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第三十一話・会計士見習い3
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普段と同じ時間にオフィスへと出勤してきた優香は、まず最初に簡易キッチンで電気ケトルへ水を入れることから始める。いつもそうしている内に、ほどなくして宏樹がやってくる。
二人分のカップにインスタントの粉末を入れて、湧いたばかりのお湯を注げば、オフィス内にコーヒーの香りがふんわりと漂い始める。朝のコーヒーは始業の合図。特に好きな訳じゃないけど、一度は嗅が無いとどうも気合いが入りきらない。香ばしい匂いは子育てモードと仕事モードとの切り替えスイッチのようなものだ。
しばらくの間、コーヒーカップ片手に宏樹と何とはなく雑談していると、入り口のインターフォンを鳴らして吉沢も出勤してくる。今日からは元のオフィスには顔を出さず、こちらへ直行してくることになっていた。
「おはようございます」
カップを持ったまま立ち上がって開錠しに行った宏樹が、入り口前で少し驚いた表情を浮かべる。何だろうと首を伸ばして振り向いた優香も、「ん?」という顔になった。まだ昨日の今日だから、二人とも違和感は感じたものの吉沢の変化をすぐには見抜けない。人の記憶というものは意外とあてにならない。先に気付いたのは優香の方だった。
「あ、眼鏡が無い! 今日はコンタクトにしたんだ?」
「はい。普段はコンタクトなんですけど、昨日はストックが切れて取り寄せ中だったんで」
「ああ、こっちが通常なのか?」
「そうですね」
分厚いレンズの眼鏡が無くなると、妙にあか抜けて見え別人のようだ。元々から童顔タイプなこともあり、真新しいスーツと相まって、ますます就活中の学生に見えてくる。
「コンタクトって割とすぐ買えるものじゃないのか?」
「一般的な度数ならそうみたいですけど、自分は視力悪すぎるんで、いつも取り寄せになるんです」
そこまで悪いと眼鏡の方が楽なんじゃないかと思ったが、レンズに厚みが出る分いろいろと不便なのらしい。確かに昨日掛けていた眼鏡のレンズは相当ぶ厚くて重そうに見えた。ノンフレームタイプだったのは、あの厚みが収まるフレームが無いかららしい。優香も宏樹も視力だけは良いから「なんか大変なんだねぇ」と言うより他なかった。
自分用の席に着くと、吉沢は鞄の中から取り出したスマホやペットボトルをデスクの上へ置いていく。前日には彼にも休憩の時に勧めてみたが、コーヒーは飲めないと断られてしまった。そう言えば昨日も同じ銘柄のエナジードリンクをビル一階の自販機へ買いに行っていた気がする。
さらに鞄にゴソゴソと手を突っ込んでいた吉沢が、中からA5サイズの本を数冊取り出し、それを向かいにいる優香へとデスク越しに渡してきた。
「昨日言ってた参考書とかです。自分はもう要らないんで。あ、特に書き込みとかは無いとは思うんですけど――」
「え、ありがとう。本当に貰っちゃってもいいの?」
彼が学生時代に簿記を勉強する際に使っていたという解説本と問題集などだ。検定三級用の入門書的な物ばかりで、今の優香のレベルには丁度良いらしい。吉沢は「ハイ」と頷くと、その後すぐになぜか顔を隠すようにデスクの上のノートパソコンを開いた。
モニターの陰になって優香からは分からなかったが、向かい合う二人を真横で見る位置にある宏樹のデスクからは、新人のその照れた表情はよく確認できた。
その日は午前中から顧客の訪問がやけに多かった。決算を控えての相談予約が重なったこともあり、宏樹の姿はパーテーションの向こうからなかなか出て来ない。午前最後の顧客をエレベーターホールまで見送り戻ってきた宏樹が、ようやくひと段落したとふぅっと長い息を吐く。そして、優香と分担しながら事務作業を続けていた吉沢に向かって声を掛ける。
「確か、吉沢君はコンサルを中心にやりたいんだよね? なら、次は同席してくれてもいいよ」
「はい。お願いします」
前オフィスからの申し送りによれば、吉沢は税務処理ではなくコンサルタント業務がやりたいと会計士を目指しているということだ。だから、事業拡大の相談に来る予定の次の顧客は丁度いいと、宏樹が誘いかけた。ここでは一般的な事務仕事くらいしかさせて貰えないと思っていたから、吉沢はぱぁっと表情を明るくする。まだ無資格の内にコンサルの場に立ち会わせて貰えるとは思ってもみなかったのだ。
「……べったりと一緒に居られても困るからね」
誰にも聞こえないよう、宏樹がぼそっと呟く。義姉には全く自覚が無いみたいだから、心配事が絶えることがない。たった半日一緒に居ただけなのに、どう見ても吉沢が優香に対して好意を持ち始めているのだから。
――参ったな……
パーテーションの向こうが気になって、どうにも仕事にならない。だから吉沢を自分の傍に置いておくのが安心だと考えた。先輩会計士からは特に何かを指導するよう頼まれてはいないけれど、吉沢本人は喜んでいるみたいだし丁度いい。宏樹は大人げないし姑息だなと自分自身のことを鼻先でふっと呆れ笑った。
