刈り取られた夜に芽吹くもの

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刈り取られた夜に芽吹くもの

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 夜中の静寂を破るように、スマホの着信音が鳴り響いた。枕元で震える画面を手に取ると、そこには彼氏・圭吾の名前が表示されている。いつもは夜更かしな私よりも先に彼のほうが眠気に負けてしまうことが多いのに、こんな時間に電話してくるなんて滅多にない。半ば寝ぼけながら画面をスワイプして通話を取った。

「……もしもし?」

 声がわずかに上ずる。通話口の向こうから、低く響く圭吾の声。

「明日、床屋で坊主にしてこいよ」

 その言葉は、私の耳にとってまるで理解不能な音の羅列だった。思わず聞き間違いかと聞き返そうとするが、向こうの声には少しの冗談も含まれていないように感じる。嫌な予感が背筋を這い上がった。

「えっ……ちょ、何言ってるの?」

「坊主にしてこいって言ってんだよ。前にも言ったじゃん。俺がどこまでお前を支配できるか……じゃなかった、どこまで俺の言うことを聞けるか試したいって」

 まるで試すような響き。その言葉に背筋が凍る。こんな深夜に、こんな唐突に、どうしてそんな話が飛び出してくるのか。頭が混乱しているせいもあって、何か返事をしようとしても言葉が出てこない。

「ちょっと待ってよ……急に言われても……」

「急じゃないだろ。前にチラッと話したとき、お前は反対しなかった。別に冗談だとは言ってない」

 確かに、以前ふざけ半分に「もし俺が坊主にしてほしいって言ったらどうする?」と聞かれたことがあった。私は大して深く考えず、「まぁ、考えるかもね」などと受け流していた記憶がある。けれど、まさか本当にそれを実行しろとは思っていなかった。ましてやこんな形で要求されるなんて……。

「でも、私……髪、伸ばしてる途中だし……」

「関係ない。俺はお前がやってくれるって信じてるし、期待してるんだよ。嫌なら無理しなくていいけど、まぁ、そのあとのことは知らねえ」

 その一言が脅しのように胸に突き刺さる。こんな理不尽な要求を呑んでまで、私はこの関係を続けたいのか? しかし、このまま拒否してしまえば、圭吾は私を捨てるかもしれない。付き合い始めてもう一年近くになり、情もある。それを一夜にして失うのは怖かった。

「……わかった」

 自分の口からそう返事が出るまで、あまりにも短かった。気づけば私は承諾していた。嫌だと思う気持ちを上回る“失う怖さ”が、全身を支配していた。

「いい子だな。明日、ちゃんとやってこい。どんな顔して帰ってくるか、楽しみにしてる」

 その言葉を最後に、通話は切れた。暗闇に包まれた部屋で、スマホを握りしめたままぼう然とする。目は冴え切っているのに、身体は鉛のように重かった。

 ――本当に明日、坊主にしなきゃいけないの?

 長年伸ばしてきた肩先までの髪を、こんな簡単に手放していいのか。けれど、やめると言い出す勇気もなく、私はただ朝を待つしかなかった。



 翌朝、気持ちはまるで晴れないまま、私は近所の床屋の前に立っていた。いつもは理容室と美容室を兼ねたようなオシャレなサロンにしか行かない私が、こんな昔ながらの赤白青のグルグル回るサインポールを掲げた店に足を踏み入れるなど、想像もしていなかった。暖簾を潜り、店内を覗くと、予想どおり年配の男性客ばかりが座っている。

「いらっしゃいませ。どうぞ」

 店主らしき年配の男性が、レトロな椅子のほうに手を向けて案内してくる。店の中にはバリカンの「ヴィーン……」という低い音と、ハサミが髪を切るシャキシャキという音が入り混じっていた。椅子に座るか座らないかという微妙なタイミングで、一人の常連客らしき年配男性と視線が合った。何か言いたげにこちらを見ていたが、すぐに視線を外された。

 クロスを首に巻かれて鏡の前に座ると、私はぎこちなく店主に向かって口を開く。

「あの……坊主にしてほしいんです」

 その瞬間、店内の空気がピリッと張り詰めた気がした。常連客たちの視線が一斉にこちらに集まる。若い女性がこんな場違いな場所にやって来るだけでも珍しいのに、“坊主”などという要望を口にするのはさぞ驚きだろう。しかし、店主はさほど驚いた様子もなく、むしろ少し興味深そうに「へえ、そうかい」と相槌を打った。

