大な犬へ集中させる為でもない。私達の中で最も威力の高い攻撃を出せる、理不尽には理不尽で立ち向かえる存在――――あの【魔女】だ。
『パチン』と指を鳴らす音。目の前の建物屋上へ白い光が轟音とほぼ同時に落ちた。縁で構えていた狙撃手は全身が真っ黒に煤け、火のついた翼を背負い屋上から地上へと落下する。着地音は肉々しい音ではなく、どさっと砂袋を落としたような乾いた音であり、接地と同時に灰が舞い上がった。相変わらず恐ろしい魔術を使うな。
「イーヒッヒッヒッ!! お褒めの言葉をドーモッ!!」
口元の血を舐めながら、ベファーナが箒で剣の壁の上へ飛んで来た。姿こそちらりとしか見えなかったが、恐らく奥の方で狙撃手によって念入りに肉塊にでもされていたのだろう。
「全知全能の【魔女】ともあろう人が、不意打ちで落とされるのはどうなんですか?」
「魔力も身体能力も普段の半分だからネッ!! ここはウチの庭じゃないシ、仕方ないのだァヨッ!!」
両手の指先をバチバチと音を鳴らし、左右と建物の内部から忍び寄っていた犬達へ魔術の雷球を飛ばす。私達の頭をかすめるように飛んだ複数の雷球は硝子の扉を破壊して屋内へ入り、犬達へ鞭のように雷を伸ばして撫でていく。
剣の壁を消し、少し遠くで四人がまだ暴れ狂う巨大な犬をくい止める光景を見て安堵する。ポラリスは……スピカの止血と、新人から話を聞いているか。スピカの千切れかけていた右足も出血は止まり、紅い花弁で覆われ治療の段階に入っているらしかった。
「羨ましいかイ?」
「いいえ、司祭と違って子守りは苦手です」
「フーン……サボった分の仕事はキッチリするヨッ!! 温厚なウチも流石に激おこプンプンッ!! 偶然にも動物の調教は大得意ダッ!! ナァニ、チョ~ト撫でてやるだけで大人しくなルッ!!」
抑えつけようと躍起になっている四人へ手を振りながら彼女は暴れる犬の頭上へ陣取ると、箒から飛び跳ねそのままストンと頭上へ乗った。そして左腕を犬の頭部へ肩まで埋めると――――犬は暴れるのを止め、その場へぐったりと横になる。犬の瞳は見開いたままベファーナを捉え続けているも、身体が自分の意思で動かないといった印象だ。
四人もその様子に追撃の手を止め、こちらへと駆けて来る。周囲の個体は……ベファーナの先程放った雷球に仕留められ続けていた。増援はあれど、即座に無力化されていっている。残党は彼女に任せてしまっても、しばらくは大丈夫か。
自慢の俊足でローグメルクが痛みをこらえるスピカへ一番に抱きつき、泣きながら何事かを叫んでいる。両足の酷い怪我も含めて主の変化に戸惑い、心配だったのだろう。スピカももらい泣きしたのか、嗚咽混じりに話しながら彼の腕を掴む。ティルレットも無表情でハンカチを取り出し、主の顔を丁寧に拭う。
ペントラは全身血塗れの新人に怪我は無いかと手早く触診し、無いとわかると安堵の表情を浮かべ抱きしめる。アラネアはその様子をみて自分の出る幕はないと判断したのか、周囲にまだ伏兵がいないか見回していた。ポラリスは……その場で情けなくへたり込んでいる。
「……調子が良さそうに見えないな。悪いが置き薬は無いぞ」
「安心して腰が抜けました。……君は君で調子良さそうですね。……左足は?」
ポラリスは義足のままの私の左足を指す。そうだ……忘れていた。……精神世界での怪我や欠損は問題ないのだろうか?
