冥聖のアンティフォナ⓵

弧月蒼后

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記憶を失った悪魔

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それから一ヶ月が経ちトロワールの月、十二日のサーンズの曜日。
言葉通りキアは素性も分からぬルアグを自分の家に置いて甲斐甲斐しく面倒を見てくれた。
キアの育てた自家製ハーブを使った料理を沢山食べて、たまに街へ買い物に繰り出してみたり。
一緒にあらゆる紅茶を飲み比べたり、お菓子作りを教わって手製のお菓子を作ったりもした。
キアと過ごす何気ない毎日は本当に楽しくて、幸せに満ち溢れていて、目まぐるしく過ぎていった。

ルアグはキアにとても感謝していたが、一方で記憶は戻らず途方に暮れる日々を過ごしてもいた。
もちろん彼女の前ではその不安を出さないようにはしていたが、聡いキアのことである。きっとお見通しだろう。
でも彼女も無理に聞き出そうとはしなかった。その心遣いは正直とてもありがたい。
唯一の手がかりは首輪だけだったが、いつどこで着けられたものなのかも分からなければ、何をどうしても外れる気配はなかった。

キアの話によれば、倒れているルアグを見つけた時にはすでに着いていたらしい。
しかし一つだけこの首輪に関して分かったことがあった。
時折この首輪が急に熱くなり発作のように頭痛が起こる。そして頭痛の後には決まって喉が「渇く」のだ。
うまく表現出来ないが猛烈に喉が乾いてそんな時にキアの姿を目にすると、無性にその首筋に噛み付きたくなる。
もちろんそのことについては何も言っていない。これ以上余計な心配をかけたくなかった。

しかし、事件は起こる。それはその日のことだった。
いつものように自室で眠っていると、首元が熱くなり始め激しい頭痛に襲われ目を覚ました。
今日はいつにも増して頭が痛い。

「またか……痛ッ…くっ……」

思わず呻き声が漏れる。隣の部屋で眠るキアを起こさぬようにしばらく痛みに耐えていたが、いよいよ頭痛は酷くなり

「ぐああああああっ」

盛大に悲鳴をあげてしまった。
すると数秒後。

「ルアグ!?」

悲鳴を聞きつけたキアが転がるようにして部屋へと駆け込んできた。

「う、ぐ、ああああ」

心配させまいとしたが口をついて出てくるのは呻き声だけ。

「ルアグ! ルアグ!! 大丈夫!?」

近付いてきたキアを力を振り絞って遠ざけようとするものの、あまりの痛みに力が入らない。

(まずい、今彼女を見たら……)

意思とは反して開く瞳。とうとう視界にキアの顔が映る。
その瞬間、ルアグの中で何かが弾けた。
グイッ

「……え?」

勢い任せに彼女を抱き寄せると、その柔らかな首筋に思い切り……噛み付いた。

「!?」

唐突なことに声すら出なかったのか、言葉も無く、ただその肩が上下した。もう訳が分からなかった。
噛み付いた場所から溢れる真っ赤な血を舐めとる。ただひたすらに、犬のように。
一つ分かっていたのはその時の自分の顔が恍惚そのものだったことだけだ。
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