だからと言って、ようやくチャンスが訪れてきたと思ったら、横から別の誰かにかっさわれるなんて勘弁だ。
二人分のカップにインスタントの粉末を入れて、湧いたばかりのお湯を注げば、オフィス内にコーヒーの香りがふんわりと漂い始める。朝のコーヒーは始業の合図。特に好きな訳じゃないけど、一度は嗅が無いとどうも気合いが入りきらない。香ばしい匂いは子育てモードと仕事モードとの切り替えスイッチのようなものだ。
しばらくの間、コーヒーカップ片手に宏樹と何とはなく雑談していると、入り口のインターフォンを鳴らして吉沢も出勤してくる。今日からは元のオフィスには顔を出さず、こちらへ直行してくることになっていた。
「おはようございます」
カップを持ったまま立ち上がって開錠しに行った宏樹が、入り口前で少し驚いた表情を浮かべる。何だろうと首を伸ばして振り向いた優香も、「ん?」という顔になった。まだ昨日の今日だから、二人とも違和感は感じたものの吉沢の変化をすぐには見抜けない。人の記憶というものは意外とあてにならない。先に気付いたのは優香の方だった。
「あ、眼鏡が無い! 今日はコンタクトにしたんだ?」
「はい。普段はコンタクトなんですけど、昨日はストックが切れて取り寄せ中だったんで」
「ああ、こっちが通常なのか?」
「そうですね」
分厚いレンズの眼鏡が無くなると、妙にあか抜けて見え別人のようだ。元々から童顔タイプなこともあり、真新しいスーツと相まって、ますます就活中の学生に見えてくる。
「コンタクトって割とすぐ買えるものじゃないのか?」
「一般的な度数ならそうみたいですけど、自分は視力悪すぎるんで、いつも取り寄せになるんです」
そこまで悪いと眼鏡の方が楽なんじゃないかと思ったが、レンズに厚みが出る分いろいろと不便なのらしい。確かに昨日掛けていた眼鏡のレンズは相当ぶ厚くて重そうに見えた。ノンフレームタイプだったのは、あの厚みが収まるフレームが無いかららしい。優香も宏樹も視力だけは良いから「なんか大変なんだねぇ」と言うより他なかった。
自分用の席に着くと、吉沢は鞄の中から取り出したスマホやペットボトルをデスクの上へ置いていく。前日には彼にも休憩の時に勧めてみたが、コーヒーは飲めないと断られてしまった。そう言えば昨日も同じ銘柄のエナジードリンクをビル一階の自販機へ買いに行っていた気がする。
さらに鞄にゴソゴソと手を突っ込んでいた吉沢が、中からA5サイズの本を数冊取り出し、それを向かいにいる優香へとデスク越しに渡してきた。
「昨日言ってた参考書とかです。自分はもう要らないんで。あ、特に書き込みとかは無いとは思うんですけど――」
「え、ありがとう。本当に貰っちゃってもいいの?」
彼が学生時代に簿記を勉強する際に使っていたという解説本と問題集などだ。検定三級用の入門書的な物ばかりで、今の優香のレベルには丁度良いらしい。吉沢は「ハイ」と頷くと、その後すぐになぜか顔を隠すようにデスクの上のノートパソコンを開いた。
モニターの陰になって優香からは分からなかったが、向かい合う二人を真横で見る位置にある宏樹のデスクからは、新人のその照れた表情はよく確認できた。
その日は午前中から顧客の訪問がやけに多かった。決算を控えての相談予約が重なったこともあり、宏樹の姿はパーテーションの向こうからなかなか出て来ない。午前最後の顧客をエレベーターホールまで見送り戻ってきた宏樹が、ようやくひと段落したとふぅっと長い息を吐く。そして、優香と分担しながら事務作業を続けていた吉沢に向かって声を掛ける。
「確か、吉沢君はコンサルを中心にやりたいんだよね? なら、次は同席してくれてもいいよ」
「はい。お願いします」
前オフィスからの申し送りによれば、吉沢は税務処理ではなくコンサルタント業務がやりたいと会計士を目指しているということだ。だから、事業拡大の相談に来る予定の次の顧客は丁度いいと、宏樹が誘いかけた。ここでは一般的な事務仕事くらいしかさせて貰えないと思っていたから、吉沢はぱぁっと表情を明るくする。まだ無資格の内にコンサルの場に立ち会わせて貰えるとは思ってもみなかったのだ。
「……べったりと一緒に居られても困るからね」
誰にも聞こえないよう、宏樹がぼそっと呟く。義姉には全く自覚が無いみたいだから、心配事が絶えることがない。たった半日一緒に居ただけなのに、どう見ても吉沢が優香に対して好意を持ち始めているのだから。
――参ったな……
パーテーションの向こうが気になって、どうにも仕事にならない。だから吉沢を自分の傍に置いておくのが安心だと考えた。先輩会計士からは特に何かを指導するよう頼まれてはいないけれど、吉沢本人は喜んでいるみたいだし丁度いい。宏樹は大人げないし姑息だなと自分自身のことを鼻先でふっと呆れ笑った。
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