詐欺る

黒崎伸一郎

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黒崎伸一郎の正体①

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大学に入って初めてのテニスの試合があった。
大学では高校の時より練習する時間は増えてはいたが成績は伸びなかった。
それでも直美は頑張った。
だが三回戦で敗れベスト八はならなかった。
私は初めて直美のテニスの試合を見に来ていた。
試合に負けた直美は私のところに駆け寄り「負けちゃった。ご飯食べに行こう。駅前の喫茶店で待っててくれる?
監督と話してから行くから」
いつもなら私がいたら私とのことを優先するのに今日は先に行って待っててくれと言った。
私は、今日の反省会があるのだろう。
と思い小さく頷き喫茶店に行った。
直美は約束より十分遅れてきた。
約束より遅れてくることなど今までで初めてだった。
「しんちゃん、遅れてごめんなさい!」と待たせて悪かったと頭を下げた。
「十分だから待ったうちには入らないよ!」と私は言った。
直美は何か別の事を私に言いたかったのだろうが、私は負けたことを気にしているのかと思い、「いいから何かおいしいもの食べに行こう」と直美が喋りかけたのを止めるかのようにご飯に誘った。
今日はステーキにした。
直美が食べたいと言ったのだ。
直美は好き嫌いはない。
よく考えたら魚類はよく食べに行ったが肉類はハンバーグを食べたのと焼き鳥を食べたくらいだった。
明日、六月六日は直美の十九歳の誕生日だった。
私は直美にカルチェ、トリニティの三連リングをプレゼントした。
嬉しそうに「しんちゃん!」とだけ言って左手を差し出した。
私は箱から取り出したリングを直美の薬指にそっとはめた。
「時が止まればいいのに…」と直美は小さくつぶやいた。
それはどんな意味で言ったのかはわからなかったが、私は嬉しくてそう言ったのだと勝手に理解して直美の差し出していた手を握った。
料理が来た。
私たちは肉はミディディアムレアで頼み、いつもの赤ワインを頼んだ。
「十九歳の誕生日おめでとう」と言ってグラスを持つと直美は「本当にありがとう」と目にいっぱいの涙を溜めてグラスを傾けた。
直美のアルコールを飲む速度が何時もより早い。
赤ワインは二本目がすでに空っぽになっている。
「しんちゃん、私、歌、歌いたい」と言ってこの前のスナックに行って歌を歌いたいとせがんだ。
直美からスナックに行って歌いたいなんて珍しいなと思いながら「よし、行こうか!」と席を立ちステーキハウスを出た。
時間はまだ七時を回ったところだった。スナックに入るとまだ少し早いのか客は二人だった。
私たちは奥の席に左側に直美を座らせ私は右に腰掛けた。
「しんちゃんはいつも右だね!」私は「なんで右なのかは実は深い理由があるんだ!」と真剣な表情で呟いた。
「えっ、何、深い理由って?」私は少し間を置いて「自分はエンタの神様の左から右へが好きなんだ…」と答えた。
直美は私のくだらない答えにただ目を閉じて首を振っただけだった。
「コメント無しかよ!滑ったじゃないか!」と言ったら少し無理に笑顔で笑った。
「しんちゃんが真剣に話してるのかと思って私は真剣に聞いてたのになんか損したみたい」
直美はこうも言った。
「何が本当か分からないもん!」
私は(そうだよ、直美。私も分からないのに直美が分からないのは当然なんだ)と声には出さなかったがそう思っていた。
何か雰囲気があったのかわからないが「そうなんだ」と直美は何か納得したみたいに喋った。
ただ私はその何かとは何なのかは聞かなかった。
直美は歌を歌った。
何かをぶつけるような歌を歌った。
直美の歌を聞くのは二回目だった。
前の時もうまかったけど今夜はやけに歌詞に感情が入った感じで歌うのでこの前よりもっと上手く感じた。
一曲歌って、リクエストが来たのでもう一曲歌った。
点数は二曲とも九十八点台だった。「前の時から誰もあれ以上の点数でないのに凄いね直美ちゃんは、本当にプロになったらよかったのにね」とママが褒めた。直美は点数は気にしない感じで「歌って気持ちいいね…」と歌った後で喉が渇いたのかカウンターのレモン酎ハイを一気に飲み干した。
その日の直美は珍しく酔った。
珍しいと言うか私の前では初めてだろう。
酔った直美を見た記憶がない。
それほど直美は酒が強かった。
そして直美はとんでもないことを私に言ったのだ。
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