刈り上げの向こう側

S.H.L

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刈り上げの向こう側

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第1章: 髪を切る決断

雨上がりの夕方、薄曇りの空が会社のビルの窓に映り込んでいる。いつもなら同僚と軽くおしゃべりをしてから帰路につく美咲だったが、その日はエレベーターのボタンを押す指さえ重かった。スーツのポケットに突っ込んだ手はぎゅっと握りしめられ、指先に汗が滲んでいる。

「なんであんなミスを……」
呟いた言葉は、エレベーターの静かな空間に吸い込まれていった。

プレゼン資料の印刷データに致命的なミスがあった。文字が一部欠落していたことに気づいたのは、クライアントの前で上司が資料を開いた瞬間だった。会議室に漂った微妙な空気、美咲に向けられる周囲の視線、それに耐えきれずうつむいていた自分。あの場面が頭から離れない。

オフィスのドアを出ると、外は湿った空気に満ちていた。地面は雨粒を受け止めたばかりのように黒く濡れ、街灯の明かりがぼんやりと滲んでいる。美咲は足を止めて、傘を差す必要もない小雨を見上げた。心がざわざわして、家に帰りたくなかった。代わりに、ふと思い立って駅近くの美容室へと足を向けた。

「切らなきゃ」
何かを変えなければいけないと思った。変わらない日常、変われない自分。このままではいけない。その感情に突き動かされるように、美咲は美容室の扉を押し開けた。

ガラス越しの白い光が差し込む明るい店内。スタッフが笑顔で迎え入れる中、美咲は不安を押し隠しながら小さな声で予約を告げた。椅子に座り、鏡に映る自分を見つめる。そこには、少し疲れた顔で、肩にかかるロングヘアの自分がいた。

「今日はどのくらい切りますか?」
担当の美容師が声をかける。柔らかい口調のその問いに、美咲は少しだけ目を伏せて答えた。

「できるだけ短くしてください。…ショートに、いや…それよりもっと短く。」

美容師は少し驚いたようだったが、すぐに微笑みながら確認する。
「刈り上げも含めて、かなり大胆なショートスタイルで大丈夫ですか?」

その言葉に、美咲の胸がざわついた。刈り上げ。これまで考えたこともなかったスタイルだ。どこか自分には縁のない世界のものに思えたが、同時に強く惹かれる響きでもあった。数秒間、迷いが胸の中を駆け巡った。しかし、美咲は自分の気持ちを押し込むようにうなずいた。

「お願いします。」

ハサミの音が響き渡る。最初に毛先を大きく切られた瞬間、美咲の心臓がどきりと跳ねた。肩に重さを感じていた髪が次々と落ちていくたび、体の中に溜まっていた何かがそぎ落とされていくようだった。次に、バリカンが動き始める音が耳元で響く。頭の側面に冷たい刃が触れる感触に、一瞬体がこわばったが、美容師の手つきは優しく、それがかえって心を落ち着けてくれる。

「すごいお似合いになると思いますよ。」
美容師の言葉が、美咲の胸の奥に少しだけ温かいものを灯した。

鏡の中の自分が変わっていく。ざっくりとしたカットが終わると、段々と整えられ、スタイリッシュなラインが見えてきた。刈り上げられたサイドは想像以上に短く、滑らかだ。それが不思議と自分らしいように感じられた。

店を出る頃には、雨はすっかり止んでいた。美咲はガラスに映る自分をちらりと見た。これが自分なのかと一瞬疑うほどの変化だったが、その違和感がむしろ心地よかった。軽くなった頭をそっと触ると、短くなった髪の手触りが指先に新鮮に伝わる。

