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来栖と出会う半年前まで、越智はとある企業のSEとして自社システムの開発・設計に取り組んでいた。プログラマーとしての下積み時代があったので重宝されていた。といえば聞こえはいいが、ようは体のいい小間使い扱いで鬼のようなタスクを割り振られる日々を送っていた。
趣味に費やす時間などなく毎日職場と家の往復。月間休日平均2日。仕事内容そのものは性に合っていたので何とかこなせた。上司のパワハラもなんとかやり過ごせたが自分の時間を持てないことがなにより堪えた。
ゴミを出せる時間帯に帰れないからたまる一方、洗濯機も夜中帰宅だから回せない。そもそも最低限の家事をする体力なんて残されていない。
大好きだったギターに触る気力さえなくなった時点で気づくべきだった。
腹痛吐き気腰痛肩こり冷え性、夜になると謎の発熱、風邪治ってさらに風邪からの肺炎一歩手前、記憶の一部欠如とフルコンボな症状が長く続き、ついに布団から起きられなくなり欠勤が続いたことで不審に思った先輩が家を訪ねてきて越智の惨状を把握し両親に連絡を取り、強制的に実家に連れ戻された。
普段、小鹿のようにか弱い雰囲気の母親が会社相手に猛獣のように敵意をむき出しにし、訴えてやる。と吠えていたのが印象深かった。この年で母ちゃん泣かすことほど罪なことってないなと大いに反省した。
その後、休職期間に入ったが家の中でだらだら過ごしているのも性に合わなかった。そんな息子を見かねて父がバイトの話を持ちかけてきたのはリハビリも兼ねてのことだったのだろう。しばらく好きなことして過ごしなさいという親心がありがたかった。
越智のそんな身上を津山から聞いて来栖は知っていたのかもしれない。
音楽はプロを目指しているのかとかさねて聞かれたが、うまく答えることができなかった。
好きだからこそ趣味として楽しんでいたいと思うし、プロを目指すほどの才能があるとも思えない。
ミュージシャンを一つの職業というくくりで語るのであれば、今の状態で転職してもうまくいかない気がする。
何よりも。
「音楽を逃げ場にしたくないんです」とそこだけは、はっきりと伝えた。
なら大丈夫じゃない?と軽い調子で来栖は言う。
「とりあえずやってみたら?この家は好きに使ってくれていいよ。なんなら食事も用意するし。ただし健全な生活を心がけること。それがこれからもスタジオを貸す条件だよ。私も生活習慣を改めるから」
そこから来栖との半同棲生活が始まった。越智は仕事をやめ、バイトしながらスタジオに通い、曲作りに勤しんだ。宣言通りに来栖は朝起きて夜寝て自活する生活習慣を整え、健康状態を取り戻した。どうしても気分が優れないときは越智が率先して家事を代行し、暇をみつけては外へ連れ出した。
来栖と向かい合わせで食事する機会も増えたし、作曲に関するアドバイスを請うたら何時間でもつきあってくれた。
なのに。バンドの誘いだけは頑なに拒否する。そのことがもどかしくて仕方なかった。
そんな生活が3年ほど続いたころだろうか。
ある日「受け取って」と言って来栖が差し出してきたのは、越智のネタ帳だった。
その時々で思い浮かんだフレーズを書き留めたノートだが、いつの間にかスタジオから無くなっていたことには気づいてはいた。中二病満載の呪物を屋外で落としていたらどうしよう。あまつさえ誰かの手に渡ったら。SNS等で公開処刑される日が来ることに怯えていたが、まさか来栖が持っていたとは。
「誤字が多い」と彼は苦言を呈した。大学の教授が生徒にレポートの再提出を言い渡すような厳格さだった。
ノートを開いてみると赤ペンで誤字が正されていた。のにならず、おびただしい数の単語の羅列、文章の断片でしかなかったそれらは歌詞と呼べるレベルまで昇華されていた。
