きょうだいと生徒

志月さら

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1.頭痛と微熱

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 頭の奥がずきずきと鈍く痛む。保健室のベッドで横になってから数十分、具合はちっともよくならないどころか、むしろ悪化していた。
 時々見舞われる重い頭痛。いつもは鎮痛薬を飲めばすぐによくなるのに、今日はうっかり切らしていた。
 保健室では薬を貰えない。少し休んで、具合がよくならないなら早退しようと養護教諭の高橋先生は言ってくれたけれど、多忙な両親が迎えに来られるとは思わなかった。

 寝ているだけでは治らないけど、この痛みを抱えたまま一人で電車に乗って帰るのもしんどい。プリーツスカートに皺がつくのも気にせずに寝返りを打つと、ふと、閉め切られたカーテンの外に人の気配を感じた。

「鮎川さん、起きられそう? 鞄持ってきてもらったから、早退しましょうか」
「はい……」

 鮎川あゆかわ真由那まゆなは力の入らない声で返事をすると、重い身体を引きずるように起き上がった。頭が重いだけなのに、全身が怠い気がするのは何故なのだろう。上履きを履くのすら億劫で、踵を少しだけ履き潰したまま、そっとカーテンを開けた。

「鮎川、大丈夫か?」
「……真鍋先生」

 カーテンの向こうにいたのは一人だけではなかった。
 高橋先生の後ろに立って、気遣うように視線を向けてきたのは副担任の真鍋まなべ圭一けいいち先生。
 二十四歳という若さと、整った顔立ち、そして、いつも着ている白衣が格好良いからと密かに女子生徒の人気を集めている。

 彼の手には真由那の通学用リュックの持ち手が握られていた。
 踵を履き潰した上履きと、軽い寝癖がついているであろう髪が急に恥ずかしくなる。
 さりげなく上履きを履き直してから、一歩前に踏み出す。リュックサックを受け取ろうとしたけれど、彼は渡してくれなかった。

「二人とも連絡つかなかったから、俺が家まで送るよ」
「いいんですか? 授業があるんじゃ……」
「プリント用意して空いてる先生に自習お願いしてきたから、大丈夫」
「じゃあ、お願いします」

 こくんと頷くと、真鍋先生は僅かに目を細めた。頭が重くて痛くて苦しいはずだったのに、ほんの少しだけ、気持ちが弾んでしまう。

「ゆっくり休んでね」
「はい。ありがとうございました」

 高橋先生に小さく頭を下げて、真鍋先生に促されるまま保健室を後にする。
 一瞬だけ嬉しいと思ってしまったけれど、やっぱり頭が痛くてしんどい。
 体調の悪い真由那を気遣ってか、彼はゆっくりと歩いて職員用駐車場に向かってくれた。

 車のドアを開けてもらって、そのまま後部座席にそっと座る。
 車に乗せてもらうのは初めてだ。具合が悪くなければもっとはしゃぐのに、いまは声を上げる元気もなかった。

「吐き気はない? 車酔いする方だっけ」
「たぶん大丈夫……」
「一応ビニール袋置いておくな。気持ち悪くなったらすぐに教えて」
「うん……」

 二人きりになった途端、敬語が外れてフランクな言葉遣いになる。何故なら二人はただの教師と生徒ではなく、特別な関係だから――なんて、少女漫画みたいなことがあったら素敵だったのだけれど。実際は、家族だから、というのが理由だった。
 教師の車に生徒を乗せることは禁じられているみたいだけれど、それが許されるのは彼が一応は保護者であるからなのだろう。

「横になるか?」
「いい。座ってる方が楽」
「そっか」

 運転の邪魔になるからか、圭一は白衣を脱いでワイシャツの袖を捲っていた。
 せっかくレアな姿を見れるのに、具合が悪いのが悔しい。車に乗せてもらえるなら、元気なときに助手席に座りたかった。
 シートベルトを締めてから、ふと、トイレに行きたい気がした。

 そういえば今朝、家を出る前に済ませたきりで、学校では一度もトイレに行っていない。けれど今更トイレに行きたいとは言い出しづらい。校内に戻るのも億劫だった。
 いいや。家まで我慢しよう。そんなに遠いわけじゃないし、まだ余裕はあるし、大丈夫なはず。

「途中で薬買うか。いつも何飲んでるんだ?」
「えっと……」

 エンジンをかけてから振り返った彼に問いかけられて、普段飲んでいる鎮痛薬の商品名を答える。了解、と頷いて、圭一は車を発進させた。
 ついでにトイレに行かせてもらおうかな、と考えてそっと膝を擦り合わせる。学校を出てしばらく車を走らせてから、途中にあるドラッグストアの駐車場に入った。店の入り口近くに車を止めて、彼は肩越しにこちらを振り返る。

