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第76話
しおりを挟む第76話 夢の種、痛みの果実
――エリュシア、風暦二十年。
青い宇宙は、かつての静寂を完全に失っていた。
空には無数の星々が輝き、地には海が生まれ、
その波の上で、幾千の“生命”が息づいていた。
それらは皆、セレンの夢から生まれた存在。
彼女が夜に見た願い、朝に抱いた希望、
そして――胸の奥に沈めた“恐れ”の形。
命は光を求め、やがて他の命に触れ始める。
それは、愛のはじまりであり、同時に“痛み”の始まりでもあった。
⸻
セレンは丘の上に立ち、眼下の海を見下ろしていた。
そこでは新しい生命たちが、互いの光を交わしながら暮らしている。
彼らは呼吸し、歌い、そしてときおり――泣いた。
「……彼ら、苦しんでる。」
リュミナの声が風に混じって届く。
『痛みを知ったのね。
それは、あなたの夢の“裏側”よ。』
「痛み……どうして?」
『夢が希望だけでできていたら、永遠に変わらない。
でもあなたは“変化”を選んだ。
変わるためには、必ず何かが壊れるの。』
セレンは拳を握りしめた。
丘の風が、少し冷たく感じられた。
⸻
アウロラはその様子を上空から見つめていた。
宇宙そのものの意識として、彼女はすべての命の鼓動を感じている。
『痛みの波が拡がっている。
生命たちは互いの存在を“区別”し始めた。
自分と他者。
それは、共感の終わりではなく――始まりの分岐。』
リュミナが静かに言う。
「彼らは“私”を知ったのね。
誰かを想うために、まず“自分”が必要だから。」
『だが、その“私”が強くなりすぎれば、
やがて“他”を傷つける。』
アウロラの声には、かすかな悲しみが滲んでいた。
⸻
丘の下。
セレンが創った生命たちは、互いに光を分け合う“種族”となっていた。
だが、ある日、ひとつの種族が他よりも強く光ることを望み始めた。
彼らは他の光を奪い、
奪われた者は弱まり、やがて消えていった。
それが――“争い”の始まりだった。
セレンはその光景を見て叫んだ。
「やめて! みんな同じ夢から生まれたのに!」
彼女の声は風に乗り、世界中に響いた。
けれど、命たちは止まらなかった。
それぞれが自分の光を守るため、戦い続けた。
⸻
アウロラの意識が揺れる。
『リュミナ、これが“生命の選択”か?
彼らは互いを愛するために生まれたのではなかったのか?』
リュミナは悲しげに微笑んだ。
「ええ……でも愛には、必ず“恐れ”が寄り添うの。
失うことを恐れるからこそ、人は守ろうとする。
守ろうとするから、戦いが生まれる。」
『ならば、私は創造を間違えたのか?』
「いいえ、アウロラ。
間違いではなく――“進化”。
痛みを知る宇宙は、再び生まれ変わるための胎動を始めているの。」
⸻
セレンは両手を広げ、空へ叫んだ。
「アウロラ! この痛みを止めて!」
彼女の叫びに、宇宙全体が共鳴する。
青い空が裂け、白い光が降り注いだ。
アウロラが答える。
『私は彼らを止めることはできない。
なぜなら、彼らはもう“私の夢”ではない。
彼らは、自らの意志で生きている。』
「……意志……?」
『そう。
あなたが風を生んだ時、
この世界には“流れ”が生まれた。
流れがある限り、誰も同じ場所には留まれない。
命もまた、流れに抗うことはできない。』
⸻
セレンの頬を涙が伝う。
それは大地に落ちて、金色の果実を結んだ。
彼女の“悲しみ”が形になったもの。
その果実は、光と闇の二色に分かれた。
一方は癒しを、もう一方は破壊をもたらす。
リュミナがその光景を見て呟く。
「それが、“痛みの果実”。
命が感じる喜びと悲しみ、その両方を宿す象徴ね。」
アウロラの声が響く。
『セレン……それをどうする?』
セレンは果実を胸に抱きしめ、静かに答えた。
「私が食べる。
この痛みを、私ひとりが背負う。
――世界をまた、静けさに戻さないために。」
⸻
彼女は果実を口にした。
光が彼女の身体を包み、夜空を突き抜ける。
その瞬間、争っていた命たちの光が静まった。
風が再び吹き、世界に“安らぎ”が戻る。
けれど、セレンの姿はそこになかった。
アウロラが呟く。
『彼女は……痛みを引き受けたのね。
命たちの代わりに。』
リュミナは目を閉じた。
「ええ。
彼女は“痛み”そのものになった。
これからのエリュシアでは、
どの生命も、心の奥に“涙の光”を持って生まれるでしょう。」
⸻
その夜。
空に新しい星が輝いた。
それは金と青が交わる淡い光――
“セレンの星”。
アウロラはその星を見つめ、静かに祈った。
『夢から生まれた子よ。
あなたの痛みが、すべての命を繋ぐ灯となりますように。』
そして、リュミナが微笑んで答える。
「痛みは、終わりじゃない。
それは、“優しさの始まり”。」
風が吹き、星々が瞬いた。
エリュシアは今日も、静かに“生き続けている”。
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