「本当にいいの? けっこう長いけど」

「……はい」

 苦笑いしかできない。店主は慣れた手つきで私の髪にコームを通し、状態を確認している。どれほど伸びているか、どんな毛量かなど、プロらしい動きが鏡越しに見えた。

「じゃあ、バリカンで刈っちゃうけど……長さはどのくらいにする? もう地肌が見えるくらい全部いく?」

 その言葉が改めて恐怖を突きつけてくる。私は“坊主”と言った以上、もう抵抗は無意味だという気さえした。意を決して、はっきりと口を開く。

「……はい。全部、刈り上げてください」

 その瞬間、心臓の鼓動が一段と早くなるのがわかった。鏡に映る自分の顔は強張っている。耳元でバリカンのスイッチが入る音がした。

「ヴィーン……ヴィーーン……」

 低く深い振動が頭皮に伝わる。店主の手が私の頭を軽く押さえ、まずはサイド――こめかみのあたりからバリカンが当てられた。ざくり、と髪が削り取られる感覚。次の瞬間には、束になった髪がクロスの上にパラリと落ちた。まだ信じられない光景に、思わず息を呑んでしまう。

 刃が頭皮をなぞるたび、長かった髪が次々に落ちていくのが自分でもはっきり見えてしまう。床屋の鏡は大きくて、周囲の客からも丸見えだ。ちらりと視線を向けると、ほかの客も興味深そうにこちらを見ている。恥ずかしい気持ちと屈辱感、そしてなんとも言えない奇妙な昂ぶりが入り混じった感覚が胸を締め付けた。

「ちょっと下向いてくれる?」

 店主の指示で顎を引くと、うなじに沿ってバリカンが容赦なく髪を刈り上げていく。襟足で軽く風を受けていたはずの髪が、もうあっという間に消えていく。ずっと大事にしていた髪だというのに、切り落とされるのは一瞬だ。髪の毛が自分の身体の一部だったということを、今になってようやく実感している。

「ヴィーン……ヴィーーン……」

 バリカンの音とともに、地肌がどんどん露わになる。首元から背筋にかけて微かな震えが走る。興奮や恐怖、羞恥がひとつになり、言いようのない感情がこみ上げてくる。

 サイドと後ろを一通り刈り終えたようで、店主の動きが止まった。髪の毛はほとんどなくなり、触ればざらりとした感触になっているのがわかる。鏡越しに見ると、なんとも情けない姿だ。だが、まだ前髪が残っている。店主はバリカンを持ち替えて、私の目を見た。

「前もいっちゃうよ。準備いい?」

 覚悟を決めるように小さく頷く。バリカンの刃が額の生え際に当たった瞬間、まるで電流が走ったかのように身がすくんだ。こつん、と刃が当たり、さらに音が鳴り響く。

「ヴィーーン……」

 額から刈り進められると、長かった前髪が一瞬でクロスへと落ちる。視界が一気に開けて、自分の額がむき出しになったのがよくわかる。その途端、涙がうっすらとにじみ出た。悲しいのか、怖いのか、あるいは別の感情なのか、自分でも判断がつかない。

 店主は慣れた手つきで残りの部分を一気に刈っていく。前髪から頭頂部へ、まるで芝生を刈るように少しずつ進んでいく。切り落とされる髪の毛が次々に落ちていくたび、私の鼓動はどんどん早まる。鏡の中には、もうほとんど髪のない自分が映っていた。

「はい、こんな感じでスッキリね」

 バリカンのスイッチが切られ、静寂が訪れる。クロスに散らばった黒髪は、まるで私の一部が切り離された残骸のように見えた。視線を落とすと、床にも大量の髪が散乱している。そんな現実を見せつけられるたびに、胸が苦しくなる。

「じゃあ、一度シャンプー台に行こうか」

 店主に促され、首にかけられていたクロスを一旦外して立ち上がる。刈りたての頭皮は空気を直接感じ、ひやりとした冷たさがあった。手でそっと触れると、ごわごわとした短い毛が指先に当たる。まさに“坊主”としか言いようがない。

 シャンプー台に頭を乗せると、店主が丁寧にお湯の温度を確かめながらシャワーを当て始めた。頭皮に直接触れるお湯の感触がやたらと敏感に感じられる。長い髪があった頃には気づかなかった頭皮の細かな起伏や、耳の裏側のくぼみが生々しく意識される。

