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深い、深い海の底を漂っていた。
地上で最後に見た光景は足元が抜け落ちたような感覚のあと視界一杯に反転した青空の染み入るような青さと。
次の瞬間には体を叩きつけられるような衝撃だった。濁流に飲み込まれ、岩肌に激しくぶつかり水底に顔面を削られ、肉体はボロボロになっていった。
あの様子では多分、死んでしまっただろう。それでも心のほうはしばらく生きていたと思う。魚たちの群れに紛れながら、暗くて冷たい海の底を漂っているうちに感覚もやがて鈍っていった。
このまま、消え去るのだろうと思われたころ、頭上のうんと遠いところに光の筋を見出して、吸い寄せられるように意識が浮上していき、気づいたら。
「高野春馬」の体の中に宿っていた。
宿主が育って行く過程で彼が己の孫であること、置かれている状況だとかはなんとなく理解したものの、自分の状態がまるで分らない。幽霊的なもので彼に憑依しているのか、あるいは生まれ変わり的な存在なのか、
確かなのはこの体に封じ込められているということ。見えないへその緒でつながっているかのように一定以上は離れることができないようだった。
出ていけない以上、せめて孫の人生に影響を与えないようにと体内で鳴りを潜めていた。限りなく操作性ゼロに等しい、ほぼムービーで構成されたゲームをただ見ているだけみたいな日々に転機が訪れたのはダンボール箱の中のミュージックビデオをみつけたのがきっかけだった。
懐かしくて苦しくて今すぐにでも来栖に会いたいと思う気持ちが抑えきれなくなり春馬が眠った後、体を借りて来栖の行方を捜した。
あの子は一体どうしているのだろうと気になって調べてみたものの、ネットから流れてくるウワサは不穏なものばかりだった。
「来栖静香」が解散したことを知ったのもその時だった。己の死因も。
彼が壊れてしまった原因が自分にあるのならなおさら、会わなければいけないという焦りばかりが募った。けれども春馬と来栖を引き合わせる接点がまるでない。
どうしたものかと模索していたところに来栖のSNSをみつけた。お気に入りの場所としてあげている画像のいくつかは見覚えのある場所だった。「松虫堂」もその一つで彼と二人っきりで旅行に出かけた際、立ち寄った思い出の場所だった。
孫の通学路に近いし、来栖に出会えるとしたらここしかないと思った。実際に出会えるかどうかは全部、春馬の心次第。
会えないのならそれが運命。本来ならば既に終わった生なのだから。
けれどももし、次に会うことが出来たなら、どうしても彼に伝えたいことがあった。
会おうと思えばすぐにでも行ける。住んでいる場所も把握している。けれど、春馬の人生に影響を与えるわけにはいかない。それでいて会いたい気持ちも抑えられずにいた。だからあくまでも彼の意思で物事を進められるように見守り続けることしかできなかった。
そして、願いは叶ってしまった。
(ウソみたい)
夜更けすぎ。来栖の腕から抜け出すとベッドの上に起き上がり、彼の寝顔を見下ろした。
まるで夢を見ているみたい。もう一度、彼に会える日がくるなんて。
「大きくなったなぁ、来栖」
小声で彼の名を呼んでそっと手を伸ばし頬に触れた。こうやってもう一度、彼のぬくもりに触れることができるなんて。自分の意思でもう一度、彼の名を呼ぶことができる日が来るなんて思ってもいなかった。
あの純粋無垢な少年がまさかこんなイケおじに成長するなんて誰が想像しただろう。あまつさえ、
(抱かれる日が来るなんて思わなかったよ?!)
