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サイドストーリー
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母・恵子の断髪
昭和六十年、夏の手前。通りの花壇に植えられたベゴニアが、昼の光を受けて艶めいている。銀行の営業店のガラス戸を開けるたび、外気の熱気が帳場に流れ込み、奥の電卓のプリンタがカリカリと紙テープを吐き出す音に混じって、制服のスカーフが汗で肌に貼りつく。
恵子は二十五歳。濃紺のジャケットにタイトスカート、胸元には行名のバッジ。髪は背中半ばまでの黒いストレートで、休日は軽く巻いていたが、職場ではいつも低い位置でまとめている。「清楚ね」としばしば言われた。褒め言葉の形で、枠の釘を打たれる感覚も、同じ回数だけ味わっていた。
昼の打刻を済ませると、課長が書類の束を机に置き、半歩だけ身を乗り出した。
「この間の週報、良かったよ。……ただね、恵子くん」
恵子は体を向ける。
「髪が長いと、やっぱり目立つ。営業店は“清潔感”が命だから。もう少し落ち着いたまとめ方にするか、いっそ短くしてもいいんじゃないか」
声色は穏やかだった。しかし「清潔感」という言葉のうちに、誰の基準か分からない線引きの匂いがした。
「失礼しました。検討します」
丁寧に頭を下げる。反論は、その場を硬くしてしまう。昭和のオフィスの空気は、角を立てずにやり過ごすことを覚えた人間にだけ、紙一枚の“自由”を配る仕組みになっていた。
ロッカー室で髪ゴムを外すと、重みが肩甲骨に落ちた。鏡の中の自分は、たしかに「目立つ」のかもしれない。けれど、目立つのは髪ではなく、わたしの意思を隠しきれない目なのではないか――そう考えて、恵子はふっと笑った。
昼休みは一時間。時計は十二時二十六分。ふと、休憩室を抜けて外に出た。大通りを一本それた路地に、赤・青・白のサインポールがゆっくり回る店があるのを思い出したのだ。
「理容 大西」。
磨りガラスの引き戸。中には黒革の回転椅子が一脚、壁にはカレンダー、棚には緑の瓶に浸かった櫛。シェービングソープの甘い匂いとタルクの粉っぽさ――父の床屋に連れられた幼い日の記憶が、匂いとともに蘇る。
引き戸を開けると、小さな鈴が涼しく鳴った。
「いらっしゃい」
白衣に蝶ネクタイ、五十そこそこの男が顔を上げる。短く刈り上げた襟足が、潔い。
「お昼休みにすみません。短くしたいんです」
「おや、嬉しいね。暑くなるからね。どのくらい?」
恵子は一度、息を整えた。
「肩に触れないくらい……いえ、襟足はすっきり、耳も出るくらい。仕事でもきちんとして見えるように。……可能なら、少し刈り上げても」
理容師の目が、ほんの少しだけ笑った。
「任せて。うちは“床屋”だからね。襟足はきれいにするよ。時間は?」
「四十五分あります」
「十二時二十五分に始めて、ちょうどいい頃合いだ」
黒革の椅子に腰を落とす。革がきしみ、背が支えられる。首元に白い紙のクロスが巻かれ、その上に薄灰のケープが羽のように広がった。逃げ道が、優しく塞がる感覚。
理容師――大西は、恵子の長い髪を手で測るように持ち上げ、左右を二つに分けてゴムで束ねた。
「最初の一束、自分で切る?」
一瞬、迷いが胸の表面を走る。だが、すぐに頷いた。
渡されたハサミは、冷たく、軽かった。
大西が指で肩の高さを指し示す。
「耳より前、ここで。ためらわずにね」
――しゃり、しゃり、しゃり。
髪の繊維がほどける音。抵抗がふっと途切れ、束がケープの上を滑って、床へ。黒いリボンをほどいたように広がる。
逆側も同じように落とすと、肩が一枚、軽くなる。
「お見事」
大西の声に、恵子も小さく笑う。最初の一歩が、一番怖くて、同時に一番気持ちが良い。
プロの手にハサミが渡る。