「しっかり洗うからね。ちょっと力加減強いかもよ?」

「はい……」

 店主の指が頭をマッサージするように動く。いつもなら心地良いシャンプーが、今日は妙に官能的な刺激を伴っていた。髪がないぶん、指の腹が直接頭皮を擦り上げるのが如実にわかるからだ。シャカシャカと泡立つ音とともに、頭皮がほぐされ、私の呼吸が微妙に乱れていく。

(これが坊主の感触……)

 まさか自分がこんな経験をする日が来るとは思わなかった。思わず目を閉じて、店主の動きに身を預ける。皮膚と指先が触れ合う心地よさと、頭部を直接洗われるくすぐったさ。それまで感じたことのない新鮮な感覚に戸惑いつつも、どこか身体の奥がざわつくのを抑えられない。

 そして流すときも、湯の流れが頭皮をダイレクトに襲う。髪のクッションがない分、少し刺激が強い。だがそれがまた、妙な心地よさになっていた。シャンプーが終わり、タオルで頭を拭かれると、さらに髪のない頭がむき出しになる感覚が強まる。

「じゃ、もう一度椅子に座ってね。髭剃りもする?」

 床屋では男性客が多いからか、髭剃りのオプションが当たり前のように勧められる。女性である私がそれをする必要があるのか、少し迷う。しかし、店主は顔剃りもサービスするつもりらしい。確かに理容室では女性客でも産毛剃りをやってくれるところは珍しくない。

「……お願いします」

 首の後ろに温かいタオルを巻かれ、再び椅子を倒される。今度は顔剃り用のクリームを塗られ、カミソリが頬から顎へと滑っていく。産毛が薄く取れていく感触が、これまた繊細で、うっすらと恥ずかしさがこみ上げる。顔の産毛など普段そこまで気にしたことはないが、こうして剃られてみると自分の肌がさらになめらかになっていくようだ。

 店主は手馴れた様子で耳周りや首筋まで丁寧に刃を当て、最後に鏡を持って仕上がりを見せてくれた。すでに髪は地肌が透けるほどに短くなっていて、まごうことなき“坊主頭”である。それどころか、顔の産毛まですっかり剃られてしまい、なんだか妙に清潔感が出てしまった。

「はい、お疲れさん。仕上げにローションつけとくよ」

 店主は爽やかな笑顔で、私の頭に清涼感のあるローションを塗ってくれた。ひんやりとした液体が頭皮を潤し、マッサージされると、ついゾクッとしてしまう。

「はぁ……」

 思わずため息のような息がこぼれ、身体の奥が震える。それが官能的な快感とも言えるかもしれない。初めての感覚に、自分でも戸惑いを覚える。



 椅子から立ち上がり、周囲を見渡すと、常連客たちが興味深そうにこちらを見ていた。私のクロスの上や床には、黒々とした髪が散乱している。あまりの量に、自分がいかに髪をたくわえていたのかを再認識させられる。支払いを済ませて店を出ようとすると、店主がさりげなく声をかけてきた。

「何かあったのかもしれないけど、まあ、気分転換にはなるよ。あとで後悔しないといいね」

 私に対する思いやりなのか、それともやはり不思議な客だと思っているのか。その言葉に曖昧な笑みで返事をして、店を出る。外の空気が頭皮を直接刺激する。春先のまだ少し肌寒い風が、頭全体を包むように吹き抜けた。ゾクッとした感触が何とも言えない。

 (私、本当に坊主になっちゃったんだ……)

 道路脇のガラスに映る自分の姿を見る。そこにいるのは、髪のほとんどを失った少女のような――いや、もう“少女”ではない、れっきとした大人の女のはずの私だ。けれど、その姿はどう見ても、どこか弱々しくて無防備に思えた。

 カバンのスマホを手に取ると、メッセージが届いていた。圭吾からだ。

「終わったか? どんな気分?」

 たったそれだけの短い文章なのに、指先が震える。私はすぐに返信しなかった。今の心境をどう表現していいかわからない。脳裏に浮かぶのは、クロスの上に散らばった髪、バリカンの振動、冷たい風を受ける頭皮の感覚。すべてがごちゃ混ぜになって、言葉にできない。

