僕はバス停だから、

結城鹿島

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 明日は卒業式。
 今日はその予行練習だと彼女は言っていた。卒業式当日は、彼女も衝立男も親の運転する車で学校に行くのだとも。
 だから、今日が二人のバスに乗る最後の日だ。
 いつもの道から衝立男の姿が見えた。
 ケータイを見ながら歩くその姿に、マナー違反野郎に転んでしまえと念を送る。
 残念なことに衝立男は躓きもせず、僕の元へと足を動かし続けている。
 今日は一段と早い。僕は少し焦りを覚える。
 彼女はまだ来ていない。
「こんなに早く来て、待ちたいのはバスじゃないだろ」
 僕は初めて衝立男に声をかける。
 答えは想像するまでもない。
 最近、運転手が変わったからか、バスの遅延が少ない。そのことを、バスに乗る頻度の減った彼女と衝立男は知らない。
「いくらお前が早く来ても、彼女と話す時間はわずかしかないんだぞ」
 衝立男はまだ遠い。
 しかし、人の足がバスより遅くても、このままでは時間の問題だ。すぐに僕の元に着いてしまう。
 その数分後に彼女がやってくるだろう。そうしたら、バスが来るまでの時間しか残されない。
 僕と衝立男の、彼女と一緒に過ごせる残り時間は同じ。
 どうせ僕は何もできないバス停だからと言い訳して、何もかも見なかった、何も知らなかったフリをしてしまいたい。
 だけど、彼女が会いたいのが、ここで待っているのが、バスじゃなくて誰なのか本当はもう知っている。
 ずっとずっと見てきたのだから。
 彼女が一人で寂しい顔をするのは、衝立男が理由だから。アイツが居ないことが原因だから。
 その気持ちをなんて呼ぶのかは知らない。
 でも僕は、知っている。
 会いたい人がいる喜びを。会えない苦しさを。
 僕はその気持ちを知っているんだ。
 どうして彼女だけが特別だったんだろう。
――そんなのわからない。
 どうすればいいんだろう?
 彼女が泣くのは嫌だ。
 僕との最後の思い出が、忘れ去りたいようなものになるのは嫌だ。
 どうしたらいいんだろう?
 彼女のために、僕にできることはなんだろう。
 バスが来たら、別々の目的地で降りてそれで終わりになってしまう。
 僕は存在しない脳味噌を振り絞り、一瞬の間で思考を巡らせる。

 浮かんだのは一つのアイデア。

 きっとできる。彼女のためならきっとできる。
 衝立男はケータイにずっと目をとられている。今なら気づかれないだろう。
 タイミング良く吹いた強風で弾みをつけて、僕は土手にダイブ。
 ガードレールを支点に、八十キロの重い土台も軽やかに宙を舞う。
 僕は彼女のためなら死ねるんだ。
 全身に衝撃が走る。土手の斜面を滑り、みっともなくずるずると枯草の間に全身が埋まっていく。人間だったら気絶してたかもしれないな。
 少しして、衝立男の素っ頓狂な声が土手の上から聞こえた。
「はあ!? バス停は?」
 さぞかし間抜けな顔をしているのだろうな。なんだか可笑しくてしかたない。僕は青空を見上げながら、満面の笑みを浮かべたつもりになった。
「嘘だろー? バス停が移動になったのか……?」
 衝立男はぶつぶつ言いながら、しばらく辺りを歩き回った。乱れた足音から混乱が窺える。
 けれど、衝立男は僕を見つけられない。いいや、衝立男だけじゃない、誰も思わないだろうな、僕がこんなところに寝ているなんて。枯れ草の手入れがマメにされるような立派な川じゃないし。上手く隠れられている筈だ。
 なんて痛快な気分だろう。
「んんん……? バス会社に電話をしてみるか?」
 誰に聞いているんだか。随分とまあ、混乱しているようだ。他に移動手段がないから動揺も仕方ないけれど。
「電話するにしても番号が分かんないな……。あ、反対側のバス停に書いてあるか……?」
 ひどい独り言と共に、衝立男の足音が遠ざかっていく。
 狙った通りの反応で僕は満足だ。ネットで調べる可能性もあると思ったが、ここを通るバス会社のサイトは分かり辛いと誰かが言っていたから、どのみちああなったはず。これでいい。僕の計算通り。
 反対側のバス停は遠いから、きっと大丈夫。
 アイツは間に合わないだろう。
 だから、はやくおいで。
 そろそろやってくるはずの、彼女に心で呼びかける、
 早足でスカートの裾を揺らして歩く姿が目に浮かぶようだ。
 きっと彼女は僕よりもずっと手前で、定刻通り走るバスに追い抜かれる。 悲鳴が聞こえるような気がする。
 慌てて走り出しても追いつけない。

 