「お探しの物はこれかいアダム副司祭?」
街道を見回していたアラネアが、申し訳程度に切り口を糸で覆った私の左足を両手で丁寧に持ってきてくれた。どうやら伏兵探しではなく、私の噛み切られた足を探していたらしい。両足の施術は治療が終わった後にスピカへ頼むか……最悪、【魔女】に頼むしかあるまい。
「ありがとうございます」
「ハンカチも使うといいっ!! 全身血塗れで綺麗な顔や青い髪にコートも全部台無しだっ!!」
足を受け取り、真っ白なハンカチも続けて手渡される。自分の姿がどうなっているかなどわかりもしないが、アレウスが仕事を終えて井戸を探している時のような姿か。そう考えると精神衛生的にもいい気分ではない。【受肉】の肉体でなければ、得体の知れない感染症になりそうだ。
顔や頭をハンカチで拭っていると視線を感じ、足元を見る。いつもの少し困ったような表情で、ポラリスが私を見ていた。
……こいつは私を見て、いつも何を考えているのだろう。優れている、君が司祭になるべきだと常々言ってくるが、それが本心なら憎しみや妬みは抱かないのか? こいつなら【天使】ではなく人間のように、自由に生きたいと願っていてもおかしくはない。
「お前は……無いのか。憎んだり妬んだり、私の言葉に苛立つことは?」
「? 僕がアダムを憎む?」
目を丸くしきょとんとした表情を浮かべ、少し考えるように口元へ右手を当てる。……待て、思い出すほどのことか? それともこいつは本物の間抜けか?
「……大体僕の方が悪いし、君は優秀で正しい。いつも余計なことばかり持ち込んで、迷惑かけているのも僕だ。憎まれ口や皮肉を言われても仕方ないと思ってる。なんだろう……僕自身が空っぽだから、そう思えないだけかもしれない。でも――――僕がアダムを憎んだり、逆に憎まれたくはないな。助けてくれてありがとう、本当に助かった」
邪心なく、透明でありながら未だに染まらない。常に転びそうで危くもあり、目が離せない困った同僚。自分の地位や力を必要以上に誇示せず、【地上界】の一員として皆と接する。天地の差……いや、地と天の差か。私とポラリスの絶対的な違いを無くすには、どちらかが変わっていくしかあるまい。なら【天使】の同胞として、私がやることは一つだ。
へたり込むポラリスへ手を差し伸べる。
「立て、ポラリス。【箱舟】を止めに行くぞ。まだお前達には、学ばなければいけないことが沢山ある。堕落した無能共に【使えない天使】と二度と言わせない、完璧な【天使】を皆で目指すんだ。……お前が染まり切るか私の毒が抜けきるか、根競べといこうじゃないか」
「おお、好敵手宣言だねっ!! やっぱり青春はそうでなくっちゃっ!!」
アラネアの言葉が少々癇に障ったが、【好敵手】……互いに競い合う相手ではある。ポラリスとの関係を言葉として表すのなら、最も適切な表現。奴は私の言葉に困ったように笑い、差し伸べた手を握り返す。
「うん、これからも頼りにしてる。よろしくね、アダム」
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
冤罪で辺境に幽閉された第4王子
satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。
「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。
辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。
【完結】捨て去られた王妃は王宮で働く
ここ
ファンタジー
たしかに私は王妃になった。
5歳の頃に婚約が決まり、逃げようがなかった。完全なる政略結婚。
夫である国王陛下は、ハーレムで浮かれている。政務は王妃が行っていいらしい。私は仕事は得意だ。家臣たちが追いつけないほど、理解が早く、正確らしい。家臣たちは、王妃がいないと困るようになった。何とかしなければ…
友人(勇者)に恋人も幼馴染も取られたけど悔しくない。 だって俺は転生者だから。
石のやっさん
ファンタジー
パーティでお荷物扱いされていた魔法戦士のセレスは、とうとう勇者でありパーティーリーダーのリヒトにクビを宣告されてしまう。幼馴染も恋人も全部リヒトの物で、居場所がどこにもない状態だった。
だが、此の状態は彼にとっては『本当の幸せ』を掴む事に必要だった
何故なら、彼は『転生者』だから…
今度は違う切り口からのアプローチ。
追放の話しの一話は、前作とかなり似ていますが2話からは、かなり変わります。
こうご期待。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
帰国した王子の受難
ユウキ
恋愛
庶子である第二王子は、立場や情勢やら諸々を鑑みて早々に隣国へと無期限遊学に出た。そうして年月が経ち、そろそろ兄(第一王子)が立太子する頃かと、感慨深く想っていた頃に突然届いた帰還命令。
取り急ぎ舞い戻った祖国で見たのは、修羅場であった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる