幼馴染の彼

志月さら

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幼馴染の彼

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 じんじんと膝が痛む。目の前にはわたしとあまり背丈の変わらない男の子の背中があって、痛い痛いとさっきまで泣きじゃくっていたわたしを家までおんぶしてくれているところだった。
 一歩一歩、彼が足を進めるたびに、わたしの身体に振動が伝わる。お腹の奥がたぷん、と揺れたような気がして、思わず顔をしかめた。
 お腹の中にはずっと我慢しているおしっこが溜まっている。けれどわたしは、そのことを言い出せずにいた。

 お隣に住んでいて家族ぐるみで仲がよかったから、物心がつく前から一緒に過ごすことの多かった颯太そうたくん。家の中で遊んでいるときなら「おトイレにいってくるね」と平気で言える。でも今日は、お外で遊んでいたから、おしっこがしたくなっても言えなかった。だって近くにトイレがないから。

 颯太くんは遊んでいる途中で一度、「おしっこしてくるね」と言って茂みに駆け込んだ。じょろじょろと地面を打つ水の音が聞こえてきて、お腹の奥がきゅっとなった。
 いいな。わたしもおしっこしたいな。でもお外でするなんて恥ずかしい。

「ゆきちゃんはおしっこだいじょうぶ?」

 戻ってきた彼にそう訊かれたけど、「だいじょうぶ」と答えるしかなかった。男の子は立っておしっこをするから、外でも平気で済ませられるのが羨ましい。
 わたしは女の子だから、パンツを下ろしてお尻を出さないとおしっこができない。でも、こんな外で、颯太くんも近くにいるのにそんなことしたくない。おうちのトイレまで我慢すると決めて、遊びを再開した。

 そうして、おしっこを我慢するのに必死になっていたら、足元をよく見ていなくて転んでしまった。膝を擦りむいて、血が滲んで、じわじわと痛みが込み上げてきて。
 泣き出してしまったわたしを颯太くんは優しく慰めてくれて、痛くて歩けないとわがままを言うわたしをおんぶしてくれた。
 そのときは痛みに尿意を忘れていたけれど、いまはおしっこをしたい気持ちの方が上回っていた。

 おしっこ、おしっこしたい。はやくおトイレに行きたい。おうちまで我慢できるかな。わかんないけど、でも我慢しないと。おもらしなんかしたら、颯太くんのことを汚してしまう。
 必死に我慢していたけれど、急にじゅっ、とパンツの中が温かくなって、思わずあっと声が漏れた。

「ゆきちゃん? どうしたの?」

 心配そうに声をかけてくれる背中に思わずしがみつく。太腿にぎゅっと力を込めた。
 だめ、だめ、だめ。でてきちゃだめ。おしっこしちゃだめなの。
 懸命に言い聞かせても身体は言うことを聞いてくれない。落ちないように颯太くんの肩をぎゅっと握っているから、おしっこの出口を押さえることもできない。

 下着の中に温かいものが広がって、太腿を伝って、颯太くんのTシャツにまで染み込んでいくのがわかった。じょろじょろ、ばちゃばちゃ。アスファルトの地面に打ち付けられたおしっこが、水音を立てる。
 颯太くんは黙ったまま足を止めた。

 どうしようどうしよう。おしっこでちゃった。いっぱいでてる。
 たくさん我慢していたおしっこはすぐには止まってくれなくて、ぴちゃぴちゃと小さな水音をずっと立て続けている。ようやくお腹の中が空っぽになって思わず息を吐き出すと、颯太くんがそっと口を開いた。

「ずっとおしっこがまんしてたの? ごめんね、きづかなくて」
「……っ、ご、ごめん、なさ」

 再び泣き出してしまったわたしに、彼は何度も大丈夫だよと言ってくれた。
 怪我をして、おもらしもして帰ってきたわたしを見てお母さんには叱られたけど、颯太くんが庇ってくれたからお説教は長くは続かなかった。
 お母さんにお風呂場へ連れていかれて、汚れた身体を丁寧に洗われて、擦りむいた膝も手当てされた。お湯で洗い流したときも、消毒液をかけられたときもすごく沁みたのを覚えている。

 おしっこで服を汚してしまって、颯太くんはお母さんに叱られないかなと不安になった。もうお隣の真雪まゆきちゃんとは遊んじゃだめ、とか言われたかもしれない。そうでなくても、背中でおもらしした子のことなんて嫌になるかも。
 そう思ったけれど、そのあとも颯太くんのお母さんは優しくて、颯太くんもいままでと変わらず一緒に遊んでくれた。

 でも、遊ぶ場所は少しだけ変わった。わたしのおうちで、お絵かきをしたりゲームをしたり、ドールハウスで遊んだりすることが多くなった。わたしが外で遊びたいなと言ったら、ちゃんとトイレのある公園や児童館に遊びに行った。
 ――トイレに行きたくなったらすぐに行けるように気を遣ってくれているのだと、幼心にも理解できた。

***

「――ゆき、ゆき。朝だよ、起きな」
「ん……っ、そーたくん……っ!?」

 微睡みから覚めて目を開けると、目の前には幼馴染の伊波颯太くんの顔があった。突然のことに寝起きの頭が混乱する。なんで、どうして、部屋の中ここにいるの。
 頭の中で言ったつもりの言葉は声に出ていたようで、彼は少しだけ呆れたような顔をした。

「おばさんが起こしてきてって。ほら、早く支度しないと遅刻するよ」
「わかってる……! 着替えるから出てってよ……」
「はいはい」

 毛布でパジャマの胸元を隠しつつベッドから起き上がると、颯太くんはすぐに部屋から出てくれた。階段を下りていく音が微かに聞こえてくる。
 着替えようとして、先にトイレに行きたいことに気が付く。顔も洗わないと。結局彼のあとを追うような形で一階に下りていき、トイレと洗顔を済ませてから二階の自室に戻った。

 時間を気にしつつさっと髪を梳かして、急いで制服に着替える。ゆうべつい夜更かしをしてしまったからなかなか起きられなかったのだ。
 スマホのアラームがスヌーズを繰り返していたことも、階下からお母さんが呼ぶ声が何度も聞こえていたこともぼんやり覚えているけれど、どうしても目を開けることができなかった。でも、まさか颯太くんに起こされるとは思ってもみなかった。

 お母さんが直接起こしにきてくれればいいのに。いくら幼馴染とはいえ、異性に寝起きの姿を見られるのは恥ずかしい。
 不満を抱きつつ通学用のリュックを持ってリビングへ行くと、颯太くんが食卓についていた。そういえば今日はうちで朝食を食べる日だった。

「ゆき、リボン曲がってる」
「んー……」

 先に食べ始めていた彼に指摘されて、まだ眠くてぼんやりした頭のままリボンを直す。
 お茶を一口飲んでから(うちはご飯でもパンでも飲み物は緑茶だ)トーストに手を伸ばすと、カウンターキッチンに立っているお母さんから小言が飛んできた。

「もう、やっと起きてきた。だから早く寝なさいって言ったでしょ」
「お母さん起こしてよー、なんでそーたくんに頼むの……」
「朝は忙しいんだから、ちゃんと自分で起きてきなさい」
「……はぁーい」

 これ以上口答えすると小言が長引きそうだ。とりあえず頷いておいて食べることに専念する。
 トーストとベーコンエッグと昨夜の残りのポトフという朝食をのそのそと食べていると、早くも食べ終えた颯太くんが食器を下げた。

「ごちそうさまです」
「ありがとう、颯太くん。ごめんねー、もうちょっと待っててあげて」
「大丈夫です。食器洗いましょうか?」
「いいのいいの、あとでまとめてやっちゃうから。真雪、早く食べちゃいなさい」
「……っ、わかってるー」

 食べながら喋るとまた注意されそうなので、口の中に入っていたものを飲み込んでから応える。普段はよく噛んで食べなさいというくせにこういうときは急いで食べろと言われるから困る。朝はあんまり食欲がないのに。

「ごちそうさま!」

 なんとか家を出る時間に間に合うように食べ終え、食器を下げてお母さんからお弁当を受け取る。

「お待たせ、そーたくん。行こっ」

 いってきますと口々に言い、玄関を出る直前に、ふと颯太くんがこちらを振り返った。

「ジャージ忘れてないか?」
「……持ってくる」

 彼の言葉で今日は体育があることを思い出す。
 ばたばたと二階に上がって、トートバッグにジャージを詰め込む。それから急いで玄関に戻ると、颯太くんは先に行くことなく待っていてくれた。

