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しおりを挟む『しっかしおまえ……まぁ、いいや。ごゆっくり』
と何か言いたげな空気をチラつかせ、凛斗の寿命を縮めて去っていった人物は愁の五つ上の兄だった。
愁にはその兄とその上にもう一人兄がいて、二人とも自分の美容院の近くに住まいがあるのだが、たまにふらっと実家に寄るらしい。
(完全にヤってる最中だってバレてたし、俺もう生きた心地しなかった……!)
顔を見られなかったのがせめてもの救いだったが、扱いきれないモヤモヤを抱えたまま週末に突入した。特に予定のない凛斗は部屋でひとり時間を持て余していた。愁も賢治もバイトで、他の友達は遊びに誘うほどの仲でもない。
(俺もどっかでバイトしよっかなぁ……)
実家暮らしの凛斗は、大学までの交通費や小遣いまでも親のお世話になっているためバイトというものをした事がない。一人息子で甘やかされている実感はあったが、ま、いっかと深く考えずにきた。しかし、上京して自立できるように努力している賢治や、将来を見据えて動いている愁を目の当たりにして、自分がひどく置いていかれている気がした。
昼に差し掛かる頃、愁からメールが届いた。
『今夜会いたい』
いつも挨拶の前置きを忘れない奴が寄越した短い文章に、思わず口元が緩む。きっとバイトで忙しい合間を縫って送ってきたに違いない。愁は『会える?』ではなく『会いたい』と気持ちを前面に出して誘ってくる。そして顔を見た途端、隠しもせずに喜びを顔に表す。
凛斗は『俺も』と、更に短い単語だけ返信した。
その後、ひと段落して休憩に入った愁から、待ち合わせの時間と場所を決めるため電話があった。愁のバイトが終わる時間に合わせて、凛斗がそのバイト先の近くまで行くことになった。
「そういえばあいつ、どんな仕事してるんだ?」
愁のバイト先は兄が経営している美容院らしいが、まだ学生で資格は持ってない愁は雑用とかだろうか。
愁がバイトしてるのを知ったのは、たまたまお風呂でバッタリ事件があったからで、愁から直接聞いたわけではない。あの時の二人の会話からすると以前から時々やってたみたいだが、凛斗と付き合ってる期間でバイトをしている素ぶりはなかった気がする。
内緒にしてるのだったらもっと違うリアクションだっただろうし、まずその必要性がない。ただ単純に凛斗が知らなかっただけだ。
時刻は午後三時。凛斗が待ち合わせ場所のファストフード店に着く直前「ごめん!三十分くらい遅れる」と愁から連絡がきた。店内で待ってて欲しいとメールにはあったが、立ち止まって考える。
コーヒーでも飲んでボーッとしていれば三十分なんてあっという間だろう。しかし足は興味のある方へ向かって行った。
「美容院ここだよな?」
店名は聞いてないが、待ち合わせ場所の目と鼻の先だと言っていたので恐らく合っているはずた。それらしき建物を見つけた凛斗は外装のガラスの部分から店内を覗き込んだが、数人いる人の中から愁の姿を探し出せなかった。大人しく待つか、と少し離れた所で暇つぶしに携帯をいじりながら立っていると美容院から出てきた男が真っ直ぐ凛斗の方へやってきた。
「君、さっきからそこにいるけど待ち合わせしてんの?」
手脚の長さが際立つ細身で背の高い男は、ニコニコ笑顔を浮かべながら親しそうに訊ねてきた。少し長めの髪には緩くパーマがあてられていて、オシャレにセットしてある。一見して美容関係だとわかるような風貌の男は凛斗の背まで身を屈めると至近距離で顔をマジマジと眺めてきた。男の意味不明な行動に警戒しながら凛斗はとりあえず返事をした。
「あの、何か?」
「うん。やっぱり顔綺麗だな。俺そこの店のスタイリストなんだけどさ、君スッゴクいいなぁって店ン中からずっと見てたんだ。カットモデル募集してるんだけどどう?」
「そういうのはちょっと……。それにこの後約束があるし」
勧誘だ。厄介なのに捕まったと正直に顔に出してしまった。しかし相手もこういう反応に慣れているのか、怪訝な表情の凛斗に向かってそのまま話を続けた。
「今日じゃなくてもいいよ。君の都合に合わせるから。カットやスタイリングは新人じゃなくてプロがやるし、もちろんお金なんて取らない」
