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親子、まで

訓練

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「わざわざどうも、ありがとうございます」
「いえいえこちらこそ、ありがとうございます」
 僕は、黒ブチ猫親子を預かってくれている保護主の方の家を訪ねていた。
 子猫が人見知りにならないように、いろいろな人に会わせたい、と猫オバチャンを通じて、依頼がきたのだ。
「こちら、つまらないものですが」
「あらあらどうも、ありがとうございます」
「・・・はじめまして」
「あらあらどうも、はじめまして」
 そこで、カスミちゃんを(アニキ付で)誘ったのだ。
 老若男女、いろいろな人に会うのが重要なので、協力しているだけで、一人で知らない人の家に行くのが怖かったからでは、決してない。
 屋内に通されると、コルクボードに貼ってあるチェキより猫になってきた毛玉が、転がりまわっていた。
 思わず、走り寄りそうになるが、堪えて忍び歩きするカスミちゃん。
「少しくらい、驚かせてもいいんですよ。慣れさせたいから」
 それでも、慎重に近づいたカスミちゃんが、子猫に手を伸ばすと、黒ブチが、低い唸りを発した。
「・・・大丈夫、大丈夫」
 手を黒ブチの方に向きを変え、話かける。
 黒ブチの唸りが止んだので、彼女は顎を撫でた。
 目を細めて、首を伸ばす黒ブチ。
 次に、子猫を触っても、もう唸らなかった。

 カスミちゃんは、三匹の子猫と遊び、爪をたてたり、強く噛んだりしたら、叱った。
 まるで、子猫たちのお姉さんのようだった。
 それにしても、シャッター音が煩いアニキ。
 でもまあ、今までに子猫が会ったことのないキャラに会わせる、という目的には、この親馬鹿は適材かもしれない。
 僕も、恐る恐る、子猫を抱かせてもらった。
 黒ブチにさしのべた手を止めたことが思い出され、罪悪感が胸に刺さる。
「まだ、一回ですけど、ワクチンしてるから、大丈夫ですよ」
 僕の躊躇を見てとったのか、教えてくれた。
 まだ一回?
 年に一回じゃなくて?
 子猫は、二回した方がいい、と教えてもらった。
 この場で現金を出すのは、無粋なので、子猫のワクチン代を寄付することを頭にメモした。
 黒ブチが、どうしても僕にだけ、唸りを止めないのは、いっそ清々しかった。

 学習していた僕は、リビングに入る前に脱衣所で、服を全て洗濯機にかけ、シャワーを念入りに浴びた。
 それでも、「何、隠してるの?」とジト目で見られる気分を味わった。
 ぐるぐるぐる、と僕の周りを回り続ける雪さん。

 僕は、ナンニモシテナイヨ、とつぶやいたが、パイント・グラスに缶を開けたリアルエールを注ぐ手が震えた。
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