***

 防球ネットで半分に区切った体育館の中で、男子はバスケ、女子はバドミントンをしている。選択球技の授業は緩くて、ほとんど自由時間のような雰囲気だった。

「いまの、そっちの点だよ」
「あ、ごめん……」

 一緒に審判をしている早紀さきちゃんに指摘されて、慌てて得点板を一枚めくる。
 目の前で行われている試合を視界に入れつつもふと男子側に目をやると、颯太くんが見事にシュートを決めたところだった。軽く歓声が上がる。

「伊波くんってなんで運動部じゃないんだろ?」
「ねー、美術部だっけ? 運動神経いいのにねー」

 隣のコートで審判をしている女子の会話が耳に入ってくる。
 颯太くんは中学高校ともにわたしと同じ美術部に所属している。小さい頃一緒にお絵描きをして遊んでいた頃から、彼は絵が上手だった。夏休みの宿題などで描いたポスターが何度か県で入賞したこともある。
 けれど運動もかなりできるので、運動部の友達からはなんでうちの部に入らないんだよと残念がられたみたいだ。

「ちょ、真雪、上!」
「えっ……?」

 ふいに聞こえた焦ったような早紀の声に、思わず顔を上げる。すると明後日の方向からシャトルが飛んでくるのが見えたけれど、避けるのは間に合わなかった。羽根の部分がおでこに当たって、そのまま床に落ちていく。

「いたっ……」
「ごめん、霜月さん! 大丈夫……?」

 隣のコートで試合をしていた佐藤さんが慌てて駆け寄ってくる。少し痛かったけれど、血は出ていないし問題ないだろう。へらっと笑って応えた。

「うん、だいじょーぶ」
「ほんとごめんね!」

 シャトルを拾った佐藤さんがコートに戻っていくのを見て、早紀ちゃんが口を開いた。

「もう、ぼーっとしてるんだから! 目に当たんなくてよかったよー」
「早紀ちゃんが上とか言うから見ちゃったんだよー」
「人のせいにしないの。ほら続きやるって」

 窘めるように言う早紀ちゃんに、はーいと返事をする。そもそも佐藤さんが変な方向に打たなければ何も起こらなかったのにな。まあ怪我してないからいっか。
 一時中断してしまった試合が再開され、それから数分後に授業終了のチャイムが鳴り響いた。

「ゆき、さっきシャトルぶつかってなかった?」

 授業が終わると、颯太くんは真っ先にわたしのところにやってきた。

「え、うん。でもなんともないよ」
「一応保健室行くぞ」
「えー、大丈夫なのにー」

 颯太くんは聞き耳を持ってくれず、わたしの腕を引いて保健室に連行していった。保健の先生に見てもらったけれど、問題はなし。
 廊下を歩きながら、わたしは思わず唇を尖らせた。

「そーたくん心配しすぎだよー」
「何かあってからじゃ遅いだろ。気を付けろよ」
「はぁい」

 途中で颯太くんとは別れて急いで更衣室へ向かった。貴重な昼休みの時間がすでに数分過ぎてしまっている。すっかりお腹がぺこぺこだ。制服に着替えて教室へ戻ると、いつも一緒にお昼を食べている早紀ちゃんは先に食べ始めることなく待っていてくれた。

「おかえりー、なんともなかった?」
「うん。大丈夫だった」

 頷きつつ向かい合わせに座ってお弁当を広げる。今日はサンドイッチが詰め込まれていた。たまごサンドとハムサンド。どっちもわたしの好物だ。

「真雪はさー、伊波くんと付き合わないの?」

 食べている途中で突然早紀ちゃんがそんなことを言い出して、危うく卵サンドを吹き出すところだった。

「っ、そーたくんは、付き合うとかそういう対象じゃ、ない、よ。ただの幼馴染だし……」
「そんなこと言ってると、誰かに告られちゃうんじゃない? いいの?」
「……よくは、ない、けど」

 小中高とずっと同じクラスで過ごしている颯太くんは、幼馴染の贔屓目を抜きにしてもかっこいい男の子に成長した。背は高いし、勉強も運動もできるし、苦手なことなんてない気がする。正直、なんでわたしと同じ高校に進学したのかよくわからない。颯太くんならもっと偏差値の高い学校にも難なく行けたと思うのに。

 そんな彼が、女の子とお付き合いしているところを想像してみる。上手く想像できなかったけれど、なんとなく、いやだなと思ってしまった。
 ただの幼馴染にそんなことを思う権利はないのかもしれないけれど。

