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終わり良ければすべて良し

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 よく晴れた昼下がり、ラーディン侯爵家の庭にあるガゼボの下ではいつものメンバーによるお茶会が行われている。

「チェック」
「あっ、殿下。待ったでお願いします」
「駄目ですよ、アラタ。さっきもそう言って戻させたじゃないですか」
「ちぇっ。ケチ」
「アラタ、もっと言ってやれ。ついでに早く帰れってな」
「フィリメス殿、あなたドレスを脱いだ途端に本当に口が悪くなりましたね?」
「生憎これが俺の本性です」

 変わったことと言えば、ランドルフが訪れる目的がフィルから新太へチェンジされたこと。もちろんそこに深い意味はなく、単なるチェス仲間としての来訪だ。
 今日も今日とて小さなテーブルにチェスボードを広げ、新太とランドルフは向かい合わせになって対局に勤しんでいる。
 舞踏会での対局以来、こうして時々手合わせを行っている。勝率は良くて七対三と言ったところ。もちろん、ランドルフの方が七である。
 案の定「チェスが得意じゃない」というランドルフの台詞は嘘だったし、新太があの日勝てたのは大分運が良かったからだとしか考えられなかった。
 一応チェスのルールは知っているものの、ランドルフや新太ほどの実力がないフィルは新太の隣に座って試合の成り行きを眺めている。見るからに「面白くありません」という表情を浮かべているのはご愛敬というやつだ。


 あの舞踏会の夜以降、新太とフィルの周囲は一変した。
 まずは例のラーディン侯爵。
 彼は結局あの後に相当手酷く尋問された結果、フィルの殺害未遂及び子爵領の乗っ取り、カルヴァロッソ協商会なる団体による他国への密輸に関する罪を認めた。
 地下牢から運び出された侯爵の顔がパンパンに膨れ上がっていた――という噂が流れたので、彼は白状するまでかなり粘ったようである。
 その後彼は貴族院の裁判に掛けられ、賛否両論あったものの侯爵家お取り潰しの上、一族郎党まとめて国外追放ということに決まった。
 彼を死刑にという根強い意見もあったのだが、参考人として呼ばれたフィルが「死刑までは望まない」と発言したことが影響したらしい。
 正直、フィルがそう言ったのは新太も驚いた。
 その理由を尋ねると、「どこか遠くの地で俺の名声が上がっていくのを聞かせる方が、あの男には死ぬ以上に苦しい罪になる」ということらしい。ニヤリと笑いながら言うので、新太は思わず苦笑いせざるを得なかった。
 次に問題となったのはラーディン侯爵の持ち物。侯爵家がお取り潰しとなった以上、彼が所有する領地やタウンハウスなどの扱いが問題となった。
 しかしこれに関しては、比較的すんなりと配分が決まった。
 まずその所領については皇帝の直轄領となり、ランドルフが管理することと決まった。ランドルフの手に掛かれば重すぎる徴税もすぐに改善され、領民たちが安定した生活を取り戻す日も近いだろう。
 そしてフィルたちも暮らしていたタウンハウスは、ラーディン侯爵からナヴァル子爵家への賠償の一部としてフィルが所有権を得ることになった。
 元々帝都にタウンハウスを持っていないナヴァル家としては、これは願ってもない配分結果だった。
 結局、宮殿の客間に三泊ほどした後で新太とフィルは元いたラーディン侯爵のタウンハウスへ戻ることができたのだ。
 そんなフィルはあの舞踏会での雄姿が皇帝に大層気に入られ、引き続き皇太子の側近として帝都へ残るようにと命が下されてしまった。
 フィルとしては子爵位が戻ったら早々に領地へ引き上げて領地経営に専念しようと思っていただけに、皇帝の願いは頭の痛い問題だ。本音では嫌と言いたいが、自分の罪を免除して貰った借りがある以上、皇帝の願いを無碍にすることはできない。
 フィルが相変わらずランドルフへ悪態をついているのは、早く彼に嫌われてこのお役目を御免被りたいという意思の表れなのだが、恐らくその思惑がランドルフへ通じる日は来ないだろうなと新太は感じている。
 そして最後にもう一つ。新太は正式にフットマンを解雇された。
 理由はもちろん、新太が騎士爵を授与されたからだ。
 とは言え、職があるわけでも帰る家があるわけでもない新太なので、引き続き食客としてフィルの元に身を寄せている。
 一応表向きにはフィルの秘書という形になっているが、この世界の常識、知識について未だ勉強中の新太にとってその肩書きはいささか重い。
 幸いにもチェスが強いということだけは認められているので、今日のようにランドルフの相手をしたり、他の貴族から求めがあれば対局に出向いたりして日々を過ごしている。


