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#103 九十九折
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故郷の長い長い九十九折の坂道を思い浮かべたきみは、なぜ自分は生まれてきたのだろうかと、また詮ないことを考える。
風にざわめく公孫樹の葉が、オープンカフェのパラソルに異形の陰を落としていた。
焦げるような日射しは、女たちの美しい髪も、白い肌も眸も唇も、ふくよかな身体のラインさえも平面的で不明瞭な灰色っぽいものに変えてしまい、唯一、アスファルトに黒々と焼き付けられた影たちが嬉嬉として踊り狂っていた。
きみは、飽かずに窓から通りを眺めていたが、やがて振り返り、彼女に一瞥をくれた。
彼女は、驚いたように目を見開いたまま、部屋の向こう側、ドアの傍に立つビーナスの石膏像を微動だにせず、眺め続けていた。
頭部と両腕は、無傷なようだったが、女として生まれた彼女にとって誇り高かったであろう、大きなふたつの乳房は、見るも無惨に切り刻まれ、あたりは、どこもかしこも鮮血に染まっているというのに、彼女の履くニーソックスだけは、ありえないことに真っ白なままだった。
テーブルの上には、彼女が作ったパン・ド・ジェンヌが幾つかまだ残っていた。ひとつ取って、きみはほおばりながら冷蔵庫にむかう。
扉を開け、ボルヴィックのボトルを取り出し、また閉めたとき、所狭しと貼り付けられた複数のメモ書きの中から「パン・ド・ジェンヌ」と書かれたメモを扉に見つけた。
ミネラルウォーターを一気に流し込みながら、メモを読む。
スライスアーモンド 10g
アーモンドプードル 75g
グラニュー糖 50g
全卵 75g
ダークラム 大1/2
卵白 45g
粉糖 25g
薄力粉 40g
溶かしバター(無塩) 45g
*バターは、常温でやわらかくしておく
昨夜、彼女と一緒に観た映画に出てきた吸血鬼のように、髪をアップにした彼女の美しいうなじを見たら、たまらなくなって思わず頸動脈に歯を立て真っ赤な鮮血を啜っている自分を思い浮かべ、実際にそうしておけばばよかったと、そう思った。血液が彼女の身体から、流れ出してしまう前に。
彼女に背中を向け、時間が停止してしまったかのようにフリーズしていると、彼女は言った。
「トロンボーンは、弦楽器と全く同じタイプのヴィブラートをかけることができる唯一の管楽器なの」
きみは、振り返らずに窓の方を見ながら答える。
「トロンボーンか。そういえば、友達のギタリストに、身体ごとギターを揺らしてヴィブラートする、そんな稚拙なんだか匠なんだかわからないやつがいるよ」
彼女は、くすりともせず、それから溜息をひとつついた切り、押し黙ってしまった。
きみは、なにやら捜し物をしたくなって、二重になった本棚をがらがらやった。前の方の棚が、レールに乗っかっていて、自在に動くお気に入りの本棚だ。
探していれば、捜し物がなんであるのか、気づくだろう。
やがて、きみは無作為に一冊の本を引き抜いて、開いたページを読みはじめたものの、なにが書いてあるのか、さっぱりわからない。
ただ、エロチシズムは、死の隠喩である、みたいなことばかり繰り返し出てくる。
それから小一時間ほど君たちは、サンマルコ寺院の鐘の音がたおやかに大気に響き渡り、一日でいちばん美しい瞬間がやってくるまで、彫像のように動かなかった。
そして、陽が落ちてしまう、ぎりぎりのその刹那、干からびた河床に静かに横たわる彼女の亡骸が、心の盲いたきみにも見える気がする。
美しく閉じられたその瞼にそっとくちづけし、きみは彼女に約束する。たとえ茨の棘で鞭打たれようとももう二度ときみを離さないと。
すると、彼女は目を見開き、金切り声をあげて、おびただしい血を吐いた。