「こんなに簡単に変われるものなんだ…」
小さな声で呟き、空を見上げる。月がうっすらと雲間から顔をのぞかせていた。

でも、翔太はどう思うだろう。この髪型の自分を見て、どう感じるだろう。美咲の心はまだ完全には晴れていない。それでも、変化の一歩を踏み出したことだけは確かだった。

家に向かう道すがら、どこか新しい景色が広がっているように感じられた。

第2章: 翔太の驚きと新たな感情

美容室からの帰り道、美咲はなんとなく胸がそわそわしていた。軽くなった頭の感触を確かめるように時折髪に手を伸ばしてみるが、指先に触れる短い毛先がこれまでの自分とは違う感覚を突きつけてくる。家に着く頃には、その違和感と期待が入り混じった感情が、彼氏の翔太の反応に向けられていた。

翔太の部屋に着くと、窓の隙間から暖かな灯りが漏れている。彼は今日もリビングでテレビを見ているのだろう。鍵を回してドアを開けた瞬間、室内から漂ってくるカレーの香りに、少しだけ緊張がほぐれた。

「ただいま…」
そう言いながら玄関をくぐると、リビングから翔太の声が響いた。
「おかえり!早かったな、今日…」

美咲が靴を脱いで部屋の中に入ると、翔太がソファから振り返り、目を見開いた。彼の表情が、一瞬止まる。驚きと戸惑いがそのまま顔に表れていた。

「…髪、切ったんだな。」

翔太はそう言うと、立ち上がってこちらに近づいてきた。その声は驚きを隠そうとしているのか、少しぎこちない。それでも、その視線は美咲の髪に釘付けだった。彼の目が短くなった襟足や、刈り上げたサイドをじっくりと追っているのがわかる。

「うん…どうかな。思い切って短くしてみた。」
美咲は微笑みながら髪に触れたが、その指先がほんの少し震えていた。

翔太は何かを言おうとしたのか、口を開いては閉じる。その沈黙が不安を煽る。けれど次の瞬間、彼の口角がふっと上がった。

「…すごいじゃん。似合ってるよ。」
その言葉を聞いた瞬間、美咲の肩の力が一気に抜けた。けれど、翔太の声はどこか真面目で、不思議な重みを感じた。

「似合ってるって…本当?」
美咲は翔太の顔を見上げて尋ねた。自分の選択を否定されなかったことにホッとしつつも、彼がどう思っているのかをもっと深く知りたい気持ちがあった。

翔太は少しだけ間を置き、彼女の髪に手を伸ばした。初めて刈り上げの部分に彼の指が触れる。彼の手がその短い部分をゆっくりとなぞるたびに、美咲の心臓がドキドキと鳴り始めた。

「これ…触ると面白いな。」
翔太がそう呟いた。その声は意外に柔らかくて、どこか子供っぽい好奇心に満ちている。

「面白いって…何それ。」
美咲は少し恥ずかしくなり、手で髪を隠そうとするが、翔太は軽く笑って彼女の手をそっと制した。

「ごめん、いや悪い意味じゃないよ。触り心地がすごくいいんだな。こんな感じ、初めて。」
翔太の手が再び髪に触れる。その動きは先ほどよりも慎重で、丁寧だった。まるで新しい何かを発見したかのように。

美咲は彼の手の感触を感じながら、内心複雑な気持ちに襲われていた。自分が「大胆な変化」を選んだ理由が、どこかで翔太のためだったのかもしれないと気づいてしまったのだ。自分を変えるために髪を切ったはずなのに、彼の反応をこんなに気にしている自分に少し苛立つ。

「そんなにじっと見ないでよ、恥ずかしいから。」
美咲は少し照れ隠しのように言ったが、翔太はニヤリと笑ってその場に座り込んだ。

「いや、本当にいいと思う。正直、最初はびっくりしたけどさ。でも、なんていうか…新しい感じで、いい。」
翔太の言葉には真っ直ぐな感情が込められていて、美咲はその言葉を受け止めるしかなかった。