――ちょき、ちょき、ちょき。
耳の上、もみあげ、後頭部。湿った髪が羽のように舞い、ケープの上で線を描く。鏡の中の輪郭が、少しずつ軽く、立体的になっていく。
「顎、少し引いて」
襟足に冷えた金属の感触。鋏先が迷いなく踊り、うなじの丸みが現れる。
落ちる髪は太い川から細い筋へ、流れはやがて途切れ途切れの雨粒になった。
大西がドライヤーを取り、ブロワーの風が首筋を撫でる。乾いていく最中に、恵子は自分の頭の“形”を初めて意識する。髪型ではなく、骨格そのものが鏡に現れる感じ。
「ここからは、うちの見せ場。襟足をきれいにしていこう」
大西がクリッパーを取り出す。アタッチメントをカチリと嵌める音が、小さな儀式の合図のように響いた。
「まずは6ミリで下地をつくるよ」
――ヴゥゥゥン。
低い振動音。刃が襟足から上へ走るたび、細かい黒い欠片が雪のように舞ってケープに散る。
ザザザ――。
6ミリで均したところに、さらに3ミリを重ねて際を締める。
ザッ、ザッ。
耳の後ろで刃がカーブを描く。耳たぶがくっきりと浮かび、首筋が一本の線になっていく。
「おでこ側は残しつつ、全体はショート。後ろはグラデーションで“仕事できる風”に」
冗談めかす調子が、妙に嬉しい。
「最後、レザーで襟足の産毛を処理するよ。動かないでね」
ストレートレザーが静かに開かれる。泡を立てる刷毛の感触が、子どものころに父と来た床屋の時間を連れてくる。温かい蒸しタオルがうなじを包み、ひやりとした刃が皮膚の上を音もなく滑った。
――すっ。
産毛が削がれ、襟足がガラス細工みたいに澄む。
「首、細いね。このカーブは短いほうが映える」
褒められたわけではない。ただ、形を正確に言われただけ。それなのに、身体の一部が“自分のもの”として戻ってくる感覚があった。
前へ回り込み、もみあげを整える。
「耳、出す?」
「出してください」
――ちょき。
もみあげの先が細く、鋭く、耳朶のカーブをなぞる。頬骨が高く見え、目が大きく開く。
「もう一度、全体のバランスを」
ハサミが空気を切るたび、ケープの上の黒い点々は地図の記号みたいに増えていく。やがて、ほうきが静かにそれを掃き集めた。
ドライヤーの風が止む。大西が手鏡を渡し、背後のラインを見せる。
鏡の中の恵子は、肩に何も触れていない。襟足は短く、耳は潔く出て、トップは柔らかく動く。
「どう?」
「……すごく、軽い」
言葉にした瞬間、胸の中央が少し熱くなった。
「会社の“清潔感”とやら、にも、これなら文句ないよ」
大西が笑い、白いタルクを首に叩く。指の腹で円を描くと、汗ばむ午後に粉の乾いた感触が心地いい。
ケープが外れ、白い紙のクロスも外される。首筋を風が走る。回転椅子が起き上がると、床には長い束と、短い欠片とが混ざり合い、時間の層のように重なっていた。
「持って帰る?」
「え?」
「記念に。長い束だけ、少し」
恵子は頷いた。透明な袋に入れられた髪は驚くほど軽く、しかし指を通すと、これまでの自分の迷いが一本ずつ入っていたような気もした。
会計を済ませ、引き戸を開ける。鈴が鳴り、夏の手前の風が頬を撫でる。
ガラスに映ったシルエットは、背すじが伸びていた。影は短い。
腕時計は十二時五十八分。歩いて職場に戻る道すがら、ショーウィンドウに映る自分を横目に何度も確認した。見慣れていないだけで、怖くはない。むしろ、街の景色に自分が“正しく配置された”感じがする。
営業店に戻ると、同僚たちが一瞬動きを止め、すぐに声が飛んだ。
「わ、似合う!」
「恵子さん、イメチェン?」
「いいじゃない、涼しげ」
課長は書類をめくる手を止め、「うん」と短く頷いた。
「清潔感、いいね」
恵子は微笑んだ。
「ありがとうございます。仕事に戻ります」
そう言って席に着くと、印字用紙の紙の匂い、機械の油、窓の外の陽射し、すべてが同じで、ただ自分の呼吸だけが違っていた。深い。