きみが小首を傾げながらラジオのスイッチをひねると、株価の動きを伝える無機質な声が聞こえてくる。
まるで子守唄のように。
風にざわめく公孫樹の葉が、オープンカフェのパラソルに異形の陰を落としていた。
焦げるような日射しは、女たちの美しい髪も、白い肌も眸も唇も、ふくよかな身体のラインさえも平面的で不明瞭な灰色っぽいものに変えてしまい、唯一、アスファルトに黒々と焼き付けられた影たちが嬉嬉として踊り狂っていた。
きみは、飽かずに窓から通りを眺めていたが、やがて振り返り、彼女に一瞥をくれた。
彼女は、驚いたように目を見開いたまま、部屋の向こう側、ドアの傍に立つビーナスの石膏像を微動だにせず、眺め続けていた。
頭部と両腕は、無傷なようだったが、女として生まれた彼女にとって誇り高かったであろう、大きなふたつの乳房は、見るも無惨に切り刻まれ、あたりは、どこもかしこも鮮血に染まっているというのに、彼女の履くニーソックスだけは、ありえないことに真っ白なままだった。
テーブルの上には、彼女が作ったパン・ド・ジェンヌが幾つかまだ残っていた。ひとつ取って、きみはほおばりながら冷蔵庫にむかう。
扉を開け、ボルヴィックのボトルを取り出し、また閉めたとき、所狭しと貼り付けられた複数のメモ書きの中から「パン・ド・ジェンヌ」と書かれたメモを扉に見つけた。
ミネラルウォーターを一気に流し込みながら、メモを読む。
スライスアーモンド 10g
アーモンドプードル 75g
グラニュー糖 50g
全卵 75g
ダークラム 大1/2
卵白 45g
粉糖 25g
薄力粉 40g
溶かしバター(無塩) 45g
*バターは、常温でやわらかくしておく
昨夜、彼女と一緒に観た映画に出てきた吸血鬼のように、髪をアップにした彼女の美しいうなじを見たら、たまらなくなって思わず頸動脈に歯を立て真っ赤な鮮血を啜っている自分を思い浮かべ、実際にそうしておけばばよかったと、そう思った。血液が彼女の身体から、流れ出してしまう前に。
彼女に背中を向け、時間が停止してしまったかのようにフリーズしていると、彼女は言った。
「トロンボーンは、弦楽器と全く同じタイプのヴィブラートをかけることができる唯一の管楽器なの」
きみは、振り返らずに窓の方を見ながら答える。
「トロンボーンか。そういえば、友達のギタリストに、身体ごとギターを揺らしてヴィブラートする、そんな稚拙なんだか匠なんだかわからないやつがいるよ」
彼女は、くすりともせず、それから溜息をひとつついた切り、押し黙ってしまった。
きみは、なにやら捜し物をしたくなって、二重になった本棚をがらがらやった。前の方の棚が、レールに乗っかっていて、自在に動くお気に入りの本棚だ。
探していれば、捜し物がなんであるのか、気づくだろう。
やがて、きみは無作為に一冊の本を引き抜いて、開いたページを読みはじめたものの、なにが書いてあるのか、さっぱりわからない。
ただ、エロチシズムは、死の隠喩である、みたいなことばかり繰り返し出てくる。
それから小一時間ほど君たちは、サンマルコ寺院の鐘の音がたおやかに大気に響き渡り、一日でいちばん美しい瞬間がやってくるまで、彫像のように動かなかった。
そして、陽が落ちてしまう、ぎりぎりのその刹那、干からびた河床に静かに横たわる彼女の亡骸が、心の盲いたきみにも見える気がする。
美しく閉じられたその瞼にそっとくちづけし、きみは彼女に約束する。たとえ茨の棘で鞭打たれようとももう二度ときみを離さないと。
すると、彼女は目を見開き、金切り声をあげて、おびただしい血を吐いた。
きみが小首を傾げながらラジオのスイッチをひねると、株価の動きを伝える無機質な声が聞こえてくる。
まるで子守唄のように。
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