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#118 まゆみさん ①
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*月*日
不倫してみたいなどと不埒な考えを持ったことはない。だが、むろん誰しも不倫そのものが目的で不倫にはまるわけではないだろう。
ただ、その味を一度知ってしまうや、ゾクゾクするような秘密の恋という背徳の悦びの底無し沼に、ずるずると呑み込まれて、もがけばもがくほど深みへとはまり込み、抜け出せなくなってしまう。
まゆみさんのことが、気になりはじめたのは、そう、去年の今頃だったろうか。
新人さんやら、移動で何人か配置替えされるということで、今まで一度も話したことはなかったまゆみさんが、隣りのデスクになった。
はじめは、なにかちょっとうちとけない感じの、バリアを張ってツンとすました様子に冷たい印象を受けたのだが、徐々にそうではないことがわかってきた。
たぶん、まゆみさんは恥ずかしがり屋さんなのだ。まだあまり話す機会はないので、想像を逞しくするほかないが、そういうことにしておこうと思った。
未経験であったコールセンターのオペレーターという職種に就いたのは、ぶっちゃけお金がよかったからにすぎない。
それまでに、いろいろと職種を経験してきたが、電話の仕事は今回がはじめてだった。
ただ、ひっきりなしに電話が鳴っているというわけではないので、一日中インカムを装着したままというわけでもなかったから、ほかのコールセンターとはだいぶ違うようだ。
ある日、彼女の髪色が明るくなったなと思った時、彼女の左手を注意して眺めた。
なぜそうしたのかは言わずもがなだが、もともとまゆみさんが、タイプだったのかもしれない。
自分がどんな容貌の女性を好きになるのか、考えたこともないのでわからないが、その時まゆみさんの薬指に約束の指輪がはめられていることを発見し、僕は落胆ともつかない軽い眩暈を覚えた。
だが、それはダイヤモンドであるとか、いわゆる石がセッティングされてあるわけでもなく、ごく普通のリングでもなかった。
そして、彼女はほとんど日替わりで指輪をつけ替えていた。それらは、すべて金属ではなくプラスチック製の極太のリングだった。
それらを考え合わせてみると、まゆみさんは、もしかしかしたなら既婚者ではないのかもしれないと、淡い希望を抱いたこともたしかだ。
だが、実際に恋に落ちてしまったなら、いや、まゆみさんがこちらに、なびいてきたならば、たぶん、ぼくはもうまゆみさんに興味を失ってしまうのではないかと思う。
そこが自分の悪いところというか、意気地のないところなのだが、一線を超えるというのは、なんというか生臭く感じてしまい、いつも腰が引けてしまうのだ。
そんな事を考えてしまう自分は、淡白な草食系男子なのかといえば、まったくそんなこともなかった。御多分に洩れず、エロい想像で頭は常に爆発しそうだった。
思うに、リアルな対象者がほしいだけなのかもしれない。たとえ妄想といえども、リアリティに欠けるのはいただけない。遠いアイドルよりも、息遣いのわかる身近な人。
想像の中で、まゆみさんとぼくは、きょうもドロドロの愛憎劇を繰り広げる。
まゆみさんは、ぼくの大切な恋人であり、性奴隷なのだ。或いは、ぼくの方こそ彼女の性奴隷なのかもしれないが。
だが、どこまでいっても空想の中だけの存在なのかといえば、そんな事もないのかもしれない。
一線を越えてしまう日は、絶対に来ない、とは誰も断言できないからだ。
*仕事関連の話
以前もやはり似たような派遣の仕事に就いていたが、ここに入った当初は、多少の戸惑いはあった。
しかし、はじめは内容的に難易度の高い案件は回避され、ごく簡単な受け応えで済むものだけが回されてくるらしいので、少し気持ちが楽になった。
実は、ほかにも何社か応募したのだが、面接すらしてもらえないケースがほとんどだった。
同じようにいわゆるコールセンターのオペレーターの仕事だが、思うに自分にはインバウンドではなく、こちらから架電して、ひとつの案件への対応時間が長いものの方が、合っているような気がしていた。
しかし、そのためには知識の蓄積が重要であり、一朝一夕にはいかないのはむろんなのだが、座学でみっちり勉強するという方が、性に合っているようだ。
お昼は、ひと続きになっているデスクの列ごとに隔週で前半と後半に分かれいくことになっていた。
