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スピンオフ短編小説『声にならない拍手』
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―登場人物―
白石 結(しらいし ゆい)
17歳、高校2年生。ソフトボール部マネージャー。引っ込み思案だが誠実な性格。遥たち三年生の姿に憧れて入部した。
⸻
部室の隅に座って、白石結は自分の指先をじっと見つめていた。細くて、力のない指。それでも、ノートに記録を取り、部員たちのボールを拾い、水筒を並べることだけは、誰よりも真剣にやってきたつもりだった。
それでも、試合のたびに感じる“置いてけぼり”の感覚は、ずっと彼女の胸の奥にくすぶっていた。
斉藤遥が坊主で試合に出た、あの夏のことは、今でも鮮明に覚えている。彼女の姿に、部員たちは感動し、誇りを抱き、団結した。けれど――
(私は何もできなかった)
結の目には、何度もグラウンドで全力疾走する遥の姿がよぎった。自分はただ、遠くから拍手するだけの存在。あの日、何かが自分の中で止まってしまったような気がしていた。
⸻
冬、千紘たちが卒業して、新チームが動き出す。
キャプテンに任命された三宅は、意外にも厳しく、的確な判断を下すタイプだった。
「……結ちゃん、マネージャーって、本当にやりたい?」
ある日の練習後、突然そう訊かれた。グラウンドの隅で、結は戸惑ったまま立ち尽くした。
「え、あの……どういう……」
「いや、責めてるわけじゃない。ただ、最近ちょっと元気ないし……。やりたいこと、他にあるなら言っていいんだよ?」
やさしい言葉だった。けれど、結には“退部勧告”に聞こえた。マネージャーとしても一人前じゃない、そう言われたような気がした。
その夜、結は鏡の前に立って、長い髪を撫でた。
腰に届くほどの黒髪は、幼い頃からの宝物だった。母も祖母も、髪の手入れには厳しかったし、自分でもこの髪にだけは自信があった。
(この髪が、私の“らしさ”だった。でも……)
自分の中で何かが揺れていた。
翌朝。結は、駅前の「ヘアーサロン・タカハシ」の前に立っていた。かつて遥が足を踏み入れたというその場所。
ドアを開けると、鈴の音がカランと鳴った。
「……坊主に、してください」
その言葉が口から出た瞬間、白石結の心臓は自分の耳に聞こえるほど高鳴っていた。
店主は、カウンター越しにじっと彼女を見つめた。冬の光が差し込む床屋の店内。壁に飾られた古いポスター、整然と並ぶ櫛とハサミ、白い消毒液の匂い――どこか懐かしく、そして決定的に日常とは違う空間。
「高校の……部活か?」
「はい。……ソフトボール部のマネージャーです」
「ふうん」
店主はそれ以上何も言わずに、ゆっくりと結を一番奥の椅子へと案内した。革張りの椅子に腰を下ろすと、重たい音がして、空気が逃げた。
次の瞬間、首元に白いケープがかけられる。店主の手がマジックテープを締める感触が、ひやりと肌を撫でた。
「本当に、いいんだな?」
「……はい。変わりたいんです。私、ずっと、何にもできないって思ってて……。でも、私なりに何か、覚悟を示したくて」
「坊主ってのは、単なる髪型じゃない。生き様だぞ」
「それでも、お願いします」
店主はしばらく黙っていたが、やがて一つ、頷いた。
「じゃあ、始めよう」
櫛で髪がゆっくりととかされていく。結の黒髪は、腰まで届くほど長く、柔らかで艶やかだった。母に大事に育てられ、毎朝丁寧にブラッシングしてきた髪。
その髪を、店主は手早く三つに束ねた。後ろ、左、右。ゴムできゅっと結び、ピンと立ち上がった毛束が鏡越しに映った。
「……いくぞ」