「はい、チェックメイトです」
「参りました……」

 結局本日の勝負もランドルフに取られてしまい、彼の連勝記録のカウントがまた一つ上がる。やっぱりさっきのところでビショップを奪われたのがまずかったか――と今更後悔したところでもう遅い。
 満足そうに微笑むランドルフを視界に収めると、フィルが気怠げな声を上げた。

「殿下、今日こそはぐらかさずに教えていただきたいことがあるんですが」
「なんでしょう?」

 バレットが煎れてくれた紅茶を啜りながら、ランドルフが優雅に答えた。眼鏡の奥の瞳はいつも通り優しい。

「殿下は俺が男だって気が付いてましたよね?」
「なんでそう思うんです?」
「俺が性別を明かしたとき、両陛下はそれこそ心臓が止まってるんじゃないかと思うくらい驚いた顔をしてらっしゃいましたけど、あなただけは嫌に冷静だった」

 言われてみれば、自分は男だと名乗り出たフィルに証拠を寄越せと一番に迫ったのはランドルフだ。
 ポーカーフェイスが上手な彼だから表に見せていないだけかと思ったが、それにしては反応が薄かったような気もするなと新太は思う。
 先ほどの様子から察するに、フィルがこの質問をランドルフに投げ掛けるのは初めてではないようだ。フィルはイライラとした様子を隠しもせずランドルフのことを睨み付けている。
 そんなフィルを見て、ランドルフは観念したようにふっと溜め息をついた。

「オフィリア嬢、ご存じでしたか? 鎖骨はドレスで隠せても、喉仏はドレスで隠せないんです」

 フィルのことをわざとらしくオフィリアと呼んだランドルフは、珍しく小馬鹿にした表情でフィルの喉元を指さした。

「フィリメス殿の扮するオフィリア嬢は、常にハイネックのドレスを着用されていた。首元のレースで喉仏を上手く隠していたおつもりでしょうけど、こうして一緒にお茶をすれば嚥下する様子でよく分かる」
「あっ、なるほど。頭良い!」

 思わず新太が感嘆の声を上げると、フィルがジト目で新太を見つめた。新太がランドルフを褒めたのが非常に気に食わなかったようである。
 その視線が居心地悪くて、新太は明後日の方向へ視線をそらす。
 そんな二人の様子を見ていたランドルフが、ふふふっと楽しそうに声を上げた。

「良いですねぇ、二人のやりとりを見ているのは面白い。やはり二人揃って僕のハーレムへお迎えしたかったなぁ……」
「嫌ですよ。俺は金を積まれたって行きませんね!」
「フィル様……」
「アラタはどうです?」
「俺も遠慮します」

 だって男は世継ぎを産めませんし――と何の気なしに新太がぼやくと、フィルもそれに激しく同意する。
 しかしランドルフだけはきょとんとした表情を浮かべていた。

「世継ぎは女性の側室に産んで貰いますから大丈夫ですよ? お二人への愛情には劣るかもしれませんが、僕は側室にも極力沢山の愛情を注ぐつもりでしたから」

 まぁそれも今となっては絵空事になりましたけど――とぼやくランドルフを前に、新太は笑みが引きつるのを隠せないでいる。
 いつぞや彼に抱いた「こいつこんなこと言いそうだな」という印象が、バッチリ当たってしまうとは思ってもいなかった。
 やっぱりこいつサイコパスだ――という感想は胸の奥にそっとしまう。
 フィルもやはり苦い表情を浮かべながら嘆息した。

