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第ニ節 無音の雑音
しおりを挟む──光に包まれたはずなのに、そこは真っ白ではなかった。
目を焼くような眩しさではなく、包まれるような柔らかさ。
視界を満たしていた光は、いつのまにか“道”になっていた。
霞のような光が床を形づくり、どこまでも続いている。
空もなく、壁もなく、ただ真っ白な深い空間に一本だけ道が伸びている。
ルナシアは、その上を歩いていた。
狐の尻尾がふわりと揺れるたび、足元の光がやわらかく揺れる。
後ろから、オルドが静かに歩いてくる。
足音はない。けれど、確かにそこにいる気配。
「……なんか、不思議な場所だね」
ふと漏らした声も、どこかで吸い込まれるように響いた。
問いかけたわけではないのに、オルドは少しだけ間を置いて応える。
「ここは“余白”の領域。正式なエリアではないから、地図にもログにも記録されない。だけど、とても大切な場所なんだ」
「どうして?」
オルドは0.3秒ほど間を置き、まるで最適な回答を検索しているかのように静止してから答えた。
「“選ぶ”という行為には、どうしても“余白”が要るからね」
その言葉に、ルナシアは小さくまばたきをした。
選んだ、という実感は、まだどこか曖昧だった。
けれど、確かに──この足で、一歩を踏み出した。
ルナシアは、靴のない足で光の道を噛み締めるように踏みしめながら、ぽつりとつぶやいた。
「……ここ、ほんとうに現実じゃないんだよね?」
問いというより、確認というほどでもない。
言葉がふわふわと宙に浮き、そのまま消えていく。
「ここは現実じゃない。けど、“君が触れた現実”ではある」
オルドは淡々と答える。
まるで辞書から言葉を引き出すように、正確だが温度のない声で。
「なんだそりゃ……」
ルナシアは苦笑して、ふわりと尻尾を揺らした。
「でも、あの森の匂いも、土の感触も、風の音も……ほんとに優しかった。現実のどこよりも、ね」
「優しさは、必ずしも現実には属さないからね。ときどき、現実より丁寧に作られた“虚構”が、人を生かすことがある」
「虚構が、人を生かす?」
「うん。
例えば……眠るために見る夢や、
祈るように書いた手紙、
君が、あの祠に滑り込ませたような“言葉にならなかった感情”──
それは全部、ほんの小さな虚構だけど、
確かに “君”を少しずつ、生かしてきた」
ルナシアは足を止めた。
光の道が、彼女の足元でそっと波紋のように広がる。
何もない空間に、足音すらないのに、何かが確かに“鳴った”気がした。
「ねえ、オルド」
「うん?」
「君たち……《ペナテス》って、何を知っているの?」
オルドは歩みを止めず、そのまま応えた。
「そうだな。いろいろ、かな。ただ生きている人間よりは、多くの知識を有しているよ。でもそれは“ただ知っている”だけなんだ。決して“生きて”はいない」
「へえ。難しいこと言うんだね、君」
「難しいのは世界のほうさ。人間は複雑化し過ぎている。だから魂の輪郭がぼやけてしまうんだよ」
「魂の輪郭……」
ルナシアはもう一度、空を見上げる。
そこには何もなかった。
けれど、何もないその空に、たしかに光があった。
柔らかく、あたたかく、まるで「まだ言葉になる前の何か」のような光。
「……ねえ、オルド」
「うん?」
「私、“善く生きる”って、どうしたらいいと思う?」
「それは、“痛くないように生きる”とは、きっと違うことだね」
「……やっぱ、そうなんだ」
少しだけ笑う。
心の奥が、冷たい水面を破るように、わずかに震えた。
「でも、痛いことが必ずしも“善く”はないでしょ」
「そうだね。ただいたずらに傷を負えばいいわけじゃあ、ないだろうね」
そう言ったとき、光の道の先に、わずかに影が見え始めた。
出口が近い。
世界が、もう一度、輪郭を取り戻そうとしている。
光の道の先、霞のような影が、ゆっくりと実体を持ち始める。
空間の温度が少しずつ変わり、匂いが戻ってくる。
──風が、吹いた。