ひとつ、深呼吸が聞こえる。そして、ハサミがゆっくりと持ち上げられた。
――チョキン。
右の束が切り落とされた。
空気が変わった。肩に乗っていた重みが、ふっと消える。毛束はそのまま、膝の上に落ちた。生温かくて、湿り気を含んだ髪の感触が、ケープ越しに伝わってくる。
結は無意識に目を閉じていた。まぶたの裏で、遠くグラウンドの風景が揺れていた。
「これが……私の髪か……」
「まだ、始まりにすぎんぞ」
店主は淡々と左、そして後ろの束も切り落とした。重力に逆らうことなく、髪はするりと床に落ちる。乾いた音が、心に残る。
ハサミが止まった。
「さて、ここからだ」
店主がバリカンを手に取る。無骨な金属の機械が、掌の中で低く唸る。
ジジジジジジ……。
「……怖かったら、目、閉じてていいぞ」
「いえ……見てます」
結は鏡の中の自分を、しっかりと見つめた。不揃いに短くなった髪。まだ“女の子”の輪郭を保つその顔。だが、もうすぐそれは変わる。
バリカンの刃が、額の生え際に当てられた。
「いくぞ」
ジジジジ――。
唸りを上げた刃が、頭皮に食い込む。前髪の中心から頭頂部まで、ゆっくりと一直線に進んでいく。
髪が削られていく感触。振動が頭の奥まで響く。切り取られた前髪が、ぱらぱらとバリカンの前から落ちていく。
ぱさ……ぱさ……。
黒い髪が、まるで羽毛のようにケープに降り積もる。
「前髪、なくなったぞ。涼しいだろ」
「……はい、すごく……軽いです」
目の前には、もう額を隠す髪がない。見慣れた自分の輪郭が、まるで新しい人間のように見えた。
バリカンは側頭部へと移動する。耳元で震える刃の音が、世界のすべての音を覆い隠す。ざっくりとした音、削られていく感覚、次々に落ちていく髪。
ケープの上はもう、黒い絨毯のようだった。
耳の周囲、後頭部、うなじ――
「ちょっと前かがみになって」
結は言われた通りに背を丸める。視界の端に、落ちていく髪の毛が次々と落下していくのが見えた。
バリカンの刃がうなじを通過し、うしろ髪をなぎ払っていくたび、風通しの良さが増していく。
――私は今、生まれ変わってる。
バリカンが最後の調整を終えた頃には、結の頭にはもう、一本の長い髪も残っていなかった。
音が止む。店主が、静かにスイッチを切った。
ケープの上には、まるで季節が変わるかのように、長くて美しい黒髪が広がっていた。
「終わったぞ」
鏡の中。そこには、丸く、すっきりとした頭をした少女が座っていた。髪がないぶん、瞳の力がそのまま前に出ていた。まっすぐで、凛としていた。
「……これが、私」
「そうだ。お前だけの“覚悟”の形だ」
結は、頭に手をやって、そっと撫でた。ざらりとした感触。剃りたての地肌の感覚が、リアルに掌に伝わってくる。
もう後戻りはできない。でも、心は不思議と澄んでいた。
「ありがとうございました。……大事にします、この頭」
「いつでも来な。今度は刈り直しか?」
「ふふ、考えときます」
結は店を出た。風が直接、頭に吹き込んできた。寒い。でも、確かに新しい風だった。
彼女はゆっくりと笑った。
それは、誰にも見せたことのない、自信に満ちた微笑だった。
翌朝、部室に坊主頭で現れた結に、最初は誰も言葉を出せなかった。
三宅が、口を開いた。
「……何か、あった?」
「ううん、何も。変わりたかっただけ。私、マネージャー、続けたい」
結の瞳は真っ直ぐだった。
「――本気でやるから。今度こそ、チームの力になりたい」
その言葉に、誰もが返す言葉を見つけられなかった。
でも次の瞬間、誰かが拍手を始めた。
静かに、確かに、そこに響く“声にならない拍手”。
それは、彼女が歩き出したことへの、心からのエールだった。
⸻
―了―
白石 結(しらいし ゆい)