「まぁ、いいです……。俺たちさえ巻き込まないでくれれば、殿下が何を企むのも自由ですから。それはさておき、今更ですがお礼を申し上げます」
「何に対してですか?」
「アラタに騎士爵を与える提案をしてくださったこと。そしてラーディン元侯爵を撃退する手伝いをしてくださったこと。この二つに、心からの感謝を申し上げます」

 フィルはそう言うと、その場で深々と頭を下げる。
 ランドルフはかなり大きく目を見開いてその様子を見つめていたが、しばらくすると首を左右に振り「頭を上げてください」と言って微笑んだ。

「アラタの騎士爵は僕が提案しなくても誰かが提案したでしょう。それにラーディンの件は皇太子として当然のことをしたまで。あなたにお礼されることではありません」
「そうだとしても、俺は結果的にあなたの発案にすべてを救われた。この礼を受け入れてくれないと、俺はこの先に進むことができません」

 フィルの真剣な眼差しがランドルフに向けられた。
 彼はなぜ今になってこんなことを言い出したのだろうと新太は不思議に思ったが、彼は彼なりに何か思うところがあるのだろうと考えその成り行きを静かに見守る。
 ランドルフだけは「ああ!」と何かをひらめいたような表情をした後、意味深な笑みを浮かべて笑った。

「では、その礼を甘んじて受け入れましょう。その代わり、式には呼んでくださいね?」
「――俺の妹に手を出さないと誓うなら」
「それはお約束しかねます」

 にたりという擬音が相応しいような笑みを浮かべたランドルフに、フィルはあからさまに大きな舌打ちをすると「話は済んだからとっとと帰れ」と言って犬を追い払うように手を振った。
 酷いですねぇとランドルフが呟くが、その表情は飄々としていてこれっぽっちもそんなことを思っていないことが丸わかりだ。
 彼は紅茶をすべて飲み干すと立ち上がった。

「それではフィリメス殿、アラタ。本日はお招きありがとうございました」
「招いてないけどな」

 フィルが忌々しそうに呟いた。だが、ランドルフも新太も聞こえないふりをする。

「時間ができたらまた連絡しますので、それまでに腕を上げておいてくださいね」
「はい。次回こそ連勝記録を止めますからね!」
「楽しみにしています」

 それではと軽く会釈して去っていくランドルフの姿を新太は笑顔で見送る。
 フィルだけはやっぱり「一昨日来やがれ」と小さい声で呟いていた。

   * * *

 ランドルフの姿が見えなくなると、フィルが新太の肩をおもむろに抱き寄せた。
 あ、キスされる――と新太が頬を染めた刹那、美しいフィルの瞳が閉ざされてその美しい顔面が迫ってきたので、新太も大人しく瞳を閉じてフィルからの口づけを受け入れる。
 柔らかな唇の感触が心地よく、胸のあたりから温かさがじんわりと全身へ広がっていった。
 その温度を少しでも共有したくてフィルの体へ両腕を回すと、新太以上の力強さで抱きしめ返される。温かさを共有しようと思って抱きついたのに、フィルの体温の方が新太よりもずっと高い。
 その熱に全身が包まれると妙に心地よい安心感が新太の中に沸き起こる。風が吹いたら飛んで行ってしまいそうな淡い浮遊感を前に、これが幸せかと新太は漠然と思った。
 長く呼吸を封じられて苦しさを覚え始めた新太が小さく呻きを上げると、名残惜しそうにちゅうっと唇を吸われた後でようやく解放された。

「もう、フィル様ってば……。誰かに見られたらどうするんですか?」
「大丈夫だ、この時間帯はバレット以外ここに来ないよう伝えてある」
「バレットさんに見られるのだって嫌なんですけど……」

 フィルの寝室でこっそり睦み合っていたのをバレットに知られた晩に「坊ちゃまたち、ようやく結ばれたんですね!」と泣かれてしまったことは記憶に新しい。
 新太とフィルの関係を手放しで喜んでくれたのは非常に嬉しかったが、イチャついているところを見られても平気かと問われるとそれはまた別の問題だ。
 ちなみに二人の情事を目撃しても一切驚かなかった理由をバレットへ尋ねると、「だってあなたたち、お互いに一目惚れでしょう。バレバレでしたよ?」と首を傾げられてしまった。
 どうやら相手の気持ちを理解できていなかったのは、当事者である本人たちだけだったようである。

