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ローラ編
死に損ないの糸切り歯
しおりを挟むしかし。
確かにみんなの前に現前していたテレポーテーションするための扉は、やがて滲むようにして消えてしまうのだった。
みんなこれには、ゲンナリした。魔王のところへ行けば、恐ろしいことが待っていることは百も承知だが、いい加減、わけのわからないリアルなのか幻想なのかわからない世界は、もうウンザリだった。
しかし。あの金属製の枠が再び見つかるまで、旅、というか時間潰しというか、そうしなければならないのは自明だった。
「ほなほな、フエ、またコメダお願い。シロノワール食べたいねん。絵に描いた餅やのうて、ちゃんと食べられるやつたのんます」
リアルのコメダに行きたいのは、やまやまだったが、まさか、今のところ球体関節妊婦人形なんですけど、これでも徐々にヒトに変身しつつあるんですよ、なんて言えるわけもない。
満腹中枢までだまくらかしてしまう、フエの幻想で、とりあえず小腹を満たしたユタカは、またぞろ寝落ちして夢を見た。夢の中で、彼は気持ちよさげにムニャムニャ独り言を呟いている自分の声を聞いている。
話は、横道に逸れるが、カフカの『変身』を教養として読んではいるが、あくまでも小説の中での出来事であり、現実にそんなことはありえないと思っている方がほとんどだろう。
だが、そんなこともないのだった。脳の中身は丸っ切り変わらないまま見てくれだけは変えてくれる美容整形は、グレゴール・ザムザのケースによく似ており何万人もの人がなによりも実際に『変身』を遂げているからだ。
美容整形で醜くしたいという願望はありえないし、また人類以外の容貌にしたいという人もたぶんいないので、グレゴール・ザムザとはまったく違うのだが、例えば絶対にアイドルになりたいと美容整形した女子がその後、一世を風靡する今をときめく坂道シリーズのオーディションに合格し、世界が一変してしまうこともありうるだろう。同じようにグレゴール・ザムザも世界が一夜にして変わってしまうのだが、こちらは悪い方へと一変してしまう、というわけで、いわゆる見てくれだけの変化を短時間で成し遂げてしまう点では、美容整形の変身とカフカの変身は、似ていないこともない。
事実は小説よりも奇なりなどというが、たしかに著名なカフカの作品である『変身』は、まったくありえべかざる出来事であり、小説内での絵空事だなどとはまったく言い切れないのだ。
小説のマジックリアリズムなどではなく、現実にお金を支払って変身を遂げた人が現代ではいくらでもいる。逆にたとえ綺麗になれるかもしれないとしても、美容整形など怖ろしくおぞましい事だと思う人も少なからずいるだろう。つまり、ゴキブリのような、あるいは甲虫のような虫へと変身したから怖ろしくおぞましいというわけではないようだ。
グレゴール・ザムザの変身は、自ら望んだものではむろんなく、社会の自分への評価をカリカチュアしたものではないのかと思う。そしてそれとは真逆であるかのように思われる美容整形も、実はそれと同様であり、他の人の評価を気にして他人の目には自分がどのように映っているのか、その一点だけのためにやらなくてもいいはずである親からもらった大切な顔にメスを入れる。
つまり、価値は他人の目、社会の評価により決められ変えられてしまうものだという点で一致している。
自分の容姿がイヤで仕方なく自ら変身を望む人のための美容整形は、あくまでも外形だけの変化だが、中身を変化させてしまうロボトミーという前頭葉白質切除の怖ろしいものもある。人の感ずる苦しみは、自身の過去との比較、他者との比較等、総じて記憶に由来する感情だが、その記憶や喜怒哀楽という感情を根こそぎ取ってしまえば確かに人の苦悩はなくなるだろう。しかし、それはもう生ける屍でしかない。
人は、痛みや苦悩から逃れたくて死を選ぶ。死もひとつの変身にはちがいない。その死を望むほどの痛み苦しみが尋常ならざるものであることは想像するに難くないが、『変身』でグレゴール・ザムザが人生の苦悩について語っていたことはまず間違いない。
そして、変身にはもうひとつのパターンがあった。差別や偏見といった外的な要因による変身だ。こちらはまったく変わっていないにもかかわらず、ある日突然他者の自分を見る目が変わる。これも立派な変身にはちがいない。自分がいくらまっとうな人間であると言い張ろうが、周りの者が、例えばおまえは人殺しだという目で見るならば、グレゴール・ザムザは人殺しにされてしまう。
とどのつまり、彼が変身してしまった原因を究明しようともしないのは、その理由を隠しておきたかったからではないだろうか。隠しておきたかったというのは、作者であるカフカは多少被害妄想気味ではないのかと疑われるのがいやだということ、それはつまり、何かをきっかけにして一夜にして人の印象とは変わってしまうものであるが、それこそあの『変身』をきっかけにして、カフカという作家は、病的なほどの被害妄想の気があるのではないか、或いはあまりにも、ナイーブすぎるなどと思われたならたまらないので、それをストレートには表現しなかった、ということではないかと愚考する。