(あぁ……私、なんでこんなことしてるんだろう)

 そう思いながら、私は彼の家へ向かった。自分の家に帰るよりも先に、彼の顔を見なければ、今回の“試練”は終わらないような気がした。



 圭吾の家のドアを開けると、彼はすでに起きて待っていた。以前の圭吾ならば、休日は昼まで寝ていることも多かったが、今日は違うらしい。部屋には薄暗い照明が灯っていて、なんとも言えない緊張感が漂う。

「来たか」

 圭吾が振り返って私を見た。その視線が、まっすぐ私の頭を見つめるのがわかる。私は視線を下げてしまう。恥ずかしさと恐怖で、身体がこわばっている。

「……ど、どう?」

 どう、と聞いても、もう自分には髪はない。坊主頭がすべてを物語っている。圭吾はゆっくりと私に近づき、手のひらを私の頭に当てた。ざり、とした感触が伝わる。彼はそのまま何度か撫でるように指を動かす。

「へえ……結構似合ってんじゃん。最初は嫌がるかと思ったけど、やるもんだな」

 その言葉にホッとすべきか、それとも屈辱を感じるべきか。私はなんとも言えず複雑な思いで唇を噛む。圭吾は満足げに微笑むと、私の手を引いて部屋の中へ連れ込んだ。

「ちょっと座れよ」

 彼のベッドの縁に腰掛けると、彼は横に並んでまた私の頭を撫でる。まるでペットを可愛がるような仕草。いつものスキンシップとは違い、私が失った髪の短さをたっぷり確かめるように、丹念に触れてくる。

 その手の動きが、意外なほどに快感を伴っていることに気づいてしまう。バリカンで刈り落とされたあとの頭皮は敏感になっているのか、撫でられるたびに小さな電流が走るような心地よさがある。

「なんか、直接触れてるって感じが強いな」

 圭吾が楽しそうに笑う。私は顔を赤くしながら視線をそらす。思わず身体の奥が熱くなるのを感じた。こんな屈辱的な状況にもかかわらず、身体が反応してしまう自分が情けない。それとも、これが“試されている”ということなのだろうか。

 しばらくの間、彼は私の頭を撫で回すように触れ続けた。その指先の動きに合わせて、私の呼吸は浅く速くなっていく。彼の指が耳の後ろや首筋にまで及ぶと、頭皮だけでなく全身がビクビクと敏感に震える。

「お前、ちょっと感じてる?」

「そ、そんなこと……」

 否定したいのに、声が上手く出ない。いや、明らかに私は感じている。坊主になってしまったことで、皮膚感覚がむき出しになっている。それを彼が見抜いているのが、また恥ずかしかった。

「いいじゃん、ちょっとくらい。お前がここまで俺の言うことを聞いてくれるなんて、ちょっと感動したよ」

 私はうつむいたまま、ただ彼の存在を感じている。正直、恐怖も屈辱もあるが、同時に安堵もある。これで彼を失わずに済むのなら……と、どこか自分に言い聞かせるような感覚が湧いていた。



 それから少しして、私は自宅へ戻った。自分の部屋で鏡の前に立つと、そこには見慣れない自分がいた。地肌が大きく見え、顔の印象もがらりと変わっている。まるで別人のようだ。ほんの数時間前までは肩まであったはずの髪が、今では一切ない。残っているのは、ごく短い黒い毛がびっしりと生えているだけで、手のひらを当てるとざらつきが分かる。

 夜になり、風呂に入って頭を洗うときも、不思議な感覚が襲ってきた。シャンプーをつけても泡立ちが少なく、頭を指で撫でると直接地肌に触れているのが明確にわかる。お湯をかぶると、頭全体にシャワーが当たる音がやけに響く。長い髪が水を含んで重たくなることもない代わりに、シャワーの感触がダイレクトすぎて刺激が強い。

 湯上がりにタオルで頭を拭けば、一瞬で水気が取れてしまう。長い髪のドライヤー時間が億劫だったはずなのに、今は一瞬で済む。便利といえば便利だが、それがまた虚しい気持ちを呼び起こす。髪を乾かすという行為が、自分の“女としてのアイデンティティ”の一部だったことを痛感した。

 (本当に、これでよかったのかな……)