「もうずいぶん曲のストックもできたんだろう?仲間をみつけて独り立ちしなさい。私にできるのはここまでだよ」
突然の突き放すような物言いに「なんで?!」と抗議した。
なんで急にそんなこと言うんだよ。こちとらあんたのエンジンがかかるのを何年、待ち続けたと思ってるんだよ、と。
「私のことはもう放っておいてくれ。もう、君に出て行ってほしいんだ」
「なんでそんなこと言うの?オレのこと、嫌いになった?」
「そうじゃないよ。静香が言うんだよ。歌い手のない曲は死んだ我が子みたいなものだって」
久しぶりにその名を聞いた。知り合ってから直接その名が出てきたことは一度もなかった。なんとなく来栖との間で彼の話題は禁忌にしていた部分がある。
「私のデビュー曲は本来、静香の娘にあげる予定だった。麻衣の誕生日に私と静香とで曲を作ってプレゼントしようって話になったんだ。でも麻衣は受け取らなかった。あの子はまぁ、音楽を毛嫌いしてたからね。カラオケすら行こうとしなかった」
「音痴だったんスか」
「まぁ、・・・そういうことだね。それで私がもらったんだけどそのうちキーが合わなくなってね、歌えなくなったんだ。いつか誰かにまた歌ってほしいと思ってるんだけどね。未だ叶わないよ」
君にはそんな思いをしてほしくないと来栖は言う。
「せっかく作った曲なんだからプロを目指してもっとたくさんの人に聴いてもらいなさい」
「イヤだ」
「なんで」
「絶っ対イヤだ」
「強情だね」
今までさんざん強情だったヤツに言われたくねーわと越智は吐き捨てた。
「あんたとじゃなきゃ嫌なんだよ。何年、待ったと思ってんだよ、3年ぞ?!別に無駄になったとは思わねぇよ!あんたがやる気になるんなら何年でも待ってやるって言ってんだよ!」
「それが無駄だっていうんだよ」
初めて来栖の怒鳴り声を聞いた。
「君の音楽はやかましいんだよ。おかげですっかり目が覚めてしまった。ずっと静香の夢を見て眠っていたかったのに」
来栖は泣いていた。相手は怒り狂っているというのに、あの、来栖が、自分のために言葉を選んで懸命に伝えようとしていることがうれしくて真剣に傾聴した。
「私はもうダメなんだよ、歌えない。あの人じゃないとダメなんだよ。もう全部、置いてきたんだよ」
「そんなことはない」
オレはあの人の代わりになれないけれど、新たに生み出すことならできるとどうしても伝えたかった。これほどに誰かに自分の思いをわかってほしいと思ったのは初めてだった。声を荒げ腹を割って話し合うなんて機会、友達の間ですらなかったから声は震えるし涙は出るしで、情けないと思う。
「他の誰かと音楽をすることに喜びを見出したら?今までの自分がウソになりそうで怖いんだ。静香のことを忘れてしまいそうで怖いんだよ」
「ホントに?一秒だって忘れたことない?便所でクソしてるときも静香のこと、考えてる?あんたは結構しょっちゅう、静香のことを考えていない瞬間があるはず。別にそれでいいじゃねぇか」
心配しなくても忘れることなんてできないんだから、考えない時間があってもいいだろ。その瞬間だけでもオレを見てくれよ。と畳みかけた。
「ねぇ、来栖さん。オレを見て」
来栖の顎をつかんで上を向かせた。
「忘れられないことがつらいんでしょう?」
「違う。そんなことはない」
「違わない。オレといると忘れそうになるんでしょう?いいじゃない、それで。ねぇ、来栖さん。一時の間だけでもオレが忘れさせてあげるから」
頬を包み込みキスをして、耳元にささやく。
「大丈夫。つらいことも苦しいこともステージに立ったら全部、忘れられるから。だから、ね?オレとしよう?」
だいぶ経ったころ、消え入るような声でわかったよと確かに聞こえた。