「ぶっちゃけ伊波くんのことどう思ってるの? 好き? 嫌い?」
「好き、だけど……」

 口に出してから、はっとした。
 教室の中を見渡してみるが颯太くんの姿はない。今日は友達と学食に行っているのかもしれない。彼の姿が見えないことになんとなくほっとする。

「も、もう、この話おしまい!」
「えー」

 早紀ちゃんはもう少し何かを話したそうにしていたけれど、わたしは無理矢理話題を終わらせてハムサンドに手を伸ばした。

***

 翌日。わたしと颯太くんは――というか美術部のメンバーは全員、学校を休んで県立美術館に来ていた。県内の高校の美術部全体で行われる展覧会に作品を出品するためだ。部活動の一環なので公欠扱いになる。中学校では存在しなかった存在しなかった行事に内心ドキドキしていた。

 今日のために仕上げた絵が運び込まれ、自分たちでバランスを考えながら展示をする。美術館のギャラリーの一角にすぎないけれど、自分の描いた絵が飾られていると思うと変な気分がした。
 作品は自由に描いていいと言われていたので、お気に入りの猫のぬいぐるみを水彩画で描いてみた。
 午前中は展示の準備で終わり、昼食を挟む。午後は他校の先生から一人ずつ講評を受けることになっている。

「では最初は……霜月真雪さんから始めましょうか」
「は、はい」

 一番端に展示したせいか、いきなりわたしが指名されてしまった。

「この作品のテーマはなんですか?」
「えっ……テーマは、えっと、」

 真面目な表情をした他校の美術の先生に、テーマは何か、工夫したところはどこかなどと、考えもせずに描いていたことを訊ねられてしどろもどろになってしまう。
 なんとか質問を切り抜けて、良い点や、こうすればもっと良い絵になりますよといったことを教えてもらう。話を聞いている間、ずっと緊張しっぱなしだった。

「じゃあ次は、伊波颯太くん」
「はい」

 颯太くんが描いた油絵の風景画は好評価をもらっていた。先生からの質問にも淀みなく答えている。やっぱり颯太くんはなんでもできるんだな、とほんの少し悔しい気持ちになる。わたしだって絵を描くことは好きなのに技術は全然追いつかない。


「緊張した~~!」
「二高の先生ってあんなに厳しいんだな」
「そーたくんは褒められてたからいいじゃん……わたしなんてズタボロだよっ」
「俺はゆきの絵好きだけどな。あったかい感じがして」

 さらっと言われてなぜか頬が熱くなった。いや、絵、絵の話だから!

「あ、ありがと。……わたしもそーたくんの絵、綺麗で好きだよ」

 さりげなく口にしたつもりだけれど、やっぱりなぜか照れてしまった。赤くなっているであろう顔を隠すように、俯いてスマホを見る。

「あっ、お母さんついたって! 早く帰ろ帰ろっ」

 スマホに届いていたメッセージを見て颯太くんを促す。行きはバスに乗ってきたけれど、帰りはパート帰りのお母さんが迎えに来てくれることになっていた。

「ああ、うん。……ゆき、帰る前にトイレ寄らなくて平気か?」
「えっ、う、うん。大丈夫っ」

 トイレの心配をされて急に恥ずかしくなる。昼休みに済ませておいたのでいまはそれほど行きたくない。
 先ほど通りがかりに見かけた女子トイレは少し混んでいるようだったし、わざわざ並ぶほどではないと思った。どうしても行きたくなったらコンビニかどこか寄ってもらえばいいし、と楽観的に考える。

「そーたくん行きたいなら待ってるよ?」
「いや、俺も平気」

 颯太くんもそう言うのでトイレには寄らずに美術館を出る。

「寒……っ」

 朝から寒かったけれど、外に出ると一段と風が冷たかった。ぶるっと身体が震える。
 駐車場に向かうと、お母さんの車はすぐに見つかった。冷たい風から逃れたくて、そそくさと車に乗り込む。