よくまぁ知らない人にペラペラ喋れるものたと感心すらしてしまう。自分には絶対無理だ、と接客ジャンルがバイトの選択肢から外された。いい加減鬱陶しくなり、もうそろそろ逃げようと決めた時、凛斗はある事に気がついた。
「…………愁のお兄さん……?」
「お? なんだ、愁のダチか!?」
「ええっ、愁のお兄さん!?」
本当に愁のお兄さんだった。自分が訊いておきながら大声を上げて驚いた。凛斗が愁の知り合いだとわかるとお兄さんはラッキーと喜んだ後、アレ?と首を傾けた。
「会ったことあったっけ?」
「あー……直接はない、です」
(……つい先日風呂で背中越しには会ったけど)
「よく兄だってわかったなぁ。俺と愁全然顔似てないのに」
「こ、声で……」
(愁より少し低いこの声。顔を見てない分余計に耳に残ってた)
急激にお風呂でばったり事件の光景が蘇り、恥ずかしさが込み上げた。
「え? どうした!? 顔真っ赤だけど!」
「何でもないです!! 俺もう行きますので」
「おっと、ちょい待ち。さっき言ってた約束って愁とじゃないのか? 愁も同じようなこと言ってたしな」
さすが兄弟。強引な所がよく似てる。
「愁はもう少しだけかかるから中で待てば?」と凛斗は捕獲され、店内に連れていかれた。日曜の午後だから店は当然営業中。数名の客がゆったりと座って施術を受ける並びの一番奥の席に座らされた。カットモデルは店内に入って再度誘われたがハッキリと断った筈だが……と抗議の視線を鏡ごしに向けると、愁の兄、亘はさもこれから悪巧みをするというように片口を上げた。
「愁を驚かしてやろうぜ」
愁はバイトの報酬の一部として、スタッフを洗髪の練習台にしているらしい。ほら、と凛斗が座っている席のさらに奥をこっそり見せられた。そこには洗髪台が三つ並んでいて、愁はその一つで今まさに仰向けで横になっている男性の髪についた泡をシャワーで流しているところだ。真剣な眼差しで手を動かす愁は凛斗の存在に全く気づく様子がない。
(あんな顔して髪洗ってたのか……)
稀に見る愁の真面目で熱心な姿に、見ている凛斗の方が背筋が伸びる思いだった。
(あ、いいな。めっちゃ気持ちよさそう)
愁の指先の感覚を思い出し、身体の奥が疼く。練習役、代われるものなら代わって欲しいなぁと物欲しそうに眺めていると、亘が背後から悪魔が囁くような口調でコソッと言った。
「あいつ最近変わったことねぇ? 女が変わったからかなぁ」
「……え? 女?」
目を点にして聞き返すと、亘は凛斗を元いた椅子に座らせた。他の客からは離れているからか亘はリラックスした様子で凛斗の横にしゃがんだ。そして内緒話をすように口元に手を添えてコソコソと話し出した。
店の関係者じゃないが、あんたは仕事しなくていいのかと注意したくなる。
「知らなかった? 最近新しい女ができたみたいなんだけど。この前なんかイチャついてるとこ遭遇しちゃって焦ったぜ」
「それは……」
お風呂での俺の事でしょうか?
とは聞けない。墓穴を掘りそうで凛斗からは何も言えなかったが、どうやらあの時の凛斗を女と勘違いしているようだ。見られたのが後ろ姿で良かった。
「あれっ、凛斗!?」
亘の期待通り目を丸くして驚いた愁は、一瞬いつものように顔を綻ばせた後すぐにムッとした。表情筋が忙しそうだな。
「兄さん何で凛斗と一緒にいるのさ。変なこと言ってないよね?」
「コラ愁。ここじゃあ店長と呼べっつったろ。彼が店の外にいる所を俺がナンパした。カットモデルの話しただけだよ。なぁ?」
「う、うん」
愁にわからないように片目をウインクされて咄嗟に頷いた。亘は店長だったのかと軽く驚く。どうりで仕事をサボって凛斗とくっちゃべってても誰も注意しないはずだ。
「カットモデル!? そんなのしちゃダメ!」
「ちゃんと断ったよ。そういうの俺の柄じゃねぇだろ」
「何言ってんの! 凛斗はそこら辺の女子より顔が綺麗でモデルにはうってつけなんだよ!」
「止めてんのか勧めてんのかどっちだよ……」
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