その夜、美咲はキッチンに立ちながら、翔太の視線がまだ自分に向けられていることに気づいた。振り返ると、彼はまたこちらをじっと見ていた。

「ねえ、そんなに見る必要ある?」
美咲が冗談っぽく言うと、翔太は照れたように笑い、目をそらした。

「いや、なんかつい気になっちゃってさ。ほんと、触りたくなるんだよな。」
その言葉に、美咲は少しだけ笑ってしまった。翔太がそんなに髪に興味を持つなんて今まで想像もしていなかったからだ。

その夜、翔太は美咲の髪を何度も触りたがり、そのたびに彼女はくすぐったさを感じながらも、どこか嬉しくなっている自分に気づいた。そして、彼が見せる優しい笑顔と、不器用ながらも正直な言葉に、心の中にあった不安が少しずつ解けていった。

美咲は布団の中で目を閉じながら、彼の手が髪に触れる感覚を思い出していた。翔太が自分の変化を受け入れてくれたこと、そのことがどれだけ安心できるものだったかを噛みしめながら。

第3章: 刈り上げの提案

週末の午後、心地よい春の陽射しが部屋のカーテンの隙間から差し込んでいた。美咲はリビングのテーブルに向かい、雑誌をめくりながらぼんやりと過ごしていた。その雑誌の中には、いくつものショートヘアのモデルが笑顔を浮かべて載っている。ページをめくるたびに、自分の髪型もこんな風にもっと個性的にできるだろうかと、ぼんやり考えていた。

翔太はキッチンでコーヒーを淹れていた。豆を挽く音とお湯を注ぐ音がリズミカルに聞こえ、どこか穏やかな雰囲気が漂っている。こんな静かな時間が二人の間に流れるのは久しぶりだった。

「コーヒー、できたよ。」
翔太が湯気の立つカップを二つ持ってリビングに入ってくる。美咲の隣に腰を下ろしながら、雑誌に目をやった。

「またヘアカタログ見てるの?」
彼の声にはほんのりとした興味が込められている。美咲はうなずきながらページをめくる手を止め、雑誌を閉じた。

「うん、なんとなく。最近、髪型のことばっかり考えてるかも。」
そう言いながらカップに口をつける。苦みの効いたコーヒーの味が口の中に広がった。

「へぇ、もっと短くするとか?」
翔太がさらりと言った言葉に、美咲は思わず顔を上げた。彼の声は冗談めいていたわけではなく、どこか本気の響きを帯びていた。

「もっと短くって…どういう意味?」
美咲は少し眉をひそめて尋ねた。翔太は照れたように笑いながらカップを置き、彼女の髪を指先で軽く撫でた。

「いや、こういうのも似合うけどさ…この辺をもう少し刈り上げたりとかしたら、もっとカッコよくなるんじゃないかなって。」
彼の指が髪のサイドをなぞる。その感触が美咲の肌に直接届き、少しだけ心臓が跳ねるのを感じた。

「刈り上げをもっと…?」
美咲は言葉を反芻した。翔太が提案したそのイメージを頭の中で描こうとするが、そこには自分の想像を超えた未知のスタイルが浮かぶ。

「なんでそんなこと思うの?」
戸惑いながらも、美咲は率直な疑問をぶつけた。翔太は少しだけ目を伏せて考える仕草をした後、ポツリと口を開いた。

「なんかさ…最近の君、前よりずっと堂々としてる感じがするんだよな。あの髪型にしてから特に。だからもっと攻めてもいいんじゃないかなって思ってさ。」

美咲は驚いた。彼が自分をそんな風に見ていたなんて考えたこともなかった。彼の言葉を聞くうちに、美咲の心には不思議な気持ちが広がっていく。自分の内面を見抜かれたような、でも、それが嬉しいような感覚だった。

「でも…どうなんだろう。私にそんなの似合うかな。」
美咲は雑誌を再び手に取り、そこに載ったモデルたちを見つめた。どれも洗練されていて、カッコいい。でも、自分がそうなれるとは思えなかった。