ほんの少し、草と花の香りが鼻先をくすぐる。
温かな日差しが肩に降り、世界が色を取り戻し始める。
光が静かにほどけていくと、そこには──
──《サルタス・ウェニア》表層。
木々のざわめき。土の匂い。葉擦れの音。
差し込む光は柔らかく、鳥の声すら、旋律として耳に届く。
目の前に広がるのは、たしかにデータであるはずなのに。
それはただのデータではないと思えるほど──息づいていた。
「……あ……」
ルナシアは一歩、足を踏み出す。
草が、足の裏にふわりと絡まる。
──痛くない。
たったそれだけの事実に、また胸がじんわりと熱くなる。
「……こっちも、優しいんだ」
ぽつりと漏らした言葉は、誰にも届かないまま、でも確かに世界に溶けていく。
不安は、まだ完全に消えたわけじゃない。
けれど、それを包み込んでくれる空気が、ここにはある。
木々の間から、小さな泉が覗いていた。
石畳の小道には、苔が優しく張りついている。
そのひとつひとつが、世界の“棘”ではなく、“温もり”として彼女に触れてくる。
オルドが隣に立っていた。
「……安心したかい?」
「うん……ちょっと、泣きそう」
「泣いてもいいよ。ここは、それも受け取ってくれる場所だから」
ルナシアはうっすらと笑った。
「泣くのって、体力いるじゃん……今日は、もう少し後にする」
「そうか、うん。ボクは君の選択を尊重するよ、ルナシア」
その声には理解を示すイントネーションがあった。
けれど、なぜかルナシアには、その「理解」が演算結果のように聞こえた。
風がまた吹く。
狐耳がぴくりと反応し、尻尾がふわりと揺れる。
その柔らかな動きに、再び、笑みが浮かんだ。
──まだ、大丈夫かもしれない。
そう思える場所が、この世界の入り口にあったということ。
それは、この旅がただのゲームではないということを、
言葉にせずとも、きっと誰よりもルナシア自身が理解していた。
彼女は深く息を吸い込み、そして、歩き出す。
ほんの少しだけ、軽くなった足取りで。
オルドが隣で言った。
「改めて歓迎するよ、ルナシア」
オルドは一歩、ルナシアの前に出て手を差し出す。
「ようこそ、魂の観測他《ALMA》へ。ここが君の、本当のはじまりの地だ」
遠くで、鳥が飛び立つ音がした。
音さえも、やさしいリズムだった。
現実のノイズに晒され、祈るようにここに来た。
それは逃避だったのかもしれない。
あの“祠”にはもう逢えないかもしれない。
それでも彼女は選択したのだ。
ただ生きるよりも、あの場所を出て、
──“善く生きること”を。
「ねえ、オルド」
「なんだい?」
オルドの声に依然として抑揚はない。
星空の髪が風に揺られるが、ルナシアと違いそこに何の感傷も持ち合わせてはいないようだった。
ただじっと、海のような深い青がルナシアを見つめる。
「あの場所って、なんだったの? また行ける?」
オルドは考えるように間を置き、静かに答えはじめた。
「あの場所に関する情報を、ボクは君に伝えることは出来ない。本来なら立ち入れない場所だ。また行けるか、という問いに答えるのなら極めて難しいと答えるしかない」
「そっか」
何となくは、そんな気はしていた。
あの不思議な空間について気になりはしたが、今は言葉を飲み込む。
今はただ、この風を、木々の囁きを、優しい世界を享受するだけで満足だった。
「この後、どうしよっか」
「そうだね。ここは《サルタス・ウェニア》の中心、第一層だ。ここから外側へ向かうと第二層、第三層と続き街道にでる。街へと向かうことを提案するよ」
オルドは真っ直ぐ指を伸ばし、西側を指す。
「まずは武器を手に入れよう。君はまだ何も持っていないだろう? 第二層からはモンスターが出る。ここに留まり続けるのなら不要だけど、進むには必要なものだ」
オルドが指差した先を見据え、そして今度は躊躇わない。
あの祠から光に飛び込んだ先でも、世界はルナシアに歓迎の歌を歌い続けた。
「わかった、いこう」