「すぐ買ってくるから。ちょっとだけ待ってて」
「うん」

 頷いて、車を降りる彼を見送る。トイレに行きたい、と、言う暇はなかった。
 言葉通りに圭一はすぐ戻ってきた。
 箱を開けて二錠だけ切り分けた鎮痛薬のシートと水のペットボトル、それと空腹時に薬を飲むのはよくないからと、ゼリー飲料を手渡される。

 すぐに飲むように促されて、真由那はゼリー飲料を半分だけ口にしてから薬のシートを手に取った。錠剤を口に入れている間に圭一がペットボトルの蓋を開けてくれたので、常温の水で薬を喉の奥に流し込む。
 身体の中に水分を入れた途端、なんだか尿意が強まった気がした。薬を飲み込んでから、真由那はそっと口を開いた。

「あの……」
「ん? 他に欲しいものあるか?」

 目が合った、途端に。言おうとした言葉は口の中から消えてしまった。

「ううん。はやく、帰りたい」

 わかった、と優しく頷いて、圭一は運転席に戻る。
 お腹の奥でははっきりと尿意が存在を主張している。けれど、真由那はその欲求を口にすることができなかった。

「寝ててもいいぞ」
「ん……」

 気遣う声にそっと目を閉じる。眠くはないけれど、目を閉じている方が頭の痛みも少しは楽になる気がした。それに、眠ってしまえば尿意も気にならないかもしれない。
 車の揺れを感じながら、真由那の意識は少しずつ遠ざかっていった。
 
 ***
 
 ――家族、といっても、真由那と圭一に血の繋がりはない。一緒に暮らしてもいない。
 父親の再婚相手の子ども。
 既に親元を離れて一人暮らしをしているという話だったけれど、新しく母親になる人と顔合わせをしたときに紹介された。それが真鍋圭一で――彼女が密かに片想いをしている相手だった。

 お洒落なレストランで顔を合わせて、お互いに目を丸くした。
 相手の息子さんが教師をしていることはなんとなく聞いていたけれど、まさか真鍋先生だったなんて、思いもよらなかった。確かに同じ苗字だったけど気付くわけがない。
 名前も勤務先も聞いてはいなかった。

『まさか鮎川が妹になるなんてな』

 圭一は驚いた顔をしながらも、どこか嬉しそうにそう言った。
 高校入学したての当時はまだ副担任ではなくて、授業で時々顔を合わすだけの存在だったけれど、彼は真由那の顔と名前をしっかり覚えてくれていた。

『ほんとに! 真鍋先生がお兄ちゃんになるなんてびっくりですっ』

 真由那も驚いてはしゃぐ素振りを見せながらも、胸の内ではこっそり絶望した。
 恋に落ちたきっかけは単純で、校内で落とし物をしたときに優しく呼び止めて拾ってくれたこと。そして、顔がめちゃくちゃ好みだったということ。たったそれだけの理由で、でも、会うたびに好きになっていった。

 在学中は無理でも、高校を卒業すれば想いを伝えることができる。付き合えるかどうかなんてわからないけれど、絶対に可能性がないわけじゃない。そう、考えて、いたのに。
 ――きょうだいでは、恋人同士になんて、なれない。
 親の都合で、唐突に。真由那の恋は叶わないものになってしまった。
 

 形式上は家族になってから一年弱。
 ひとつ屋根の下で暮らしてはいないものの、月に何度かは食事をともにした。両親が不在になるときに、一人では心配だからと泊まりにきてくれることもある。
 家にいるときは真由那と呼んでくれるようになった。勉強を教えてくれて、学校ではできない気軽な話もするようになった。まるで本当の、兄妹みたいに。

 だけど、お兄ちゃん、なんて呼ぶことは当然できなくて。家にいるときもずっと、せんせいと呼んでいた。
 学校でしか会えなかったときよりも距離は近くなったはずなのに、何故だか彼のことを物凄く遠くに感じてしまう。
 好きという気持ちは増すばかりなのに、伝えることはできないなんてもどかしいだけだ。
 そのストレスが、頭痛というかたちで現れているのかもしれない。
 