だから、お昼にまゆみさんと話そうと思えば出来ないこともないのだが、まゆみさんは外に食べに出てしまうし、ぼくはといえば彼女と話をするためにわざわざ外食したくはない、いうところに話は落ち着いてしまうのだった。
その程度の恋なのかと自分自身でも、がっかりしてしまう。もっと灼熱の太陽にジリジリと炙られ脂汗をだらだらと垂れ流すような、氷柱を背中に突っ込まれたまま薄氷の上を裸足で歩いていくような、そんなギリギリな恋がしたかった。
だからといってはなんだが、対象はまゆみさんに限られるわけでもない。つまり、まゆみさんだから恋に落ちたいわけではない。
恋に落ちたいから、まゆみさんを選んだのだ。こういった恋愛至上主義な輩は、まともな結婚など望むべくもない。
土日はスーツなどかなぐり捨てて、アイドルのステージに駆けつけるとか、或いは、ポエトリーリーディングの会に参加するとか、興味はないがヨガスタジオに見学に行くとか、1日保父さん体験でゾウさんをオルガンで弾きながら、いきなりフリーイプロゼーションに突入し、キース・エマーソンみたいにナイフを鍵盤の間に突き立てて、オルガンの上に乗っかって揺らしながら演奏し、園児たちから拍手喝采を浴びるとか、近ごろ滅多に見ないストリーキングを渋谷のスクランブルでやってみるとか、朝七時から調子こいてボルタリングで壁をよじ登り、股関節が外れて貼り付いたまま動けなくなるとか、なんかこう気が晴れ晴れするような事をやらなければダメになってしまうような気がしていた。
病葉は現象であり、そこに原因があるのではない。樹木が根から腐ってしまうような酸欠状態、そんな気がするのだ。
だが、ぼくがせいぜい出来ることは、昭和の匂いがするような安っぽいガラスのテーブルの上で眠剤をI.W.ハーパー12年もののボトルの底ですり潰し、クレジットカードで綺麗な畝を作って、ハッシッシよろしく、短くつめたストローで鼻から吸引するくらいしか能はなかった。
この頃は、もうアルコールだけではまともな眠りにつけなくなってしまったのだ。
*まゆみさんの容貌
まゆみさんの印象やら容姿のことを少しだけ書くと、なんていうのか昔どこかで会ったことがある、そんな感じをはじめから持っていたのだと思う。
ひとつの狭いフロアに社員のすべてが勤務しているわけでもなく、派遣やらアルバイトやらを含めての大所帯だから、会話したことのない人もたくさんいた。
まゆみさんと一年も同じビルの同じフロアで働いていれば、話さなくとも顔だけは知っていて、しばらく見かけないと、どうかしたのかなくらいには気にはする存在だった。
とにかくなぜか気にはなる人で、とびきりの美人というわけでもないけれど、どこか癒されるような雰囲気の持ち主だった。
第一印象は、笑顔がとにかく素敵な人というものだった。まゆみさんは、何がそんなに楽しいんだろうと思ってしまうくらい、四六時中笑みが絶えない女性であり、幸せそうに微笑むまゆみさんの周りには、天使でも飛んでいるんじゃないかと目を凝らしてみる人がいてもおかしくはなかった。
確かに笑顔というものは、神々しいとも言い得るもので、それは何故かといえば、美しい花々と同じように笑顔からは、光りが溢れ出してくるからだと思っている。
まゆみさんに限らず女性は笑顔が自然とこぼれてくるようだが、あれほど笑顔を絶やさない人は、あまりお目にかかったことはない。
なんだかんだ言っても、世の男性諸氏は、女性のあの笑顔にやられてしまうのではないだろうか。
例えばいわゆるアイドルヲタクと呼ばれる人たちは、国内のみならず好きなチームが香港へ行けば香港へ、バンコクへ行けばバンコクへと、とにかく地の果てまで応援しに行って好きなメンバーの歌声を聴き笑顔を見て生きる糧としているのだ。
まゆみさんの髪は、ショートのおかっぱというのだろうか、そんな髪で、もしかしたならその髪のせいで誰かを想起しているのかもしれなかった。
ただし、具体的にその人物の顔はいくら思い出そうとしても脳裏に像を結ぶことはなかった。
様々な個体の面影が、ひとつのクラスタとなり、おかっぱのヅラを被って表象となって顕現しているのだろうか。
そうなのかもしれない。だとしたら辻褄は合う。具体的な顔立ちを憶えていなくとも、いや、そうだからこそ何か懐かしいような雰囲気のみで、デジャヴを感じているのではないか。
実はまゆみさんのほかにも、あとふたりの女性に対して既視感を覚えていた。もうそのふたりはだいぶ前からどちらも見かけなくなっていたので、派遣を解かれたのだろうが、その人たちは別段おかっぱでもなかった。