「でも、私は器用じゃないから自分の歌い方は変えられないし、君に合わせられないよ」
「そんなん、全然かまわんよ」
むしろできないことをはっきり伝えてくれたのがうれしいよと感謝の気持ちを素直に伝えた。
オレはオレで好みの路線で曲を作るつもりだし、あんたは今まで通りの歌い方でいいから、とりあえず一回合わせてみましょうよ。案外うまくいくかもよ?と持ちかけたところ、彼はすんなり頷いた。幼子のような素直さだった。
物事が動く時ってのはあっけないものだし、あっという間だったりもする。バンドを結成したその日その場の勢いで来栖を抱いたのは我ながら強引だったかなと思う。今にして思えば多分、河原で殴りあって仲直りしたみたいなノリだったんだろうと思う。
それ以来、彼との体の関係は続いている。といっても来栖から誘ってくることはなく、一方的に彼を性のはけ口にしているような間柄だったけれども。
そんな間柄に変化が生じたのは今年に入ってからのことである。
気になる子が出来たんだという告白を、越智は事後のベッドの上で聞いた。
まぁ、彼もいい年の大人だし、そんなこともあるだろうと思ったのでそうですか、よかったですね。と聞き流した。でも次に「だからお前とはもうセックスできないよ」と続いた時は動揺を禁じえなかった。
彼との肉体関係はいわば挨拶。夜に行うプロレスみたいな軽いノリだったので、それを禁止するとか、挨拶しないのと一緒じゃん。と不満に思った。
百歩譲って相手と恋仲になりたいとかならまだわかる。でもそういう間柄じゃないという。なら今まで通りでいいじゃないと思ってプロレスの続きをしようとしたら顔面を押さえつけられた。
お前のそういうところがイカレてるよ。という罵倒つきで。
拒否されたのは初めてだった。どんな扱いを受けても人形のように応じてきたくせに。
頭の中が広瀬静香かそれ以外かで分断されているような人である。誰にも興味を示さず、誰も愛さない彼が夢中になるなんてどれほどの相手なんだろうと興味を覚えた。とびきりの美女、なんていうありふれた理由じゃなびかないだろう。そもそも身体的な欠陥と女に対する警戒心が強いから相手が女とは限らない。
そいつのこともう抱いたのかな?抱かれたのかな?
だとしたらなんて羨ましいんだろう。
どれだけ体を重ねても満たされることはなかった。来栖の心は未だにあの人に支配されているのだから。それならそれで誰にも奪われることはないからまだ耐えられた。
でも他の誰かに心を動かされることがあるんなら、自分にも望みはあるのだろうか?というと、たぶん、ないのだろう。
この頃にはもう、どうしようもないくらい来栖のことを愛していた。
(会ってみたい)
来栖の心を奪った相手に。悪さするわけじゃなく、彼のお気に入りを一緒に愛でることで感覚を共有することができたなら、心も体も一体感を得られるだろうか。
今度、紹介してくださいよと言ったら、お前にだけは絶対に嫌だと断固拒否されたのでいったんはあきらめたけれど、思わぬ形で偶然エンカウントした人物は想像の斜め上をいく人物だった。
私用で来栖の家に行った際、チャイムを鳴らしても本人が出ず合鍵で入ったところ、見慣れないサイズの靴があった。不思議に思いながらリビングに入ると見たことのない子がおはぎを食っていた。
向こうは越智と目が合うと固まっていた。こちらも同じように固まっていると相手のほうがわずかに早く、我に返った。
「あの、来栖さん今、スタジオに行ってて。すぐ戻ってくると思います」
「あ、そうなん?」
「はい。あっ、来栖さんと一緒におはぎ作ったんですけど食べますか?」
「マジで?食べる食べる」
「お茶、持ってきますね」
そそくさと台所へ向かう後姿を見送った。
・・・で、君は誰なん?!