自分が望むと望まざるとにかかわらず、レッテルを勝手に貼ってしまわれたなら、それを払拭するのはかなりむずかしい。グレゴール・ザムザは、そうやって差別的な色眼鏡で見られているのかもしれない自分をカリカチュアして描いてみせたのではないか。
マルセル・ベアリュのシュルレアリスムな小説『水蜘蛛』では、愛のためにナディは変身を遂げたが、『変身』の主人公の変身は一筋縄ではいかないようだ。それは、つまり、カフカがその理由を隠しているからに相違ないのではないか。そして、むろん隠すには隠す理由があるというわけだ。
そんなことを考えもしながら、ユタカはシロノワールを食べた。夢の中でもシロノワール。まさに至福の時間だった。映画好きなユタカは、シロノワールというネーミングから、すぐさまフィルムノワールを思い浮かべた。いわゆる犯罪映画のことだが、コメダ珈琲さんのシロノワールのそのネーミングの由来を知ってなるほどなと思った。
だが、このあまりにも蕩けるような美味しさの裏には、それこそハニートラップのような罠が仕掛けてあり、誰しもが摂取カロリーのことから逃れられずに、けれどもどうしても食べたいため、カロリーやら糖質の事は頭の片隅に追いやって、多少の罪悪感を持ちながらペロリと平らげてしまう。わかっていて犯罪を犯してしまったような後ろめたさや罪悪感をノワールになぞらえて用いた小憎らしいほど見事なネーミングだった。それは、食べた者の心理を巧みに言い表わしている。
そして。白ノワールを食べ終わったユタカは、夢の中でまたぞろどこにいけばいいのか、まったくもってわからない旅に出た。
ユタカは、リアルの世界では青青春18切符というのがあるらしいので、それでも買って見知らぬ土地へと旅したいと思っていたのだ。しかし、81でも自分が青春だと思えば青春だし、18でも老人みたいな考え方をしていたら老人にちがいない。
ローラをずっと背負っているわけにもいかないので、電動自転車に魔改造をほどこし荷台にイージーライダーみたいな背の高いシートを取り付けてみた。走っている時は慣性で後ろに引っ張られるので、ローラはシャンとしているが、止まると力なくうなだれてしまい、田んぼの案山子みたいになってしまう、そんな感じだ。それで、やはりバックパックにローラを入れて背負っていくことにした。本来は登山用だろうが、60Lのバックパックをネット(フエの幻想)で手に入れた。
手始めの拠りどころとしてローラが知っている情報をまずは辿っていくことにしたが、ある物識りのおばあさんがいて、いろいろ話を聞かせてくれるらしい。そもそも自分の影を捜すなんて聞いたこともないのだから、手がかりの糸口だけでも見つけたかった。その情報の対価といってはなんだけれども手土産に何かお菓子を用意しなければならないらしい。それが話を聞かせてもらう唯一のルールなのだという。
そこで、全く知らないお菓子だが地下街に横たわるシロナガスクジラみたいな巨大なショッピングセンターで気の向くまま選んでみた。実際そこの入り口は鯨の土手っ腹にポカリと開いたほら穴のような雰囲気で、仄暗い通路を進んでいくドキドキ感はディズニーとかのアトラクションの時とよく似ていた。
ローラの関節を曲げてみたらバックパックで結構いけたのでラッキーだった。遠目では子どもを背負っているくらいに見えるだろうが、近くで見てギョッとする人、指さして笑い出す人もいて、街往く人たちのいろいろな反応が面白かった。隠し撮りもされたようだから、今頃はもうSNSで拡散されているかもしれない。#アタマのいかれた人というタグ付きで。
その地下街には、ほんとうにさまざまな見たこともない無国籍の珍しいお菓子やらケーキ、パン、などなど数えきれないほど、並んでいて、目移りして仕方ないくらいだった。それにしても奇妙奇天烈なものばかりで、圧倒されたがなんといっても幼い頃から憧れていたヘンゼルとグレーテルのお菓子の家がリアルなサイズで見れたのは感激だった。
かわいらしい家の背の低い生け垣には、ヨックモックが使われていたし、壁はホワイトチョコ。ザクザクした食感のクランチとチョコがコーティングされたブラックモンブランみたいなアイスの玄関ドア、リビングへのアーチ型の入口に垂れ下がる玉のれんの玉は、GODIVAやペンシルチョコ、パラソルチョコ、それからチロルチョコやひと口サイズのクッキーだった。
リビングに掲げてある大きな絵画は、どっしりとした風格のある抽象画で、近寄ってみるとそれは、さきいかや、あんこ玉、麩菓子、綿菓子、色とりどりのキャンディ、マシュマロ、プルーンやバナナ、マンゴー、レーズン、アプリコット、イチジク、クランベリーといったドライフルーツ、ブラックサンダー、キャラメルコーン、小枝、とんがりコーン、もみじ饅頭、人形焼、フィナンシェ、ブラウニー、たい焼き、パンケーキ、カステラ、うまい棒などが画材として使われていた。
二階へと続く階段は、じゃがりこやハッピーターン、海苔せんべいとえびせんで出来ていたし、小さな庭のギンガムチェックに刈り込まれた芝生は、よくみるとポッキーと都昆布だった。まるで石庭のような静かな佇まいをみせるパティオは、純白の生クリームに風紋のように美しいカーヴを描いて等間隔に置かれた苺がなんともいえない趣を呈し、甘い香りを放っていた。また、オレンジ色した川も流れていて、そこには色鮮やかなマカロンだけで作られた橋もかかっていた。