となると、髪型が記憶をくすぐるわけではないらしい。
不倫してみたいなどと不埒な考えを持ったことはない。だが、むろん誰しも不倫そのものが目的で不倫にはまるわけではないだろう。
ただ、その味を一度知ってしまうや、ゾクゾクするような秘密の恋という背徳の悦びの底無し沼に、ずるずると呑み込まれて、もがけばもがくほど深みへとはまり込み、抜け出せなくなってしまう。
まゆみさんのことが、気になりはじめたのは、そう、去年の今頃だったろうか。
新人さんやら、移動で何人か配置替えされるということで、今まで一度も話したことはなかったまゆみさんが、隣りのデスクになった。
はじめは、なにかちょっとうちとけない感じの、バリアを張ってツンとすました様子に冷たい印象を受けたのだが、徐々にそうではないことがわかってきた。
たぶん、まゆみさんは恥ずかしがり屋さんなのだ。まだあまり話す機会はないので、想像を逞しくするほかないが、そういうことにしておこうと思った。
未経験であったコールセンターのオペレーターという職種に就いたのは、ぶっちゃけお金がよかったからにすぎない。
それまでに、いろいろと職種を経験してきたが、電話の仕事は今回がはじめてだった。
ただ、ひっきりなしに電話が鳴っているというわけではないので、一日中インカムを装着したままというわけでもなかったから、ほかのコールセンターとはだいぶ違うようだ。
ある日、彼女の髪色が明るくなったなと思った時、彼女の左手を注意して眺めた。
なぜそうしたのかは言わずもがなだが、もともとまゆみさんが、タイプだったのかもしれない。
自分がどんな容貌の女性を好きになるのか、考えたこともないのでわからないが、その時まゆみさんの薬指に約束の指輪がはめられていることを発見し、僕は落胆ともつかない軽い眩暈を覚えた。
だが、それはダイヤモンドであるとか、いわゆる石がセッティングされてあるわけでもなく、ごく普通のリングでもなかった。
そして、彼女はほとんど日替わりで指輪をつけ替えていた。それらは、すべて金属ではなくプラスチック製の極太のリングだった。
それらを考え合わせてみると、まゆみさんは、もしかしかしたなら既婚者ではないのかもしれないと、淡い希望を抱いたこともたしかだ。
だが、実際に恋に落ちてしまったなら、いや、まゆみさんがこちらに、なびいてきたならば、たぶん、ぼくはもうまゆみさんに興味を失ってしまうのではないかと思う。
そこが自分の悪いところというか、意気地のないところなのだが、一線を超えるというのは、なんというか生臭く感じてしまい、いつも腰が引けてしまうのだ。
そんな事を考えてしまう自分は、淡白な草食系男子なのかといえば、まったくそんなこともなかった。御多分に洩れず、エロい想像で頭は常に爆発しそうだった。
思うに、リアルな対象者がほしいだけなのかもしれない。たとえ妄想といえども、リアリティに欠けるのはいただけない。遠いアイドルよりも、息遣いのわかる身近な人。
想像の中で、まゆみさんとぼくは、きょうもドロドロの愛憎劇を繰り広げる。
まゆみさんは、ぼくの大切な恋人であり、性奴隷なのだ。或いは、ぼくの方こそ彼女の性奴隷なのかもしれないが。
だが、どこまでいっても空想の中だけの存在なのかといえば、そんな事もないのかもしれない。
一線を越えてしまう日は、絶対に来ない、とは誰も断言できないからだ。
*仕事関連の話
以前もやはり似たような派遣の仕事に就いていたが、ここに入った当初は、多少の戸惑いはあった。
しかし、はじめは内容的に難易度の高い案件は回避され、ごく簡単な受け応えで済むものだけが回されてくるらしいので、少し気持ちが楽になった。
実は、ほかにも何社か応募したのだが、面接すらしてもらえないケースがほとんどだった。
同じようにいわゆるコールセンターのオペレーターの仕事だが、思うに自分にはインバウンドではなく、こちらから架電して、ひとつの案件への対応時間が長いものの方が、合っているような気がしていた。
しかし、そのためには知識の蓄積が重要であり、一朝一夕にはいかないのはむろんなのだが、座学でみっちり勉強するという方が、性に合っているようだ。
お昼は、ひと続きになっているデスクの列ごとに隔週で前半と後半に分かれいくことになっていた。
だから、お昼にまゆみさんと話そうと思えば出来ないこともないのだが、まゆみさんは外に食べに出てしまうし、ぼくはといえば彼女と話をするためにわざわざ外食したくはない、いうところに話は落ち着いてしまうのだった。
