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第4章 春のはざまに、珈琲を
番外編 静かな夕食、静かな決意
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駅前のスーパーは、夕方五時を回ると空気が変わる。
惣菜売り場に主婦が集まり、鮮魚コーナーの半額シールに静かな競争が生まれる。
ワクカブはその波に混ざるように、目的もなく店内をふらついた。
「……あった」
鮮魚コーナーの端っこ、氷に沈むようにして並んでいた真鯛のアラ。
通常198円が、しっかり赤いシールで「98円」になっている。しかも大きい。
頬肉、カマ、血合い、骨周り……うまみの宝庫。
「これはあら汁確定だな。誰かと取り合う前に救出だ」
小さくガッツポーズしながら、ワクカブは鮮魚アラをカゴに入れた。
ついでに豆腐も1丁。味噌も家にある。冷蔵庫にネギもあったはず。
足りないのは、飲む気分だけだ。
⸻
帰宅してキッチンに立つ。
昨日、余った漬けマグロはちょうど一人前。
朝に醤油・酒・みりんを少し足して味を調整しておいた。
ごはんを炊くほどでもないから、冷凍してあった少し柔らかめのごはんをレンジで解凍する。
鍋に湯を沸かし、酒を入れてアラをさっと湯通し。
霜降り処理をしながら骨の血を丁寧に洗って、湯を入れ替えた鍋で煮る。
昆布だしは使わない。魚の風味だけで十分だ。
「ああ、これは絶対うまい」
ぶつぶつ独りごちながら、ネギを刻んで味噌をとく。
最後に豆腐を入れて、火を止めて余熱で味を落ち着かせる。
ちょっと休ませたほうが、汁物はうまくなる。
⸻
漬け丼には、大葉とすりごまを足した。
酢飯ではなく、少し硬めの白米。そこに漬けマグロがしっとり乗る。
上から黄身を落とすか迷ったが、今日は素朴に、素材の味を生かす日だと判断。
小鉢には、昨日の残りのきゅうりの辛子漬け。
辛子がピリッと立っていて、マグロにもあら汁にもよく合う。
一人分の晩ごはんが、どんと並ぶ。
⸻
「見た目は地味だけど、これは勝利の食卓だな」
思わず声に出してしまった。
ほんの少し前まで、夜はコンビニのパック寿司か、残り物の炒め物だった。
だが今日は、食材を選び、手をかけ、味を整えた一汁一飯一菜。
誰に見せるわけでもないが、心は満たされる。
一口食べて、目を閉じる。
魚の脂の甘みと味噌の香り、きゅうりの辛みが、それぞれ静かに共鳴していた。
「さて。明日から、どうするか」
ワクカブは箸を止め、ふうと息を吐いた。
転職して数日。焦りはないが、手応えもまだない。
だが、スペシャリティコーヒーと、今日の漬け丼のように。
一つずつ、丁寧に選んでいけば、きっと次が見えてくる。
テレビもつけず、スマホも触らず、ただ箸を進める夜。
それは、ゆっくりと、新しい人生が蒸されてゆく音だった。
惣菜売り場に主婦が集まり、鮮魚コーナーの半額シールに静かな競争が生まれる。
ワクカブはその波に混ざるように、目的もなく店内をふらついた。
「……あった」
鮮魚コーナーの端っこ、氷に沈むようにして並んでいた真鯛のアラ。
通常198円が、しっかり赤いシールで「98円」になっている。しかも大きい。
頬肉、カマ、血合い、骨周り……うまみの宝庫。
「これはあら汁確定だな。誰かと取り合う前に救出だ」
小さくガッツポーズしながら、ワクカブは鮮魚アラをカゴに入れた。
ついでに豆腐も1丁。味噌も家にある。冷蔵庫にネギもあったはず。
足りないのは、飲む気分だけだ。
⸻
帰宅してキッチンに立つ。
昨日、余った漬けマグロはちょうど一人前。
朝に醤油・酒・みりんを少し足して味を調整しておいた。
ごはんを炊くほどでもないから、冷凍してあった少し柔らかめのごはんをレンジで解凍する。
鍋に湯を沸かし、酒を入れてアラをさっと湯通し。
霜降り処理をしながら骨の血を丁寧に洗って、湯を入れ替えた鍋で煮る。
昆布だしは使わない。魚の風味だけで十分だ。
「ああ、これは絶対うまい」
ぶつぶつ独りごちながら、ネギを刻んで味噌をとく。
最後に豆腐を入れて、火を止めて余熱で味を落ち着かせる。
ちょっと休ませたほうが、汁物はうまくなる。
⸻
漬け丼には、大葉とすりごまを足した。
酢飯ではなく、少し硬めの白米。そこに漬けマグロがしっとり乗る。
上から黄身を落とすか迷ったが、今日は素朴に、素材の味を生かす日だと判断。
小鉢には、昨日の残りのきゅうりの辛子漬け。
辛子がピリッと立っていて、マグロにもあら汁にもよく合う。
一人分の晩ごはんが、どんと並ぶ。
⸻
「見た目は地味だけど、これは勝利の食卓だな」
思わず声に出してしまった。
ほんの少し前まで、夜はコンビニのパック寿司か、残り物の炒め物だった。
だが今日は、食材を選び、手をかけ、味を整えた一汁一飯一菜。
誰に見せるわけでもないが、心は満たされる。
一口食べて、目を閉じる。
魚の脂の甘みと味噌の香り、きゅうりの辛みが、それぞれ静かに共鳴していた。
「さて。明日から、どうするか」
ワクカブは箸を止め、ふうと息を吐いた。
転職して数日。焦りはないが、手応えもまだない。
だが、スペシャリティコーヒーと、今日の漬け丼のように。
一つずつ、丁寧に選んでいけば、きっと次が見えてくる。
テレビもつけず、スマホも触らず、ただ箸を進める夜。
それは、ゆっくりと、新しい人生が蒸されてゆく音だった。
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