エントランスは淡い色のういろうらしく、ふにゃふにゃしていて歩くと思わず笑い出しそうになったが、敷石は巨大なハードグミで出来ているようだった。そして、玉砂利のようにびっしりと敷き詰められていたのは、アーモンドやクルミ、ピスタチオ、ピーナッツ、カシューナッツといった、ユタカの好きなナッツ類だった。
それで、結局お土産のお菓子はどんなものにしたかというと、とんでもない高級和菓子にすることにした。
それからローラの曖昧な記憶を頼りに魔法使いのおばあさんだか、飯綱使いのおじいさんだか、まったくわからないのだけれど、小高い丘の上に立つ白い屋根とピンクや藤色のパステルカラーのグラデーションで綺麗に塗装された小ぢんまりとしたお家にお邪魔した。考えてみれば、その家にたどり着けたことじたい、既に奇跡だった。それはまさに夢の中での出来事のようだった。
お菓子屋さんを後にし、ローラとふたり迷い子のように迷路みたいな通路を行ったり来たりしながら、やっと地上に出て、おばあさんに会いたいなと道端で右往左往していると、そのおばあさんの家への道標が眼前に忽然と現れるといった塩梅でそれほど労せずしておばあさんの家にたどり着けた。というのも、おばあさんの方からこちらに接触してくれたからだろうと思っている。不思議な話だがおばあさんの家は回遊魚のように常に流動的らしい。まあ、だから固定資産税はかからないだろうが、でたらめに動き廻っているわけでもなさそうだった。
早い話が、おばあさんの家はあるようでない、ないようである、そういった家なので、むろん地図なんかには載ってない。道標が忽然と現われたというのは、何もない中空にタグが表示されたからだった。その空中に浮かぶ荷札のような矢印タグには、《ファーティマおばあちゃんの家はこちら》と記されていた。
ユタカは、以前にもどこかでこれと似たような空中に浮かぶタグを見たような記憶がかすかにあった。そんなタグが現実にあるわけもないのだからもしほんとうに見たとしたなら、強烈な印象として残っているだろう。だから夢に出てきただけなのかもしれない。さらにそのファーティマおばあちゃんが、捜しているおばあさんなのだという確証もないが、このタイミングでこのタグなのだから、まずまちがいはないだろうとユタカは思った。
だが自分の都合のいいように判断しただけとも言える。詐欺の騙しのテクニックは、人の心理をうまく利用しているだけに、騙されてしまう人は後を絶たない。しかし、ユタカはこのファーティマおばあちゃんに賭けてみることにした。そして、宙に浮かぶタグからタグへと導かれながら、ほどなくちんまりとしたパステルカラーの小さな家へと辿り着いたというわけだ。
ローラを背負ったユタカを、驚くでもなく、優しく微笑みながら部屋の中へと招き入れてくれた話し好きらしいおばあちゃんは、鷲鼻でもないし、とても魔法使いのようには見えなかった。おばあちゃんは、サマンサ・スミス・ファーティマという名前で、アップルパイやパンケーキ、プディングを焼くのが趣味だという。
ユタカが手土産ですと言って、差し出したお菓子の箱を満面の笑みを浮かべて受けとると、「あーら、素敵。見たこともないかわいい和菓子。いま、お茶淹れるわね。ちょうど美味しいアールグレイの茶葉をいただいたところなのよ」というところから、早くもおばあちゃんのマシンガントークは口火を切った。
ファーティマおばあちゃんは、こちらの説明を聞く前から、どんなことを知りたくて訪ねて来たのか知っているようだった。このおばあちゃんを前にしたら、そんなことも不思議でもなんでもないように思えたが、なんの目的できたのか知っているので、余裕で逸脱した会話を楽しんでいるように思えた。一気に本丸を攻め落とすのではなく、核心へとじょじょに近づいていく為には、まずは外堀を埋めていくというやり方らしい。
「実は山査子のプディングを用意しておこうと思ってたのよ。でも、いただきものが生菓子みたいだったから。おもたせで失礼かもしれないけれど」
ここまでは、まあわかるのだった。ユタカとローラが手土産に用意してきたのは高級生和菓子であるということを知っていることくらいファーティマおばあちゃんなら、朝飯前なのだろう。ただしかし、ここからがさらに凄かった。というのは、和菓子であることを知っているはずなのに、緑茶ではなく紅茶を出すというありえない選択だった。
実は、この和菓子は外見こそ和菓子なのだが、チョコや生クリーム、カスタードクリーム、アイスクリーム、マスカルポーネ、そしてモンブランも真っ青なたっぷりなアーモンドペーストが入った極上のマロンクリームをお餅でくるんであるのだから、確かに紅茶の方が適切なのかもしれない。
ファーティマおばあちゃんは、そこまで知っていてアールグレイをチョイスしたとしか思えないのだった。恐るべしファーティマばあちゃん。手土産は和菓子であると認識していたはずなのに、見てくれでおばあちゃんは騙されないらしい。
