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#80 壁男
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*月*日
その「男」の壁に向かったままの生活も、もうすでに八ヶ月目に突入しようとしていた。
ただ、その男は面壁九年の達磨のように結跏趺座しているわけではない。彼自身は動き回っているのだが、それと一緒に壁も移動し続けているのだった。
そんなわけだから面と向かって人と話すこともできず、ならばいっそのこと壁に穴を穿ち小窓をあつらえて、こ洒落たレースのカーテンでもつけたらと誰かがいいだしたらしいのだが、未だに実現していない。
というか、ただのどこにでもいる普通の男から「壁男」(男はそう呼ばれていた)になってから、仕事にあぶれてしまい(心ない東証二部上場企業は、彼を一も二もなく馘首した)そろそろバイトでもしないと非常にヤバイ逼迫した情況に陥っていたから、窓がどうのこうのといっている場合ではないのだった。
ところで、「壁」にいわせると俺の方こそ被害者なんであり、俺が後を追いかけまわしているわけじゃない。実際はあいつの方こそ「追っかけ」なのさと、うそぶく始末。
そんなある日、フリルが死ぬほど付いたメゾピアノと思しきディープ・ピンクのワンピをメタクソに着くずした、ぶっさいくな少女がどこからともなく現われて壁男にいうのだった。
「おい、おやじ。おまえはカツサンドイッチマンをやりなさい」
少女はそういうとスタコラサッサと消えていなくなってしまった。
壁男がすかさず「あ、もし! お名前だけでもお聞かせください!」 といったものの、後の祭り。その声は少女には届かないようだった。
壁男は不思議そうに再び呟く。
「カツサンドイッチマン??」
ただのサンドイッチマンなら渋谷のセンター街とかで以前見かけたこともあったけれども、『カツサンドイッチマン』てのはいったいなんだろう?
壁が言った。
「たぶん、あれだろ。カツサンドを専門に宣伝するサンドイッチマンのことじゃないか?」
さらに。
「あるいは、あれか? アンパンマンとかメロンパンナちゃんとかの類いじゃないだろか」
「ふむふむ。で?」と壁男。
「そうだ。きっとそうだよ。カツサンドイッチマンに変身して世のため、人のために悪と闘えということじゃないか? 」
「ウォ~! そうか、そういうことかぁ。でも、どうやったらカツサンドイッチマンに変身できるんだろ?」
「馬鹿だなおまえは。ほんとうにカツサンドイッチマンになんてならなくてもいいんだよ。悪と闘うヒーローになれっていう暗示だろ。たとえでカツサンドイッチマンっていっただけにすぎないの」
「ウォ~、そうか。んじゃ、敵はどこだ? 巨悪はどこなんじゃあ」
「あのね、巨悪ってのは、目には見えないことになっているんだ」
「なんで? 透明人間ってわけか?」
「いや。そういうふうに世の中の仕組みが作られているんだよ」
と、そこへくだんのメゾピアノ少女が、トコトコと歩いてくるではありませんか。
「あ、あのう。敵は? 巨悪はどこでしょう?」
しかし、少女は壁男たちに一瞥もくれることなく行過ぎていってしまった。
「あ、もし。 じゃ、せめてお名前
だけでも~!」
すると、少女は待っていましたとばかりに、フリルを計算通りに寸分たがわずひるがえすや、こういった。
「ヒロミ、エースをねらえ!」
「えっ?」
壁男と壁は、目が点になったまま、しばらく動けなかった。が、やがて目には見えない壁男と壁の絆が、不意にぷっつりと切れ、壁男は、後ろに尻餅をついた。
壁は、地面にすとんと落ちると、そのまま吸い込まれるようにして地面のなかへと消え入ってしまった。
壁男ではなくなって、ただの普通の男に戻った男は視界が開けて、文字通り未来への明るい展望が拓けた気がしたが、その晩は寂しくてなかなか寝付けなかった。