とっさに思いついたのは隠し子だった。しかし、来栖は長年、EDを患っているのでそれはないだろうと思い直した。
混乱しつつおはぎをおよばれしているとほどなくして戻ってきた来栖によって「この子は高野春馬君。静香のお孫ちゃんなの」と紹介を受けた。
言われてみれば確かにあの人の面影をきっちり受け継いだ外見をしている。何よりも特徴的なのが声。
広瀬静香の声によく似ている。だから来栖は釣られたんだなと納得した。
つまりこの子が行きつけの喫茶店で知り合った「気になる子」なのだと把握した。
そりゃあ手が出せませんわ。だって見たところ未成年だもの。法的にも倫理的な観点からも手が出せない相手だ。
だからなのか。
逆に言えば性的な関係性を強いられることもないから安心してつきあえる相手なのかと納得した。ある意味、ぴったりの相手じゃないか。
まるで真逆の存在だ。お前とは違うのだよ。と言外に見せつけられているような気分だった。
来栖は春馬の隣に腰かけると、越智の視界から隠すように春馬を腕の中にすっぽりと包み込んだ。親鳥にでもなったつもりか。取られるとでも思ったのだろうか。
春馬のほうはというと、まだおはぎを食っている。何個目だろう。無心に頬張るさまは小動物のそれに似て、まるで感情が読み取れない。不思議な印象の子だった。
趣味に費やす時間などなく毎日職場と家の往復。月間休日平均2日。仕事内容そのものは性に合っていたので何とかこなせた。上司のパワハラもなんとかやり過ごせたが自分の時間を持てないことがなにより堪えた。
ゴミを出せる時間帯に帰れないからたまる一方、洗濯機も夜中帰宅だから回せない。そもそも最低限の家事をする体力なんて残されていない。
大好きだったギターに触る気力さえなくなった時点で気づくべきだった。
腹痛吐き気腰痛肩こり冷え性、夜になると謎の発熱、風邪治ってさらに風邪からの肺炎一歩手前、記憶の一部欠如とフルコンボな症状が長く続き、ついに布団から起きられなくなり欠勤が続いたことで不審に思った先輩が家を訪ねてきて越智の惨状を把握し両親に連絡を取り、強制的に実家に連れ戻された。
普段、小鹿のようにか弱い雰囲気の母親が会社相手に猛獣のように敵意をむき出しにし、訴えてやる。と吠えていたのが印象深かった。この年で母ちゃん泣かすことほど罪なことってないなと大いに反省した。
その後、休職期間に入ったが家の中でだらだら過ごしているのも性に合わなかった。そんな息子を見かねて父がバイトの話を持ちかけてきたのはリハビリも兼ねてのことだったのだろう。しばらく好きなことして過ごしなさいという親心がありがたかった。
越智のそんな身上を津山から聞いて来栖は知っていたのかもしれない。
音楽はプロを目指しているのかとかさねて聞かれたが、うまく答えることができなかった。
好きだからこそ趣味として楽しんでいたいと思うし、プロを目指すほどの才能があるとも思えない。
ミュージシャンを一つの職業というくくりで語るのであれば、今の状態で転職してもうまくいかない気がする。
何よりも。
「音楽を逃げ場にしたくないんです」とそこだけは、はっきりと伝えた。
なら大丈夫じゃない?と軽い調子で来栖は言う。
「とりあえずやってみたら?この家は好きに使ってくれていいよ。なんなら食事も用意するし。ただし健全な生活を心がけること。それがこれからもスタジオを貸す条件だよ。私も生活習慣を改めるから」
そこから来栖との半同棲生活が始まった。越智は仕事をやめ、バイトしながらスタジオに通い、曲作りに勤しんだ。宣言通りに来栖は朝起きて夜寝て自活する生活習慣を整え、健康状態を取り戻した。どうしても気分が優れないときは越智が率先して家事を代行し、暇をみつけては外へ連れ出した。
来栖と向かい合わせで食事する機会も増えたし、作曲に関するアドバイスを請うたら何時間でもつきあってくれた。
なのに。バンドの誘いだけは頑なに拒否する。そのことがもどかしくて仕方なかった。
そんな生活が3年ほど続いたころだろうか。
ある日「受け取って」と言って来栖が差し出してきたのは、越智のネタ帳だった。
その時々で思い浮かんだフレーズを書き留めたノートだが、いつの間にかスタジオから無くなっていたことには気づいてはいた。中二病満載の呪物を屋外で落としていたらどうしよう。あまつさえ誰かの手に渡ったら。SNS等で公開処刑される日が来ることに怯えていたが、まさか来栖が持っていたとは。