翔太は美咲の顔をじっと見てから、ゆっくりと口を開いた。
「似合うと思うけどな。少なくとも、今の君なら。俺が保証するよ。」

その言葉に、美咲は胸が熱くなるのを感じた。翔太は冗談で言っているわけではない。本気でそう思っているのだ。それが伝わってくる。

「でも、もし変だったらどうするの?」
美咲が冗談っぽく言うと、翔太は真剣な顔で首を振った。

「変じゃないよ。もし変だと思うなら、それは俺の目が悪いだけだ。君はどんな髪型でも素敵だと思うし、それが君の選択なら俺は応援する。」

その言葉に、美咲は黙り込んだ。翔太の真剣な眼差しが心に響いて、気づけば雑誌を閉じていた。

夕方、外に出た二人は駅前を歩いていた。翔太の提案を受け入れるかどうか、美咲はまだ迷っていたが、自然と美容室の方に足が向いていた。

街には人々が行き交い、春風が頬を撫でる。街灯が点き始めた通りを歩きながら、美咲はふと翔太の手を握った。

「やっぱり…やってみようかな。」
そう言うと、翔太は驚いた顔を見せた後、嬉しそうに微笑んだ。

「その決断、絶対に正解だと思うよ。」

その言葉に後押しされ、美咲は美容室の扉を押し開けた。心臓がドキドキしていたが、その音は恐怖ではなく、どこか期待と興奮が入り混じったものだった。

第4章: 心の葛藤と理解

翌週の月曜日、朝のオフィスはいつもと同じ喧騒に包まれていた。電話のベルやキーボードを叩く音が混ざり合い、美咲のデスク周りにも忙しさの気配が漂っている。だが、彼女の内面はまるで嵐のようだった。先週末、美容室でさらに大胆な刈り上げスタイルに変えた自分。その決断が本当に正しかったのか、確信はまだ持てていなかった。

「あ、美咲さん、髪切ったんですね!」
隣の席の後輩、由香が明るい声を上げた。周囲の同僚たちが一斉に美咲を振り返る。その視線が急に自分の頭に集まるのを感じて、美咲は一瞬体をこわばらせた。

「はい、ちょっと思い切って…」
笑顔を作って答えたものの、その声にはどこか自信が欠けているように感じた。

「すごく似合ってます!なんか、今までよりずっとクールな感じでカッコいいです!」
由香の言葉に周囲も頷きながら、「ほんとだ」「すごいね」「モデルみたい」と声をかけてくれる。それが決して社交辞令だけではないとわかる反応に、美咲は少しほっとした。

だが、褒められるほどに心がざわめいてくる。彼らの評価を受けている自分が、本当に「自分自身」なのかどうか、わからなくなってくるのだ。ふと、週末に翔太に言われた言葉が頭をよぎる。

「どんな髪型でも素敵だと思う。それが君の選択なら。」

本当にこれは「私の選択」だったのだろうか。翔太が勧めてくれたのは確かに心強かった。でも、あの瞬間、自分が彼の期待に応えたいと思っただけではなかったか。彼に「似合う」と言ってほしい、そのために自分を変えたのではないか――そんな思いが胸に湧き上がる。

その夜、美咲は帰宅するとすぐに鏡の前に立った。リビングの照明が彼女の顔と髪型を柔らかく照らしている。美容師が絶妙なバランスで仕上げた刈り上げは、まるでアートのように洗練されていた。だが、それを見るたびに「これは本当に私なのか」という疑問がまた浮かぶ。

そのまま鏡をじっと見つめるうちに、翔太の声が背後から聞こえた。
「帰ってたんだ。どうしたの、そんなに鏡とにらめっこして。」

翔太がリビングに入ってくると、美咲は咄嗟に顔を伏せた。
「別に。ただちょっと…」
声が弱くなった自分に気づき、内心で舌打ちをした。これじゃいつもの自分じゃない。

翔太は首をかしげながら、美咲の前に立ち、彼女の顔をじっと見た。
「なんか悩んでる?」
その言葉に、美咲の中で押し殺していた不安が一気に膨れ上がった。

「翔太…本当にこれ、似合ってると思う?」
思い切ってそう聞いたが、声が震えているのが自分でもわかった。翔太は少し驚いた顔を見せた後、いつもの柔らかい笑顔を浮かべた。

