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母親だなんて思ってない
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しおりを挟む「美空先生! 助けてください!」
「ちょ……っ。どうしたの? 哲太先生?」
運動会当日。
練習で、まさかの号令かけ忘れという恥ずかしいミスを犯してしまった入場行進は、本番では無事に成功し、ホッと胸をなでおろしている美空の視界に、突然、哲太の泣き顔が飛び込んできた。
「あの、海君が、海君のお父さんが、あの……」
「ちょっと先生、落ち着いて」
埒が明かない哲太を深呼吸させ落ち着かせると、「最初から、ちゃんと話して」美空は静かに語りかけた。
「すいません。パニクって……」
「いいから、ゆっくり」
「はい」
トラックでは今、恵令奈のクラス、年中児きりん組の徒競走が始まったばかりだ。
きりん組の次は、美空のクラス、ぞう組の出番だ。
子どもたちに「かけっこの順番に並んで」と声を掛けると、美空は哲太に向き直った。
年長児は、ある程度のことは自分でできる。
横目で見ると、数人の女児が声を掛け合い皆を整列させているところだった。
「えっと……。海君のお父さんが、昨日足を骨折してしまったようで……」
哲太の話はこうだ。
担当クラスの海君の父親が、運悪く昨日骨折してしまい、親子競技に出られなくなってしまったのだ。
幸いにも入院は免れたが、とても走れる状態ではない。
年少児で、初めての運動会ということもあり、以前からとても楽しみにしていた海君は、昨日からずっと駄々をこねているという。
「でも、お母さんが出れば……」
「それが、駄目なんです」
「なんで?」
「仲良しの幸太郎君がお父さんだから、自分もお父さんがいいって聞かなくて……」
「そっか……」
応援席では徒競走を終えたばかりのぱんだ組が、次の出番を待ちながら暫し休息をとっていた。
その中で、海君の両親が我が子を必死で説得している。
父親の左足に巻かれたギブスが痛々しい。
「哲太先生が代わりに出てあげれば?」
「そう言ったんですけど、俺じゃ嫌だって……」
「そうなの?」
「はい。先生と出るなんて恥ずかしいって……」
「うーん。そう言われちゃったらねぇ……」
ため息交じりに腕を組む美空に、「どうにかして下さいよぉ」と哲太が泣きつく。
泣きたいのはこっちだよ、と美空が思った時。
「どうしたの?」
少しハスキーな穏やかな声が、美空の背後から響いてきた。
「えっ……? どうして……?」
振り返るとそこには、心配そうな紫雲の顔があった。
「さっき園長先生に挨拶したら、美空さんのとこに行ってきなって」
紫雲はこの園の卒園児だ。園長もさぞかし懐かしがったことだろう。
「……じゃなくて! 何でいるわけ?」
「ああ。暇だから見に来た」
「暇って……」
「だって、部活も引退しちゃったし……。休みの日は退屈で」
受験勉強はいいのかという美空の小言を遮り、「何か手伝うことある?」紫雲がにっこり微笑んだ。
「園長先生が、せっかくだから手伝ってけって」
「ええっ?」
本部を見ると、園長がこちらに向かって、にこやかに手を振っている。
「手伝いって言っても……」
美空が考えあぐねていると、「ああああっ!」哲太の大きな叫び声が、辺り一帯に響き渡った。
「ちょっ……!」
顔をしかめて耳を塞ぐ美空に、哲太が満面の笑みを向けた。
「出てもらいましょうよ! お父さんの代わりに!」
「へっ?」
「だからぁ! 代わりに出てもらうんです! 海君のお父さん役で!」
「はぁ?」
「彼ならきっと大丈夫です! だって、こんなにカッコいいんだから!」
「えっ? 俺?」
突然の指名に驚きながら、紫雲が自分を指さし哲太に確認する。
「そう、キミ!」
「ええっとぉ……」
哲太の勢いに押され、紫雲が僅かに後ずさる。
その肩をがっしり掴むと、「じゃ、よろしく!」よくわからない理屈のもと、哲太は半ば強引に紫雲を応援席まで引きずって行った。
哲太の目論見通り、海君は一目で紫雲を気に入り、喜んで親子競技に参加した。
当然の事ながら、ぶっちぎりの一位だった為、海君も大喜びだ。さすが体育会系。いつだって本気モードだ。
「結局、見た目か……」
「そんなことないって。ただ単に物珍しかっただけだって」
「そうだよ。哲太先生だってカッコいいよ」
自ら提案したにも関わらず、がっくりと肩を落とす哲太を美空と恵令奈が慰める。
応援席を見ると、紫雲の周りには子どもたちが大勢まとわりついていた。女の子が多いのは、気のせいだろうか?
「それにしても、モテモテじゃん。紫雲君」
頬を少し赤らめながら、恵令奈が応援席を見つめた。
長身イケメンの紫雲は、とにかく目立つ。
保護者席の方から「あれ誰? 実習生?」と囁き合うお母様方の声が、あちらこちらから聞こえてきた。
「こりゃあ心配ですなぁ。お義母様」
「ちょっと! 変なこと言わないでよ!」
「悪い虫が付く前に、味見しとかないとねぇ」
「やめてよ、こんなとこで」
冗談よ、と笑う恵令奈を美空は肘で軽く小突いた。
トラックの中では今、保護者対抗の大玉送りの真っ最中だ。
子どもたちは応援席のテントの下で、水分補給をしたり寛いだりしている。
紫雲が手伝ってくれているおかげで、美空と恵令奈は今のところすることがない。年少児担任の哲太は、相変わらずクラスの子たちの世話で大わらわだが。
「ペットでもいいわねぇ」
「ペッ……!?」
いきなり飛び出した爆弾発言に、美空は唇をわなつかせた。
「ペットってなぁに?」
突然可愛らしい声が足元から聞こえてきて、二人は慌てて視線を下げた。
そこには、いつの間に来たのか、恵令奈の担当クラス、きりん組の女の子が一人、つぶらな瞳で担任を見上げていた。
「あ、聖羅ちゃん」
一瞬で保育士の顔に戻った恵令奈は、笑顔でしゃがむと聖羅の瞳を覗き込んだ。
「先生も、あんな可愛いペットが欲しいなって話してたんだ」
恵令奈の指さす方には、大事そうにコーギーを抱く保護者の姿があった。
「あ! 優馬くんのワンちゃん!」
同じクラスの男の子の名前を口にすると、聖羅はその保護者の元へと走って行った。
「ほんと、可愛い」
再び応援席に視線を向けると、恵令奈はふふっと微笑んだ。
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