その「男」の壁に向かったままの生活も、もうすでに八ヶ月目に突入しようとしていた。
ただ、その男は面壁九年の達磨のように結跏趺座しているわけではない。彼自身は動き回っているのだが、それと一緒に壁も移動し続けているのだった。
そんなわけだから面と向かって人と話すこともできず、ならばいっそのこと壁に穴を穿ち小窓をあつらえて、こ洒落たレースのカーテンでもつけたらと誰かがいいだしたらしいのだが、未だに実現していない。
というか、ただのどこにでもいる普通の男から「壁男」(男はそう呼ばれていた)になってから、仕事にあぶれてしまい(心ない東証二部上場企業は、彼を一も二もなく馘首した)そろそろバイトでもしないと非常にヤバイ逼迫した情況に陥っていたから、窓がどうのこうのといっている場合ではないのだった。
ところで、「壁」にいわせると俺の方こそ被害者なんであり、俺が後を追いかけまわしているわけじゃない。実際はあいつの方こそ「追っかけ」なのさと、うそぶく始末。
そんなある日、フリルが死ぬほど付いたメゾピアノと思しきディープ・ピンクのワンピをメタクソに着くずした、ぶっさいくな少女がどこからともなく現われて壁男にいうのだった。
「おい、おやじ。おまえはカツサンドイッチマンをやりなさい」
少女はそういうとスタコラサッサと消えていなくなってしまった。
壁男がすかさず「あ、もし! お名前だけでもお聞かせください!」 といったものの、後の祭り。その声は少女には届かないようだった。
壁男は不思議そうに再び呟く。
「カツサンドイッチマン??」
ただのサンドイッチマンなら渋谷のセンター街とかで以前見かけたこともあったけれども、『カツサンドイッチマン』てのはいったいなんだろう?
壁が言った。
「たぶん、あれだろ。カツサンドを専門に宣伝するサンドイッチマンのことじゃないか?」
さらに。
「あるいは、あれか? アンパンマンとかメロンパンナちゃんとかの類いじゃないだろか」
「ふむふむ。で?」と壁男。
「そうだ。きっとそうだよ。カツサンドイッチマンに変身して世のため、人のために悪と闘えということじゃないか? 」
「ウォ~! そうか、そういうことかぁ。でも、どうやったらカツサンドイッチマンに変身できるんだろ?」
「馬鹿だなおまえは。ほんとうにカツサンドイッチマンになんてならなくてもいいんだよ。悪と闘うヒーローになれっていう暗示だろ。たとえでカツサンドイッチマンっていっただけにすぎないの」
「ウォ~、そうか。んじゃ、敵はどこだ? 巨悪はどこなんじゃあ」
「あのね、巨悪ってのは、目には見えないことになっているんだ」
「なんで? 透明人間ってわけか?」
「いや。そういうふうに世の中の仕組みが作られているんだよ」
と、そこへくだんのメゾピアノ少女が、トコトコと歩いてくるではありませんか。
「あ、あのう。敵は? 巨悪はどこでしょう?」
しかし、少女は壁男たちに一瞥もくれることなく行過ぎていってしまった。
「あ、もし。 じゃ、せめてお名前
だけでも~!」
すると、少女は待っていましたとばかりに、フリルを計算通りに寸分たがわずひるがえすや、こういった。
「ヒロミ、エースをねらえ!」
「えっ?」
壁男と壁は、目が点になったまま、しばらく動けなかった。が、やがて目には見えない壁男と壁の絆が、不意にぷっつりと切れ、壁男は、後ろに尻餅をついた。
壁は、地面にすとんと落ちると、そのまま吸い込まれるようにして地面のなかへと消え入ってしまった。
壁男ではなくなって、ただの普通の男に戻った男は視界が開けて、文字通り未来への明るい展望が拓けた気がしたが、その晩は寂しくてなかなか寝付けなかった。
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