「それよりも、フィル様。先ほどはどうして殿下にあんな質問をされたのですか?」

 素直な疑問を口にするとフィルは僅かに目元を赤く染め、恥ずかしそうな表情を浮かべて口元を覆った。

「これから行うことのために、けじめを付ける必要があったんだよ……」
「けじめ?」

 訳が分からないと言った表情を新太が浮かべる。
 フィルは気を取り直すように小さく咳払いをした。

「殿下がアラタに騎士爵を与えるよう申し出てくれた真意を、アラタは理解しているか?」
「いえ……、今でもさっぱり分かりません」

 新太が騎士になったところで剣を振るえるわけでもないし、知識が豊富なわけでもないから国政の助けになることもできない。
 新太ができることと言えばせいぜいフィルの身の回りの世話をして、時々誰かとチェスを打つくらいのことだけだ。
 正直その程度の役割しか期待されていないなら、わざわざ騎士爵を与えて貰う必要もなかったと思う。
 その考えを素直にフィルへ伝えると、彼は鳩が豆鉄砲を食ったような表情をした後、「やっぱり分かってなかったか」と言って肩を震わせながらくつくつと笑い始めた。

「アラタ、聖アルベストの話の結末を覚えているか?」

 突拍子もない質問を怪訝に感じながらも新太は頷く。
 たしかランドルフが教えてくれた。

「戦神を退けた彼は王女との身分違いの結婚を許されて、末永く幸せに暮らしたと伝わります――それがどうかしました?」
「実はな、聖アルベストも騎士爵を得たのは王女を助けた後なんだ。理由が分かるか?」
「王女を助けるという偉大な行為をなしえたから?」
「まぁそれもあるが、それだけじゃない。王女と結婚するためには平民のままじゃ駄目だったんだ」

 なるほど、身分が物を言うウェスティア帝国と同様に神話の世界も身分社会だったのか――と新太は考えた。
 言われてみれば新太が暮らした世界だって、一昔前は身分制度がはびこる世の中だった。上位の身分者と結婚させるために、わざわざ上位の家柄へ養女に入れてから相手先へ嫁がせるなんてことも行われていたと聞く。
 異世界であってもその仕組みは一緒らしい。
 でもそれの何が新太の騎士爵拝領と関係があると言うのだろうか。分からないという顔を新太がするのを見て、フィルが諦めたような笑みを浮かべた。

「まだピンときてないな? 俺としては非常に不本意だが――アラタ、お前と殿下はクイーンを誰に見立てて戦ってた?」
「それはフィル様ですけど――って、ああぁっ!?」
「そういうこと。まあ、俺は王女じゃなくて子爵なんだけどさ」

 新太の中でもようやく点と点が繋がる。
 ランドルフが新太の騎士爵拝領を願い出た理由――それは新太が子爵であるフィルの隣へ並ぶために最低限度の身分を与えるためだった。

「でもなんで殿下はそんなことを? 別に俺たちの恋路を応援したところでなんのメリットもないのに……」
「さぁな。ただの親切心かもしれないし、気まぐれだったかもしれない。或いは俺たちに恩を売るためにしたのかもな」

 不思議がる新太とは打って変わり、フィルは苦々しい表情を浮かべて肩をすくめた。

「あいつはほんとに食えない奴だよ――。そもそもラーディン元侯爵を調べ始めたのも、俺が男だと気が付いたからだ。きっとあいつは最初から俺がフィリメスであることに気が付いていたんだ」
「ということは、殿下がフィル様と俺をハーレムに加えたいと言ったのも計略――」
「んなわけあるか! あれは本気だ。あいつは本気で俺たちと結婚しようとしてた!」

 だから俺はあいつがいけ好かないんだよ――と心底嫌そうに呟いたフィルは、テーブルの上ですっかり冷めてしまった紅茶をぐっと煽ると、新太の前に跪いた。

「またいつ殿下のような奴が現われて、アラタを寄越せと言われるか分からない。だから俺は、殿下にこれまでの謝意を伝えた上で先に進む必要があるんだ」
「フィル様っ!?」
「アラタ、俺は誰よりもお前のことを愛している。この先もお前のことをずっと大切にすると誓う。だから、俺と結婚してくれ!」

