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柚葉の憂鬱

第一話・中学受験

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 グラウンドから聞こえてくる賑やかな声。全力で走っているクラスメイトへの甲高い応援は、その幼い声質から低学年のものだろうか。窓際でも廊下側でもない、教室の真ん中の列に並ぶ席はちっともよそ見が出来なくてツマラナイ、と飯島柚葉は欠伸をかみ殺していた。

 黒板の文字をノートに書き写しながら、柚葉は耳だけを窓の外へと傾けている。ショートボブの横髪を手で抑えるふりをしながら俯いていれば、ぱっと見は授業に集中しているように見える。

 無邪気な一年生は、五年後の自分達がこんな風になっているとはきっと考えたこともないだろう。
 立てた教科書を隠れ蓑にして、必死で塾の宿題を解いている子。小さく折り畳んだ四字熟語表を虚ろな目でなぞっている子。授業とは別のことをやっているのは、先生だって気付いているはずだ。けれど、あえて何も言わない。――注意したらきっと、学校に来なくなるのが分かっているから。

「家で勉強させますので」
「塾の個別指導を入れたので」

 毎日誰かしらが自宅学習を理由に、学校を休むようになってきた。これは冬休み明けにはもっと増えていくのだと去年の卒業生から聞いたことがある。

 クラスの半分が中学受験をして、最終的には三分の一が私立の中学校に進学する地域。前もってそのことを知っていたら、ここには引っ越して来なかった。こんなことなら隣の市で家を探したのにと母親が嘆いていたのは、三年生の秋の保護者懇談会の後。懇談会後に数人の保護者が集まってお茶をした時、話題の中心が受験関連ばかりだったらしい。

「中学受験をするなら、三年生の二月から塾に通い始めないといけないそうよ……」
「別にここの公立中が荒れてるって訳でもないんだろう?」
「そうなんだけど、公立なら越境して別の学校に通わせる家も結構あるそうなのよ」
「……なんでそこまで。公立ならどこも同じじゃないのか?」

 周りに流されやすい母親のおかげで、柚葉本人の意志とは関係なしに、受験塾に入ることが決まった。最初は週に二日だけで、同じ小学校の子も多い塾だったから、ただの習い事の一つという感覚だった。幼稚園の頃から続けていたスイミングもそのまま変わらず通っていた。

「いっちゃんもプール辞めるんだって。塾の日が増えるからって」
「えー、いっちゃんも? みんな辞めてくね……」

 受験学年である六年生の手前になると、塾以外の習い事を辞めていく子が増えていった。塾の授業数が増えたり、宿題の量が増えたり、個別指導も並行して通い出したりと、中学受験に向けて各々が本気を出し始めるからだ。

「塾行ってるし、柚ちゃんも受験するの? プールは辞めちゃうの?」

 スイミングスクールの更衣室で、濡れた髪を丁寧にクシでときながら、田所愛理が聞いてくる。学区が違うから愛理とは小学校は別だが、同じ幼稚園に通っていた年少からの友達だ。長い髪をタオルドライしてから、備え付けのドライヤーを使って乾かし始めている。

「分かんない。パパは公立中でいいって言ってるけど、ママがね……」
「えー、柚ちゃんと一緒の中学に行けると思ってたのになぁ」

 タオルでワシャワシャと乱暴に髪を拭いていると、愛理が寂しそうに口を尖らせる。中学では学区が一緒になるのを楽しみにしていたのは、柚葉も同じだ。中学生になったら水泳部に入って、同じチームでリレーに出られたらいいなとよく話していた。

 でも、正直言って最近のスイミングでの練習は、柚葉はあまり好きじゃなくなっていた。水遊びの延長でビート板を使ったりして、ワイワイしていた頃は楽しかった。けれど、四泳法を習得した後はひたすらタイムを競うだけで、時間いっぱいまで水の中から出ることができない。受験関係なしに、辞めていいと言われたら喜んですぐに辞めそうな感じだ。

「こないだ受けた模試の結果次第かなぁ……」

 先々週に塾で受けた模試は、あまり手応えがなかった。得意だと思っていた国語では、聞いたことがない慣用句が出てきたり、漢字も何問か埋められなかった。ずっと横ばいだった偏差値が大きく下がるようなことがあれば、柚葉も他の子達のように特別講習や個別指導を受けさせられるかもしれない。

 二人が並んでスイミングスクールの駐輪場に向かって歩いていると、三年生くらいの男の子達が一か所に集まって騒いでいるのが見えた。柚葉達と同じ時間帯の、別のレッスンを受けている子達だ。いつも被っていたスイムキャップの色から、一つ下の四泳法修得コースだったはず。スクールバスの発車を待っている間に、格好の暇潰しを見つけたらしい。

「野良だったら、触んない方がいいぞ」
「首輪してるし、飼い猫だって。しょっちゅう散歩してるよ、こいつ」
「ちょ、めっちゃ毛がフワフワしてるし」

 揃いのスイムバッグを背負って円陣を組んでいる男の子達の真ん中にいたのは、三色の毛色の猫だった。大人の猫にしては少し小柄で、長い尻尾を得意げに伸ばしながら、子供達の指先の匂いを嗅いだり、足に擦り寄ったりしている。

「猫?」
「ああ、たまに見かけるよね、あの子。近所の飼い猫なのかなぁ?」

 興味がないとばかりに、愛理は男子の横を素通りして自分の自転車の前カゴにスイムバッグを放り込む。柚葉も慌ててポケットから鍵を取り出すと、隣に停めていた自転車に手を伸ばした。
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