17歳、高校2年生。ソフトボール部マネージャー。引っ込み思案だが誠実な性格。遥たち三年生の姿に憧れて入部した。
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部室の隅に座って、白石結は自分の指先をじっと見つめていた。細くて、力のない指。それでも、ノートに記録を取り、部員たちのボールを拾い、水筒を並べることだけは、誰よりも真剣にやってきたつもりだった。
それでも、試合のたびに感じる“置いてけぼり”の感覚は、ずっと彼女の胸の奥にくすぶっていた。
斉藤遥が坊主で試合に出た、あの夏のことは、今でも鮮明に覚えている。彼女の姿に、部員たちは感動し、誇りを抱き、団結した。けれど――
(私は何もできなかった)
結の目には、何度もグラウンドで全力疾走する遥の姿がよぎった。自分はただ、遠くから拍手するだけの存在。あの日、何かが自分の中で止まってしまったような気がしていた。
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冬、千紘たちが卒業して、新チームが動き出す。
キャプテンに任命された三宅は、意外にも厳しく、的確な判断を下すタイプだった。
「……結ちゃん、マネージャーって、本当にやりたい?」
ある日の練習後、突然そう訊かれた。グラウンドの隅で、結は戸惑ったまま立ち尽くした。
「え、あの……どういう……」
「いや、責めてるわけじゃない。ただ、最近ちょっと元気ないし……。やりたいこと、他にあるなら言っていいんだよ?」
やさしい言葉だった。けれど、結には“退部勧告”に聞こえた。マネージャーとしても一人前じゃない、そう言われたような気がした。
その夜、結は鏡の前に立って、長い髪を撫でた。
腰に届くほどの黒髪は、幼い頃からの宝物だった。母も祖母も、髪の手入れには厳しかったし、自分でもこの髪にだけは自信があった。
(この髪が、私の“らしさ”だった。でも……)
自分の中で何かが揺れていた。
翌朝。結は、駅前の「ヘアーサロン・タカハシ」の前に立っていた。かつて遥が足を踏み入れたというその場所。
ドアを開けると、鈴の音がカランと鳴った。
「……坊主に、してください」
その言葉が口から出た瞬間、白石結の心臓は自分の耳に聞こえるほど高鳴っていた。
店主は、カウンター越しにじっと彼女を見つめた。冬の光が差し込む床屋の店内。壁に飾られた古いポスター、整然と並ぶ櫛とハサミ、白い消毒液の匂い――どこか懐かしく、そして決定的に日常とは違う空間。
「高校の……部活か?」
「はい。……ソフトボール部のマネージャーです」
「ふうん」
店主はそれ以上何も言わずに、ゆっくりと結を一番奥の椅子へと案内した。革張りの椅子に腰を下ろすと、重たい音がして、空気が逃げた。
次の瞬間、首元に白いケープがかけられる。店主の手がマジックテープを締める感触が、ひやりと肌を撫でた。
「本当に、いいんだな?」
「……はい。変わりたいんです。私、ずっと、何にもできないって思ってて……。でも、私なりに何か、覚悟を示したくて」
「坊主ってのは、単なる髪型じゃない。生き様だぞ」
「それでも、お願いします」
店主はしばらく黙っていたが、やがて一つ、頷いた。
「じゃあ、始めよう」
櫛で髪がゆっくりととかされていく。結の黒髪は、腰まで届くほど長く、柔らかで艶やかだった。母に大事に育てられ、毎朝丁寧にブラッシングしてきた髪。
その髪を、店主は手早く三つに束ねた。後ろ、左、右。ゴムできゅっと結び、ピンと立ち上がった毛束が鏡越しに映った。
「……いくぞ」
ひとつ、深呼吸が聞こえる。そして、ハサミがゆっくりと持ち上げられた。
