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#101 Cheers!
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*月*日
1 玄関先に置いてあった鉢植えのアイリスが、もう枯れそうだった。直樹は真っ赤なアウディA5を駆って上高地に向かっていた。友人からヤバい電話が入ったのは、明け方間近だった。その電話で「やっちゃった」とだけ、直樹は大輔に告げられただけだった。だが、大輔のただならぬ気配に直樹は一瞬震えた。
2 上高地の大輔の別荘に着いた直樹は、凄惨なシーンを目の当たりにすることになるのではないかと腹をくくっていた。いつもの陽気な大輔のジョークならどれだけよかっただろうか。道すがら直樹は、あらましの予想をつけていた。たぶん、大輔は誤って恋人を殺してしまったのではないか、そう思った。
3 大輔は、ふだんとても大人しく柔和なのだが、いったん酒が入ると人が変わったようになり、たびたび問題になる事があった。だから深酒は禁止だと肝に命じてあるはずだったのだが、ついに来るべきときがきてしまったのだろうか。友としてできる事はなんなのだろう。これから一体どうしたらいいのか。
4 たぶん、きのうの晩に命の水とかいって、アルコール度の高いスピリッツをしこたま呑んだんだろうと、直樹は思った。ふたりしてリビングで映画を観ながら。恋人が飲み過ぎないでと注意するのもどこ吹く風、大輔は調子づいて酒を呷ったのだ。そして間が悪いことに観ていた映画が昨夜BSでやっていたあのヒトラーが現代に蘇ってTVに出演し人気を博すという悪趣味な映画だったはずだ。
5 そして、劇中で犬のブリーダーのところに行った際、ヒトラーは、はじめはじゃれつく仔犬に対して笑みを浮かべて甘い言葉を囁くのだが、差し出した指を噛まれ、なおも牙を剥き攻撃をしかけてくる仔犬は、ついにヒトラーの逆鱗に触れ、銃殺されてしまう。
6 あのヒトラーの携帯していたピストルは、ワルサーPPKでもなくベレッタでもなかった。もっと丸みを帯びたスタイリッシュな銃であり、豹変したヒトラーは瞬きする速さで軍服のポケットからするりとピストルを抜き取るやいなや、仔犬を撃ち抜いたのだ。
7 それは、あっという間の出来事だった。それを観た恋人はむろん、悲鳴をあげたにちがいない。ヒトラーは、あんな無垢で無防備な仔犬を力でねじ伏せたのだ。そこからふたりの口論が始まったであろうことは、直樹にも容易に想像がついた。つまり、大輔はあれは正当防衛だと言い張ったのだろう。
8 まあ、その虐待どころか虐殺が口論の端緒となったにすぎず互いの日頃の鬱憤がそれによって噴出してきたというわけだ。売り言葉に買い言葉で、ヒートアップしていき、ついには「大輔も、結局はヒトラーと同じなのよね、弱い者に手をあげるなんて、サイテーじゃないの」その恋人の言葉が引鉄になった。
9 無駄に筋肉のある大輔の放った一発が恋人の命を奪ってしまったのだ。人間なんて打ち所が悪ければ蝿のように簡単に死んでしまうものなのだ。ちなみに首から上だけでも顔に手を当てて隠れる部分がすべて急所だという事を聞いたことがある。つまりは、そういう経緯があったのだ、たぶん。
10 親が代々医者である大輔の別荘は、広大な土地に建つ西洋館で、門からエントランスまでかなり歩いた。幹周が1メートルはありそうな欅の巨木が幾本も、どっしりと根を張り、天を摩すように聳え立っていた。そして、直樹は白亜の建物の扉を開ける。おずおずとだが、勝手知ったる我が家のように。
11 大きな扉を開けると、まず目に入ったのは、暖炉に頭から突っ込まれて息絶えていた大輔だった。いったいどういうことなのか? 恋人はどこに消えたのだろうか。直樹はその場で硬直したように立ち竦み動けなかった。そして、横たわる大輔の亡き骸に対して、手を合わそうとした。
12 だが、その震える手は宥めようもなく、直樹の大輔に対して合掌したいという意思など置き去りにしたままさらに強く震えはじめ自らの意思を持ったみたいに、生き物が蠕動するようにして胸を伝って這い上がり、直樹の美しい首に二匹の蛇のように絡まると、グイグイと絞め上げはじめたのだ。
13 直樹は抗うことなどできなかった。自身の両の手は何者かに取り憑かれているのだった。気が遠のいていく中で、直樹の狂気の沙汰が瞼の裏にありありと映し出されていた。そうだった、と直樹は思い出していた。大輔の美しい恋人に横恋慕した直樹は親友である大輔を裏切ることなど出来るはずもないと
思っていたのだが、どうしても諦めきれなかった。