午後、得意先の帳簿の不一致に気づき、上司に提案を持っていった。
「この仕訳、月末締めに寄せれば、処理が整います」
課長はしばらく黙ってから、うなずいた。
「やってみよう」
その“やってみよう”の一言は、今までの「検討する」とは違う響きがあった。声が、こちらを一人前として扱う重さを持っていた。
夜、実家の電話に受話器を当てる。黒いダイヤル式の電話は、回すたびに指に静かな抵抗を返す。プルルル……ガチャ。
「もしもし」
「お母さん? 髪、切ったの」
しばし沈黙。台所の時計が刻む音がうっすらと聞こえる。
「女の子らしさが……」
いつもの台詞。恵子は、笑いを含んだ声で返した。
「私は“女の子”じゃない。“女の人”になりたいの」
受話器の向こうで、母がため息をつき、それから小さく笑う気配がした。
「どんな髪でも、恵子は恵子よ。明日、顔を見せにおいで」
「うん」
受話器を置いた指先に、床屋で感じた刃のひやりとした感触がよみがえる。恐れではなく、輪郭を確かめるための冷たさ。
数日が過ぎ、店に来るお客様の応対の声が自然に通るようになったのを自覚した。髪を振り返る仕草が減り、視線がまっすぐ相手に届く。
「恵子さん、今度の新人研修、手伝ってくれる?」
「はい」
任される言葉の重さは増え、残業も増えた。だが、疲れの質が違った。自分の意思のために使う疲れは、身体に甘い。
秋。通りの銀杏が色づく頃、ふと、襟足の産毛が気になる。昼休み、また「理容 大西」の引き戸を開けた。
「お、これは“維持しに来る顔”だね」
「はい。伸びたぶんだけ、ゼロに」
大西が笑い、刷毛で泡を立て、蒸しタオルをのせる。レザーがうなじを歌い、タルクがさらさらと肩を走る。
“維持する”ことが、こんなにも自分を励ますとは知らなかった。伸ばす自由と、剃る自由。その両方が自分にあると知るだけで、曇りの日の気持ちは半分、晴れる。
幾年かが過ぎ、ローン電卓はPCに替わり、行名のロゴも刷新され、制服も明るい色に変わった。恵子は係長になり、結婚し、やがて娘を産んだ。
娘が幼いころ、髪を結ぶ小さなゴムを買いに行きながら、ふと「女の子らしく」と言ってしまったことがある。気づいたとき、胸の奥が少しざわついた。
――あのとき、わたし自身が切ったのに。
言葉は習慣に宿り、習慣は世代をまたぐ。気づいた人間が、少しずつほどくしかない。
ある夏の夜。スマートフォンの画面が震え、ビデオ通話の着信が入った。娘――美佐からだ。
画面に現れた娘は、スキンヘッドだった。
恵子は一瞬、言葉を失う。次に、あの店の匂い、刷毛のくすぐったさ、レザーの歌、落ちる髪の影が一気に蘇った。
「……どうしたの、その髪」
「誕生日だから、変えたかった」
沈黙。台所の時計が、今も変わらぬテンポで時を刻む。
「女の子らしさ、って何?」
「私は“女の子”じゃない。二十五の女だよ」
恵子は、笑った。涙で視界が少し滲む。
「似合ってるよ。あなたの顔は、どんな髪でもあなたの顔だもの」
画面越しに見た娘の瞳は、二十五歳の自分が床屋の鏡で見た瞳と、同じ色をしていた。
――ああ、やっぱり血はつながっている。
そう思うと、首筋の産毛がそよいだ気がして、恵子は無意識に手で襟足を撫でた。そこは今も短く、清潔だ。自分の輪郭を、自分の手で撫でられる場所。
翌朝、少し早く起きて、駅へ向かう途中の路地を曲がる。サインポールは回っている。引き戸の向こうから、鈴の音。
「おはようございます」
「おはよう。今日は?」
「いつもどおり。襟足、きっちり」
刷毛の泡、蒸しタオル、刃の歌。
恵子の日常は、あの日から少しずつ変わり、けれど床屋の工程は変わらない。変わらない工程の中で、変わっていく自分を何度でも赦せるのだ。
髪が落ちるたびに、言い訳も一緒に落ちていく。
鏡の中のシルエットは、いつ見ても少しだけ新しく、少しだけ懐かしい。