とにかくおばあちゃんは、義理堅いのか、ただ話し好きで話し出したら止まらなくなるからなのか、よくはわからないのだが、思いついた事は洗いざらい出し切らないと気持ちがわるいといった性分らしく、ここまでは話すけれども、ここからは秘密といった器用なまねはできないようなので、その情報量は半端なかった。
だから、必要な情報なのか否かの取捨選択をしながら拝聴するわけだが、こちらとしてもどんなエピソードでも掘っていけばお宝にぶちあたる坑道に連結しているのやらわからないのだから、とにかく聞き漏らすわけにはいかなかった。
もしかしたら、とんでもなく関係なさそうな話なのに、その話のかたわらを細々と流れる小川のせせらぎのような話から核心に近い支流へとシフトする可能性もなきにしもあらず。ひょんな事から話が飛び火してという関連性のないもの同士がどこでどう繋がるか、意外なところで紐付けられているやもしれないのだ。
つまり、まあいわゆる勘に頼るしかないのだが、きっとピントくる瞬間があるのだろう、そう思った。
「じゃあ、まずどんな話をしようかね、思うにテグシガルパで影を食われたアトーナル・ヴェラスケス・バシャール・ハシュバシュの話がいちばん参考になるかもしれない。でもあいにく詳細は忘れてしまったよ。寄る年波にはさすがに私も勝てないんでね。万巻の書にも匹敵する記憶も、書庫から引っ張り出せなきゃ意味がない。メモリにアクセスできるアクセスキーが経年劣化で、年々錆びつくばかりなんだよ。じゃ、まあ思いつくままに、お話していこうかね」
そういって、ファーティマおばあちゃんは、スワイラという女の人の話をはじめたのだった。
スワイラは、おばあちゃんとふたりで暮らしていました。そこは、「死に損ないの絲切り歯」と呼ばれる四方を絶壁に囲まれた谷底にある村でした。村には、名が付いてはおらず、死に損ないの村であるとか、糸切り歯の村であるとか、めいめいがてんでに好き勝ってに呼んでいました。
スワイラは、小さな頃から奇妙な名前の付いたその絶壁を来る日も来る日も眺めながら暮らしていましたが、死に損ないというフレーズが、どこから来ているのか、その由来はまったくわかりませんでした。その絶壁の先端が糸切り歯を想わせるように天に向かって伸びているのは確かなことなのですが、死に損なった人の糸切り歯に似ていたということだとしても、それでは、その死に損なった人とはいったい誰なのか? それは、スワイラのおばあちゃんにも、村の誰に訊いてもわからないのでした。
「なに? 死に損ない? うーん、儂の小さな時から、そう呼ばれとったからのう」村人の誰に聞いてもこんな具合なのでした。
スワイラとおばあちゃんの生活は、ごく質素なものでしたが、スワイラにとってそのことは、物を大切にすることを学ぶために、むしろ必要であり、ありがたいことであると、おばあちゃんは感謝していました。あまりにも豊かであると、無駄を省き、物を大切にすることを忘れてしまうからです。
ある風の強い日、暖かい南風に押されるようにして物売りが村にやってきました。もっとも村は、四方を死に損ないの糸切り歯に囲まれていましたから、南風も北風も上から吹き下ろしてくるのでしたが……。
物売りは、珍しいお菓子であるとか、玩具やら日用品、楽器、瀬戸物、雑誌やら小説、絵本といった印刷物、銭亀やらハムスターとかの小さな生き物、ミニ盆栽、アンティークな壺や、油絵、彫刻、掛け軸、フィギュア、わけのわからない骨やら大小の石、勾玉やら羽根、髪飾り、装身具、置物といったものまで、ありとあらゆるものがごたまぜに山積みされた荷車を引いていました。
スワイラは、村の広場に停められた荷車を遠巻きに見ながら、大好きな絵本や紙芝居を手に入れて、うっとり眺める自分を思い描いていましたが、ほしいとはおばあちゃんに言いませんでした。うちには、そんな無駄なものを買うお金はないと知っていたからです。手に取って見てしまったら、吸い込まれるようにほしくなってしまうだろうことが、わかっていましたからスワイラは広場の中には入らずに棕櫚のごつごつした幹の間から、歓声をあげる村の子どもたちをいつまでも眺めていました。
すると、それを見ていたおばあちゃんは、スワイラのことが不憫になり、あることを思いついたのでした。
翌日、スワイラは村の図書館に出かけました。図書館とは名ばかりの小さな掘っ立て小屋のひとすみにある、もしかしたら世界でいちばん小さな図書館です。だって、それは、スワイラの腰までくらいしかない本棚のことでしたから。
小屋じたいは扉のない東屋で、近所の盆栽好きのおじいさんや、お花の好きなおばあちゃんやらの丹精込めた盆栽や、活け花の展示場になっているのでした。
新着本がいつ入るかもしれませんし、お花も大好きなスワイラは、ここを毎日欠かさず覗きにきていました。きょうは、山根のおばあちゃんの言っていた根洗いという、鉢を使わないほんとうに、お洒落で優しい盆栽が、綺麗な陶板の上にひっそりと静寂を湛えながら、息衝いていました。
山根のおばあちゃんに聞くと、それは、リンドウ、ヒメタデ、ウメバチソウ、イヌヤマハッカ、キリシマリンドウ、コハナヤスリだとわかりました。聞いたそばから忘れてしまいそうでしたが。