14 気が狂うほど大輔の恋人、陽子に恋してしまったのだった。そして、きのうもう我慢できなくなって、とにかく気持ちだけでも陽子に打ち明けようと、こっそりとふたりのいる上高地の別荘へと向かった。屋敷内に忍び込み、欅の大木の陰に身を潜め窓からふたりの様子を、しばらく眺めていた。
15 まだこの時には一線を超えてしまわない分別はあるつもりだった。親友の恋人に告っていったいどうするつもりなんだと自問自答する余裕がまだあった。しかし、ふたりが仲睦まじく会話して、さらには抱擁し唇を合わせるシーンを見てしまったら、もう駄目だった。
16 頭の中で何かブツリと切れてしまったような音が聞こえた。シナプスが食われ脳細胞の自己破壊する音なのだろうか。その後の行動はもう説明がつかない。まともな人間のとる行動ではなく、脳は完全に空洞と化し、思考は停止して知らぬ間に手足が動いていた。
17 ただ伽藍堂のような頭の中であの映画で観たヒトラーがいたいけな仔犬を撃った銃声が、繰り返し繰り返しエコーのように震えながら木霊していた。そうなのだ、あの現代に蘇ったヒトラーのブラックジョークのようなキツい映画を観たのは、直樹自身に他ならなかった。
18 どうやったのか、嘘偽りなくまったく何も憶えてはいない。気づいたら、直樹は暖炉にくべる薪のように頭から暖炉の中に突っ込まれていた。金切り声を上げ、2階へと逃げていった陽子も無論直樹が、殺めてしまった。直樹は陽子の首を絞めながら、告白した、その事は何故かはっきりと記憶にあった。
19 そして、誰もいなくなってしまったうすら寒い部屋から、明け方に、自分のケータイに電話をしたのだ。転がっていた大輔のスマホから。そして留守電に「やっちゃった」と吹き込んでおいた。大輔になったつもりで。そう。大輔は陽子とふたりで洒落たワインなんか飲みながら、あのヒトラーの映画を観たにちがいないのだ。
20 そして、口論となって大輔が誤って殴ったところが、当たりどころが悪くて、陽子はもう2度と眼を開かなかった。そういうストーリー。素敵じゃないか。なんて夢があるんだろう、薔薇色の人生そのものじゃないか。そうだこの薔薇色の人生に乾杯しよう!
「チアーズ!」
p.s.
この期に及んでまだウソをついている自分に愛想が尽きた。ほんとうは、ずっとずっと大輔が好きでたまらなかったんだ。陽子は泥棒ネコのようにオレから大輔を奪った。大輔とふたりで最高にハッピーだったのに。アイツがわり込んできたんだ。陽子さえいなければこんなことにはならなかった。ぜんぶ陽子がわるい。
1 玄関先に置いてあった鉢植えのアイリスが、もう枯れそうだった。直樹は真っ赤なアウディA5を駆って上高地に向かっていた。友人からヤバい電話が入ったのは、明け方間近だった。その電話で「やっちゃった」とだけ、直樹は大輔に告げられただけだった。だが、大輔のただならぬ気配に直樹は一瞬震えた。
2 上高地の大輔の別荘に着いた直樹は、凄惨なシーンを目の当たりにすることになるのではないかと腹をくくっていた。いつもの陽気な大輔のジョークならどれだけよかっただろうか。道すがら直樹は、あらましの予想をつけていた。たぶん、大輔は誤って恋人を殺してしまったのではないか、そう思った。
3 大輔は、ふだんとても大人しく柔和なのだが、いったん酒が入ると人が変わったようになり、たびたび問題になる事があった。だから深酒は禁止だと肝に命じてあるはずだったのだが、ついに来るべきときがきてしまったのだろうか。友としてできる事はなんなのだろう。これから一体どうしたらいいのか。
4 たぶん、きのうの晩に命の水とかいって、アルコール度の高いスピリッツをしこたま呑んだんだろうと、直樹は思った。ふたりしてリビングで映画を観ながら。恋人が飲み過ぎないでと注意するのもどこ吹く風、大輔は調子づいて酒を呷ったのだ。そして間が悪いことに観ていた映画が昨夜BSでやっていたあのヒトラーが現代に蘇ってTVに出演し人気を博すという悪趣味な映画だったはずだ。
5 そして、劇中で犬のブリーダーのところに行った際、ヒトラーは、はじめはじゃれつく仔犬に対して笑みを浮かべて甘い言葉を囁くのだが、差し出した指を噛まれ、なおも牙を剥き攻撃をしかけてくる仔犬は、ついにヒトラーの逆鱗に触れ、銃殺されてしまう。
6 あのヒトラーの携帯していたピストルは、ワルサーPPKでもなくベレッタでもなかった。もっと丸みを帯びたスタイリッシュな銃であり、豹変したヒトラーは瞬きする速さで軍服のポケットからするりとピストルを抜き取るやいなや、仔犬を撃ち抜いたのだ。
7 それは、あっという間の出来事だった。それを観た恋人はむろん、悲鳴をあげたにちがいない。ヒトラーは、あんな無垢で無防備な仔犬を力でねじ伏せたのだ。そこからふたりの口論が始まったであろうことは、直樹にも容易に想像がついた。つまり、大輔はあれは正当防衛だと言い張ったのだろう。