――チョキン。
右の束が切り落とされた。
空気が変わった。肩に乗っていた重みが、ふっと消える。毛束はそのまま、膝の上に落ちた。生温かくて、湿り気を含んだ髪の感触が、ケープ越しに伝わってくる。
結は無意識に目を閉じていた。まぶたの裏で、遠くグラウンドの風景が揺れていた。
「これが……私の髪か……」
「まだ、始まりにすぎんぞ」
店主は淡々と左、そして後ろの束も切り落とした。重力に逆らうことなく、髪はするりと床に落ちる。乾いた音が、心に残る。
ハサミが止まった。
「さて、ここからだ」
店主がバリカンを手に取る。無骨な金属の機械が、掌の中で低く唸る。
ジジジジジジ……。
「……怖かったら、目、閉じてていいぞ」
「いえ……見てます」
結は鏡の中の自分を、しっかりと見つめた。不揃いに短くなった髪。まだ“女の子”の輪郭を保つその顔。だが、もうすぐそれは変わる。
バリカンの刃が、額の生え際に当てられた。
「いくぞ」
ジジジジ――。
唸りを上げた刃が、頭皮に食い込む。前髪の中心から頭頂部まで、ゆっくりと一直線に進んでいく。
髪が削られていく感触。振動が頭の奥まで響く。切り取られた前髪が、ぱらぱらとバリカンの前から落ちていく。
ぱさ……ぱさ……。
黒い髪が、まるで羽毛のようにケープに降り積もる。
「前髪、なくなったぞ。涼しいだろ」
「……はい、すごく……軽いです」
目の前には、もう額を隠す髪がない。見慣れた自分の輪郭が、まるで新しい人間のように見えた。
バリカンは側頭部へと移動する。耳元で震える刃の音が、世界のすべての音を覆い隠す。ざっくりとした音、削られていく感覚、次々に落ちていく髪。
ケープの上はもう、黒い絨毯のようだった。
耳の周囲、後頭部、うなじ――
「ちょっと前かがみになって」
結は言われた通りに背を丸める。視界の端に、落ちていく髪の毛が次々と落下していくのが見えた。
バリカンの刃がうなじを通過し、うしろ髪をなぎ払っていくたび、風通しの良さが増していく。
――私は今、生まれ変わってる。
バリカンが最後の調整を終えた頃には、結の頭にはもう、一本の長い髪も残っていなかった。
音が止む。店主が、静かにスイッチを切った。
ケープの上には、まるで季節が変わるかのように、長くて美しい黒髪が広がっていた。
「終わったぞ」
鏡の中。そこには、丸く、すっきりとした頭をした少女が座っていた。髪がないぶん、瞳の力がそのまま前に出ていた。まっすぐで、凛としていた。
「……これが、私」
「そうだ。お前だけの“覚悟”の形だ」
結は、頭に手をやって、そっと撫でた。ざらりとした感触。剃りたての地肌の感覚が、リアルに掌に伝わってくる。
もう後戻りはできない。でも、心は不思議と澄んでいた。
「ありがとうございました。……大事にします、この頭」
「いつでも来な。今度は刈り直しか?」
「ふふ、考えときます」
結は店を出た。風が直接、頭に吹き込んできた。寒い。でも、確かに新しい風だった。
彼女はゆっくりと笑った。
それは、誰にも見せたことのない、自信に満ちた微笑だった。
翌朝、部室に坊主頭で現れた結に、最初は誰も言葉を出せなかった。
三宅が、口を開いた。
「……何か、あった?」
「ううん、何も。変わりたかっただけ。私、マネージャー、続けたい」
結の瞳は真っ直ぐだった。
「――本気でやるから。今度こそ、チームの力になりたい」
その言葉に、誰もが返す言葉を見つけられなかった。
でも次の瞬間、誰かが拍手を始めた。
静かに、確かに、そこに響く“声にならない拍手”。
それは、彼女が歩き出したことへの、心からのエールだった。
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