それが一番、衝撃だった。
己が素っ裸なことに気づいて猛烈に恥ずかしくなり、再び布団にもぐりこもうとしたところで前触れもなく来栖が目を見開き、起き上がった。
ひっと思わず声に出して身を引いた。とっさに2オクターブくらい高い声が出た。
「来栖、さん?どうしたの?」
「声、作らなくていいよ。静香でしょ」
そこにいるんでしょう?とさらに詰めてくる。
「手紙、読んだよ」
「え?!あぁ、うん」
「気づいてたよ、旅行の夜。寝てる私にキスしたの」
「・・・ご、ごめんなさいぃいいい」
ドリルする勢いで土下座した。
「すみませんでした!つい・・・っ魔が、さして・・・っ」
「しかも、ほっぺたって。ヘタレなの?」
「違うんだよ!あれは角度的に、横向いてたから出来なかっただけで!」
「別にいいけど。だから言ったじゃない。あなたが好きだって。私は静香としたかったよ。お膳立てまでしたのに」
「できるわけないだろ?!そんなの」
「わかってる。私は息子みたいな存在だからね」
「違うんだよ」
息子みたいな存在だと思っていた時期もあった。それほどに大切にして慈しんでいたのに、いつの間にかそう思い込まなければ手を出してしまいそうになっていた。そんな自分を恥じていた。
来栖の誕生日が近づいて、何か欲しいものがあるかと尋ねたところ、何もいらない。一泊だけでいいから静香と二人っきりで過ごしたいと彼が言うので、娘を津山夫妻に預け、近場の温泉宿に泊まった。
旅館で過ごしたあの夜に、理性を最後まで保てたところまでは本当に偉かったと思う。いや別に褒められるようなことでもないけれど。でもこっそり寝てる子にキスするとかヘタレすぎるやろ。
全部台無しじゃねぇか。しかもバレてるとか。
(格好悪すぎる)
けれども一番、後悔してるのは来栖の告白に応えてあげられなかったこと。決して彼のことを愛していなかったわけではない。
むしろ愛しているからこそ、大切な存在だからこそ抱けなかったんだよと本心を明かす前に死んでしまった。
もしも、もう一度、会うことができたなら伝えたいと思っていた。
「来栖、オレもお前を愛してた」
今も愛してると目を見て告げた。
うん、知ってる。と来栖は笑みを浮かべた。
「私も。・・・僕も次、会えたら言いたいことがあったんだよ」
「なに?」
「僕をみつけてくれてありがとう。地下から連れ出してくれてありがとう」
それはずっと聞きたかった言葉だった。
「でも、オレは」
情けなくも涙声になってしまった。でも、もうこらえきれなかった。長い年月を経た今でも後から後から後悔が溢れ出てきて視界がぼやけてしまう。
「来栖。お前にずっと謝らなきゃいけないと思ってたことがあるんだ。お前と母親を引き離したことをずっと後悔してた。オレが余計なことしたばっかりにお前の人生がめちゃくちゃになったんじゃないかって」
「あなたについて行ったのは自分の意思だよ。後悔してない。母の介護に専念したのは罪滅ぼしだよ。僕は最期まで見届けた。もう、済んだことだよ」
「本当に、お前はすごいよ。今までよく頑張ったな」
天使のようなクリクリの髪をなでた。
「約束、守れなくてごめん。勝手に死んでごめん」
「いいよ。僕のほうこそ、勝手にいなくなってごめんなさい。ずっと待っていてくれたんだよね」
最後に、ひとつだけお願いがあるの。キスしてほしい。
来栖の他愛もないお願いに静香は頷いた。
「ちゃんと唇にしてね」
「わかってるって」
最後のお別れに、触れるだけのキスをした。
「来栖、愛してる。だからさようなら」
「やっと「来栖静香」が解散するんだね」
「そうだな」
これで、やっと心置きなく逝ける。そう思って目を瞑った。
「・・・」
「・・・」
「・・・・・・やっぱ無理だわ!ていうか、どうやったら成仏ってできるの?!」
来栖は笑いをこらえている。
「私に聞かれても困るよ。まだ、いたらいいんじゃない?」