本は、返しさえすれば好きな期間自由に借りてよく、スワイラも何回も読んで飽きてしまったものや、もう要らない本や雑誌を持って来ては、別の本を借りていくのでした。そして、きょうもスワイラは、新しく本が入っていないかと、腰を屈めて、死に損ない図書館であるとか、糸切り図書館と、みんなてんでばらばらに呼んでいる、たぶん、世界でいちばん小さな図書館の蔵書を眺めていました。
すると、そこにあの物売りのおじさんが、やって来たのでした。物売りは、ひと月この村に滞在し、その後で、また諸国を渡り歩きながら珍しい品物を集め、何年かの後にはまたこの村にやってくるらしいのですが、個人的にも、盆栽が好きでしたので、なにかいい盆栽はないかと見にきたのでした。盆栽を一通り見た物売りのおやじは、本棚も仔細に眺めていました。
こちらの土地では、まったく珍しくないものでも、よその土地では、珍しく高く売れる、ということがあることを商売柄知っていましたから、「よその土地にいけば何が儲けになるか、わかったもんじゃねえからな。みんなお宝よ」
たまたま居合わせたスワイラのおばあちゃんは、そんな物売りの独り言を聞くともなく聞いていたのでした。そこで、この図書館に長いこと放置されて、誰にも見向きされないような図書でも、よその土地へ持っていけば、ほしがる人があるかもしれないと思ったのでした。スワイラのおばあちゃんは、家へと取って返し、納屋にある紙芝居だか、巻き物を捜しはじめました。先祖代々受け継がれているという品物で、大切に保管してきたものなのです。
それを、物売りに売り、それと交換に、スワイラの好きな絵本を何冊か手にいれようと思ったのでした。表には、巻き物のそれらしく画と美しい肉筆の書で物語が、かきつけられてあるのでした。そして定かではないのですが、実はそれはダミーで、薄皮を剥ぐように巻き物の表面の繊維を少しずつ剥いでいくと、死に損ないの糸切り歯の由来とその秘密が記されている本当の物語が現れるということでした。
しかし、物売りは、とりあえず買ってはみたものの、ダミーだけみてまったくの無価値と判断し、世界一小さな図書館の本棚に置くと、また世界を周る行商の旅に出かけてしまいました。
と、そこでおばあちゃんの声は聞こえなくなった。そこで話は終わりだったのかもしれないし、横殴りの雨の音で掻き消えてしまったのかもしれない。今年も台風の季節がやってきた、などとユタカは見当違いなことをつぶやき、なぜかずぶ濡れになりながら軽い浮遊感に包まれていたが、さっきまでたしかにいたはずのおばあちゃんの部屋ではなく、戸外にいる自分が信じられなかった。
あたりは不意にうそのように晴れ渡り、太陽が中天で燦燦と輝いていた。見上げると両側から覆いかぶさるように鋭い絶壁が迫ってきていて、その無言の圧力で顔がヒリヒリするようだった。とそこでユタカも気が付いた。ここは、さっきおばあちゃんが話してくれていた死に損ないの糸切り歯と呼ばれている渓谷の村にちがいなかった。
すると、可愛いエプロンをし髪を三つ編みにした女性がユタカのいる岩陰の方へと近づいてくるのが見えた。どうやら、彼女は小川の畔で四葉のクローバーを探しているようだった。
ユタカは似ているかどうかすら記憶にないのに『オーバー・ザ・レインボー』のドロシーをすぐさま彼女と重ね合わせてしまい、そのイメージをなかな拭えなかったが、彼女こそが、このそそり立ち、こちらへと落ちてくるかのように迫ってくいる岩壁に囲まれた村の、スワイラという女性ではないのかと思った。
彼女は何かハミングしていて、そのメロディが微風に乗ってユタカの鼓膜を震わせた。驚いたことにそれは、ユタカも知っているメロディで、彼女はクローバーの群生するその場所で、ハミングしながらくるくると回転したり、飛び跳ねながら踊っていた。見ているユタカさえも気持ちが何か軽くなるようで、天使とまではいわないまでも確かに彼女の周りはそこだけキラキラと輝いているようだった。
ユタカは、まばゆいばかりの彼女の姿態に心奪われ、その一挙手一投足を食い入るように見つめていたが、やがてせせらぎが音量を絞られていくように徐々に聞こえなくなっていくと、一瞬にしてポロロッカのごとく逆流がはじまるや否や、川からゆらりと男が出現した。大柄なその男は、銀色に輝く長い髪をひっつめにして後ろに束ねていた。どう考えても水浸しのはずの男は、しかしどこも濡れてなどいないのだった。そして、男はこんなことを言い出した。
「美しい娘よ、私は、この小川の精霊である。そなたが毎日、ここに水を汲みにくるのを私は、いつも心待ちにしていたのだ。どうだろう、私の妻となってくれないだろうか」
ユタカはこれにはたまげてしまった。登場の仕方が尋常ではない。しかし、川の精霊などというのは真っ赤なウソで、ほんとうは河童とかではないのか、そんな風にユタカは現実離れした目の前のやり取りを、自分なりに処理した。スワイラも、どうやら男を訝しんでひとつカマをかけてやろうと思ったらしい。
「それでは、小川の精霊さま、二三、お尋ねしたいことがございます」
「おお。それはそれは。なんなりと」
「不躾ながら、わたくし男性の浮気というものが信じられません。男性はいったいどのような心理構造となっているのでしょう」