「忘れ物とかしてない?」
「大丈夫だよー。寒いし早く帰ろうっ」
「はいはい。ちゃんとシートベルトしてね」

 颯太くんと並んで後部座席に座り、シートベルトを締める。
 車が走り出して数分後、窓の外に白いものがちらつき始めた。

「あらっ、雪? タイヤ変えておいてよかったわ」

 お母さんの声を聞きながら、わたしはそっと顔を曇らせた。
 ……どうしよう。やっぱりトイレに行きたいかもしれない。先ほどまで気にならなかった尿意が急に強くなってきたような気がする。
 でも、いまトイレに行きたいなんて言ったら、どうして出る前に済ませてこないのと怒られそうだ。少しくらい我慢しないと。家までは三十分くらいだし、そのくらいなら我慢できるかも。


 ――そう思っていたのだけれど。
 周りに何もない道路の途中で、車はいつの間にか渋滞に巻き込まれていた。先ほどからじわじわと進んでは止まっての繰り返しで、ほんの少ししか進んでいない。
 スマホの地図を開いて自宅までの所要時間を見てみるけれど、あと二十分はかかると表示されていた。

 どうしよう。おしっこしたい。
 尿意はかなり強まっていた。爪先を揺らしたり、こっそりと膝を擦り合わせたり、太腿をきつく寄せたりしてみるけれど、全然気を紛らわせることができない。

 お母さん、トイレ行きたい。
 その言葉は何度も口にしようとしては飲み込んでいた。だって、車がほとんど動かないのだからそんなこと言ってもどうしようもない。早く渋滞を抜けてほしい。
 窓の外で降り始めた雪は少しずつ勢いを増していた。

 まだ積もるほどではないけれど、雪のせいで周りの車も運転が慎重になっているのかもしれない。時間が経つごとに、わたしの膀胱には次々とおしっこが注ぎ込まれているような気がした。
 お腹が重たい。おしっこ、おしっこしたい。早くトイレに行きたい。

 できることならスカートを押さえたいところだけれど、隣に颯太くんがいるのにそんなことできない。おしっこを我慢していることも知られたくはない。
 車がほんの少し前に進む。早く、もっと早く進んで。

 シートに腰を押しつけて、膝にぎゅっと力を込めて。込み上げてくる尿意の波をそうやって何度もやり過ごしてきたけれど、突然、ぞくぞくと寒気が走った。
 しょろ、と下着が温かく濡れたような気がして、思わず前屈みになって足の付け根を両手で押さえる。もうなりふり構ってはいられなかった。
 もちろんそんな動きをしたら、隣に座っている颯太くんに気付かれないわけがなくて。

「ゆき、どうした? 酔った?」
「…………と、トイレ……」

 心配そうに顔を覗き込まれ、わたしは少し躊躇ってから蚊の鳴くような声で応えた。颯太くんが一瞬、渋い顔をする。

「我慢できない?」
「……わかんない、無理かも……」

 嘘だった。かも、じゃなくて、もう確実に我慢できない。でも、おしっこ漏れちゃいそうなんて、そんなこと言えない。

「おばさん、ゆきがトイレ我慢できないって」

 なんでお母さんに言うの!? 抗議の言葉は声にならなかった。
 ええっ、とお母さんが焦ったように声を上げる。

「あんたなんでもっと早く言わないの!」
「ご、ごめんなさい……」
「どっち? おしっこ?」
「お、おしっこ……」

 なんで颯太くんの前でそんな質問するの!? 涙目になりながらもぼそぼそと答えた。いくら子どもの頃から付き合いがあるとはいえ、もう高校生なのだから恥ずかしくて仕方ない。

「困ったわねえ……外でするわけにもいかないし……。ビニール袋か何かなかったかしら」
「俺、袋持ってますよ」

 颯太くんがリュックの中からコンビニのレジ袋を取り出した。少し大き目のサイズのやつ。なんでそんなもの都合良く持ってるの!?

「ありがとう、颯太くん。真雪、我慢できないなら袋にしちゃいなさい」
「そんな、できないよぅ……」
「じゃあ我慢できるの? 当分車動かないわよ、漏らしちゃうでしょ」
「ぅ……」

 中学生の頃、ドライブに行ったときに車の中でおもらしをしてしまった前科があるので否定することができない。
 せめて携帯トイレでも置いておいてくれたらよかったのに。
 本当は車の中でおしっこなんてしたくないけど、もう尿意は限界で。このままだとおもらししちゃう。シートを汚したら、きっとまたお母さんに怒られる。

「ゆき、もう限界だろ。俺、見ないし耳も塞ぐから、袋にしちゃいな」
「…………わかった」

 颯太くんに説得されて、渋々頷いた。片手でスカートを押さえたまま、彼が広げてくれた白いビニール袋を受け取る。
 ちら、と横を見ると、颯太くんは言葉の通り目を閉じて両耳を塞いで、顔を窓の方へ向けてくれた。
 改めて彼から渡されたコンビニの袋を見る。本当にこれにするの?

