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夜会の招待1

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窓の外、空は白み始めている。今日も夜が去って、朝がやってくるのだ。

「さてさて、引っ越し先はどこに致しましょうか、お嬢様。いい加減、決めませんと……」

しわくちゃの昨日の新聞に目を通しながらジェフリーが訊いてきた。

「そうねー。南のエルベナ王国とかどう?」

ヴィオラは欠伸を噛み殺しながら適当に答えた。ジェフリーが眉を顰めて、みっともないとでも言いたげだが、眠いのだから仕方ない。
早起きの労働者たちへ、安いが不味いパンを売る行商の声が外から微かに聞えてくる。
しかし、吸血鬼のヴィオラにはこれからが眠りの時間だ。

「せめて、どちらの方へ向かうだけかだけでも決めませんと……」

「そうねえ……」
 
引っ越しは、幼い姿の吸血鬼にとっては切実な問題だ。
純血の吸血鬼はさておき、人間から吸血鬼に転化した場合はその時点で成長が止まる。だから四十歳の姿のジェフリーはともかく、成長途中の姿のヴィオラが一か所に留まっていられるのは一、ニ年が限度だ。定期的に住処を替えなければならない。
わずかでも目立つことは避け、ひっそりと暮すことが幼い吸血鬼の長生きの秘訣といえる。

「あのムカつくシスターに会わなきゃ、このあいだの街にもっと長居できたのにねえ……くあ……」

先日の騒動は完全に棚にあげ、ヴィオラは心の中で呪いを三十ほどハンターにぶつけた。

「お嬢様、お嬢様、眠るならきちんとベッドへ入って下さい」

「んー……」

もう駄目だ。眠くて仕方ない。ヴィオラは椅子で眠気に白旗を上げた。

「お嬢様? ……しょうがないお嬢様ですね」

声は呆れているけれど、ジェフリーが優しい手つきでヴィオラを持ち上げてくれる。大切な宝物のようにベッドへ運ばれ、布団をかけられた。

「お休みなさいませ、お嬢様」

ヴィオラは夢心地でジェフリーに「おやすみ」を返した。



ヴィオラの顔にかかる髪を払い、布団の位置を調整して、気のすむまで寝顔を眺めてからジェフリーは新聞の広告チェックに戻った。クロクスの大都市では近頃は賃貸物件を探すのに苦労しない。労働者にも吸血鬼にも有難いことだ。なにより、他人に関心が薄いのがいい。田舎だと、よそ者はそれだけで好奇心の対象だ。
先日まで滞在していた街もかなり良い条件だったが、ハンター見習いに見つかってしまったので、その日の内に出奔せざるをえなかった。今は、宿を転々としながら落ち着き先を探している。
今日の宿は、狭い客室一つしか開いていなかったが、文句も言えまい。随分遅い時間にやって来た客を泊めてくれたのだから。

一つきりのベッドをヴィオラに提供したジェフリーは、今日は眠るつもりはない。ヴィオラと違って日光への耐性があり、昼間でも活動することができるし、安全が完全に確保されているわけではない現状、同時に眠ってしまうわけにはいかない。眠っている最中にハンターに踏み込まれて、白木の杭を胸に埋められるなんてのはまっぴらごめんだ。

新聞にいくつか印をつけ、ジェフリーは息を吐いた。チェックはしたが、どれも不発に終わる予感がある。吸血鬼が住まいを選ぶ基準は、人間とは違う。例えば、日光は避けるべきものだし、利便性よりも先住の吸血鬼が居ないかどうか――の方が重要だ。
些細なことも災難の呼び水になるのだから、しばらく暮らす住居を探すのに慎重になってなりすぎることはない。なにせ、災難はハンターという形で呼ばなくても向こうからやって来る。

ジェフリーは眠るヴィオラの横顔を再び窺った。白い肌と黒髪のコントラストは、起きている時よりも彼女を大人びて見せる。美しく得難いものだと思っているが、クロクス王国で完璧な黒髪に黒い瞳という組み合わせは少しだけ目立つ。いや、色のことを置いても、ヴィオラは天使のように可愛いから、それだけで目立ってしまう。

「エルベナ……それも悪くないかもしれませんね」

ヴィオラは何気なく言ったようだが、夜の闇に紛れて暮らす吸血鬼には国境は障害にならない。同じ国に居続けるより、広く移動すべきなのかもしれない。
エルベナの記事がどこかにあったな、と新聞を捲ろうとしたジェフリーの手が止まる。
窓の外に何者かの気配。

濁った硝子窓をノックしながら、
「おーい」
何者かがやけに楽しそうに呼びかけてくる。
 
ジェフリーは視界の端で捉えた人影を無視しようか、しばし悩んだ。
この客室は二階で、外に足場はない。不審者と判断しても問題ないはずだ。顔を上げたら気付いていると思われてしまうので、新聞から視線は放さない。

「お二人さーん。おーい、寝てるー? それとも起きてるー? はやく開けてくれないかなー。窓を壊しちゃうぞー」

その気楽な声には、覚えがある。知り合いの吸血鬼、サルヴァトーレだ。愛称はトト。一人でいることの多い吸血鬼たちの中で、社交を好む極めつけの変わり者だ。
ジェフリーは大きく溜息を吐いた。このままそこで騒がれ続けては困る。新聞を置いて、窓を一瞥した。
灰色のローブを着込んだ人影が、こちらに手を振っている。
業腹だが、ヴィオラを起こさねばなるまい。

「……お嬢様、申し訳ございません。お客さまですよ。起きてください」
肩を軽く揺すって目覚めを促す。と、夜色の眠そうな眼が何度か瞬いてから、はっと見開かれた。

「お嬢様? っ!」

だしぬけにめいっぱいの力で腕を掴まれた。まるで、どこにも行かないでというように。

「……ヴィオラお嬢様、申し訳ありません。夜ではありませんが、起きて下さい。お客様です。サルヴァトーレ様ですよ」

平静を保って呼びかければ、徐々にヴィオラの意識がはっきりとしていく。

「寝ぼけたわ……」
ジェフリーを掴んでいた指をぎこちなく解いて、ヴィオラはゆっくりと息を吐きだした。

「眠りを邪魔して申し訳ありませんでした」
ジェフリーが言うと、ヴィオラは首を振った。酷く疲れきった顔で。こんな時、ジェフリーはやるせない気分でたまらなくなる。
(……きっと夢を見たのだ。よくない夢を)

「ジェフリー。鍵を開けてあげてちょうだい」

「――はい、かしこまりましたお嬢様」
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