「そうもいかねぇよ。だってお前、孫とのまぐわいを見学させられる身にもなってみろよ!ていうか、お前、激しすぎ!!最後のほう春馬、半分、気ぃ失ってたぞ?!」
「そこは本当にごめん」
気持ちはわからんでもない。来栖にとって合意の上で初めて気持ちよくできた行為だっただろうから。
「それだけじゃないんだよ。オレの記憶が春馬の記憶に溶け込んでる。オレの気持ちが春馬に流れ込むんだよ。そのことが恐ろしいんだ」
いつか彼の意識を、心を侵食してしまいそうで怖かった。もうすでに彼の人生に多大な影響を与えてしまっている。
もともと春馬は歌手にあこがれていたわけではなかった。あの日、ダンボール箱の中で眠っていた来栖の歌声を聴いてしまったばっかりに彼の脳は焼かれてしまった。
それでも、単にあこがれて歌手を目指すだけならばよかった。けれどDVDを見た直後から春馬はしきりに来栖に会いたいと両親に訴えるようになった。
「テレビの中の人は住む世界が違うから会えないんだよ」と両親に説き伏せられ、春馬は絶望していた。それでもあきらめきれなくて「そうか、僕が来栖静香になればいつでも会える」と考えるようになった。
そこからだ。声もしぐさも表情も服装も全部、完璧に真似るようになった。歌声を模倣することもその中の項目に当然、組み込まれていた。逆にいえば目的を果たすための項目の一つに過ぎなかったのだ。
髪型だけは親に反対されてあきらめていたけれど。
ひたむきに、明後日の方向へ突き進んでいく春馬の努力を見ていると胸が痛かった。
「オレの気持ちがダダ洩れてたんだと思う。オレのせいで未来の選択肢を狭めたんじゃないかって気がしてならないんだ」
「でも、そのおかげで春馬と私は出会えたよ。あなたの思いも聞くことができた」
「そうだけど」
「きっかけは何であれ、春馬は自分の夢をみつけて歩き出したよ。私はそれを全力で応援したい。あなたもお孫ちゃんを信じて見守ってあげて」
「見守る、なぁ。・・・それが一番難しいんだよ。つい口をはさみたくなっちゃう。かまいたくなるんだよ」
「気持ちはわかるよ。可愛いものね」
「そう。だからこそ、これ以上、一緒にいちゃいけない。お前とも離れ難くなるから」
急激な眠気に襲われて来栖の腕に捕まった。
「もう限界だわ。とりあえず寝る」
「うん。おやすみ」
「春馬を頼む」
「わかってる。後のことまで考えて、春馬は絶対に幸せにするから。だから」
その時が来たらお迎えに来てね。という声がだんだん遠くなっていく。
「いやいやいや、お前はまだこっち来んなよ。許さんぞ?」
「大丈夫。当分、死ぬつもりはないから」
「絶対だからな?」
「時が来たら一緒に逝きましょう」
その日まで、しばらく眠りにつくことにした。
*
ふと目を覚まして顔を上げると、カーテンの隙間から明るい日差しが部屋の中に差し込んでいた。見慣れない光景にしばしぼんやりと天井を見上げていた。
あぁ、ついにしちゃったか。と夕べの出来事を思い返す。
未だ夢を見てるみたい。なんだか最後のほうは夢うつつの状態であまり覚えていないことが少し残念に思う。けれど体に残る疲労感やら痕跡が夕べの出来事が現実だったのだと物語っていた。
しばらくの間、ベッドの中で余韻に浸り、それから今は何時だろうと起き上がった。
枕もとの時計を見ると10時40分。なんとも中途半端な時間だった。
引き戸を開くと、ベーコンの焼ける匂いが漂ってきた。
遠くに聞こえる車の音。窓から差し込む明るい陽射し。日常の中に身をさらした途端に、さっきまでの夢うつつがウソのように遠くなる。
台所に立つ来栖におはようございますと声をかけた。
カウンター越しに「おはよう」と返ってきた。
「これ、運んでくれる?」
「はい!」
すでに盛りつけられたワンプレートのモーニングセットをテーブルに運ぶ。
「体は大丈夫?」
