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第4章 春のはざまに、珈琲を
第一夜 転職と一杯の余白
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四月の終わりに、ワクカブは仕事を辞めた。
思えばずいぶん長くいた。最初は短期の棚卸しのはずが、いつの間にか品出しから発注、取引先との調整、さらには若手社員の教育まで担うようになっていた。
「まるで、棚の延長で人生を並べてるようやったわ」
そう呟いたのは、辞めた次の日だった。達成感よりも、空っぽの冷蔵庫を見たときの方が、よほど心に響いた。
五月、街の色がすこし淡くなる頃。
生活リズムが変わったワクカブは、まだ新しい一日のペースに戸惑っていた。
この日も、帰りにちょっと遠回りをして歩いていたところだった。夕方前の陽が、古い家屋の影を長く伸ばしている。そんななか、ふと目に留まったのは、通り沿いの一軒の喫茶店。古民家を改装したような趣があり、外のベンチに置かれた小さな黒板に、白いチョークでこう書かれていた。
「本日のスペシャリティコーヒー:エチオピア・イルガチェフェ」
(スペシャリティ……?)
コーヒーは好きだ。けれど、家ではいつもドリップバッグ。味より手軽さを優先していた。
気づけば、ドアを開けていた。
木の香りがほんのりと残る店内には、数組の客が穏やかに会話を楽しんでいた。BGMのピアノジャズが静かに流れている。空いていたカウンター席に腰を下ろすと、ちょうど隣の席にいた女性が、カップを手にこう言った。
「……やっぱり、今日のイルガチェフェ、美味しいなぁ」
思わずメニューを開く。ページの一番上には、「本日のスペシャリティコーヒー」とあり、説明が添えられていた。
「スペシャリティコーヒーとは、産地・品種・精製方法に至るまで明確なトレーサビリティを持ち、豆の選別・輸送・焙煎・抽出に至る全工程で高い品質管理がなされているものです。味のクリーンさ、風味の明瞭さ、酸味・甘味・コクなどが際立っており、SCA基準で80点以上のスコアを有するコーヒーです」
(なんや……めっちゃ、ちゃんとしたやつやん)
気がつけば、「本日のコーヒーを」と声に出していた。
運ばれてきたカップから、ふわりと優しい香りが立ちのぼる。花のような甘さと、ほんのりと柑橘を思わせる酸味が鼻をくすぐる。ひと口含むと、まるで音楽のように広がる味わいが口中を包んだ。苦味は控えめで、透明感があり、あとからじんわりと甘さが残る。
(ええな……なんや、うまく言えんけど、“ちゃんとしてる味”って感じや)
スペシャリティコーヒー。
それは、単に高級とか希少というだけではない。
「種からカップまで」──栽培、収穫、選別、焙煎、抽出の全てに、人の目と手と心が込められている。その積み重ねのすべてが、一杯の中に詰まっている。雑味がないというのは、ただ味が薄いのではなく、“余計なものを削ぎ落とした結果”なのだ。
まるで、人生のようだった。
人付き合いも、仕事も、恋愛も、何もかも背負い込んでいた頃には見えなかったものが、今、この“余白”の時間のなかでは見えてくる。
⸻
飲み終わって店を出たのは、ちょうど隣の女性と同じタイミングだった。
何気なく歩き出そうとした時、前から自転車に乗った年配の女性がやってきて、彼女に声をかけた。
「おーい、ゆかりちゃーん!」
「この間のお菓子、おいしかったよ~。ほんとありがとうね!」
「いえいえ、こちらこそ~!」
彼女が笑って答える。
その声の響きに、少しだけ驚いた。
ゆかり、という名前。聞いた途端、俺の脳内に浮かんだのは――
ふりかけだ。
なぜだ。
いや、なぜって、それしか出てこない自分の発想力のなさの問題だ。
紫の小袋と、さっきの笑顔。まるで繋がらないのに、なぜかセットで記憶されてしまった。
⸻
帰り道、夜の風が少しだけ冷たく感じた。
転職してよかったんか、まだようわからん。
でも……こんなふうに、“ちゃんとした味”を感じれるなら、悪くないかもな)
人生の棚をすこし整理して、新しい並び順を見つけるように。
その始まりに、ちいさな一杯が、そっと寄り添っていた。
思えばずいぶん長くいた。最初は短期の棚卸しのはずが、いつの間にか品出しから発注、取引先との調整、さらには若手社員の教育まで担うようになっていた。
「まるで、棚の延長で人生を並べてるようやったわ」
そう呟いたのは、辞めた次の日だった。達成感よりも、空っぽの冷蔵庫を見たときの方が、よほど心に響いた。
五月、街の色がすこし淡くなる頃。
生活リズムが変わったワクカブは、まだ新しい一日のペースに戸惑っていた。
この日も、帰りにちょっと遠回りをして歩いていたところだった。夕方前の陽が、古い家屋の影を長く伸ばしている。そんななか、ふと目に留まったのは、通り沿いの一軒の喫茶店。古民家を改装したような趣があり、外のベンチに置かれた小さな黒板に、白いチョークでこう書かれていた。
「本日のスペシャリティコーヒー:エチオピア・イルガチェフェ」
(スペシャリティ……?)