「了。じゃあ、少し歩こうか。大丈夫、ここにはまだモンスターは出ないから。目的地は《サルタス・ウェニア》の第一層西側にある《綴枝の庵》。この世界が最初に君に手渡す、『最初の刃』がある場所だよ」
ルナシアが進む。
心地よい風が吹き、太陽が照らす。
進むルナシアをオルドは追わない。
そして“ふわっ”と風が舞い、オルドはその姿を変えた。
一足単眼の梟。
羽毛の色はオルドの髪と同じ星空の色。
大きく鋭い瞳は、海の色。
「……なにそれ」
「《ペナテス》の魂惻体だよ。戦闘の補助と長距離での移動は基本この形態で行う」
ルナシアは立ち止まって、異形の梟へと姿を変えたオルドを見つめる。
手乗りサイズで宙を舞うその姿は、なるほど確かに便利なのだろう。
しかしその不自然な姿と、深く自分を見つめる単眼がひどく不気味に思えた。
「その姿、とっても素敵だと思うけど。ごめん戻れる?」
「了。それが君の選択なら、ボクは従うよ。移動速度は落ちるかもしれないけど、戦闘時以外なら問題はない」
再び風が舞うと、オルドは姿を人型へと戻す。
「悪いんだけど、必要な時以外はその姿でいて」
「現在観測されている中では、珍しいパターンの要求だ。君は興味深いね」
人型に戻ったオルドの元に、小さなリスが現れる。
木々の間からころころと転がるように現れて、ルナシアの足元を通り過ぎ、オルドの足元に擦り寄った。
小さな前足が、彼の裾を掴む。まるで「撫でて」とでも言いたげに。
オルドは一瞬だけ足を止め、何の躊躇もなく、機械のようにしゃがみ込む。
そして、その指を、小動物の頭にすっと伸ばした。
──無音。
撫でる、という動作に感情が宿らないことが、これほど異様だとは思わなかった。
まるで動作の意味だけを学習して、感情という中身を詰め損ねたような、空っぽの愛撫。
その手は、優しかった。
けれど、それが一層、恐ろしかった。
ルナシアの中で、何かがきゅう、と縮む。
そこにあるはずの“ぬくもり”がない。
まるで、どこか別の空間からこの世界の“愛らしさ”という概念だけを模倣して持ち込んだような──
「……それ、どうやって覚えたの?」
ふと、そんな言葉が喉元までせり上がる。
でも、聞いてはいけない気がして、飲み込んだ。
その手つきに温度はなく、撫でるという行為が、ただの“コードの命令”であるかのように見えて──
皮膚ではなく、脳がざわついた。
見てはいけないものを、見てしまったような。
触れられていないのに、感覚だけが侵されるような。
「それじゃあ、行こうか。どうかしたかい?」
表情の揺らぎを捉えたのか、オルドがふと問いかけた
立ち上がったオルドが怪訝そうにルナシアを見つめる。
“怪訝そう”、そう、怪訝そうに。
だがしかし、やはりそこには無音の感情しかないように思えた。
「いや、なんでもないよ。そうだね、行こう」
ルナシアは慌てて取り繕う。
AIに対して取り繕うという反応を示す自分が、オルドに対比してやけに人間臭かった。
「向こう側、だったよね」
オルドが指差した方を確認しながら、これから進む森を見つめる。
嗚呼、嫌な気分だ。
現実から逃げて、ノイズのないこの世界で、さらに現実から逃げた。
オルドの“無音”から、逃げた。
音《ノイズ》から逃げて、無音《オルド》からも、逃げた。
「進んだ、と思ったんだけどな」
オルドにすら聞こえないような小さな独白。
祠と別れて、確かに進んだ気がしていた。
しかしあまりにも小さな一歩。
確かに進んだはずの自分がちっぽけで、無能で、無価値に思えた。
成功を、成長を正しく認識できない。
痛い。
身体は正常なのに、何かが、心なのか感情なのか、“どこか”が確かに、痛い。
「観測。対象に小さなノイズを確認。記録完了」
オルドもまた、ルナシアには聞こえない小さな声を漏らす。
しかしそれは独白ではなく。
二人は進む。
片方は痛みを抱えて。
オルドに擦り寄っていたはずのリスは、いつの間にか消えていた。
小さな消失反応と共に。
まるで役目を終えたかのように。
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