「大丈夫です」
「そう。何時ぐらいから出かけようか」
今日は新生活に向けて、大学入学の準備と生活用品を買いに行く予定だ。
「いつでも大丈夫ですよ」
「ならご飯食べたらすぐに出ようか。ちょっと阿久津君のところに寄りたいから」
「了解です!」
二人、向かい合わせで席に着くと手を合わせた。
「いただきます」
今日から、今日も。
新しい日常が始まっていく。
地上で最後に見た光景は足元が抜け落ちたような感覚のあと視界一杯に反転した青空の染み入るような青さと。
次の瞬間には体を叩きつけられるような衝撃だった。濁流に飲み込まれ、岩肌に激しくぶつかり水底に顔面を削られ、肉体はボロボロになっていった。
あの様子では多分、死んでしまっただろう。それでも心のほうはしばらく生きていたと思う。魚たちの群れに紛れながら、暗くて冷たい海の底を漂っているうちに感覚もやがて鈍っていった。
このまま、消え去るのだろうと思われたころ、頭上のうんと遠いところに光の筋を見出して、吸い寄せられるように意識が浮上していき、気づいたら。
「高野春馬」の体の中に宿っていた。
宿主が育って行く過程で彼が己の孫であること、置かれている状況だとかはなんとなく理解したものの、自分の状態がまるで分らない。幽霊的なもので彼に憑依しているのか、あるいは生まれ変わり的な存在なのか、
確かなのはこの体に封じ込められているということ。見えないへその緒でつながっているかのように一定以上は離れることができないようだった。
出ていけない以上、せめて孫の人生に影響を与えないようにと体内で鳴りを潜めていた。限りなく操作性ゼロに等しい、ほぼムービーで構成されたゲームをただ見ているだけみたいな日々に転機が訪れたのはダンボール箱の中のミュージックビデオをみつけたのがきっかけだった。
懐かしくて苦しくて今すぐにでも来栖に会いたいと思う気持ちが抑えきれなくなり春馬が眠った後、体を借りて来栖の行方を捜した。
あの子は一体どうしているのだろうと気になって調べてみたものの、ネットから流れてくるウワサは不穏なものばかりだった。
「来栖静香」が解散したことを知ったのもその時だった。己の死因も。
彼が壊れてしまった原因が自分にあるのならなおさら、会わなければいけないという焦りばかりが募った。けれども春馬と来栖を引き合わせる接点がまるでない。
どうしたものかと模索していたところに来栖のSNSをみつけた。お気に入りの場所としてあげている画像のいくつかは見覚えのある場所だった。「松虫堂」もその一つで彼と二人っきりで旅行に出かけた際、立ち寄った思い出の場所だった。
孫の通学路に近いし、来栖に出会えるとしたらここしかないと思った。実際に出会えるかどうかは全部、春馬の心次第。
会えないのならそれが運命。本来ならば既に終わった生なのだから。
けれどももし、次に会うことが出来たなら、どうしても彼に伝えたいことがあった。
会おうと思えばすぐにでも行ける。住んでいる場所も把握している。けれど、春馬の人生に影響を与えるわけにはいかない。それでいて会いたい気持ちも抑えられずにいた。だからあくまでも彼の意思で物事を進められるように見守り続けることしかできなかった。
そして、願いは叶ってしまった。
(ウソみたい)
夜更けすぎ。来栖の腕から抜け出すとベッドの上に起き上がり、彼の寝顔を見下ろした。
まるで夢を見ているみたい。もう一度、彼に会える日がくるなんて。
「大きくなったなぁ、来栖」
小声で彼の名を呼んでそっと手を伸ばし頬に触れた。こうやってもう一度、彼のぬくもりに触れることができるなんて。自分の意思でもう一度、彼の名を呼ぶことができる日が来るなんて思ってもいなかった。
あの純粋無垢な少年がまさかこんなイケおじに成長するなんて誰が想像しただろう。あまつさえ、
(抱かれる日が来るなんて思わなかったよ?!)