コーヒーは好きだ。けれど、家ではいつもドリップバッグ。味より手軽さを優先していた。
気づけば、ドアを開けていた。
木の香りがほんのりと残る店内には、数組の客が穏やかに会話を楽しんでいた。BGMのピアノジャズが静かに流れている。空いていたカウンター席に腰を下ろすと、ちょうど隣の席にいた女性が、カップを手にこう言った。
「……やっぱり、今日のイルガチェフェ、美味しいなぁ」
思わずメニューを開く。ページの一番上には、「本日のスペシャリティコーヒー」とあり、説明が添えられていた。
「スペシャリティコーヒーとは、産地・品種・精製方法に至るまで明確なトレーサビリティを持ち、豆の選別・輸送・焙煎・抽出に至る全工程で高い品質管理がなされているものです。味のクリーンさ、風味の明瞭さ、酸味・甘味・コクなどが際立っており、SCA基準で80点以上のスコアを有するコーヒーです」
(なんや……めっちゃ、ちゃんとしたやつやん)
気がつけば、「本日のコーヒーを」と声に出していた。
運ばれてきたカップから、ふわりと優しい香りが立ちのぼる。花のような甘さと、ほんのりと柑橘を思わせる酸味が鼻をくすぐる。ひと口含むと、まるで音楽のように広がる味わいが口中を包んだ。苦味は控えめで、透明感があり、あとからじんわりと甘さが残る。
(ええな……なんや、うまく言えんけど、“ちゃんとしてる味”って感じや)
スペシャリティコーヒー。
それは、単に高級とか希少というだけではない。
「種からカップまで」──栽培、収穫、選別、焙煎、抽出の全てに、人の目と手と心が込められている。その積み重ねのすべてが、一杯の中に詰まっている。雑味がないというのは、ただ味が薄いのではなく、“余計なものを削ぎ落とした結果”なのだ。
まるで、人生のようだった。
人付き合いも、仕事も、恋愛も、何もかも背負い込んでいた頃には見えなかったものが、今、この“余白”の時間のなかでは見えてくる。
⸻
飲み終わって店を出たのは、ちょうど隣の女性と同じタイミングだった。
何気なく歩き出そうとした時、前から自転車に乗った年配の女性がやってきて、彼女に声をかけた。
「おーい、ゆかりちゃーん!」
「この間のお菓子、おいしかったよ~。ほんとありがとうね!」
「いえいえ、こちらこそ~!」
彼女が笑って答える。
その声の響きに、少しだけ驚いた。
ゆかり、という名前。聞いた途端、俺の脳内に浮かんだのは――
ふりかけだ。
なぜだ。
いや、なぜって、それしか出てこない自分の発想力のなさの問題だ。
紫の小袋と、さっきの笑顔。まるで繋がらないのに、なぜかセットで記憶されてしまった。
⸻
帰り道、夜の風が少しだけ冷たく感じた。
転職してよかったんか、まだようわからん。
でも……こんなふうに、“ちゃんとした味”を感じれるなら、悪くないかもな)
人生の棚をすこし整理して、新しい並び順を見つけるように。
その始まりに、ちいさな一杯が、そっと寄り添っていた。
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