 鏡に映る坊主頭の自分を見つめながら、何度も自問自答を繰り返す。そのたびに、胸の奥がきゅっと締め付けられる。彼を失うよりマシだと思っていたはずなのに、失ったものは髪だけではない気がしてならない。けれど、もう元には戻せない。戻るのには何ヶ月、いや、何年もの時間が必要だろう。今はただ、この姿で生きるしかない。



 翌日、会社に出勤すると、同僚や上司は驚愕の声を上げた。そりゃそうだろう。昨日まで髪を下ろしていた女性社員が、突然バリカンで刈り上げたような坊主頭になって現れたのだ。

「え、どうしたの!? 何かあったの?」

「すごく潔いけど……まさか、失恋とか?」

「いや、なんか新しいファッション……?」

 好奇や心配の混じった視線にさらされて、私はいたたまれなくなる。どう説明していいかわからない。まさか「彼氏に言われて」とは言いづらい。社内では「気分転換です」とか「前からやってみたくて」などと曖昧に答え続けるしかなかった。同僚の数人は「似合ってるよ、かっこいい!」と言ってくれたが、私の心はそこまで明るくなれない。

 ランチタイムにトイレの鏡を見ると、会社の蛍光灯に照らされた自分の頭は、いつもの化粧や服装とのバランスがまるで取れていない。メイクをどんなに頑張っても、“女性らしさ”よりも“特殊なスタイル”ばかりが目立ってしまう。正直、想像以上にショックだった。

 しかし、その夜、圭吾からの電話で私は少しだけ救われたような気がした。

「どうだった? 会社のみんな、びっくりしてた?」

「うん……そりゃそうだよね。私も、ちょっとキツかった」

「でもさ、お前はちゃんと俺の言うこと聞いた。偉いと思うよ。俺の彼女だって、胸を張ればいいんだ」

 褒められているのか、馬鹿にされているのか微妙な言い方だった。だが、圭吾が笑っている声を聞いているうちに、私はどこか心が軽くなっていることに気づいた。馬鹿らしいと思いつつ、それでも彼に褒められると嬉しい自分がいる。まるで条件付けされたペットのような反応だとも思うが、それが私の正直な感情だった。



 それからしばらく、私は坊主頭での日常を送ることになった。朝起きて鏡を見るたびにショックを受けるし、外に出れば視線を感じる。頭が寒くて、帽子を被って通勤することも多くなった。そんな姿を写真に撮って、圭吾に送ることもしばしばあった。彼は「かわいい」とか「最高にイカしてる」などと返してくる。まるで私が彼の所有物であるかのように、“お気に入りのペット”として楽しんでいるようにも思えた。だが、それでも私は彼からの言葉を無視できなかった。

 ある日、圭吾の部屋に行くと、彼はまた私の頭を撫でてきた。

「ほんと、すっかり坊主が板についてきたな。最近はどうなの? 後悔してない?」

 正直、後悔しないはずはない。でも、それを言葉にはできない。私は苦笑いしながら首を横に振る。すると彼は満足そうに微笑んだあと、少し意味深な口調でこう告げた。

「じゃあ、そろそろ次の段階に進もうか」

「……次の段階?」

 胸騒ぎがした。まさか、彼はまた私に何か無茶な要求をするつもりではないだろうか。だが、圭吾は私が不安がるのを見透かすように、ゆっくりと顔を近づけてきた。

「安心しろよ。髪のことじゃない。でも、お前ならわかるだろ? 俺が何を望んでるか」

 そう言って、圭吾は優しく私の耳元に唇を寄せた。甘い囁きに、私の身体は自然と熱を帯びる。こうして彼の望みを聞いてしまう自分は、やはり逃げられないのだと思い知る。



 床屋で坊主にしてもらってから、何週間か経った。頭皮には少しずつ髪が伸び始め、手で触ると少し柔らかくなった気がする。最初の頃は“まさに地肌が露わ”だったが、今は短いながらも毛が並んでいて、軽く逆立つくらいの長さになっていた。

 それを見た圭吾が「また刈り直せよ」と言い出した。私は一瞬ためらったが、結局は再び床屋に足を運ぶ。今度は前ほどの抵抗感はなかった。むしろ、少し伸びかけた坊主を定期的に刈り込むことにある種の快感を覚えている自分がいたのだ。自分でも驚くほど、あの“ヴィーン”という振動と、髪が落ちていく感覚が恋しくなっていた。

