紅月の理容師 ―髪を断つ者―

S.H.L

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第8章

第8章 髪を剃る儀式

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第8章 髪を剃る儀式

 王城の大広間は、紅月の光を取り込むために造られた巨大な天窓を持っていた。
 その下で催されていたのは「模範剃髪」の会。――だが、そこに礼も誓いもなかった。
 紅の床屋たちは赤い油を泡に混ぜ、わざと刃を立てて見せ、観衆を酔わせる芝居を繰り返す。彼らの髪は紅油で艶々に光り、長く垂れる房が“忠誠”の証とばかりに揺れていた。

 リィナは控えの間で椅子に座り、首巻を握りしめていた。
 髪は五厘にまで落とした。それでも――胸の刻印は静まらない。むしろ紅月が大広間の天窓に昇るにつれ、脈が強くなっていく。

「……来るな」
 彼女は額を押さえ、声にならない声を漏らした。
 紅月の魔王の囁きが、頭の奥底から滲み出そうとしている。

「リィナ」
 振り向くと、そこにミリアとジークがいた。衛兵を欺き、どうにか控えの間に入り込んでくれたらしい。
 ミリアは祈りの衣を胸に抱え、静かな声で言った。
「恐れることはありません。最後の儀式――“新月”を迎える時です」

 リィナは震える息を吐き、頷いた。
「……わかってる。五厘では足りない。髪を……すべて剃り落とさないと、紅の囁きは止まらない」

 その時、奥の扉が開いた。
 銀の理容師〈刃〉が、まるで待っていたように姿を現した。手には黒光りするカミソリと、真新しい白の首巻。

「ここまで来たか」
 低い声が響く。
「紅月を裂くには、新月が要る。――リィナ、椅子に座れ」

 革張りの理髪椅子に腰を下ろすと、背中に冷たさと重さが沈む。
 刃は紙の首巻を一周させ、きゅっと結んだ。その上から白布のケープがふわりと肩を覆う。
 襟が留まると、外界の騒音が遠ざかり、鏡には自分と刃だけが残った。

「顎を引け。……呼吸を整えろ」

 刃は蒸しタオルを首筋に当てた。熱が骨の奥まで浸み込む。
 次いで白い泡が掌で練られ、頭全体へと塗り広げられる。
 冷たく、清潔で、香草の匂いが胸に沁みる。

 革砥のしゅう、という音が一度。
 銀の刃が寝かされ、頭皮に触れる。

 すっ……。
 ジョリ……。

 五厘のざらつきが一筋、完全に消えた。
 鏡の中で白い道が一本、蒼月の光を受けて輝く。

「ひっ……!」
 リィナは声を上げたが、すぐに唇を噛んだ。
 痛みはない。だが――毛が消える感覚は、心の奥にまで響いた。

 刃は容赦なく進む。
 すっ、すっ……。
 頭頂から後頭部へ、左右から耳の周りへ。
 泡の下で剃られた地肌が次々に現れ、蒼白く光を返す。

「見ろ、リィナ。これは恐れではない。――お前の“新月”だ」

 髪は床に落ちない。すでに粉だったものが、泡とともに刃に絡め取られ、タオルに拭われる。
 昨日も、一昨日も積み重ねた“髪の地層”はもうなく、ただ白い肌が広がっていく。

 最後にうなじ。刃が寝かされ、首の曲線をすっと描く。
 耳の下を過ぎ、もみあげの影も払われた。

「終わりだ」

 刃がタオルに拭われ、泡が温かな布で拭き清められる。
 ケープが外れ、首巻が解かれる。

 鏡の中。
 そこにいるのは――髪を完全に失い、頭全体が蒼白に輝く少女。
 いや、“少女”ではなかった。
 名を呼ぶことでしか繋ぎ止められない、ひとりの“器”。

「リィナ!」
 ミリアが駆け寄り、首巻の結び目を握った。
「戻ってきて。あなたの名はリィナ!」

 胸の刻印が灼ける。
 紅の囁きが最後の抵抗を叫ぶ。
 だが――名を呼ぶ声がある。仲間の温度がある。

「……私は、リィナ!」

 その叫びと同時に、紅の囁きは途切れ、胸の熱は静まった。
 頭皮に吹き抜ける風は、痛みではなく、ただの風だった。

 刃はカミソリを収め、深く一礼した。
「新月が立った。あとは戦うだけだ」

 リィナはゆっくりと立ち上がった。
 頭皮に蒼月の光が反射し、広間の奥で紅油に濡れた群衆がざわめく。
 紅月の魔王が、ついに目を覚まそうとしていた。
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