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第三十五話・猫又
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シフトの始業開始10分前に店の自動ドアをくぐり抜けることができれば、スタッフルームで着替えを終えた時には丁度5分前になっている。
『5分前行動は社会人のマナーです』
就活が始まる前に受けたセミナーで、就活指導教諭が何度となく繰り返していた言葉だ。他にも聞いたはずのありがたいお言葉はすっかり忘れてしまったが、短大卒業後もこれだけは守るよう心掛けていた。
私服からギャルソン風の制服に着替えると、千咲は厨房側から事務スペースへと入る。普段通りにタイムカードを打刻して、そのままフロントへと移動しかけた時だった。
「鮎川さん、久しぶりだね。元気にしていた?」
「?!」
急に横から声がして、千咲は飛び上がりそうな程に驚いてしまった。慌てて振り向き見れば、狭小空間の奥、パソコンデスクの前に小柄な童顔の男が座っていた。店の制服ではなく、黒のスーツ姿。少し癖のある黒髪をセンターでふんわりと分け、黒目がちな丸い瞳は年齢よりもかなり下に見られることが多いはずだ。
この狭いスペースで、この至近距離にも関わらず、その存在には声を掛けられるまで気付いていなかった。人よりは第六感が鋭い方だと思っていたのに、彼の気配をまるで感じなかったのだ。不意打ちに、心臓がバクバクと早鳴っている。
「あ、玉川さん……お久しぶりです」
これまでも何度か面識のある系列店の社員、玉川だった。以前に会ったのは昼のシフトの時だったので、この時間帯で顔を合わせるのは初めてだ。人懐っこく誰にでも気さくに話しかけてくるタイプだが、どうも本心が読めなくて千咲は少し苦手だった。日勤の相田との夫婦漫才のような掛け合いは横で聞いている分には面白かったが、いざ二人きりで話すとなると引いてしまう。
ミスをしても怒らずに「仕方ないよ」とおおらかに流してくれるところが中森に似ている。「ハァ? 何やってんだ」と手加減無しにキレる白井とは正反対だ。
「斎藤君が来れなくなったんだって。えっと、何だったかな? ゼミの飲み会が急に決まった、とかだったかな。いいよねー、大学生って」
そうですか、と千咲は理解したと頷き返す。玉川の勤務する店は、この店と違ってフリーター率が高く、シフトの融通が利きやすい。だから、他店に借り出されることがよくあると、前にヘルプで入って貰った時に玉川自身が話していたのを覚えている。
「白井君が後から来るらしいから、僕はそれまでだけどね。そう言えば、鮎川さん、社員になったんでしょ? 夜勤ばかりで辛くない?」
「いえ、もう慣れたんで平気です」
「へー、意外と夜型だったんだねー」
玉川と話しながら、千咲は困惑の表情を浮かべる。中森の時もそうだったが、こういう場合はどこに視線を持っていくのが自然なんだろうか。出来るだけ目を合わせないよう、パソコンの横に立て掛けられていた連絡ノートに手を伸ばす。ページを捲って申し送り事項を確認するふりをしながら、出来る限り平静を装うのが精一杯。
――まさか、玉川さんもだったなんて……。
男の背後で揺れているのは、長く黒い尻尾。しかも、細い尻尾は二本もある。頭の上にあるのは中森の耳のように丸くはなく尖っていて、どちらかというと三角形でこちらも黒毛。だが何度か目撃した白井の狐耳よりはかなり短い。どう見ても猫の耳だ。
――黒色の猫又、なんだ……。
中森もそうだが、おそらく目の前にいる玉川も、千咲から視えていることは知らないのだろう。平然と、以前と同じようにフレンドリーに話しかけてくる。
出来るだけ視線をモフモフ箇所に合わせないよう気を付けつつ、千咲は作り笑顔を浮かべた。ちらちらと目の前で揺れている物を見て見ぬふりするのは、なかなか難しい。しかも、二本が全く違う動きをしているから余計に気になってしまうのだ。
こういう時に限って、内線も外線も鳴ってはくれない。いつもならタイミング構わずに鳴りまくるくせに。
「本人達は上手く化けてるつもりだからな」と以前に白井も言っていた。だからこそ、いろいろと隠し切れてないとはこちらからは伝えにくいし、必要以上に気を遣ってしまう。中森のは見慣れたので最近ようやく気にならなくなってきたところなのに、こういう不意打ちは勘弁して欲しい。予想外の伏兵現る、とでも言うべきか。社内に他にもいるなら前もって教えてくれてもいいのに、と白井のことを恨む。心の準備はあるのと無いのとでは大違いだ。さっきも危うく吹き出すところだった。
「あの、私、バッシング行ってきますから、フロントお願いしていいですか?」
「ああ、うん。りょーかい」
張り切ってるねー、と茶化すような玉川の台詞にハハハと乾いた笑いで返すと、千咲はバッシング用材の入った篭を手にブースへと向かった。否、その場から逃げ出すことに成功した。
千咲の気も知らない猫又は、フロントの中からひらひらと呑気に手を振っている。