***
 
 ほんの少しだけ、眠っていたらしい。
 ぼうっと目を開けた真由那をまず襲ったのは、強烈な尿意だった。
 やばい。おしっこ漏れそう。
 とっさにスカートの前を両手で押さえつける。見られていないのをいいことに、押さえた手はそのまま離すことができなくなった。

 お腹の奥がずくずくと疼く。膝に力を込めてぎゅっと寄せる。シートに腰を押し付けて尿意を誤魔化そうとするけれど、ちっとも楽にならない。頭の痛みはいつの間にか軽くなっていたけれど、代わりのように膀胱が重たかった。
 ちら、と圭一の後ろ姿を窺うけれど、運転に集中していて真由那の様子には気付いていない。気付いてと思ったけれど、やっぱり気付いてほしくなかった。

 気持ち悪くなったら教えてと言われたものの、おしっこが我慢できないなんてことは口にできない。それに、窓の外には見慣れた住宅街の景色が広がっている。家まであと少し。近くにはコンビニも何もない。
 こんなところでおしっこしたいなんて言ったって、どうにもできない。

 吐きそうになったときのために用意されていたビニール袋が視界の端に映る。こっそり済ませてしまおうかと一瞬思いついたけれど、バレるに決まっている。そもそも、もう、身動きを取れそうになかった。
 おしっこしたい。漏れちゃう。どうしよう。車、汚しちゃう。いやだ。そんなこと絶対したくない、のに。

 しゅー、と、突然下着の中が温かくなって、指先がぬるく濡れた。
 だめ、だめ、我慢して。身体を硬くして、必死に言い聞かせる。けれどそれ以上の我慢はもう続かなかった。濡れた下着が呼び水になり、再び、下着の中におしっこが零れる。

 ふっと身体の力が勝手に抜けてしまった。
 スカートと手のひらを濡らして、じわじわとお尻の下に温かい感触が広がっていく。
 おしっこ、出ちゃった。
 止めたくても止められない。家に着くまで、本当に、あと少し、だったのに。

 音も立てることなく、真由那のおもらしは数十秒で終わりを告げた。
 お腹の中が空っぽになって身体が軽くなったはずなのに、真由那は座席に縫い付けられたかのように身じろぎひとつできなかった。

 深く俯いた頭の中で、ぐるぐると思考が渦巻いている。どうしよう。
 どうしようどうしよう。好きな人の車で、おしっこを漏らしてしまった。
 幸か不幸か、圭一はまだ気付いていない。けれど知られてしまうのは時間の問題だった。
 だって、もうすぐ家に着いてしまう。

「着いたぞ。……真由那?」

 家に着いてエンジンを切った圭一が、何気なくこちらを振り向いた。
 怪訝な声を上げて、運転席から降りたのが音でわかる。その後すぐに、後部座席のドアが開かれた。真由那は俯いた顔を上げることができない。

「真由那? 大丈夫か? 気持ち悪い?」
「せんせい、ごめんなさい……」
「ん、どうし――」

 何かに気付いたように、圭一の視線が下に向けられた。
 ああ、と小さく声を漏らす。
 気付かれてしまった。どうしよう。怒られるかもしれない。嫌われて、しまうかも。

「トイレ我慢してたのか? いつから?」

 しゃがんで、そっと顔を覗き込まれる。顔が熱い。じわりと、視界が滲んだ。

「学校出たあと……ごめんなさい」
「そっか、言いづらかったよな。ごめんな」

 くしゃりと、髪を撫でられる。子どもみたいな粗相で車を汚してしまったというのに、彼の声はただ優しかった。

「とりあえず、中入ろう。頭痛いのよくなったか?」
「だいぶよくなった……」
「それならよかった。着替えて、ゆっくり休もうな」

 圭一は腕を伸ばしてシートベルトを外すと、そのまま真由那を抱き上げた。ぐっしょりと濡れて色の変わった座席のシートを見て泣きそうになる。
 合鍵で玄関を開けて、圭一は廊下を進んでいく。スカートからぽたぽたと落ちた雫が、歩いたところを点々と汚していった。恥ずかしくて情けない。きっと彼の衣服も汚してしまっている。
 脱衣所を素通りして、制服姿のままお風呂場で下ろされる。床に足をつけた途端、ひんやりとした感触に身体が震えた。

「あっ……」

 おしっこ。そう思った次の瞬間には、ぴちゃぴちゃと小さな水音が床を叩いていた。うっすらと黄色く色付いた水溜りが足元に丸く広がる。

「大丈夫大丈夫。全部出しちゃいな」

 真由那の身体を支えつつ、圭一が背中をさすってくれる。
 ちょろちょろと流れるおしっこが二人の靴下を汚していく。さっき全部出てしまったと思ったのに、まだこんなに出るなんて。自分の膀胱が恨めしくなる。