 躊躇ってしまうけれど、身体の震えを感じて迷っている暇はないと感じる。もうだめ、我慢できない。
 おしっこが出てしまわないように下肢に力を入れつつ、スカートの前を押さえていた手をそっと離す。まだだめ、まだでちゃだめだよ。必死に身体に言い聞かせながら下着を膝まで下ろして、ちょっとお尻を浮かせて太腿の間に袋をあてがった。

 シートベルトが邪魔だなと思ったけれど今更外している余裕はない。
 これで、大丈夫かな。こぼれたりしないかな。
 不安になるけれど身体はもう限界で。ほんの少し力を抜くと、しょろっとおしっこが飛び出した。

「……っ」

 ちょろ、しょろろ。細い水音が狭い車内に響き渡る。ばたばたと音を立てて、半透明の白いビニール袋の中にうっすらと黄色いおしっこが注ぎ込まれていく。
 勢いよく出してうっかり外してしまっては困るので、下肢に込める力を調節して少しずつ慎重に出す。そのくらいの余裕はかろうじてあったけれど、その分時間がかかってしまうのが恥ずかしい。

 この音、本当に颯太くんには聞かれていないよね?
 ばたばたと袋を叩いていた水流の音が、ぴちゃぴちゃと水面に落ちる音に変化していく。我慢していたおしっこはなかなか止まらない。
 車の中でおしっこをしているなんて恥ずかしくて仕方ない。でも、苦しかったお腹の中がすっきりしていくのは気持ちいい。

 車がほとんど動かなくてよかった。揺れる車内では上手くできなかったかもしれない。
 ちょろ、ちょろと数滴の雫が落ちて、ようやく終わった。
 袋の中には、なみなみと薄黄色いおしっこが溜まっていた。こんな量を我慢しているとは思わなかった。

「お母さん、これどうしたらいい……?」
「足元に置いておきなさい。こぼさないようにね」
「はーい……」

 ビニール袋の口をぎゅっと何回も固く結ぶ。うっすらと黄色が透けているのが恥ずかしい。そっと足元に置いて、ティッシュで濡れたところを拭いてから下着を上げた。汚れたティッシュはもう一枚のティッシュで包んで、ビニール袋の横に置いておく。あとでちゃんと捨てないと。
 その両方を自分の足で隠すようにして、シートに座り直した。スカートを直してから、顔を背けたままの颯太くんのブレザーを片手でそっと引っ張る。

「終わった?」

 耳を塞いでいた手を外してそんな風に訊かれると、かっと頬が熱くなった。

「う、ん。……もうこっち向いていいよ」
「ん……」

 視線をこちらへ向けた颯太くんは至って平然な顔をしていた。わたしは隣であんなに恥ずかしい思いをしていたのに。

「出る前にトイレ平気って訊いたよな? なんであのとき行っとかないの」

 呆れたように言われて、思わず彼から目を逸らす。

「だって、そんなに行きたくなかったもん。トイレ混んでたし」
「たくっ……次から気を付けような」
「わかってるもん……!」
「わかってないから言ってるんだろ」

 むう、と俯いて頬を膨らます。颯太くんに言われなくたってそのくらいわかってる。
 今日はちょっと、油断しちゃっただけ。もうこんなこと絶対しないもん。
 拗ねたようにそう思っていると、突然くしゃくしゃと髪を撫でられた。

「まあ、漏らさなくてよかったな」
「……っ、そんなことしないもんっ」

 颯太くんの声は茶化すような雰囲気ではなく、優しい。けれどそんなことを言われては、つい反発してしまう。心配してくれていたことはわかっているけど。
 外は寒そうなのに、顔だけがやたらと熱い。
 恥ずかしくて仕方ない、けれど。颯太くんが気付いてくれなかったら、おもらしをしてもっと恥ずかしいことになっていたかもしれない。それにこんなこと、ほかの男の子の前だったら絶対にできなかった。
 隣にいたのが颯太くんでよかった。そう思いながら、雪が降る窓の外にそっと視線を移した。

                                  END  
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