「誤字が多い」と彼は苦言を呈した。大学の教授が生徒にレポートの再提出を言い渡すような厳格さだった。
ノートを開いてみると赤ペンで誤字が正されていた。のにならず、おびただしい数の単語の羅列、文章の断片でしかなかったそれらは歌詞と呼べるレベルまで昇華されていた。
「もうずいぶん曲のストックもできたんだろう?仲間をみつけて独り立ちしなさい。私にできるのはここまでだよ」
突然の突き放すような物言いに「なんで?!」と抗議した。
なんで急にそんなこと言うんだよ。こちとらあんたのエンジンがかかるのを何年、待ち続けたと思ってるんだよ、と。
「私のことはもう放っておいてくれ。もう、君に出て行ってほしいんだ」
「なんでそんなこと言うの?オレのこと、嫌いになった?」
「そうじゃないよ。静香が言うんだよ。歌い手のない曲は死んだ我が子みたいなものだって」
久しぶりにその名を聞いた。知り合ってから直接その名が出てきたことは一度もなかった。なんとなく来栖との間で彼の話題は禁忌にしていた部分がある。
「私のデビュー曲は本来、静香の娘にあげる予定だった。麻衣の誕生日に私と静香とで曲を作ってプレゼントしようって話になったんだ。でも麻衣は受け取らなかった。あの子はまぁ、音楽を毛嫌いしてたからね。カラオケすら行こうとしなかった」
「音痴だったんスか」
「まぁ、・・・そういうことだね。それで私がもらったんだけどそのうちキーが合わなくなってね、歌えなくなったんだ。いつか誰かにまた歌ってほしいと思ってるんだけどね。未だ叶わないよ」
君にはそんな思いをしてほしくないと来栖は言う。
「せっかく作った曲なんだからプロを目指してもっとたくさんの人に聴いてもらいなさい」
「イヤだ」
「なんで」
「絶っ対イヤだ」
「強情だね」
今までさんざん強情だったヤツに言われたくねーわと越智は吐き捨てた。
「あんたとじゃなきゃ嫌なんだよ。何年、待ったと思ってんだよ、3年ぞ?!別に無駄になったとは思わねぇよ!あんたがやる気になるんなら何年でも待ってやるって言ってんだよ!」
「それが無駄だっていうんだよ」
初めて来栖の怒鳴り声を聞いた。
「君の音楽はやかましいんだよ。おかげですっかり目が覚めてしまった。ずっと静香の夢を見て眠っていたかったのに」
来栖は泣いていた。相手は怒り狂っているというのに、あの、来栖が、自分のために言葉を選んで懸命に伝えようとしていることがうれしくて真剣に傾聴した。
「私はもうダメなんだよ、歌えない。あの人じゃないとダメなんだよ。もう全部、置いてきたんだよ」
「そんなことはない」
オレはあの人の代わりになれないけれど、新たに生み出すことならできるとどうしても伝えたかった。これほどに誰かに自分の思いをわかってほしいと思ったのは初めてだった。声を荒げ腹を割って話し合うなんて機会、友達の間ですらなかったから声は震えるし涙は出るしで、情けないと思う。
「他の誰かと音楽をすることに喜びを見出したら?今までの自分がウソになりそうで怖いんだ。静香のことを忘れてしまいそうで怖いんだよ」
「ホントに?一秒だって忘れたことない?便所でクソしてるときも静香のこと、考えてる?あんたは結構しょっちゅう、静香のことを考えていない瞬間があるはず。別にそれでいいじゃねぇか」
心配しなくても忘れることなんてできないんだから、考えない時間があってもいいだろ。その瞬間だけでもオレを見てくれよ。と畳みかけた。
「ねぇ、来栖さん。オレを見て」
来栖の顎をつかんで上を向かせた。
「忘れられないことがつらいんでしょう?」
「違う。そんなことはない」
「違わない。オレといると忘れそうになるんでしょう?いいじゃない、それで。ねぇ、来栖さん。一時の間だけでもオレが忘れさせてあげるから」
頬を包み込みキスをして、耳元にささやく。
「大丈夫。つらいことも苦しいこともステージに立ったら全部、忘れられるから。だから、ね?オレとしよう?」
だいぶ経ったころ、消え入るような声でわかったよと確かに聞こえた。
「でも、私は器用じゃないから自分の歌い方は変えられないし、君に合わせられないよ」
「そんなん、全然かまわんよ」
むしろできないことをはっきり伝えてくれたのがうれしいよと感謝の気持ちを素直に伝えた。
オレはオレで好みの路線で曲を作るつもりだし、あんたは今まで通りの歌い方でいいから、とりあえず一回合わせてみましょうよ。案外うまくいくかもよ?と持ちかけたところ、彼はすんなり頷いた。幼子のような素直さだった。
