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背徳のキス

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 美空がマンションに着いたのは、八時半を少し過ぎた辺りだった。
 冷蔵庫の中身がわからなかったので適当に食材を見繕っていたら、思いのほか時間がかかってしまった。逸る気持ちを抑え、美空はインターホンを押した。

 暫く待ったが返事はない。耳を澄ませてドアの向こうの様子を伺ってみるも、物音ひとつ聞こえてこない。
「おかしいな」
 何度か押してみたが、結果は同じだった。
 念のためドアノブを捻ると、しっかり施錠されていた。
 留守なのかと思い、美空は紫雲に『今どこ?』とメッセージを送ってみた。
 そのまま数分待ったが、返信どころか既読もつかない。そこでようやく美空は異変に気が付いた。
 震える手で合鍵を取り出し解錠する。挨拶もそこそこに部屋に上がると、美空は「紫雲君?」と呼びかけた。

 真っ暗なダイニングキッチンを素通りし、紫雲の部屋の前で足を止める。「紫雲君?」美空は再び声を掛けた。
「紫雲君? いるの?」
 数回ノックしたが、返事はない。
「ごめん。入るよ?」
 意を決して、美空はゆっくりドアを開けた。

「紫雲君?」
 布団が少し盛り上がっている。
 美空は足音を立てないよう気を付けながら、そろりとベッドに近付いた。
 恐る恐る布団をめくる。その隙間から、微かに寝息が聞こえてきた。
「寝てるの?」
「う……ん……」
 廊下から差し込む僅かな光に照らされ、紫雲が苦しそうに顔を歪めた。
「ちょっと待ってて」
 急いで部屋を飛び出した美空は、タオルと洗面器を手にキッチンへと向かった。

 手際よく洗面器に氷水を作ると、美空は再び紫雲の部屋へと引き返した。
「ちょっと冷たいけど我慢してね」
 氷水で絞った冷たいタオルを、美空はそっと紫雲の額の上に乗せた。
「ん……。父さん?」
 目をつむったまま、紫雲が美空の右手を掴んだ。かなり熱が高いのだろう、その手は熱く汗ばんでいた。

「紫雲君。私。美空」
「え……? 美空さん……?」
 寝惚けているのか、紫雲は美空の手をしっかり掴んだまま、「なんで……?」と虚ろな瞳をぐるりと回した。
「紫雲君、LINEしたじゃん。『へるぷ』って」
「え? ああ……。そっか……」
 力ない笑みを浮かべると、「来てくれたんだ……」紫雲は嬉しそうに目を細めた。
「お腹空いたでしょ? 今お粥作って来るから、ちょっと待っててね」
 食べられる? と聞くと、紫雲は小さく頷いた。
「じゃあ行ってくるけど、とりあえず、手、離してもらえるかな?」
 先ほどからずっと、美空の右手は紫雲に握られたままだ。
 頬が熱くなるのを感じ、美空は引く手に少し力を込めた。

「美空さん」
 紫雲がその手をきつく握る。
「夢じゃないよね?」
「夢?」
「離しても、消えたりしないよね?」
「何……言ってるの?」
「だって……」
 美空は左手で、そっと紫雲の髪を撫でた。
「大丈夫。消えたりしないよ。お粥作ったらすぐ戻るから」
 紫雲の瞳が再びゆっくり閉じていく。
 何度も髪を撫でながら、「大丈夫だよ」美空は静かに言い聞かせた。

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