その程度の恋なのかと自分自身でも、がっかりしてしまう。もっと灼熱の太陽にジリジリと炙られ脂汗をだらだらと垂れ流すような、氷柱を背中に突っ込まれたまま薄氷の上を裸足で歩いていくような、そんなギリギリな恋がしたかった。
だからといってはなんだが、対象はまゆみさんに限られるわけでもない。つまり、まゆみさんだから恋に落ちたいわけではない。
恋に落ちたいから、まゆみさんを選んだのだ。こういった恋愛至上主義な輩は、まともな結婚など望むべくもない。
土日はスーツなどかなぐり捨てて、アイドルのステージに駆けつけるとか、或いは、ポエトリーリーディングの会に参加するとか、興味はないがヨガスタジオに見学に行くとか、1日保父さん体験でゾウさんをオルガンで弾きながら、いきなりフリーイプロゼーションに突入し、キース・エマーソンみたいにナイフを鍵盤の間に突き立てて、オルガンの上に乗っかって揺らしながら演奏し、園児たちから拍手喝采を浴びるとか、近ごろ滅多に見ないストリーキングを渋谷のスクランブルでやってみるとか、朝七時から調子こいてボルタリングで壁をよじ登り、股関節が外れて貼り付いたまま動けなくなるとか、なんかこう気が晴れ晴れするような事をやらなければダメになってしまうような気がしていた。
病葉は現象であり、そこに原因があるのではない。樹木が根から腐ってしまうような酸欠状態、そんな気がするのだ。
だが、ぼくがせいぜい出来ることは、昭和の匂いがするような安っぽいガラスのテーブルの上で眠剤をI.W.ハーパー12年もののボトルの底ですり潰し、クレジットカードで綺麗な畝を作って、ハッシッシよろしく、短くつめたストローで鼻から吸引するくらいしか能はなかった。
この頃は、もうアルコールだけではまともな眠りにつけなくなってしまったのだ。
*まゆみさんの容貌
まゆみさんの印象やら容姿のことを少しだけ書くと、なんていうのか昔どこかで会ったことがある、そんな感じをはじめから持っていたのだと思う。
ひとつの狭いフロアに社員のすべてが勤務しているわけでもなく、派遣やらアルバイトやらを含めての大所帯だから、会話したことのない人もたくさんいた。
まゆみさんと一年も同じビルの同じフロアで働いていれば、話さなくとも顔だけは知っていて、しばらく見かけないと、どうかしたのかなくらいには気にはする存在だった。
とにかくなぜか気にはなる人で、とびきりの美人というわけでもないけれど、どこか癒されるような雰囲気の持ち主だった。
第一印象は、笑顔がとにかく素敵な人というものだった。まゆみさんは、何がそんなに楽しいんだろうと思ってしまうくらい、四六時中笑みが絶えない女性であり、幸せそうに微笑むまゆみさんの周りには、天使でも飛んでいるんじゃないかと目を凝らしてみる人がいてもおかしくはなかった。
確かに笑顔というものは、神々しいとも言い得るもので、それは何故かといえば、美しい花々と同じように笑顔からは、光りが溢れ出してくるからだと思っている。
まゆみさんに限らず女性は笑顔が自然とこぼれてくるようだが、あれほど笑顔を絶やさない人は、あまりお目にかかったことはない。
なんだかんだ言っても、世の男性諸氏は、女性のあの笑顔にやられてしまうのではないだろうか。
例えばいわゆるアイドルヲタクと呼ばれる人たちは、国内のみならず好きなチームが香港へ行けば香港へ、バンコクへ行けばバンコクへと、とにかく地の果てまで応援しに行って好きなメンバーの歌声を聴き笑顔を見て生きる糧としているのだ。
まゆみさんの髪は、ショートのおかっぱというのだろうか、そんな髪で、もしかしたならその髪のせいで誰かを想起しているのかもしれなかった。
ただし、具体的にその人物の顔はいくら思い出そうとしても脳裏に像を結ぶことはなかった。
様々な個体の面影が、ひとつのクラスタとなり、おかっぱのヅラを被って表象となって顕現しているのだろうか。
そうなのかもしれない。だとしたら辻褄は合う。具体的な顔立ちを憶えていなくとも、いや、そうだからこそ何か懐かしいような雰囲気のみで、デジャヴを感じているのではないか。
実はまゆみさんのほかにも、あとふたりの女性に対して既視感を覚えていた。もうそのふたりはだいぶ前からどちらも見かけなくなっていたので、派遣を解かれたのだろうが、その人たちは別段おかっぱでもなかった。
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