物事が動く時ってのはあっけないものだし、あっという間だったりもする。バンドを結成したその日その場の勢いで来栖を抱いたのは我ながら強引だったかなと思う。今にして思えば多分、河原で殴りあって仲直りしたみたいなノリだったんだろうと思う。
それ以来、彼との体の関係は続いている。といっても来栖から誘ってくることはなく、一方的に彼を性のはけ口にしているような間柄だったけれども。
そんな間柄に変化が生じたのは今年に入ってからのことである。
気になる子が出来たんだという告白を、越智は事後のベッドの上で聞いた。
まぁ、彼もいい年の大人だし、そんなこともあるだろうと思ったのでそうですか、よかったですね。と聞き流した。でも次に「だからお前とはもうセックスできないよ」と続いた時は動揺を禁じえなかった。
彼との肉体関係はいわば挨拶。夜に行うプロレスみたいな軽いノリだったので、それを禁止するとか、挨拶しないのと一緒じゃん。と不満に思った。
百歩譲って相手と恋仲になりたいとかならまだわかる。でもそういう間柄じゃないという。なら今まで通りでいいじゃないと思ってプロレスの続きをしようとしたら顔面を押さえつけられた。
お前のそういうところがイカレてるよ。という罵倒つきで。
拒否されたのは初めてだった。どんな扱いを受けても人形のように応じてきたくせに。
頭の中が広瀬静香かそれ以外かで分断されているような人である。誰にも興味を示さず、誰も愛さない彼が夢中になるなんてどれほどの相手なんだろうと興味を覚えた。とびきりの美女、なんていうありふれた理由じゃなびかないだろう。そもそも身体的な欠陥と女に対する警戒心が強いから相手が女とは限らない。
そいつのこともう抱いたのかな?抱かれたのかな?
だとしたらなんて羨ましいんだろう。
どれだけ体を重ねても満たされることはなかった。来栖の心は未だにあの人に支配されているのだから。それならそれで誰にも奪われることはないからまだ耐えられた。
でも他の誰かに心を動かされることがあるんなら、自分にも望みはあるのだろうか?というと、たぶん、ないのだろう。
この頃にはもう、どうしようもないくらい来栖のことを愛していた。
(会ってみたい)
来栖の心を奪った相手に。悪さするわけじゃなく、彼のお気に入りを一緒に愛でることで感覚を共有することができたなら、心も体も一体感を得られるだろうか。
今度、紹介してくださいよと言ったら、お前にだけは絶対に嫌だと断固拒否されたのでいったんはあきらめたけれど、思わぬ形で偶然エンカウントした人物は想像の斜め上をいく人物だった。
私用で来栖の家に行った際、チャイムを鳴らしても本人が出ず合鍵で入ったところ、見慣れないサイズの靴があった。不思議に思いながらリビングに入ると見たことのない子がおはぎを食っていた。
向こうは越智と目が合うと固まっていた。こちらも同じように固まっていると相手のほうがわずかに早く、我に返った。
「あの、来栖さん今、スタジオに行ってて。すぐ戻ってくると思います」
「あ、そうなん?」
「はい。あっ、来栖さんと一緒におはぎ作ったんですけど食べますか?」
「マジで?食べる食べる」
「お茶、持ってきますね」
そそくさと台所へ向かう後姿を見送った。
・・・で、君は誰なん?!
とっさに思いついたのは隠し子だった。しかし、来栖は長年、EDを患っているのでそれはないだろうと思い直した。
混乱しつつおはぎをおよばれしているとほどなくして戻ってきた来栖によって「この子は高野春馬君。静香のお孫ちゃんなの」と紹介を受けた。
言われてみれば確かにあの人の面影をきっちり受け継いだ外見をしている。何よりも特徴的なのが声。
広瀬静香の声によく似ている。だから来栖は釣られたんだなと納得した。
つまりこの子が行きつけの喫茶店で知り合った「気になる子」なのだと把握した。
そりゃあ手が出せませんわ。だって見たところ未成年だもの。法的にも倫理的な観点からも手が出せない相手だ。
だからなのか。
逆に言えば性的な関係性を強いられることもないから安心してつきあえる相手なのかと納得した。ある意味、ぴったりの相手じゃないか。
まるで真逆の存在だ。お前とは違うのだよ。と言外に見せつけられているような気分だった。
来栖は春馬の隣に腰かけると、越智の視界から隠すように春馬を腕の中にすっぽりと包み込んだ。親鳥にでもなったつもりか。取られるとでも思ったのだろうか。
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