あの日交わした約束がセピア色にかわっても

紫水晶羅

文字の大きさ
67 / 90
背徳の代償

しおりを挟む
 脳には異常が見られないことから、紫雲の症状は、心因性記憶障害と診断された。
 心因性記憶障害は、精神的なストレス等によって記憶が失われてしまう障害で、不快な出来事や、特定の人物を思い出せなくなることが多いという。
 人によっては数日で治る場合もあるが、たいていは、長期に渡って持続するらしい。

「きっと、あんなことがあったから……」
 晴斗が両手で顔を覆い、深く息を吐いた。
 美空に関する記憶だけが抜け落ちていることから、晴斗は、日頃の受験のストレスに、先日あった不可解な電話に対するショックが重なったものだと考えているようだ。
「あんなに叱ったりしなければ良かった……」
 俺のせいだと責める晴斗に、美空は居たたまれない気持ちになった。

 紫雲は、美空のアパートから帰る途中で事故に遭った。あの時の紫雲の精神状態は、明らかに極限状態だった。美空の記憶だけを失ったのはそのせいだ。若干十八歳の少年には、抱えきれない程の辛い出来事だったのだろう。

 しかし、今ここで真実を告げたら、晴斗の心はきっと壊れてしまうだろう。今の晴斗は、残酷すぎるこの現実を受け止められる状態ではない。
 罪の意識に苛まれたまま、美空は独り帰路に着いた。



 とても仕事に行く気にはなれなかったが、一人で部屋に閉じ籠っていても、ますます気分が落ち込むだけだ。かと言って、記憶のない紫雲と何も知らない晴斗の間で一日を過ごす勇気はない。
 重い身体を引きずりながら、美空はとりあえず出勤した。
 念のため園長には、紫雲が事故に遭って記憶が混乱している事だけ報告した。
「心配ね」
 悲しそうな表情を浮かべる園長に曖昧な返事を返すと、美空は保育室へと向かった。

「大丈夫?」
 ドアに手を掛けたところで、背後から恵令奈に呼び止められた。
「顔、死んでるよ」
「そ、そう?」
 美空は片手で顔を撫でた。
「また飲みにでも行く? 話聞くよ?」
 エアーでグラスを傾けながら、恵令奈がにやりと笑った。
「発表会も終わったことだしさ。パーッと行こうよ。哲太先生も誘ってさ」
「哲太先生か……」
 哲太とは、紫雲の看病に行く行かないで揉めてからというもの、ろくに口も利いていない。仕事上での事務的な会話をするだけだ。
 視線を落とすと、美空は盛大に溜息を吐いた。

「え? まさか、最近様子がおかしいのってそっち?」
「そっちって?」
「だからぁ……」
 恵令奈が、美空の耳に口を寄せた。
「もしかして、使っちゃったの? ジョーカー」
「ち、違っ……!」
「邪魔」
「へっ?」
 二人の視線が同時に下がる。そこには、迷惑そうな顔をしたぞう組の男の子が立っていた。
「部屋、入りたいんだけど」
「あ、勇志君。おはよう」
「おはよう。てか、どいてくんない?」
「あ、ああ。ごめんね」
 美空と恵令奈は揃って頭を下げると、脇へけた。

「恵令奈先生おはよう!」
「あ、おはよう。和葉ちゃん」
 登園時間を過ぎ、子どもたちが次々とやってくる。
「じゃ、この話はまた後で」
 右手を上げると、「みんなぁ! おっはよう!」恵令奈は元気よくきりん組へと消えて行った。

しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

夫婦交換

山田森湖
恋愛
好奇心から始まった一週間の“夫婦交換”。そこで出会った新鮮なときめき

妻の遺品を整理していたら

家紋武範
恋愛
妻の遺品整理。 片づけていくとそこには彼女の名前が記入済みの離婚届があった。

17歳男子高生と32歳主婦の境界線

MisakiNonagase
恋愛
32歳の主婦・加恋。冷え切った家庭で孤独に苛まれる彼女を救い出したのは、ネットの向こう側にいた二十歳(はたち)と偽っていた17歳の少年・晴人だった。 「未成年との不倫」という、社会から断罪されるべき背徳。それでも二人は、震える手で未来への約束を交わす。少年が大学生になり、社会人となり、守られる存在から「守る男」へと成長していく中で、加恋は自らの手で「妻」という仮面を脱ぎ捨てていく…

里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます

結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります> 政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・? ※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています

とっていただく責任などありません

まめきち
恋愛
騎士団で働くヘイゼルは魔物の討伐の際に、 団長のセルフイスを庇い、魔法陣を踏んでしまう。 この魔法陣は男性が踏むと女性に転換するもので、女性のヘイゼルにはほとんど影響のない物だった。だか国からは保証金が出たので、騎士を辞め、念願の田舎暮らしをしようとしたが!? ヘイゼルの事をずっと男性だと思っていたセルフイスは自分のせいでヘイゼルが職を失っただと思って来まい。 責任を取らなければとセルフイスから、 追いかけられる羽目に。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

復讐のための五つの方法

炭田おと
恋愛
 皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。  それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。  グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。  72話で完結です。

処理中です...