 再度訪れた床屋では、店主が少し嬉しそうに笑った。

「また来てくれたんだ。気に入ったのかな?」

 私は曖昧に笑ってごまかす。店主は今回も手際よくバリカンを使い、私の短い毛をさらに短く刈り上げていく。再び訪れるあの衝撃的な振動、地肌に響く感触。これが今の私には否定できない刺激になっている。

「ヴィーン……ヴィーーン……」

 サイドから後ろへ、そして頭頂部から前髪の生え際へと、バリカンが一気に毛を削り取る。短い毛がパラパラとクロスに落ちるたび、身体が軽く震える。これまでの人生で感じたことのない種類のゾクゾク感だ。シャンプーの時も同じだった。坊主頭を洗われるあの感じが、いつの間にか病みつきになっている。

 顔剃りまで終えて鏡の前に戻ると、私は再びほぼ丸刈りに戻っていた。以前よりも短いレベルで刈られており、ますます地肌があらわになっている。自分の姿に再びショックを受ける一方で、どこか安堵している自分にも気づいてしまう。

(あぁ、私……本当にどうかしちゃったのかも)

 そう思いながら、私は支払いを済ませ、店を出た。帰り道、スマホのカメラで自撮りをして圭吾に送る。彼はすぐに「最高だ。可愛いよ」と返してくる。その言葉が、私の心を落ち着かせる。髪を失っても、私は捨てられていない。むしろ彼は喜んでいる。そんな微妙な安心感に包まれながら、私は自宅へと戻るのだった。



 こうして何度か床屋に通ううちに、私は完全に“坊主頭の女”として周囲に認知されていった。同僚たちも最初こそ驚いていたが、今では「あ、また刈ったんだ」くらいの反応で受け止める。中には「おしゃれ坊主」と冗談交じりに言ってくれる人もいた。しかし、私の中では、これがおしゃれかどうかはわからない。ただ“彼の望み”を叶えるため、いや、“彼を失いたくない”という必死の思いで維持しているだけだ。

 だけど、奇妙なことに、何度も坊主にするうちにだんだんと心が変化しているのを感じる。最初は屈辱感ばかりだったが、今はそこに小さな自尊心が混じり始めていたのだ。坊主頭であることの潔さ、他人に媚びない強さ、そして何よりも「この姿を受け入れてくれる相手がいる」という満たされ感。それらが私を支え始めている。

 もちろん、これは歪んだ形での“満たされ”かもしれない。圭吾への依存であり、彼の好みに合わせているに過ぎない。でも、私はそんな自分を否定しきれなかった。むしろ、どこか心地よいとさえ思い始めている。まるで自分が彼専用の人形になったような、そんな被支配欲と官能とが入り混じった感情だ。



 ある休日、私はまた圭吾の部屋を訪れた。その日は彼が「風呂場で髪を剃るのを手伝ってやるよ」と言い出したのだ。坊主頭を風呂場で剃る? 私の中で警戒心と興味が同時に湧き上がる。けれど、拒否する理由はもはや見当たらない。私は素直に頷き、彼のアパートの古めかしいユニットバスに入り込んだ。

 タンクトップとショートパンツという、濡れても良さそうな格好でしゃがみ込む。圭吾はその後ろに立ち、バリカンを手に取った。

「じゃあ、ちょっと鏡とかないけど我慢して。俺がきれいにしてやる」

 彼の手が私の頭に触れ、バリカンのスイッチがオンになる。

「ヴィーン……ヴィーーン……」

 いつも床屋で聞くのとは違う、家の狭い浴室に反響するバリカンの音はやけに生々しかった。彼は容赦なく私の頭を刈り上げていく。狭い空間に髪の毛が舞い落ち、やがてシャワーで流されていく。

「ほら、もっと下向いて」

 彼が私の頭を押さえる。バリカンの刃がうなじから頭頂部に向かって一気に駆け上がるたび、ぞくりと震えが走る。指先が震え、膝から力が抜けそうになる。けれど、ここでやめることはできない。これこそ、彼が求めている“服従”なのだから。

 やがて大まかに刈り終わると、今度は彼がカミソリを取り出した。シャワーで頭を濡らし、シェービングジェルを塗る感触がひんやりと頭皮に染みる。さらに直接カミソリを当てられると、バリカンのときとは比べ物にならないほどの刺激に息を呑んだ。