それが一番、衝撃だった。
己が素っ裸なことに気づいて猛烈に恥ずかしくなり、再び布団にもぐりこもうとしたところで前触れもなく来栖が目を見開き、起き上がった。
ひっと思わず声に出して身を引いた。とっさに2オクターブくらい高い声が出た。
「来栖、さん?どうしたの?」
「声、作らなくていいよ。静香でしょ」
そこにいるんでしょう?とさらに詰めてくる。
「手紙、読んだよ」
「え?!あぁ、うん」
「気づいてたよ、旅行の夜。寝てる私にキスしたの」
「・・・ご、ごめんなさいぃいいい」
ドリルする勢いで土下座した。
「すみませんでした!つい・・・っ魔が、さして・・・っ」
「しかも、ほっぺたって。ヘタレなの?」
「違うんだよ!あれは角度的に、横向いてたから出来なかっただけで!」
「別にいいけど。だから言ったじゃない。あなたが好きだって。私は静香としたかったよ。お膳立てまでしたのに」
「できるわけないだろ?!そんなの」
「わかってる。私は息子みたいな存在だからね」
「違うんだよ」
息子みたいな存在だと思っていた時期もあった。それほどに大切にして慈しんでいたのに、いつの間にかそう思い込まなければ手を出してしまいそうになっていた。そんな自分を恥じていた。
来栖の誕生日が近づいて、何か欲しいものがあるかと尋ねたところ、何もいらない。一泊だけでいいから静香と二人っきりで過ごしたいと彼が言うので、娘を津山夫妻に預け、近場の温泉宿に泊まった。
旅館で過ごしたあの夜に、理性を最後まで保てたところまでは本当に偉かったと思う。いや別に褒められるようなことでもないけれど。でもこっそり寝てる子にキスするとかヘタレすぎるやろ。
全部台無しじゃねぇか。しかもバレてるとか。
(格好悪すぎる)
けれども一番、後悔してるのは来栖の告白に応えてあげられなかったこと。決して彼のことを愛していなかったわけではない。
むしろ愛しているからこそ、大切な存在だからこそ抱けなかったんだよと本心を明かす前に死んでしまった。
もしも、もう一度、会うことができたなら伝えたいと思っていた。
「来栖、オレもお前を愛してた」
今も愛してると目を見て告げた。
うん、知ってる。と来栖は笑みを浮かべた。
「私も。・・・僕も次、会えたら言いたいことがあったんだよ」
「なに?」
「僕をみつけてくれてありがとう。地下から連れ出してくれてありがとう」
それはずっと聞きたかった言葉だった。
「でも、オレは」
情けなくも涙声になってしまった。でも、もうこらえきれなかった。長い年月を経た今でも後から後から後悔が溢れ出てきて視界がぼやけてしまう。
「来栖。お前にずっと謝らなきゃいけないと思ってたことがあるんだ。お前と母親を引き離したことをずっと後悔してた。オレが余計なことしたばっかりにお前の人生がめちゃくちゃになったんじゃないかって」
「あなたについて行ったのは自分の意思だよ。後悔してない。母の介護に専念したのは罪滅ぼしだよ。僕は最期まで見届けた。もう、済んだことだよ」
「本当に、お前はすごいよ。今までよく頑張ったな」
天使のようなクリクリの髪をなでた。
「約束、守れなくてごめん。勝手に死んでごめん」
「いいよ。僕のほうこそ、勝手にいなくなってごめんなさい。ずっと待っていてくれたんだよね」
最後に、ひとつだけお願いがあるの。キスしてほしい。
来栖の他愛もないお願いに静香は頷いた。
「ちゃんと唇にしてね」
「わかってるって」
最後のお別れに、触れるだけのキスをした。
「来栖、愛してる。だからさようなら」
「やっと「来栖静香」が解散するんだね」
「そうだな」
これで、やっと心置きなく逝ける。そう思って目を瞑った。
「・・・」
「・・・」
「・・・・・・やっぱ無理だわ!ていうか、どうやったら成仏ってできるの?!」
来栖は笑いをこらえている。
「私に聞かれても困るよ。まだ、いたらいいんじゃない?」
「そうもいかねぇよ。だってお前、孫とのまぐわいを見学させられる身にもなってみろよ!ていうか、お前、激しすぎ!!最後のほう春馬、半分、気ぃ失ってたぞ?!」
「そこは本当にごめん」