「はっはっは。なるほど、そういうことですか。ご心配なく、私は神かけて浮気など致しません」
「まあ、なんともたのもしい、お言葉。わたくしもそのお言葉をすんなりと受け容れられたならば、どれだけ心安らぐことでしょう」
「いや、他の男はどうかはよく知らないが、私に関して申し上げると飲み会の後、ハメを外してお持ち帰りをするなどというまねはしませんし、バーベキューを隠れ蓑にして、そこから性加害を企てるなど、考えたこともありません」
「男の人は、みなそうおっしゃいますが、いざ本当にご自分に、そのワンチャンですか? そういうシチュエーションになった場合に自制お出来になるんでしょうか」
そんなふたりの掛け合い漫才みたいなやり取りを見ている内に、ユタカは何かおかしな感じになっていった。やがて睡魔に襲われたわけでもないのに、目を瞑って伸びをするように腕を振り上げながら大きな欠伸をひとつすると、再び目を開けたときには、その正体が河童なのか小川の精霊なのか皆目わからない男にユタカ自身がなって、スワイラに面と向かって対峙しているのだった。
あたりには、重い沈黙がずしりと錨を下していた。
やがてスワイラが口を開いた。
「ほんとうに失礼な物言いとなるやも知れないのですが、私はあなたのお顔を拝見した限りにおいては、必ず浮気されるとしか思われないのです」
「は? つまり、浮気すると顔にはっきり書いてあるわけですか」
ユタカがそう言い終わらない内に、死に損ないの糸切り歯のロケーションが一気に背後に後退し小さくなっていったかと思うと、眼前には満々と水を湛えたダム湖の手すりに寄り掛かるエリサの姿が忽然と現われた。ユタカはエリサの顔も名前も知る由もないのに、脳裏にエリサという名前が浮かび上がり、内耳に「エリサー!」と張り裂けるように叫ぶ男の声が何度も木霊するように聞こえるのだった。
すると、ユタカはわけのわからないどす黒い怒りがむらむらと湧き起り、あっと思う間もなく手すりに寄り掛かるエリサの首を絞めていた。じりじりとエリサの華奢な身体はせり上がっていく。その時、ユタカは怒気を孕んだ、しかし、とてつもなく冷徹な自分の声を聞いた。
「ずっとオレのことを騙していたのは、そっちだろう。今となってはもうどうでもいいがな」
エリサの上半身はもうほとんど手すりから乗り出し、外側へと反り返っていく。だが、ふと我に返ったようにユタカはエリサの首を絞める手を緩めた。ユタカは自分が何をやったのかいま、はじめて知ったかのように恐怖におののきながら、震えがとまらない。エリサから手を離し、ダム湖を背にして頭を抱えてうずくまるようにして、その場にくずおれた。
それからどれだけ時間が経ったのかわからない。すぐだったのかもしれないし、小一時間くらいしてからかもしれない、何かが動く気配にふと気づいて横を見遣ると、エリサが手すりを乗り越えようとしていた。
「さようなら」
エリサはそういって、くるりと身をひるがえし飛び降りようとしたが、その刹那ぎりぎりのところで、ユタカがエリサの手首をがっしりと掴んだ。
「エリサー!」
はらわたから絞り出すような男の声が聞こえている。
「エリサー!」
血の滲むような声だ。
それは、ローラから聞いたローラがヒカルという男性であった前世のエグいエピソードの再現にちがいなかった。エリサだかエリーゼだかよく憶えてはいないが、そのヒカルが愛していたはずの彼女の首を絞めるという衝撃的なエピソードがユタカは忘れられなかったから、理屈はわからないがリアルに再現されてしまったらしい。
ユタカが我に帰ると、ファーティマおばあちゃんの話は、さらに続いていて、いよいよお話のクライマックスである、本物に書かれてあるという死に損ないの糸切り歯の由来とその秘密が明かされていく、そのくだりのようだたった。
おばあちゃんの話は、黄河のごとく滔滔と流れていく。それはまるで子守唄のようだった。ユタカはいつしか夢とも現ともつかない、いや、そのどちらでもないまったく別な階層をたゆたっていたが、ファーティマおばあちゃんの声は、はっきりと聞こえていた。
「スワイラは、悩みに悩んだのさ、川の精霊と結婚するべきか否か。次の満月の夜までには、答えを出さなきゃならないからね」
精霊の話では、川床の下にもうひとつの世界が広がっているのだという。川はいわばふたつの世界の出入り口となっているらしい。
スワイラがいちばん気にしているのは、おばあちゃんのことだった。精霊との結婚に不服はないが、おばあちゃんをおいて別の世界に嫁ぐなんてとても出来ないと考えていた。だから、毎日おばあちゃんの顔を見れるということ、そして、もうひとつ。死に損ないの糸切り歯のその意味と由来を教えてくれるならばという条件付きで承諾しようと考えていた。
夜空を見上げると、ツキミツレバ、スナワチショクスの通り、まんまるだったはずの月は、もう欠けはじめていた。
その月影のもと男たちが長大なチェインソーをバリバリ唸らせながら森の主ではないだろうかと思われるほどの巨木の幹に挑んでいた。その巨大さは目を瞠るほどでその幹の周囲は、三十メートルは裕に超えるだろう。セコイア、あるいはレッドウッドとも呼ばれているこの大高木を男たちはこれから切り倒すらしい。