8 まあ、その虐待どころか虐殺が口論の端緒となったにすぎず互いの日頃の鬱憤がそれによって噴出してきたというわけだ。売り言葉に買い言葉で、ヒートアップしていき、ついには「大輔も、結局はヒトラーと同じなのよね、弱い者に手をあげるなんて、サイテーじゃないの」その恋人の言葉が引鉄になった。
9 無駄に筋肉のある大輔の放った一発が恋人の命を奪ってしまったのだ。人間なんて打ち所が悪ければ蝿のように簡単に死んでしまうものなのだ。ちなみに首から上だけでも顔に手を当てて隠れる部分がすべて急所だという事を聞いたことがある。つまりは、そういう経緯があったのだ、たぶん。
10 親が代々医者である大輔の別荘は、広大な土地に建つ西洋館で、門からエントランスまでかなり歩いた。幹周が1メートルはありそうな欅の巨木が幾本も、どっしりと根を張り、天を摩すように聳え立っていた。そして、直樹は白亜の建物の扉を開ける。おずおずとだが、勝手知ったる我が家のように。
11 大きな扉を開けると、まず目に入ったのは、暖炉に頭から突っ込まれて息絶えていた大輔だった。いったいどういうことなのか? 恋人はどこに消えたのだろうか。直樹はその場で硬直したように立ち竦み動けなかった。そして、横たわる大輔の亡き骸に対して、手を合わそうとした。
12 だが、その震える手は宥めようもなく、直樹の大輔に対して合掌したいという意思など置き去りにしたままさらに強く震えはじめ自らの意思を持ったみたいに、生き物が蠕動するようにして胸を伝って這い上がり、直樹の美しい首に二匹の蛇のように絡まると、グイグイと絞め上げはじめたのだ。
13 直樹は抗うことなどできなかった。自身の両の手は何者かに取り憑かれているのだった。気が遠のいていく中で、直樹の狂気の沙汰が瞼の裏にありありと映し出されていた。そうだった、と直樹は思い出していた。大輔の美しい恋人に横恋慕した直樹は親友である大輔を裏切ることなど出来るはずもないと
思っていたのだが、どうしても諦めきれなかった。
14 気が狂うほど大輔の恋人、陽子に恋してしまったのだった。そして、きのうもう我慢できなくなって、とにかく気持ちだけでも陽子に打ち明けようと、こっそりとふたりのいる上高地の別荘へと向かった。屋敷内に忍び込み、欅の大木の陰に身を潜め窓からふたりの様子を、しばらく眺めていた。
15 まだこの時には一線を超えてしまわない分別はあるつもりだった。親友の恋人に告っていったいどうするつもりなんだと自問自答する余裕がまだあった。しかし、ふたりが仲睦まじく会話して、さらには抱擁し唇を合わせるシーンを見てしまったら、もう駄目だった。
16 頭の中で何かブツリと切れてしまったような音が聞こえた。シナプスが食われ脳細胞の自己破壊する音なのだろうか。その後の行動はもう説明がつかない。まともな人間のとる行動ではなく、脳は完全に空洞と化し、思考は停止して知らぬ間に手足が動いていた。
17 ただ伽藍堂のような頭の中であの映画で観たヒトラーがいたいけな仔犬を撃った銃声が、繰り返し繰り返しエコーのように震えながら木霊していた。そうなのだ、あの現代に蘇ったヒトラーのブラックジョークのようなキツい映画を観たのは、直樹自身に他ならなかった。
18 どうやったのか、嘘偽りなくまったく何も憶えてはいない。気づいたら、直樹は暖炉にくべる薪のように頭から暖炉の中に突っ込まれていた。金切り声を上げ、2階へと逃げていった陽子も無論直樹が、殺めてしまった。直樹は陽子の首を絞めながら、告白した、その事は何故かはっきりと記憶にあった。
19 そして、誰もいなくなってしまったうすら寒い部屋から、明け方に、自分のケータイに電話をしたのだ。転がっていた大輔のスマホから。そして留守電に「やっちゃった」と吹き込んでおいた。大輔になったつもりで。そう。大輔は陽子とふたりで洒落たワインなんか飲みながら、あのヒトラーの映画を観たにちがいないのだ。
20 そして、口論となって大輔が誤って殴ったところが、当たりどころが悪くて、陽子はもう2度と眼を開かなかった。そういうストーリー。素敵じゃないか。なんて夢があるんだろう、薔薇色の人生そのものじゃないか。そうだこの薔薇色の人生に乾杯しよう!
「チアーズ!」
p.s.
この期に及んでまだウソをついている自分に愛想が尽きた。ほんとうは、ずっとずっと大輔が好きでたまらなかったんだ。陽子は泥棒ネコのようにオレから大輔を奪った。大輔とふたりで最高にハッピーだったのに。アイツがわり込んできたんだ。陽子さえいなければこんなことにはならなかった。ぜんぶ陽子がわるい。
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