「もちろん似合ってるよ。何度も言っただろ?」
その言葉は優しく響く。でも、美咲の心に刺さるのは、翔太の答えではなく、自分が彼の答えを必要としているという事実だった。

「でも…これ、私のためにやったことじゃない気がしてきて。」
美咲は視線を伏せたまま続けた。「翔太に褒めてほしかったから。あなたに似合うって言われたくて…そう思って切っただけなんじゃないかって。」

翔太は黙ったまま、じっと美咲を見ている。その沈黙が美咲の胸を締め付けた。けれど、やがて彼は静かに息をつき、優しい声で話し始めた。

「美咲がどう感じてるかは、俺には全部わからない。でもさ、俺がどう見ても、君はすごく似合ってるし、今までよりも堂々として見えるよ。たとえそれが、最初は俺のためだったとしてもさ…今の君がそれを気に入れるかどうか、それが大事なんじゃない?」

その言葉に、美咲は顔を上げた。翔太の目は真っ直ぐで、その中に嘘はなかった。

「今の髪型が自分らしいかどうかなんて、誰にもわからないよ。でも、それを自分のものにするかどうかは、君が決めることだと思う。」

翔太の言葉は、彼女の心の奥に静かに落ちていった。その中には、彼の押し付けも、期待も、何もない。ただ、美咲自身に問いかけるための言葉だった。

その夜、美咲はベッドに横たわりながら、自分の髪にそっと触れた。刈り上げ部分の手触りはまだ新鮮で、自分が変わったことをはっきりと感じさせる。だけど、その変化は怖いものではなくなりつつあった。

翔太の言葉を反芻する。「今の君がそれを気に入れるかどうか、それが大事なんじゃない?」
本当にその通りだと思った。これからどうするかは、自分が決めればいい。それが髪型に限ったことではなく、仕事も、恋愛も、人生も――すべてに通じるのだと。

「明日、少し背筋を伸ばしてみよう。」
美咲は心の中でそう誓い、目を閉じた。夜が深まるにつれ、彼女の心も少しずつ澄み渡っていった。

第5章: 自分らしさと二人の未来

日曜の昼下がり。穏やかな陽射しがリビングの窓から差し込み、美咲はソファに深く腰掛けていた。テレビでは何かバラエティ番組が流れているが、彼女はほとんど注意を払っていなかった。先週の葛藤を経て、ようやく自分の中で一つの答えを見つけたとはいえ、どこか落ち着かない。

部屋の向こうから、ガサゴソと袋を開ける音が聞こえる。翔太が買い物袋を持ってリビングに戻ってくると、その中身をテーブルに置いた。美咲は何気なく振り返り、その瞬間、目を見開いた。そこには黒いバリカンが箱ごと置かれていたのだ。

「ちょっと待って、それ何?」
美咲は慌てて身を起こした。驚きと困惑が声に混ざる。

翔太は楽しそうに笑いながら、箱を取り上げて蓋を開けた。
「見ればわかるだろ?バリカン。昨日ネットで見つけて、買っちゃった。」
彼の目はまるで新しいおもちゃを手に入れた子供のように輝いていた。

「バリカン…って、何に使うの?」
美咲は警戒しながら尋ねた。

翔太はニヤリと笑い、彼女の隣に座ると、彼女の短い髪を指先で軽く撫でた。
「もちろん、美咲の髪をもっと完璧にするために使うんだよ。」

「えっ、ちょっと待って!自分でやるつもりなの?」
美咲は慌てて身を引いたが、翔太はまるで意に介さない様子でバリカンを手に取り、スイッチを入れた。ブイーンという機械音が部屋中に響く。