安全ヘルメットを被った男たちが繰る幾台ものチェインソーが唸りをあげ、その轟音はしかし、軽やかに大気の中へとは拡散していくのではなく、幾重にも折り重なってよじれ、ねじれ、うねりながら谷の底へと、もつれるようにしてゆっくりと沈降していくのだった。
それは、フクロウが丸呑みした餌から消化できない骨やら毛を後になって固めて吐き戻す紡錘形のペリットのように目に見える靄みたいな塊りとなって青白い月光を浴びながら音もなく谷底へと沈んでゆくのだ。
そして、閃光が遥かなる水平線の彼方でジグザグに走り、巨大な柱状の雲が幾柱も海上に浮かんでいる。その綿飴みたいな雲は下の方から苺のシロップをぶちまけたように、トップのスノーホワイトに向かってマーブル柄のグラデーションを成していた。
それらの綿菓子は、深淵に斜めに突き刺さった巨大な豪華客船のキールを掠めるようにそそり立つ巨大な一本の樹ブランチだ。荒野の乾涸びた枯れ木のような貧相な一本の木は実のところ千年かかって育ったのであり、千年かける覚悟があるのならば、どんな思いも成就するだろうと言っているかのように威風堂々と天に向かって伸びているにもかかわらず、アングルを変えるとそこにはなんにもなかった。
万華鏡を覗いたときのように、一瞬でその姿を変えてしまう捉えようもない世界は、ザッピングの如くにつぎつぎに姿を変えていくが、ダイヤル番号に合わせてダイヤルを右に4回、左に3回、そして右に2回、左に1回まわし、カチリと金庫のシリンダー錠が開くように眼前には眸が洗われるような鮮やかでいて燻し銀のような……箱庭への扉が開いた。
ユタカは、意識を集中させ、その箱庭の中に自分を置いてみる。そして雲の上を歩くように箱庭のハリエニシダやナデシコ、ニオイアラセイトウの小径をひとりそぞろ歩き、流木や錆びたワイヤー、ねじくれた針金、赤ん坊の頭ほどの大きさの石によるドンメル、目が醒めんばかりの真っ青な絨毯を敷き詰めたような幾重にも丸く植えられたヤグルマソウ、あるいは、藤に似ている金鎖(キングサリ)の黄金色に染まる夢のようなトンネルを抜けていく。
ゆるゆると逃げるように離調していくナローバンドの周波数をもう一度合わせていくように耳を澄ませると、引き攣るようなノイズの中からファーティマおばあちゃんの声が、空から降ってくるように再び聞こえてくる。
「それからスワイラは、次の満月の夜に、川の精霊に条件付きの承諾の旨を告げると、精霊は快諾し、こんなことを話はじめたのさ」
……森を抜けると、そこにはエメラルドグリーンの湖がある、その湖のほとりで運が良ければポーラに会えるだろう。ただしポーラは気まぐれだから、たとえ第一印象が良くても、その日の気分で無視されることもある。でもくじけないように出逢えただけでも奇跡なんだから。ガン無視されたら歌を唄ってあげること。
ポーラは歌が大好きだし音痴でもないんだけれど自分の声が変だと思ってるんだよ。確かに彼女の声はハスキーで個性的ではあるんだけど決してポーラが思ってるような可笑しな声なんかじゃなく、誰にでもあるようなただの思い込みに過ぎない。でも、本人としては高く澄んだ声がよかったのにと思っているんだね。
そして、ポーラに聞いてごらん。ポーラは世界の秘密を知っている。死に損ないの糸切り歯とは、世界の秘密のことなのさ。
その話にユタカはポーラという人物が妙に気になった。今度はローラではなく、ポーラか。
だが、どうやらそれは陸続きの場所ではなく、離島にある森のようだ。それもたぶん無人島であり、この地球上にほんとうに存在しているのかどうかすら定かではなかった。この地球上というのは、つまりリアルなということだ。この現代にしても今尚、地球空洞説が廃ることなく、連綿と語り継がれているようだが、新型なんちゃら、そして山火事、干魃、水害といった呵責ない自然災害の前には、人類の英知の結晶である科学とやらも形無しのようだ。
人類は「ありえないもの」が「ありえる」世界を早く認識しなければならないらしい。
そして、その話を聞いたユタカはお約束のように再びファーティマおばあちゃんの家から知らぬ間に離脱して、何日も漂流しながらポーラを捜すバーチャルな旅に出た。
死に損ないの糸切り歯が、世界の秘密とやらを知りたいのはもちろんだが、ポーラがローラの影を見つけるなにやら糸口を知っていそうな気がするのだった。
旅はバーチャルだけれど、御多分に洩れず嵐に遭遇し翻弄された。大海に浮かぶ病葉のように浮き沈みを繰り返しながらやがて、見知らぬ小島へとユタカは流れついた。もしかしたならタイムセールみたいに時間になったら開く異世界への扉から、異次元の別世界あるいは、地球の空洞にある地底世界へと入れたのかもしれないのだが、ユタカはなぜか自分は箱庭の中にいるという感覚を拭えなかった。それは、ファーティマおばあちゃんの箱庭だ。
そのあたりからユタカとローラの生存確認の念話は途切れがちとなり、それからぱたりとローラからの思念がユタカに届かなくなった。何かに遮断されたのかもしれないが、見覚えのある美しい渚に流れ着いたときには、バックパックはもぬけの殻で、ローラは消えてしまっていた。