 そう言うやいなや、フィルは懐から手のひらサイズの小箱を取り出し、新太へ中身を見せつけるように両手で小箱を開けた。
 中に鎮座しているのは男性物のシンプルなデザインの指輪。センターには小さな石が埋め込まれており、フィルの瞳と同じライトブルーに輝いていた。
 新太の心臓が一気に拍動を増す。ドクンドクンという音が直接耳へ聞こえたような気がして、新太は思わず息を飲み込んだ。
 フィルが自分に結婚を申し出ている――。
 まるで夢のような状況に、新太がパニックに陥らないわけがなかった。

「フィ、フィ、フィル様! 俺は男ですよ!?」
「知ってるよ。可愛いちんちんがついてるのを見たからな」
「跡継ぎだって産めません!」
「安心しろ、俺も産めない。でも俺は誰かさんみたいに側室を迎える気はないし、必要なら養子を迎えれば済む話だ」
「でもっ、異世界人です!」
「そうだな、しかも騎士爵を持った異世界人だ。子爵と結婚する資格は十分に整っているだろ」

 はぁはぁっと肩で息をつきながら言い切った新太をじっと見つめるフィルは、「もう満足か?」と笑ってから小箱の中の指輪を取り出した。
 そしていつか新太が彼にしたように、恭しい態度で新太の左手を掬い上げるとその甲に口づけをする。
 映画のワンシーンのような出来事が自分の身に起こり、新太は頭がクラクラした。
 かつて同僚女性たちが「私この前、彼氏にプロポーズされたの~!」なんて楽しそうに会話をしていたが、みんなこんなドキドキするイベントを平然とクリアしていたのだろうか――とどうでもいい思考が頭を過る。
 新太――とフィルのハスキーボイスに囁かれ、新太は目の前にいる男性に意識を戻した。

「お前が男でも異世界人でも、なんでも構わないんだ。ただ俺はアラタと一緒にいたい、それだけだ。――アラタは?」

 フィルは跪いているせいで新太を見上げる形になっている。興奮で僅かに潤んだライトブルーの瞳に見上げられて、新太は胸がきゅうっと鳴き声を上げるのを感じていた。
 懇願する瞳の中に当惑する自分の姿が映っている。唇ははくはくと呼吸を求めるように震えた。
 けれどもう新太の心の中で決意は決まっている。ズボンの裾をぎゅっと握りしめた後、新太はフィルの瞳をじっと見つめ返した。

「俺も、フィル様と一緒にいたい――です」

 消え入りそうになった語尾は、立ち上がったフィルに口付けられたことで本当に消え去る。
 フィルが新太へ飛びついてきた瞬間にガタンッという音が響き、ガラス製のチェスの駒がバラバラと落ちていく音が響いたが、今はそんなことどうでも良かった。
 互いに互いの唇を貪るようにして口づけを送り合う。このまま触れあった箇所が溶け合い、一つに混ざってしまえば良いのにと新太は思った。

「アラタ、幸せにする」

 キスの合間を縫ってフィルが新太の左手の薬指に指輪をはめ込むと、まるで最初からその位置にあったかのように、指輪はすんなりと新太の指になじんだ。
 フィルの熱っぽい告白に新太は微笑を浮かべると、ゆっくりと頭を振った。

「違いますよ、フィル様。一緒に幸せになるんです。王女様と騎士様は末永く幸せに暮らすんですから」
「――ああ、そうだな!」

 とろりと蜜が溶け出したような甘い眼差しを浮かべたフィルが口付けてくるので、新太は自然とその瞳を閉ざした。
 ぎゅっと閉ざした瞼の奥が濃いピンク色で塗りつぶされているように感じたのは、燃えるように熱くなった体のせいだろうか。
 体中に駆け巡る熱に浮かされながら、ただ目の前にいる愛しい人と、心が深く通い合った喜びを感じるためのキスを繰り返した。
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