上 下
5 / 90
母親だなんて思ってない

しおりを挟む
「今も……? 今も……何?」
 あれから美空はずっと、紫雲の言葉の続きを考えていた。
「今も……可愛い? 違うか。今も……若い? うーん……」
「……先生! 美空先生!」
「ふぁ?」
「号令!」
「へっ?」
 恵令奈につつかれ、美空はようやく我に返った。

 今日はこれから、今週末に行われる運動会の最終チェックの為、全クラスがグラウンドに集結し、全体練習を行う予定だ。
 子どもたちは既にチームごとに整列し、入場行進の合図がかかるのを今か今かとじっと待っていた。
 号令は年長児のクラス担任がやることになっている。つまり、美空だ。

「あ、ごめ……」
 慌てて笛を咥えるも、なかなかタイミングを合わせられない。一度ズレてしまったものは、修正するのが難しい。
「すいませーん! もう一度お願いしまーす!」
 美空の呼びかけに、音響担当の先生が「はーい!」と曲を停止する。ため息を吐きながら肩を落とすのが、美空の視界に映り込んだ。

「ごめんね。もう一回させてね」
「いいよー!」
 子どもたちの優しい声に、美空の胸は熱くなる。
 音響担当の先生にも、後で謝りに行かねばなるまい。
 無数の瞳に見つめられ、美空は気合を入れ直した。


 当然の事ながら、反省会でみっちりお叱りを受け、落ち込んだ気持ちを抱えながら保育室に戻ると、「お疲れ!」恵令奈の明るい笑顔が迎えてくれた。

「なぁに? ぼんやりしちゃって。珍しい」
 子どもの椅子に腰かけると、恵令奈は美空を見上げて笑った。
「ほんと、ごめん。ちょっと考え事してて……」
「はぁ? 運動会の練習で? あんた、すごい度胸ね」
 大きな瞳をこれでもかというほど見開き、恵令奈は驚きの声を上げた。
「大丈夫。本番はちゃんとやるから」
「当たり前よ。むしろ、今日が練習で良かったわ」

 あははっと笑った後、「マリッジブルー?」と恵令奈は続けた。
「えっ?」
「なんか最近、変だよ。美空」
 プライベートでは、お互いのことを呼び捨てで呼び合う。今は二人きりなので、友だちモードに切り替わったらしい。
「別にそんなこと……」
「相談なら、いつでも乗るよ? これでも場数は踏んでるつもり」
 マリッジブルーは未経験だけどね、と恵令奈が悪戯っぽく笑った。

「ありがと」
 できれば胸の内のもやもやを全て吐き出してしまいたいところだが、その正体が何なのか、美空にもさっぱりわからない。
「とりあえず、今は運動会に集中しなきゃ」
 棚の上のビブスを手に取ると、美空はそれを一枚一枚丁寧に重ねた。
「だね。終わったら打ち上げしよ。哲太先生も誘って」
「そうだね」

 美空の笑顔を見届けると、恵令奈はじゃあね、と手を振り、自室のきりん組へと帰って行った。

しおりを挟む

処理中です...