気持ちはわからんでもない。来栖にとって合意の上で初めて気持ちよくできた行為だっただろうから。
「それだけじゃないんだよ。オレの記憶が春馬の記憶に溶け込んでる。オレの気持ちが春馬に流れ込むんだよ。そのことが恐ろしいんだ」
いつか彼の意識を、心を侵食してしまいそうで怖かった。もうすでに彼の人生に多大な影響を与えてしまっている。
もともと春馬は歌手にあこがれていたわけではなかった。あの日、ダンボール箱の中で眠っていた来栖の歌声を聴いてしまったばっかりに彼の脳は焼かれてしまった。
それでも、単にあこがれて歌手を目指すだけならばよかった。けれどDVDを見た直後から春馬はしきりに来栖に会いたいと両親に訴えるようになった。
「テレビの中の人は住む世界が違うから会えないんだよ」と両親に説き伏せられ、春馬は絶望していた。それでもあきらめきれなくて「そうか、僕が来栖静香になればいつでも会える」と考えるようになった。
そこからだ。声もしぐさも表情も服装も全部、完璧に真似るようになった。歌声を模倣することもその中の項目に当然、組み込まれていた。逆にいえば目的を果たすための項目の一つに過ぎなかったのだ。
髪型だけは親に反対されてあきらめていたけれど。
ひたむきに、明後日の方向へ突き進んでいく春馬の努力を見ていると胸が痛かった。
「オレの気持ちがダダ洩れてたんだと思う。オレのせいで未来の選択肢を狭めたんじゃないかって気がしてならないんだ」
「でも、そのおかげで春馬と私は出会えたよ。あなたの思いも聞くことができた」
「そうだけど」
「きっかけは何であれ、春馬は自分の夢をみつけて歩き出したよ。私はそれを全力で応援したい。あなたもお孫ちゃんを信じて見守ってあげて」
「見守る、なぁ。・・・それが一番難しいんだよ。つい口をはさみたくなっちゃう。かまいたくなるんだよ」
「気持ちはわかるよ。可愛いものね」
「そう。だからこそ、これ以上、一緒にいちゃいけない。お前とも離れ難くなるから」
急激な眠気に襲われて来栖の腕に捕まった。
「もう限界だわ。とりあえず寝る」
「うん。おやすみ」
「春馬を頼む」
「わかってる。後のことまで考えて、春馬は絶対に幸せにするから。だから」
その時が来たらお迎えに来てね。という声がだんだん遠くなっていく。
「いやいやいや、お前はまだこっち来んなよ。許さんぞ?」
「大丈夫。当分、死ぬつもりはないから」
「絶対だからな?」
「時が来たら一緒に逝きましょう」
その日まで、しばらく眠りにつくことにした。
*
ふと目を覚まして顔を上げると、カーテンの隙間から明るい日差しが部屋の中に差し込んでいた。見慣れない光景にしばしぼんやりと天井を見上げていた。
あぁ、ついにしちゃったか。と夕べの出来事を思い返す。
未だ夢を見てるみたい。なんだか最後のほうは夢うつつの状態であまり覚えていないことが少し残念に思う。けれど体に残る疲労感やら痕跡が夕べの出来事が現実だったのだと物語っていた。
しばらくの間、ベッドの中で余韻に浸り、それから今は何時だろうと起き上がった。
枕もとの時計を見ると10時40分。なんとも中途半端な時間だった。
引き戸を開くと、ベーコンの焼ける匂いが漂ってきた。
遠くに聞こえる車の音。窓から差し込む明るい陽射し。日常の中に身をさらした途端に、さっきまでの夢うつつがウソのように遠くなる。
台所に立つ来栖におはようございますと声をかけた。
カウンター越しに「おはよう」と返ってきた。
「これ、運んでくれる?」
「はい!」
すでに盛りつけられたワンプレートのモーニングセットをテーブルに運ぶ。
「体は大丈夫?」
「大丈夫です」
「そう。何時ぐらいから出かけようか」
今日は新生活に向けて、大学入学の準備と生活用品を買いに行く予定だ。
「いつでも大丈夫ですよ」
「ならご飯食べたらすぐに出ようか。ちょっと阿久津君のところに寄りたいから」
「了解です!」
二人、向かい合わせで席に着くと手を合わせた。
「いただきます」
今日から、今日も。
新しい日常が始まっていく。
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