防音扉を抜けてすぐ、ガジュマルの精霊キジムナーがプランターを背もたれにして居眠りをしているのが目に入る。彼らのように最初から正体が分かっていれば、相手があやかしだろうと戸惑うこともないのに……。
『5分前行動は社会人のマナーです』
就活が始まる前に受けたセミナーで、就活指導教諭が何度となく繰り返していた言葉だ。他にも聞いたはずのありがたいお言葉はすっかり忘れてしまったが、短大卒業後もこれだけは守るよう心掛けていた。
私服からギャルソン風の制服に着替えると、千咲は厨房側から事務スペースへと入る。普段通りにタイムカードを打刻して、そのままフロントへと移動しかけた時だった。
「鮎川さん、久しぶりだね。元気にしていた?」
「?!」
急に横から声がして、千咲は飛び上がりそうな程に驚いてしまった。慌てて振り向き見れば、狭小空間の奥、パソコンデスクの前に小柄な童顔の男が座っていた。店の制服ではなく、黒のスーツ姿。少し癖のある黒髪をセンターでふんわりと分け、黒目がちな丸い瞳は年齢よりもかなり下に見られることが多いはずだ。
この狭いスペースで、この至近距離にも関わらず、その存在には声を掛けられるまで気付いていなかった。人よりは第六感が鋭い方だと思っていたのに、彼の気配をまるで感じなかったのだ。不意打ちに、心臓がバクバクと早鳴っている。
「あ、玉川さん……お久しぶりです」
これまでも何度か面識のある系列店の社員、玉川だった。以前に会ったのは昼のシフトの時だったので、この時間帯で顔を合わせるのは初めてだ。人懐っこく誰にでも気さくに話しかけてくるタイプだが、どうも本心が読めなくて千咲は少し苦手だった。日勤の相田との夫婦漫才のような掛け合いは横で聞いている分には面白かったが、いざ二人きりで話すとなると引いてしまう。
ミスをしても怒らずに「仕方ないよ」とおおらかに流してくれるところが中森に似ている。「ハァ? 何やってんだ」と手加減無しにキレる白井とは正反対だ。
「斎藤君が来れなくなったんだって。えっと、何だったかな? ゼミの飲み会が急に決まった、とかだったかな。いいよねー、大学生って」
そうですか、と千咲は理解したと頷き返す。玉川の勤務する店は、この店と違ってフリーター率が高く、シフトの融通が利きやすい。だから、他店に借り出されることがよくあると、前にヘルプで入って貰った時に玉川自身が話していたのを覚えている。
「白井君が後から来るらしいから、僕はそれまでだけどね。そう言えば、鮎川さん、社員になったんでしょ? 夜勤ばかりで辛くない?」
「いえ、もう慣れたんで平気です」
「へー、意外と夜型だったんだねー」
玉川と話しながら、千咲は困惑の表情を浮かべる。中森の時もそうだったが、こういう場合はどこに視線を持っていくのが自然なんだろうか。出来るだけ目を合わせないよう、パソコンの横に立て掛けられていた連絡ノートに手を伸ばす。ページを捲って申し送り事項を確認するふりをしながら、出来る限り平静を装うのが精一杯。
――まさか、玉川さんもだったなんて……。
男の背後で揺れているのは、長く黒い尻尾。しかも、細い尻尾は二本もある。頭の上にあるのは中森の耳のように丸くはなく尖っていて、どちらかというと三角形でこちらも黒毛。だが何度か目撃した白井の狐耳よりはかなり短い。どう見ても猫の耳だ。
――黒色の猫又、なんだ……。
中森もそうだが、おそらく目の前にいる玉川も、千咲から視えていることは知らないのだろう。平然と、以前と同じようにフレンドリーに話しかけてくる。
出来るだけ視線をモフモフ箇所に合わせないよう気を付けつつ、千咲は作り笑顔を浮かべた。ちらちらと目の前で揺れている物を見て見ぬふりするのは、なかなか難しい。しかも、二本が全く違う動きをしているから余計に気になってしまうのだ。
こういう時に限って、内線も外線も鳴ってはくれない。いつもならタイミング構わずに鳴りまくるくせに。
「本人達は上手く化けてるつもりだからな」と以前に白井も言っていた。だからこそ、いろいろと隠し切れてないとはこちらからは伝えにくいし、必要以上に気を遣ってしまう。中森のは見慣れたので最近ようやく気にならなくなってきたところなのに、こういう不意打ちは勘弁して欲しい。予想外の伏兵現る、とでも言うべきか。社内に他にもいるなら前もって教えてくれてもいいのに、と白井のことを恨む。心の準備はあるのと無いのとでは大違いだ。さっきも危うく吹き出すところだった。
「あの、私、バッシング行ってきますから、フロントお願いしていいですか?」
「ああ、うん。りょーかい」
張り切ってるねー、と茶化すような玉川の台詞にハハハと乾いた笑いで返すと、千咲はバッシング用材の入った篭を手にブースへと向かった。否、その場から逃げ出すことに成功した。
千咲の気も知らない猫又は、フロントの中からひらひらと呑気に手を振っている。
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