海道一の弓取り~昨日なし明日またしらぬ、人はただ今日のうちこそ命なりけれ~

海野 入鹿

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第五章 今川と織田

第五十二矢 笑み

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「今川と松平が織田に勝ったそうな。」

今川・松平軍の大勝、その一報は岡崎城の城下町にも届いていた。
そのせいか、いつもより城下町はにぎやかさが増している。
様々な歓喜の声が城下町で溢れる中、一人の行商人が町歩く人に尋ねた。

「ほぉ~今川が勝ったのかね?」
「ああ、大勝だったらしい。」

その人が答えると隣から小太りの男が話に割り込んできた。

「めでてえこった。町を壊されるのは勘弁だからな。」
「そうに違いねえ。」

ハハハと二人が上機嫌に笑うのにつられて、行商人も笑うのだった。
行商人が城下町を去り、次に向かったのは付近にある広大な寺だった。

「そこの僧侶様。」

行商人は近くにいた僧侶を呼び止めた。

「何用でございましょう。」
「御院主様に戸田の使者が来たと伝えてきてくれませぬか?」
「御院主様に、ですか?」

僧侶がジロジロと疑り深く行商人を見る。
しかし、行商人は全く動じない。

「わかりました…」

僧侶が半信半疑ながらも院主の所へと伝えに行った。しばらくすると、再び僧侶が行商人の元へと駆けつけた。

「疑って真にすみませぬ。院主の元へご案内いたします。」

僧侶は行商人を院主の元へと連れて行った。

「御院主様、失礼いたします。」

部屋のふすまを開けると、目元が涼しく身分の高そうな僧侶が鎮座していた。
彼の名前は玄海げんかい。この寺の院主である。僧侶が下がると、玄海は行商人に問いかける。

「我が寺へ何用ですか。」

(我が主は一向宗の信徒ではあるが、あまり熱心でなかったからな…今さら何しにきたというところか。)

行商人は答える。

「本日は御院主様に我らの信仰心を示しに参上し申した。」
「信仰心…?」

玄海がわざとらしく首をひねっていると、

「これが我らの信仰心でございます。」

行商人は背負っていた木製の大きな箱から大量の銭を取り出した。

「おやおや…」

院主が思わず声をもらした。

「これほどのをしてくださるとは、どうやら戸田様はよほどの信徒でいらっしゃるようですね 」

院主はニッコリと笑い、大量の銭を受け取った。

(白々しい。我が主が欲しておるのは一向宗の僧兵だけだというのがわかっておるくせに…)

院主のわざとらしさに辟易しながらも行商人は再び口を開く。

「ひいては、我らにお力添えしていただきたく存じ上げまする。」

少し間をおいて、院主は返答した。

「私共は信仰に厚い信徒を見捨てません。」
「!それでは…」
「ええ、我ら真宗。戸田様に手を貸しましょう。」

玄海はフフフと笑い、終始ずっと銭を見つめていた。

それから時は流れ…

「兵糧攻めって暇だね~」

俺はあくびを一つして目の前にそびえ立つ城を見る。
ここまで来るとこの城に愛着まで湧いてくる。
今川・松平軍が織田軍に勝利してから早くも二ヶ月、未だに田原城を落とすことができずにいた。

「ま、でもこの城も今日で見納めか。」

俺が後ろを振り返ると、そこには朝比奈泰能が立っていた。
田原城攻略がどれくらいかかるかわからない。
でも、トップが長い期間政治を放置していたらいろいろとマズい。ということで、俺は朝比奈泰能に軍の指揮権を渡して一旦駿府館に帰還することになったのだ。

「頑張って。田原城が落ちるかどうかは泰能さんの両肩にかかってるからね!」

俺はガシッと泰能の肩を掴んで泰能に励ましの言葉をかけた。

(殿に頼られた…!)

泰能は感動して、

「はっ、ありがたきお言葉にございます!!」

と涙を流してかつ大声でそれに応えた。

「うん、元気があってよろしい!」

そうして、俺は田原城を後にした。

「じじ様ぁー」
「おぉ、春千代やおいで。」

田原城内では、戸田康光は可愛くて仕方がない孫・春千代と戯れる傍らで今後のことを考えていた。

(なかなかに厳しい…)

戦況は戸田家にとって、時を刻むごとに不利になっていた。

(それもこれも全て織田のせいよ…!)

康光は別に織田軍の力に期待していたわけでもないし、織田軍に頼るつもりもなかった。
ただ想定外だったのは、織田軍があまりにもあっさりと負けてしまったことである。
負けるにしろ、多少は粘るのだろうと踏んでいた。ところが織田軍は二日を待たずして敗走してしまったのだ。
これにより田原城の包囲網は強化され、より包囲網突破が難しくなっていた。
そしてさらに追い打ちをかけるように、兵糧も少しずつだが減ってきていた。
城内では不安が伝染して、少しずつ危機感が高まっている。
兵糧攻めの効果が出始めていたのだ。

「全く、奴らは一体何をしておるのだ…!」

康光は歯をギリッと食いしばり、眉間にしわを寄せる。

「じじ様?」

それに気づいた春千代が少し怯えたように康光に呼びかけると、

「…ん?じじの顔に何かついていたのかい?」

ハッと慌てていつものほがらかな笑顔を作った。

その夜の田原城―

康光は蝋燭ろうそくに火を灯して、自身の部屋で書物を読みくつろいでいた。
今川軍に包囲されてからというもの、城内がピリピリしている中で数少ない安息の時間である。
そうしていると、突然ズンと黒い人影が康光の部屋のふすまに映った。最初は驚いたが、康光はすぐにその正体がわかった。

(ようやく来たか…)

「入って参れ。」

康光が指示すると、忍び装束をまとった男が襖を静かに開けて部屋に入ってきた。
男はふところから書状を出して、スッと康光に差し出した。

「遅かったではないか。」

康光が書状を手にしてそう言うと、男は無言で部屋から退出した。

(相変わらず愛想のない奴だ。)

フンッと鼻を鳴らしながら、康光は書状を読む。読むにつれて康光の口角が上がってきた。

(一向宗の僧兵は味方につけたか、残るは…)

「三河を混乱に陥らせなければな…」

すでに準備は整っている。後は忍びを使い実行するだけだ。

不穏な闇夜が三河国を覆っていた。

*僧侶の呼び方は宗派によって変わるそうで、和尚は臨済宗や曹洞宗などの禅宗系または浄土宗で用いられ、院主は主に浄土真宗(一向宗)で用いられるようです。
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