二十五歳で結んだ小さな決意は、今も首筋で呼吸している。
昭和六十年、夏の手前。通りの花壇に植えられたベゴニアが、昼の光を受けて艶めいている。銀行の営業店のガラス戸を開けるたび、外気の熱気が帳場に流れ込み、奥の電卓のプリンタがカリカリと紙テープを吐き出す音に混じって、制服のスカーフが汗で肌に貼りつく。
恵子は二十五歳。濃紺のジャケットにタイトスカート、胸元には行名のバッジ。髪は背中半ばまでの黒いストレートで、休日は軽く巻いていたが、職場ではいつも低い位置でまとめている。「清楚ね」としばしば言われた。褒め言葉の形で、枠の釘を打たれる感覚も、同じ回数だけ味わっていた。
昼の打刻を済ませると、課長が書類の束を机に置き、半歩だけ身を乗り出した。
「この間の週報、良かったよ。……ただね、恵子くん」
恵子は体を向ける。
「髪が長いと、やっぱり目立つ。営業店は“清潔感”が命だから。もう少し落ち着いたまとめ方にするか、いっそ短くしてもいいんじゃないか」
声色は穏やかだった。しかし「清潔感」という言葉のうちに、誰の基準か分からない線引きの匂いがした。
「失礼しました。検討します」
丁寧に頭を下げる。反論は、その場を硬くしてしまう。昭和のオフィスの空気は、角を立てずにやり過ごすことを覚えた人間にだけ、紙一枚の“自由”を配る仕組みになっていた。
ロッカー室で髪ゴムを外すと、重みが肩甲骨に落ちた。鏡の中の自分は、たしかに「目立つ」のかもしれない。けれど、目立つのは髪ではなく、わたしの意思を隠しきれない目なのではないか――そう考えて、恵子はふっと笑った。
昼休みは一時間。時計は十二時二十六分。ふと、休憩室を抜けて外に出た。大通りを一本それた路地に、赤・青・白のサインポールがゆっくり回る店があるのを思い出したのだ。
「理容 大西」。
磨りガラスの引き戸。中には黒革の回転椅子が一脚、壁にはカレンダー、棚には緑の瓶に浸かった櫛。シェービングソープの甘い匂いとタルクの粉っぽさ――父の床屋に連れられた幼い日の記憶が、匂いとともに蘇る。
引き戸を開けると、小さな鈴が涼しく鳴った。
「いらっしゃい」
白衣に蝶ネクタイ、五十そこそこの男が顔を上げる。短く刈り上げた襟足が、潔い。
「お昼休みにすみません。短くしたいんです」
「おや、嬉しいね。暑くなるからね。どのくらい?」
恵子は一度、息を整えた。
「肩に触れないくらい……いえ、襟足はすっきり、耳も出るくらい。仕事でもきちんとして見えるように。……可能なら、少し刈り上げても」
理容師の目が、ほんの少しだけ笑った。
「任せて。うちは“床屋”だからね。襟足はきれいにするよ。時間は?」
「四十五分あります」
「十二時二十五分に始めて、ちょうどいい頃合いだ」
黒革の椅子に腰を落とす。革がきしみ、背が支えられる。首元に白い紙のクロスが巻かれ、その上に薄灰のケープが羽のように広がった。逃げ道が、優しく塞がる感覚。
理容師――大西は、恵子の長い髪を手で測るように持ち上げ、左右を二つに分けてゴムで束ねた。
「最初の一束、自分で切る?」
一瞬、迷いが胸の表面を走る。だが、すぐに頷いた。
渡されたハサミは、冷たく、軽かった。
大西が指で肩の高さを指し示す。
「耳より前、ここで。ためらわずにね」
――しゃり、しゃり、しゃり。
髪の繊維がほどける音。抵抗がふっと途切れ、束がケープの上を滑って、床へ。黒いリボンをほどいたように広がる。
逆側も同じように落とすと、肩が一枚、軽くなる。
「お見事」
大西の声に、恵子も小さく笑う。最初の一歩が、一番怖くて、同時に一番気持ちが良い。
プロの手にハサミが渡る。
――ちょき、ちょき、ちょき。
耳の上、もみあげ、後頭部。湿った髪が羽のように舞い、ケープの上で線を描く。鏡の中の輪郭が、少しずつ軽く、立体的になっていく。
「顎、少し引いて」
