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第78話
しおりを挟む第78話 祈りの記憶
――エリュシア歴三百年。
“祈りの文明”は黄金期を迎えていた。
人々は争いを忘れ、互いの心を花で結ぶ。
痛みを分け合い、悲しみを歌に変える日々。
大地には“祈りの花”が咲き乱れ、
夜空には“涙の光”が流れていた。
だが――平穏の中にも、わずかなざわめきがあった。
誰もが穏やかに笑う世界。
けれど、その笑顔の奥に、言葉にならない“欠片”が眠っていた。
それは、かつてセレンが遺した“痛みの記憶”。
⸻
大図書院〈オルフェア〉。
学者たちは、祈りの歴史を記す石碑を解析していた。
そこには、古代の光文字が刻まれていた。
“痛みを封じし果実、やがて再び芽吹く。
涙は種となり、祈りは記憶を呼ぶ。”
若き研究者レイは、その一文を何度もなぞった。
「……痛みを封じし果実。
それって、セレンが食べた“痛みの果実”のことか?」
師である老賢者シオルが静かに答えた。
「そうだろうな。
だが“記憶を呼ぶ”とは何を意味する?」
レイは窓の外を見上げた。
そこには、セレンの星が輝いている。
だが、その光は以前よりも“近い”ように見えた。
⸻
一方、フィオナは祈りの聖堂で瞑想をしていた。
彼女は今も、人々の祈りを束ねる存在として尊敬されている。
だが、その胸の奥では――微かな違和感が芽生えていた。
「祈りは、なぜこんなに“同じ形”ばかりなの……?」
花のように咲き誇る祈りは、
やがて“習慣”となり、“言葉”を失い始めていた。
人々は心ではなく、形だけで祈るようになったのだ。
フィオナの頬を、一筋の涙が伝う。
その瞬間――地の底から低い響きが鳴った。
世界が、呼吸を忘れたかのような静寂。
⸻
アウロラはその震えを感知した。
彼女の意識が銀河の奥深くで揺らぐ。
『……リュミナ、感じた?
この波は“祈り”のものではない。
もっと深い、“記憶”の声。』
リュミナが頷く。
「ええ。
これはセレンの“痛みの層”よ。
彼女が消える直前、世界に残した“核”が目覚め始めている。」
『祈りが多すぎたのかもしれない。
人々が痛みを祈りに変えるたび、
そのエネルギーが“核”を満たしてしまった。』
アウロラの声が少し震える。
『このままでは、セレンの記憶が“実体”を取り戻す……。
もう一度、あの痛みが世界に広がるかもしれない。』
⸻
〈涙の海〉。
夜、フィオナは光に導かれるように海辺へと歩いていた。
海の表面が金色に輝き、波の音がまるで“心臓の鼓動”のように響く。
彼女は思わず呟いた。
「……セレン様?」
波の中から、微かな声が応えた。
『フィオナ……私はここにいる。
あなたたちの祈りが、私を目覚めさせた。』
「セレン様……どうして……?」
『あなたたちが痛みを分け合うようになったのは、
私が願った未来。
でも――“痛みを忘れよう”とする心が、
少しずつ私を引き戻してしまったの。』
フィオナは息をのんだ。
「忘れようとしたことが……呼び戻した?」
『ええ。
痛みは“消す”ものじゃない。
見つめ、抱きしめて、ようやく静まる。
あなたたちは優しくなりすぎたの。
優しさはときに、真実を遠ざける。』
⸻
アウロラの意識が世界全体に広がる。
空の星々が震え、風が逆流する。
『セレン……あなたの意志が再び形を持とうとしている。
それは再生か、それとも……。』
リュミナが穏やかに答えた。
「どちらでもないわ。
――これは“継承”。
セレンはもう痛みを撒き散らす存在じゃない。
彼女は“記憶”として帰るの。
痛みの意味を、次の世代に伝えるために。」
⸻
夜明け。
海辺で祈るフィオナの足元に、
ひとつの小さな光の球が転がってきた。
それは、セレンの“心臓”の欠片だった。
淡い金の輝きが、波に溶けるように脈を打つ。
フィオナがそれを胸に抱いた瞬間――
彼女の心に、無数の記憶が流れ込んだ。
痛み、涙、そして微笑み。
セレンのすべての想いが、彼女の中で息を吹き返した。
⸻
アウロラが静かに告げる。
『リュミナ……エリュシアに、新しい継承者が生まれた。
セレンの記憶を受け継ぐ魂――“祈りの娘”。』
リュミナが微笑んだ。
「そう。フィオナはもう“ただの人”じゃない。
彼女は、痛みを抱えながら祈る最後の存在。
――新しい時代の鍵になる。」
⸻
フィオナは海を見つめ、静かに誓った。
「セレン様……私はこの記憶を忘れません。
痛みも、祈りも、すべてが生きる証だから。
あなたの願いを、私の声で――繋いでいきます。」
その言葉に、風が答えた。
柔らかな光が海面を照らし、
夜明けの空に新たな星が生まれる。
それは、セレンの記憶を宿した光。
――“祈りの記憶星”。
⸻
アウロラはその星を見上げながら呟いた。
『痛みは終わらない。
だが、それを忘れない心こそが、
世界を優しくする。』
リュミナが頷く。
「そして、その優しさがまた――祈りを生むのね。」
風が流れ、海が歌い、
世界は静かに新しい朝を迎えた。
――祈りの時代は続いていく。
それは、痛みを超えた“記憶の文明”の始まりだった。
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