「怖がるなよ。ゆっくりやるから」

 ジャリッ……ジャリッ……。刃が頭皮を撫でるたび、細かい髪のざらつきがなくなっていく。坊主どころか、ほぼスキンヘッドに近い仕上がりになるのだろう。そこには確かに恐怖があるが、不思議と心の奥底では期待にも似た昂ぶりを感じ始めていた。

「……ふぅ」

 彼の吐息が耳元で聞こえる。私の頭皮を丁寧に剃り上げる彼の姿は、ある種の“支配”を象徴しているようにも思える。私が完全に彼に身を委ねている証拠。そして私はそんな自分を受け入れている。

「……できた。触ってみ」

 彼に言われて頭を手でなぞると、そこにはほとんど髪がない、ツルリとした手触りがあった。バリカンの坊主とは違う、生まれて初めての感触だ。まるで赤ちゃんの頭のように柔らかい皮膚がむき出しになっている。

「すご……」

 自分でも言葉が出ない。鏡がないから見られないが、触れただけでわかる。これは完全に“スキンヘッド”だ。シャンプーなんて必要ないレベル。こんな姿になった自分を、周囲はどう見るのだろう? 会社に行けば、誰もが度肝を抜くだろう。それでも、私は今、圭吾の手によってここまでされている。その事実が、奇妙な満足感を私に与えていた。



 後日、私は意を決して鏡の前に立って、自分の頭をまじまじと見つめた。地肌は白く、わずかに青みがかった毛根の点が見える程度。やや産毛のようなものがうっすらと残っているが、それでもほぼスキンヘッドである。女性らしさを捨て去ったような容姿だが、どこか妖艶さも感じさせる不思議な印象だった。

(これが……私の髪型、なんだ)

 少し前まで、こんなことは想像すらできなかった。肩先まで伸ばした髪をヘアアレンジして、休日にはカフェに行ったり、友達と買い物をしたり。その頃の自分とはまるで別人だ。それを思うと、もしかして私は取り返しのつかないところに来てしまったのかもしれない。そんな恐れも頭をよぎる。

 だけど、この頭を見て喜ぶ相手がいる。その相手に対して、私は従いたいとまで思っている。その事実に抗えない自分がいることもまた確かだった。

(もう、戻れないのかな……でも、別れたくない)

 心の中で何度もその言葉が反響する。もしここで「やっぱり髪を伸ばしたい」と言い出したら、彼はどう思うだろう。怒るかもしれない。呆れるかもしれない。そして、そのまま関係を終わらせてしまうかもしれない。そんな想像をしただけで、胸が締め付けられる。

 私は再びスマホを手に取って、圭吾にメッセージを送った。

「また近いうちに、刈りなおしてほしい」

 自分で送っておいて、指先が震える。しかし、すぐに返ってきたスタンプは嬉しそうな表情のキャラクターが手を振っているものだった。彼の喜びが伝わってくる。それだけで、私は少し安心する。私はこの関係を続けることを望んでいるのだと、改めて自覚した。



 その後、私は月に一度は床屋か、あるいは圭吾の手によって髪を刈り込み、ほぼ坊主あるいはスキンヘッドに近い状態を保ち続けた。最初の頃のような強い抵抗感や羞恥は、もうほとんどない。むしろ、これが“私のスタイル”であると周囲にも言えるようになってきた。会社でも、最初は戸惑っていた同僚たちがいつの間にか慣れてしまい、「また刈ったの?」と軽口を叩くくらいだ。

 一方、私の中には相変わらず「彼に認めてもらいたい」「彼を失いたくない」という思いが根強く残っている。まるで洗脳のようだと自分でも思うが、抵抗する意志は湧いてこない。自分の意思でこうしているのだと、ある意味では開き直っている部分もあった。

 いつかこの髪が元のように伸びることがあるとしたら、それは彼との関係が終わるときかもしれない。そんな予感が、私の胸をかすめる。もし仮に別れたら、私はその翌日から髪を伸ばし始めるのだろうか。それとも、短髪に魅了された自分がいる以上、ずっとこのままなのだろうか。想像しても答えは出ない。

 ただひとつ言えるのは、今の私は“坊主頭の女”として彼のそばにいるということ。その事実が私にある種の安堵をもたらし、同時に奇妙な依存心を育てている。この選択が正しいかどうかはわからない。だが、失う怖さのほうが大きい以上、私はこの道を歩むしかないのだ。
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