「やっぱり美容室もいいけどさ、家でできたほうが楽だろ?それに…なんか、俺がやってみたくなったんだよ。」
彼は照れたように笑いながら、美咲に近づこうとする。

「ちょっと翔太!やめてよ、危ないから!」
美咲は反射的に身を縮めるが、翔太は真剣な表情になり、そっとバリカンをテーブルに置いた。

「危ないことはしないよ。でもさ、思ったんだ。美咲の髪に触れるたびに、もっと自分で関わりたいって。それに、美咲も新しい自分を楽しんでるみたいだし…俺も一緒にその過程にいたいって思ったんだよ。」

その言葉に、美咲は一瞬、息を呑んだ。翔太がただ面白がっているだけでなく、本気で自分とこの変化を共有したいと思っていることが伝わってきた。

「でも…翔太がやるなんて、素人じゃん。」
そう言いながらも、美咲の声はさっきより穏やかだった。

翔太は笑いながら肩をすくめた。
「確かに素人だけど、ちゃんと調べたし、失敗しないようにやるから。信じてよ。」

その言葉に、美咲の中で少しずつ緊張が解けていくのを感じた。翔太の優しい笑顔と真剣な目に、彼女はため息をつきながらうなずいた。

「…わかった。でも、変になったら責任取ってよね。」
美咲の言葉に翔太は笑みを深めた。

キッチンから椅子を持ってきた翔太は、それをリビングの真ん中に置いた。美咲が恐る恐る座ると、彼はタオルを首に巻き、準備万端の様子だ。窓からの陽光が部屋を明るく照らし、二人の小さな冒険を見守っているかのようだった。

第5章: 刈り上げの瞬間

日曜の午後、リビングの窓から差し込む春の柔らかな陽光が部屋を包んでいた。テーブルの上には翔太がネットで買ったばかりの新品のバリカンが置かれている。黒くシンプルなデザインで、手にしっくりと馴染みそうな形状。まだ未使用のそれを見つめながら、美咲は複雑な気持ちを抱えていた。

「本当にやるの…?」
ソファに腰掛けた美咲は、タオルを握りしめながら小さく呟いた。視線はテーブルのバリカンに向けたままだ。

「もちろん。ここまで来たらやるしかないだろ?」
翔太は自信満々の表情でバリカンの箱を開け、中から取り出すと、説明書を手に取って目を通し始めた。
「ちゃんと調べたし、失敗しないようにするから安心しなって。」

その言葉に、美咲はため息をついた。翔太が妙にノリ気なのはわかっていたが、それでも自分の髪型を彼に任せるというのは正直言って不安が大きい。

「でも…もし変になったらどうするの?」
美咲は軽く冗談めかして言ったが、その声にはどこか本気の不安も混ざっていた。

翔太は笑いながらバリカンを手に取り、カチッとスイッチを入れる。ブイーンという低い振動音が部屋に響き、彼は少し誇らしげにそれを振り上げた。
「変になったら美容室で直してもらえばいいさ。でも、俺は自信あるよ。…まあ、美咲が俺の腕を信じてくれればの話だけど。」

その言葉に、美咲はしばらく考え込んだ。翔太は不器用なところもあるが、いつだって彼女を大切にしてくれる。それを信じていいのかもしれない――そう思うと、少しだけ緊張が和らいだ。

「わかった。でも慎重にね。刈り上げって本当に繊細なんだから。」
美咲は苦笑いを浮かべながら椅子に座り直した。翔太がタオルを彼女の首に巻き、さらに落ちた髪が散らないように準備を整える。彼の顔は真剣そのものだった。

「じゃあ、いくよ。」
翔太は再びバリカンを持ち上げた。振動音が再び響くと、美咲は自然と背筋を伸ばし、目を閉じる。翔太がサイドの刈り上げ部分にバリカンをそっと当てた瞬間、ひんやりとした感触が肌に伝わる。

