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第二十三話・変わりゆく体調

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 入院して三日後、父は朝と昼のご飯は自分で食べることができるようになった。浣腸してお腹がすっきりしたおかげで痛み止めもよく効いていて、腹痛を訴えることはほとんどなくなった。

 予想通りにひっきりなしに訪れて来る見舞客にも笑顔を見せながら対応していたし、すっかり仲良くなった担当看護師には孫達の話などを嬉しそうに語っていることもあった。
 痛みが無くなったことで、家でコタツで寝ているだけだった頃よりもよっぽど穏やかだった。

 ただ、内臓全てが癌に侵されてボロボロな為に、体温調節が上手くできなくなっていて38度前後の熱が続いていた。特に夜になると熱が上がり、食欲も無くなってしまう。
 けれど、もし熱が下がって薬の効きを確認できれば、一旦は退院させて貰えるかもしれないという話もあった。最後の入院と言われていたが、奇跡が起きて最後でなくなる可能性が出てきたのだ。

 言葉に関しては、簡単な会話はしっかりとできるようになってきた。横柄な態度もなく、いつも通りの穏やかな父に戻っていた。でも、言語障害に関しては、これ以上の回復はもう無理だろうということだった。どうして? 何で? というような考えて言葉を紡ぐ必要のある質問は難しいけれど、どこ? 何? というような問いには直感的に答えられるという感じだった。

 母と交代して付き添っている時、夜中に目が覚めてキョロキョロと病室内を見渡している父へ、有希は試しに聞いてみた。「どうして入院してるか分かる?」答えられず、父はぼーっと天井を見ているだけだった。
 丁度その時、巡回で病室の前にいた師長が笑いながら入って来た。

「その質問はちょっと難しいわよねぇ。――広瀬さん、ここはどこかしら?」
「病院や」
「どこの病院か分かりますか?」
「Y市の病院や」

 ソファーにいる有希の方をくるりと振り返り、師長は安心させるように優しく微笑んでから言った。

「入院していることは、ちゃんと分かっておられるから、大丈夫よ」

 状況は理解できていても、それを的確に説明することは出来なくなっていた。けれど、順を追っての質問ならある程度は大丈夫で、まるで幼い子供と話しているみたいだ。

 前回の発作の時のようにちょっとした単語間違いとかではなくて、今回は一部の言葉の認識力がなくなっている状態が顕著だった。「新幹線」はわかっても、「救急車」は分からない。何が基準になっているのかは不明だが、そんな感じだった。そして、日に日に分かる言葉が少しずつ減っていった。
 文字も読んで理解はできていないみたいで、ベッドに付いてるネームプレート(父の名前とか担当医の名前、入院日等の書かれたカード)を不思議そうに見ていたりするのだ。文字も分からない上に、ネームプレートがそこにある意味も分かっていなさそうだった。

 そして、有希の三度目の付き添いの頃、ついに精神障害による幻覚が見え始めた。
 ベッド脇のライトだけが光る薄暗い病室で、信一が驚いた顔をしながら、備え付けのソファーに座っていた有希のすぐ横の壁を指差して言う。

「そこに蜘蛛がおる。そこにも飛んどる。いっぱい居るわ」
「え、蜘蛛が? どこにいるの?」
「ほら、そこ。あっちにも居るわ。ぎょうさん居るなぁ」

 特に怯えたり嫌がっている訳でもなく、ただ感心したように病室の中を見回している。
 最初、壁紙の模様がそういう風に見えてしまってるだけなのかと思った。白地に花の模様が点々とある壁紙だったから。でもよく聞いてみると、有希の服にも付いてるとか言い出すので、壁紙を見間違えているのではなく、ただの幻覚のようだった。

 だけど、幻覚よと父を否定する勇気は無く、ただ曖昧に頷いて誤魔化してしまった。自分が幻を見て騒いでいると気付かされた時に、父が傷付いてしまうのが心配だったから。

 夜中には理解できない言葉での独り言も多かった。でも、幻覚や幻聴によって父が怯えてるという風ではないのが救いだった。担当医いわく、酔っ払ってご機嫌になってる状態に似ているのだそうだ。

 物事に対する分別が付かなくなっていたせいだろうか、父が本来ならするはずの無い行動に出たことがあった。
 いつもは朝までずっとパズル雑誌を解きながら起きて付き添っていた有希が、隔日の泊まり込みの疲れからソファーで毛布に包まったまま眠ってしまったことがあった。ほんの2時間くらいの時間だったが、目を覚ました有希は父のベッドを囲む柵に点滴用の管がグルグル巻きにされているのを発見した。漏れた点滴薬で病室の床には水溜まりができていた。慌ててナースコールを押して当直の看護師を呼ぶ。

「すみません、ちょっと寝てしまっていたら、父が点滴を外してしまったみたいで……」
「あらぁ。広瀬さん、怪我してない?」

 父は自分で点滴の針を抜いてしまっていたのだ。点滴に繋がれて身動きが取り辛かったのは分かるが、本来なら勝手に抜くなんてことはしないはずだ。それを父は有希が眠っている隙にやってのけた。

 翌朝、父は巡回に訪れた看護師達から「針抜くの上手だったらしいですね」と次々に揶揄われていた。大抵、勝手に抜くと血管を傷付けて血だらけになるらしいのだが、運が良かったのか父は綺麗に抜くことができていた。

 徐々に様子が変わっていく父だったが、有希達が一番ホッとしていたのは、言葉や文字を理解できなくなってることを父自身がおかしい、辛いとは感じなくなったことだった。どうして分からないんだろ? という風に思うことはないらしく、分からないなぁと思う程度なんだそう。
 これからどんどん悪化していく体調に対して、本人が疑問や不安を感じないでいてくれるのは家族にとっては大きな安心だった。自宅にいる時のように負の感情に圧し潰されて、塞ぎ込んでいる父を見なくて済むのはありがたかった。

「どんなにいろんなことが分からなくなった時でも、家族のことは感覚で分かるものですよ」

 夕方の往診後に廊下を話した際、木下医師は有希にそう語った。例え名前が分からなくなったとしても、家族であることは最後の最後まで理解できるのだと。家族の繋がりはそこまで脆くはないのだと。
 いつか自分達のことも分からなくなってしまうのではと不安だった有希の目から、涙が溢れ出た。廊下ですれ違った看護師達がわざと目を逸らして通り過ぎてくれたのが有難かった。

 現在の父の余命は0ヶ月。
 目を離した一瞬の隙に心臓が止まっていてもおかしくない状態だ。昨年末の時点で、13ヶ月前のガンマナイフ治療を受ける前の状態まで脳腫瘍は復活していたし、身体中至る所が末期癌に侵されていた。
 つまり父は今まさに、この瞬間に死んでしまってもおかしくはない状態だった。
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