襟足に冷えた金属の感触。鋏先が迷いなく踊り、うなじの丸みが現れる。
落ちる髪は太い川から細い筋へ、流れはやがて途切れ途切れの雨粒になった。
大西がドライヤーを取り、ブロワーの風が首筋を撫でる。乾いていく最中に、恵子は自分の頭の“形”を初めて意識する。髪型ではなく、骨格そのものが鏡に現れる感じ。
「ここからは、うちの見せ場。襟足をきれいにしていこう」
大西がクリッパーを取り出す。アタッチメントをカチリと嵌める音が、小さな儀式の合図のように響いた。
「まずは6ミリで下地をつくるよ」
――ヴゥゥゥン。
低い振動音。刃が襟足から上へ走るたび、細かい黒い欠片が雪のように舞ってケープに散る。
ザザザ――。
6ミリで均したところに、さらに3ミリを重ねて際を締める。
ザッ、ザッ。
耳の後ろで刃がカーブを描く。耳たぶがくっきりと浮かび、首筋が一本の線になっていく。
「おでこ側は残しつつ、全体はショート。後ろはグラデーションで“仕事できる風”に」
冗談めかす調子が、妙に嬉しい。
「最後、レザーで襟足の産毛を処理するよ。動かないでね」
ストレートレザーが静かに開かれる。泡を立てる刷毛の感触が、子どものころに父と来た床屋の時間を連れてくる。温かい蒸しタオルがうなじを包み、ひやりとした刃が皮膚の上を音もなく滑った。
――すっ。
産毛が削がれ、襟足がガラス細工みたいに澄む。
「首、細いね。このカーブは短いほうが映える」
褒められたわけではない。ただ、形を正確に言われただけ。それなのに、身体の一部が“自分のもの”として戻ってくる感覚があった。
前へ回り込み、もみあげを整える。
「耳、出す?」
「出してください」
――ちょき。
もみあげの先が細く、鋭く、耳朶のカーブをなぞる。頬骨が高く見え、目が大きく開く。
「もう一度、全体のバランスを」
ハサミが空気を切るたび、ケープの上の黒い点々は地図の記号みたいに増えていく。やがて、ほうきが静かにそれを掃き集めた。
ドライヤーの風が止む。大西が手鏡を渡し、背後のラインを見せる。
鏡の中の恵子は、肩に何も触れていない。襟足は短く、耳は潔く出て、トップは柔らかく動く。
「どう?」
「……すごく、軽い」
言葉にした瞬間、胸の中央が少し熱くなった。
「会社の“清潔感”とやら、にも、これなら文句ないよ」
大西が笑い、白いタルクを首に叩く。指の腹で円を描くと、汗ばむ午後に粉の乾いた感触が心地いい。
ケープが外れ、白い紙のクロスも外される。首筋を風が走る。回転椅子が起き上がると、床には長い束と、短い欠片とが混ざり合い、時間の層のように重なっていた。
「持って帰る?」
「え?」
「記念に。長い束だけ、少し」
恵子は頷いた。透明な袋に入れられた髪は驚くほど軽く、しかし指を通すと、これまでの自分の迷いが一本ずつ入っていたような気もした。
会計を済ませ、引き戸を開ける。鈴が鳴り、夏の手前の風が頬を撫でる。
ガラスに映ったシルエットは、背すじが伸びていた。影は短い。
腕時計は十二時五十八分。歩いて職場に戻る道すがら、ショーウィンドウに映る自分を横目に何度も確認した。見慣れていないだけで、怖くはない。むしろ、街の景色に自分が“正しく配置された”感じがする。
営業店に戻ると、同僚たちが一瞬動きを止め、すぐに声が飛んだ。
「わ、似合う!」
「恵子さん、イメチェン?」
「いいじゃない、涼しげ」
課長は書類をめくる手を止め、「うん」と短く頷いた。
「清潔感、いいね」
恵子は微笑んだ。
「ありがとうございます。仕事に戻ります」
そう言って席に着くと、印字用紙の紙の匂い、機械の油、窓の外の陽射し、すべてが同じで、ただ自分の呼吸だけが違っていた。深い。
午後、得意先の帳簿の不一致に気づき、上司に提案を持っていった。
「この仕訳、月末締めに寄せれば、処理が整います」
課長はしばらく黙ってから、うなずいた。
「やってみよう」