「くすぐったい…」
美咲は小さく声を漏らしたが、翔太はクスッと笑いながらバリカンを動かし始めた。

髪が落ちる感覚が、彼女の耳元で微かに伝わる。サイドから襟足にかけて慎重に刈り上げていく翔太の動きは、思ったよりも安定していた。振動が心地よいリズムで頭に響き、どこか安心感すら覚える。

「すごいな…なんか俺、美容師になれそうかも。」
翔太が冗談めかして言うと、美咲は目を閉じたまま苦笑した。
「調子に乗らないでよ。でも…案外悪くないかも。」

バリカンの音と、髪が落ちる微かな音。部屋の中はそれ以外何も聞こえない静けさに包まれていた。翔太は額に軽く汗を滲ませながら、一心に美咲の髪を整えていく。その真剣な表情を、美咲は目を閉じたままでも感じ取ることができた。

「もう少しだけこっちを短くしてみようか…」
独り言のように呟く翔太の声が頼もしく聞こえる。その手つきは初めてバリカンを扱うとは思えないほど丁寧だった。

15分ほど経ったころ、翔太はバリカンを止めた。部屋の中の静寂が戻り、美咲はそっと目を開けた。彼がハサミで少しだけ仕上げを整えた後、大きな手鏡を持ってきて彼女に手渡した。

「さあ、見てみて。」
翔太の声にはどこか期待と不安が入り混じっている。

美咲は鏡を手に取り、自分の姿をじっくりと見つめた。翔太の手によって仕上げられた美咲の髪型は、これまでよりさらに洗練された大胆なスタイルだった。サイドと襟足は大胆に刈り上げられ、手で触れると滑らかで心地よい感触。短くなった部分は地肌がほんのり見える程度に刈り込まれ、バリカンの精度が高く、ラインが美しく揃っている。

トップ部分は少し長さを残し、柔らかな丸みを帯びたシルエットになっていた。サイドからトップにかけてのグラデーションは自然で、刈り上げのシャープさとトップの女性らしい柔らかさが絶妙なコントラストを生み出している。前髪は軽く斜めに流され、顔立ちを引き立てるように計算された形。全体的にシンプルながら個性的な雰囲気を醸し出し、美咲の顔の輪郭を際立たせるようなデザインだ。

美咲が特に気に入ったのは、襟足からサイドにかけて刈り上げられた部分だ。初めて触れるほど短くなった髪は、指先で撫でるとひんやりして滑らか。その触感は彼女自身にも新鮮で心地よく、手鏡を見ながら何度も指でなぞらずにはいられなかった。

「すごい…なんか、こういう髪型ってもっと冷たい感じになるかと思ったけど、意外と私らしいかも。」
鏡に映る自分の新しい姿を見つめながら、美咲はそう呟いた。刈り上げのラインが凛とした強さを表現しつつも、全体の丸みが女性らしさを柔らかく包み込んでいる。スタイリッシュでモード感のある仕上がりだが、どこか品の良さも感じられる。

翔太は満足げに腕を組み、隣で彼女の横顔を眺めていた。
「うん、本当に似合ってる。思った通り、すっごくかっこいい。だけど、ちゃんと可愛さも残ってる。美咲だからこそ似合うんだよ。」

その言葉に、美咲は鏡を見ながらふっと笑みを浮かべた。短い髪型は、まるで自分に新しい自信を与えてくれるようだった。自分が新しい自分に生まれ変わる一歩を踏み出した、その証のように感じられる髪型。大胆でありながらも上品、そして何より「美咲らしい」スタイルに仕上がっていた。

その夜、美咲は寝室で鏡に映る自分を再び見つめていた。翔太が自分のために一生懸命になってくれたこと、その温かさが髪型そのものに刻み込まれているように思えた。

彼女はそっと髪に触れながら、未来を考えていた。髪型は変わっても、それが自分を縛るものではなく、むしろ自由にしてくれるものだと。翔太と一緒に、これからも新しい自分を探していこう――そう心に決めながら、美咲は静かに目を閉じた。

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