だが、不思議とどうしようもない喪失感といったものはないのだった。むしろ、その渚にいると、なぜかデジャヴのような懐かし気持ちがじわじわと押し寄せてきて、ユタカはワクワクしだした。それは具体的な景観にたしかに見覚えがあるといった程度の懐かしさではなく、もう形容しがたい圧倒的な懐かしさだった。時間の堆積により凝縮された想い出が、映像や匂い感触といった具体性を帯びる前に物理的な重みのような圧力となって一気に押し寄せてくる。
たぶん無人の離れ小島だけに誰も片付けてる者がいないのだろう、ペットボトルだのビニールのレジ袋、避妊具、首の取れたフランス人形、水着、下着、そろばん、雨傘、ポリバケツ、ブリキの太鼓、弦のないガットギター、テニスラケットのフレーム、クリムトもどきの絵、尺八、バイオリンの弓、ぼろぼろのラブソファ、白茶けたランドセル、タグホイヤーに似た腕時計、古タイヤ、カンジキ、腹帯、生理用ナプキン、マスク、60デニールくらいの厚手のストッキング、カーネーションや向日葵、薔薇の造花、紙粘土で作った花瓶らしきもの、錆びて読めない看板、大量の注射針、金属バット、香水の瓶、色鉛筆、一斗缶、ドラム缶、縄梯子、水色のセーター、カーキのジャケット、爪先の尖った革靴、招き猫の貯金箱、一円玉、五円玉、何かのメダル、折れたアンテナ、割れたiphone、ニンジン、タマネギ、西瓜の皮、胡桃、夏みかん、浮き輪、セリーヌ『なしくずしの死』の単行本、トイカメラ、機関車トーマスの絵本、三輪車、モデルガン、大人のオモチャ、モン・サン・ミシェルの写真、歯ブラシ、毛生え薬、腐ったバラライカ、ベビーカー、タワシ、剥げかけた金の額縁に入った油絵(裏を見ると『金盥の女』と殴り書きされてある)、入歯...
そういった、ありとあらゆる人間の生活の痕跡が流れついていた。今、目につくのは人が捨てたゴミばかりだが、かつてはマッコウクジラや難破船の残骸も打ち上げられていたこともあったかもしれない。
そして、思い出した。
たしかにこの波打ち際で、君と出会ったのだ。
君は、それはそれは美しかった。
だれか美しい水死体のことを小説に書いていたが、さしずめきみは、妊婦タイプの美しい球体関節人形といったところだろうか。
その等身大の妊婦人形といっしょに打ち上げられたポールスミスらしき黒いバッグには、お腹に赤ちゃんがいます、の例のバッジがぶらさがっていた。
ユタカは一目みただけで、恋に落ちたのかもしれない。『水蜘蛛』のナディアとベルナールみたいに出逢うべくしてふたりは出逢ったのにちがいない。だから、ユタカは一も二もなくポールスミスのバッグを肩にかけ、人形の両脇に手を差し込んで、ずるずると渚を引き摺っていったのだ。
スカートの裾から覗いて見えるすらりと伸びた両脚には、フジツボが固着しアカモクみたいな海藻が絡まっていた。
しかし、見れば見るほど美しい人形だった。ただそれはユタカだけにしかわからない美しさなのかもしれない。砂浜が終わって、道路に出ると今度は背中にかついで歩いていった。人形が好きなわけでも、妊婦が好きなわけでもなかった。ただ、ユタカは、人間の女性を愛することができない気がした。なぜなのかはわからない。だが誰かを愛したいという思いは、異常なほど強いのだった。
そして、今にもぱちりと眼を見開き、しゃべり出しそうな人形を見た時、一瞬にして恋に落ちると共に言い知れぬ哀しみに囚われたのだ。それは、きっと遠い過去にまつわる哀しい想い出にちがいないとユタカは思った。
ふと浴衣を着て夜店の金魚釣りを一緒にやっている映像が脳裏に浮かんだ。
——そういえば線香花火もずいぶんやってない。
——そうだね。
——子どもの頃、近くの神社のお祭りで、パチンコがあって、よくやってたっけ。あと型抜きっていうの? あれ好きだったな、毎回失敗するのにね。
そんな他愛もないやりとりをふたりはするだろう。そして、そんな邂逅を少しずつシナリオを変えながら、これからも何百回も何千回も、何万回も繰り返していくにちがいないという予感が、落雷のように全身を貫いた。
ユタカは思う。それもいいだろう。そして、何千回でも何万回でも、そのたびにオレはローラにきっと恋をする。
と、そこでユタカは、ケンジに頭をはたかれた。
「おい、ユタカ、いつまで寝てんだよ、起きろ!」
ユタカは、まだ半分夢の中。
「あのメタルの枠だけど、時間になると出現するみたいだぞ」
ケンジのその言葉にユタカは、急にシャキッとして立ち上がりこう言った。
「OK! じゃ、消えない内に魔王の国へジャンプしようぜ!」
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スパークノークスさま
ありがとうございます。
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ご感想ありがとうございます。
もう少し長いものをいま用意しているところなのですが、なかなか進みません。
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お読みいただいた上にコメントまで頂戴し、ほんとうにありがとうございました!
近いうちに、花雨さまの作品に触れさせていただきます。