その“やってみよう”の一言は、今までの「検討する」とは違う響きがあった。声が、こちらを一人前として扱う重さを持っていた。
夜、実家の電話に受話器を当てる。黒いダイヤル式の電話は、回すたびに指に静かな抵抗を返す。プルルル……ガチャ。
「もしもし」
「お母さん? 髪、切ったの」
しばし沈黙。台所の時計が刻む音がうっすらと聞こえる。
「女の子らしさが……」
いつもの台詞。恵子は、笑いを含んだ声で返した。
「私は“女の子”じゃない。“女の人”になりたいの」
受話器の向こうで、母がため息をつき、それから小さく笑う気配がした。
「どんな髪でも、恵子は恵子よ。明日、顔を見せにおいで」
「うん」
受話器を置いた指先に、床屋で感じた刃のひやりとした感触がよみがえる。恐れではなく、輪郭を確かめるための冷たさ。
数日が過ぎ、店に来るお客様の応対の声が自然に通るようになったのを自覚した。髪を振り返る仕草が減り、視線がまっすぐ相手に届く。
「恵子さん、今度の新人研修、手伝ってくれる?」
「はい」
任される言葉の重さは増え、残業も増えた。だが、疲れの質が違った。自分の意思のために使う疲れは、身体に甘い。
秋。通りの銀杏が色づく頃、ふと、襟足の産毛が気になる。昼休み、また「理容 大西」の引き戸を開けた。
「お、これは“維持しに来る顔”だね」
「はい。伸びたぶんだけ、ゼロに」
大西が笑い、刷毛で泡を立て、蒸しタオルをのせる。レザーがうなじを歌い、タルクがさらさらと肩を走る。
“維持する”ことが、こんなにも自分を励ますとは知らなかった。伸ばす自由と、剃る自由。その両方が自分にあると知るだけで、曇りの日の気持ちは半分、晴れる。
幾年かが過ぎ、ローン電卓はPCに替わり、行名のロゴも刷新され、制服も明るい色に変わった。恵子は係長になり、結婚し、やがて娘を産んだ。
娘が幼いころ、髪を結ぶ小さなゴムを買いに行きながら、ふと「女の子らしく」と言ってしまったことがある。気づいたとき、胸の奥が少しざわついた。
――あのとき、わたし自身が切ったのに。
言葉は習慣に宿り、習慣は世代をまたぐ。気づいた人間が、少しずつほどくしかない。
ある夏の夜。スマートフォンの画面が震え、ビデオ通話の着信が入った。娘――美佐からだ。
画面に現れた娘は、スキンヘッドだった。
恵子は一瞬、言葉を失う。次に、あの店の匂い、刷毛のくすぐったさ、レザーの歌、落ちる髪の影が一気に蘇った。
「……どうしたの、その髪」
「誕生日だから、変えたかった」
沈黙。台所の時計が、今も変わらぬテンポで時を刻む。
「女の子らしさ、って何?」
「私は“女の子”じゃない。二十五の女だよ」
恵子は、笑った。涙で視界が少し滲む。
「似合ってるよ。あなたの顔は、どんな髪でもあなたの顔だもの」
画面越しに見た娘の瞳は、二十五歳の自分が床屋の鏡で見た瞳と、同じ色をしていた。
――ああ、やっぱり血はつながっている。
そう思うと、首筋の産毛がそよいだ気がして、恵子は無意識に手で襟足を撫でた。そこは今も短く、清潔だ。自分の輪郭を、自分の手で撫でられる場所。
翌朝、少し早く起きて、駅へ向かう途中の路地を曲がる。サインポールは回っている。引き戸の向こうから、鈴の音。
「おはようございます」
「おはよう。今日は?」
「いつもどおり。襟足、きっちり」
刷毛の泡、蒸しタオル、刃の歌。
恵子の日常は、あの日から少しずつ変わり、けれど床屋の工程は変わらない。変わらない工程の中で、変わっていく自分を何度でも赦せるのだ。
髪が落ちるたびに、言い訳も一緒に落ちていく。
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二十五歳で結んだ小さな決意は、今も首筋で呼吸している。
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