背番号25 ―青の夢を追って―

S.H.L

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第1部

プロローグ 港の風と「25」

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 潮の香りが、風とともにスタンドを包んでいた。
 春の午後。まだ少し肌寒い三月の横浜スタジアム。
 外野のフェンス越しには、港のクレーンが並び、ゆっくりと荷を吊り上げている。
 白いユニフォームの背中が並ぶその中に――一つだけ、特別な数字があった。

 25。

 少女はその数字を、まるで魔法の印のように見つめていた。
 照り返す陽光の中で、青い背番号が光を受けて輝く。
 打席に立つ選手がバットを構える。
 スタンドに詰めかけたファンの息が一斉に止まり、次の瞬間、球場全体が鼓動を持った。

 投手が振りかぶる。
 風を切る音。
 白球が伸びる。
 バットが振り抜かれ、乾いた**カーン!**という音が、空へ、街へ、海の方へ突き抜けていった。

 ――打った。

 少女の口から思わず声が漏れた。
 打球はレフトスタンドへと舞い上がり、歓声が波のように押し寄せる。
 立ち上がる観客たち。青い旗が揺れ、声援がこだまする。
 少女の心臓も同じリズムで跳ねていた。

 「すごいな……これが、プロの世界なんだね」

 隣で父がつぶやいた。
 日焼けした手で、紙コップのビールを持ちながら、笑っている。
 父の頬には、潮風に焼けた皺が刻まれていた。

 「真帆も、いつかあんなふうに打ちたいか?」
 少女はうなずいた。
 「うん。あの人みたいに、背番号25がほしい」

 父は驚いたように笑った。
 「25か。いい番号だな。横浜の顔だ」
 「どうして25なの?」
 「努力の証だよ」
 父の声は低く穏やかだった。
 「一番努力して、一番人を喜ばせた選手が着る番号だ。昔から、そういう気がする」

 少女――真帆はその言葉を胸に刻んだ。
 まだ小学二年生。グローブも持っていない。
 だけど、心の奥で何かがはっきりと形を持った。
 それは、夢という名の灯だった。

 試合が終わり、球場を出るときも、真帆は何度も振り返った。
 外野の照明塔が夕焼けに染まり、フェンスの向こうに見える港が赤く光っている。
 人の波の中で、父の大きな手が彼女の手を握った。
 「ほら、こぼれないように」
 売店で買った小さなスコアブックと、サインボール。
 父が笑いながら言った。
 「このボールは、今日のホームランボールじゃないけどな。……でも、夢の種にはなるかも」

 真帆はボールを両手で包んだ。
 白い革の感触。縫い目の凹凸。
 どこか潮の香りがして、少しだけ砂のざらつきもある。
 そのすべてが、現実ではなく「約束」のように感じられた。

 家に帰る途中、父と乗った電車の窓から港の夜景が流れていく。
 コンテナの赤い灯、クレーンのシルエット、遠くの観覧車の青。
 真帆は窓に額を寄せ、反射する自分の顔を見た。
 まだ幼く、夢ばかりを追いかける目。
 けれど、その瞳には確かにひとつの色が宿っていた。
 青――横浜の青。

 家に着くと、父は古い段ボールを開け、使い込んだグローブを取り出した。
 「これ、もう使ってないから、お前にやるよ」
 「え、いいの?」
 「うん。ただし、約束だ」
 「約束?」
「このグローブで夢をつかめ。途中で投げ出したら、返してもらうぞ」
 「うん、絶対返さない!」
 真帆は両手で受け取った。
 手のひらにぴったりと吸い付く革の感触。
 そこに刻まれた細かいシワや汚れは、父が積み重ねてきた時間の証だった。

 部屋に戻ると、真帆はランドセルを放り出し、グローブを両手でかざした。
 カーテンの隙間から差し込む街灯の光が、革の表面を照らす。
 「25番になる」
 小さく呟くと、胸の奥が熱くなった。

 その夜、真帆は眠れなかった。
 天井の木目が波のように見えた。
 まぶたの裏に焼きついているのは、バットの音、観客の歓声、そして青い背番号。
 父の言葉が耳の奥で繰り返される。
 ――努力の証。
 その言葉が、夢と現実をつなぐ橋のように感じられた。

 外では、港の風が吹いていた。
 窓を少し開けると、潮の香りが部屋に流れ込む。
 髪が頬に触れ、風がその隙間を抜ける。
 その風は、これから長い年月を経ても、ずっと真帆のそばにあり続ける。
 髪を短くした日も、坊主になった夜も、代表として立つ試合の朝も――
 この風が、彼女の決意を運び続けるのだ。

 「パパ」
 布団の中から小さく呼ぶと、隣の部屋から「なんだ?」という声が返った。
 「明日、キャッチボールしよう」
 「いいぞ。朝早いぞ」
 「うん、早起きする!」
 そう言って、真帆はようやく目を閉じた。
 港の風が、カーテンをふわりと揺らした。

 それが、背番号25を目指す少女の、最初の朝になる。
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