 バス停に誰も客がいないからだ。いや、それどころか、そもそも僕がいない。運転手が営業所に連絡をして、誰かが僕を探しにくるまで、しばらく時間がかかるだろう。
 バスのエンジン音は止まることなく、頭上を通り過ぎていく。
 枯草に埋もれた僕にもよく聞こえる大声で、衝立男が叫んだ。
「まじかよ!?」
 案の定、坂下のバス停から戻ってくるのが間に合わずに、途中でバスに追い抜かれたのだ。
 バスの姿はもう見えないだろうに、ありえない! とか運転手止まれよ! 等々の衝立男の文句が近づいてくる。そして、止まった。
 荒い息をはずませ、ぽかんと立ち尽くしているだろう彼女の元で。
 二人が僕のいない場所で交差する。
「え、小暮君? なんでバス停ないの? どこに行っちゃったの? 急に廃止になることなんてある……?」
「わからない。俺が来た時にはなかった」
「えぇー? どうしよう……」
「バス会社に電話したけど、別に撤去したとか移動とか、この路線廃止とかじゃないって」
「さっき普通にバス来てたもんね……」
「そーね。俺たち二人とも完全に乗り過ごしたけど」
「うん。見事に置いていかれたね」
 二人のやけっぱちな声。
 なにせ次のバスは一時間後だ。
「誰かがふざけて持って行ったのかもしれないけど、いつもの場所で待っていればバス停無くても、バスは止まってくれるって言ってた」
「そう……。どうしようかなぁ。帰っても誰もいないし……」
 僕は成り行きを固唾をのんで見守る。
「……学校、行くの止めるってのもアリかもだけどさ、どうする? 榎本さん」
 おい、衝立、そうじゃないだろ。
 今日は授業はない。だから今どきの高校生なら、ここで帰って不貞寝するという選択肢だってアリではあるだろう。でも、そうじゃないだろ!
 僕は緊張しながら彼女の反応を待つ。
「私、次のバス待ってもいいかな……」
「……そっか」

「だって、小暮君と会うの、今日で最後だし」

 その言葉に含まれるのは衝立男への好意。声は消え入りそうにか細く、震えていた。きっと彼女の精一杯。
 しばらく、どちらからも言葉はなかった。
 何台か車が通りすぎてから咳払いを一つして、衝立男は
「よし! 俺もバスを待つ!」
 高らかに宣言した。
 寒風を遮る場所のないここで一時間を待つのは辛い筈なのに、二人共に嬉しくて仕方ないって顔をしているのが目に見えるようだ。僕に眼がなくったってわかる。

「考えてみれば、バス乗り逃がしたの、ありがたいかも。榎本さんにずっと話したいことがあったから」

 衝立男がいつもより真面目な声で言った。
 回りくどいヤツだ。まあいい、二十分も早く来た心意気に免じて許してやる。平静を装ってはいるが、実は相当緊張していることだろう。かっこつけたがりだからな。

「私に話したいこと?」
「榎本さん」
「……なに?」

「バス停以外でも会えますか? って、ずっと聞きたかった」

 ほらね。
 初めて君と言葉を交わした日、『ありがとうございます』なんて形式的な挨拶一つで馬鹿みたいに喜んだ間抜け男だよ。ソイツは。衝立男が君に気があるなんて、僕はずっと前から知っていたんだ。だから、大大大嫌いだった。
 ああ、今どんな顔をしているのだろう。
 身構えていたとしても、きっと彼女は顔を真っ赤に染めているに違いない。
 見たくないけれど、見たかったな。
 僕が一度も見たことないような、とんでもなく可愛い顔をしているだろう。間違いない。

「うん」

 小さいがはっきりした彼女の返事。

「私も、バス停以外で小暮君に会いたい」

 ああ、これできっと君は僕のことを忘れない。
 僕はバス停だから、バスに乗らなくなった君のことはいつか忘れてしまうかもしれない。
 でも、君が僕を忘れないなら、それでいい。
 それから二人はケータイ番号を教え合ったりしていたみたいだけど、僕は意識を手放し、何もかも考えることをやめた。



 僕が枯草の中から救出されたのは、翌々日の昼近く。
 発見してくれたのは犬の散歩中の老人だった。
 なかなか救出が来なかったので、僕は半分諦めかけていた。
 アルミパイプが随分と歪んだし、あちこち傷だらけでこのままお払い箱も仕方ない。彼女にはもう会えないし。僕が居なくたってバスが来るのだったらなおのこと。そんな風に。
 土手から引き上げられて再び定位置に立った時、反対車線をとろとろとバスが走ってくるのが見えた。
 坂の下から乗り込んだのか、窓側の席には見慣れた彼女の顔。制服ではなく、久しぶりの私服姿だ。僕を指さして、何事かを隣の乗客に話しかけている。隣に座っているのは衝立男だ。わかったのはそこまで。一瞬で通り過ぎていく。バスは僕を置いて走り去る。
 僕は彼女に呼びかける。

「幸せになってくださいね」

――ありがとうございます。

 僕は彼女の答えを夢想する。
 例え返事がなくても。

 そうしてまた、立ち尽くすだけの日々に戻った。
 だって、僕はバス停だから。

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