「もう出ない?」
「出ない……」

 短い水音が止まると子どもに訊くように問われた。恥ずかしすぎてどうにかなりそうだったけれど、圭一はそれ以上言葉を重ねることはせず、シャワーを手に取って濡れた床を洗い流してくれた。

「着替え、俺が取ってきてもいいか? シャワーは一人でできるな?」
「ん、大丈夫」

 両方の問いに対して頷く。下着を持ってきてもらうのはちょっと恥ずかしいけれど、おもらしを見られた以上に恥ずかしいことなんてそうそうない。
 着替えの場所を説明すると、圭一は靴下を脱いで軽く洗ってからお風呂場を出ていった。
 彼の気配が遠ざかってから、濡れた服をのろのろと脱いで、シャワーで身体を流す。

 スカート、クリーニングに出さないと。下着も早く洗わないと。
 頭痛は治ってきたはずなのに、酷く身体が重くて後始末も億劫だった。

***

 
「落ち着いた?」

 持ってきてもらった部屋着に着替えて脱衣所を出ると、圭一は廊下で待っていてくれた。
 急いで掃除してくれたのか、ところどころ汚してしまったところは綺麗になっている。

「あの、色々ごめんなさい……」
「気にするなって。体調悪いんだから仕方ないよ」
「でも、車汚しちゃって」
「大丈夫だよ。なんとかするから」

 真由那が何を言っても、圭一は優しい言葉を返してくれる。どうしてだろう。こんなに迷惑をかけているのに。教師だからか、それとも、家族だからなのだろうか。

「ほら、もう部屋で休もう?」

 顔を覗き込まれたので小さく頷くと、再びお姫様抱っこで抱き上げようとしてきた。

「ちょっと、もう歩けるよっ」
「いいからいいから。遠慮するなって」
「遠慮じゃなくて……」

 結局、有無を言わさずに抱き上げられた。ベッドまで丁寧に運ばれて、肩まで布団をかけられる。額にそっと手を当てられると、彼の手は少しひんやりしていた。

「やっぱり、顔が赤いと思ったらちょっと熱あるな。体温計持ってくるから」

 踵を返そうとした彼の袖をとっさに掴む。

「せんせい、嫌いにならないで……」
「急にどうした? 嫌いになんてならないよ」

 困惑した様子を見せながらも笑みを浮かべてくれる圭一に対して、無性に胸がざわつく。
 嫌いになんてならない。その言葉は本当だろうか。何を言っても、そう思ってくれるのだろうか。

「圭一せんせい、好き……お兄ちゃんになんて、ならないでほしかった」

 ぽつん、と。ずっと言いたくて言えずにいた言葉が、口から勝手に飛び出していた。
 圭一は僅かに目を丸くした。けれどすぐに、口元に苦笑を浮かべる。

「いまのは聞かなかったことにする」
「やだっ、なんで? 迷惑だから?」
「違うよ。いまはまだその気持ちに応えてやれないから」

 彼の声に耳を疑った。それって、つまり、どういうこと。
 呆然とする真由那にしっかりと視線を合わせて、圭一は口を開いた。

「高校卒業して、気持ちが変わっていなかったらまた言って。それまでは、俺の生徒で妹の真由那でいてほしい」

 授業中のわかりやすい説明と同じように、一言ずつ噛み砕くように言葉を紡ぐ。
 大好きな人が話してくれた言葉の意味が胸の奥にすとんと落ちて、思わず涙が零れた。

「こら、泣くとまた頭痛くなるだろ」
「だって……せんせいがそんなこと言うからぁ……」
「ごめんな。じゃあお詫びに、今日だけ何でもしてやる。何してほしい?」

 ただし、できる範囲でな。そう付け加えられた提案に、頭を悩ませる。
 ほんの少し熱があるせいか、ぼうっとする頭は上手く働いてくれなくて。思いついたのはどうでもいいようなお願いだった。

「じゃあ、プリン食べたいから買ってきて」
「了解。クリームのってるやつ?」
「うん。あと、スカート、クリーニング出してきて」
「それはやるつもりだった。他には?」
「えっと……あ、頭撫でて」
「お安い御用」

 柔らかい笑みとともに伸ばされた手が、優しく頭を撫でてくれる。
 早く大人になって彼にもう一度想いを伝えたいけれど。
 いまこのときだけは、子どものようにこの手に甘えていたかった。
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