レプンカムイの咆哮

狂乱の傀儡師

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壱日目

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 雲ひとつない青空を見上げながら、僕は思う。
 この世に幸せというものがあるとして、それは僕の元には絶対に訪れない。
 人間は生まれた瞬間から、「幸せを感じる権利」みたいなものを持っていて、僕は何かの拍子にそれを手放してしまったのだ。



 僕の学校——市立湾岸南高校では、高校2年生になると8月の初めに四泊五日の臨海学校がある。
 場所は、僕たちが通う高校から連絡船で10分ほどの離島、鯱神島。古くから僕たちの街と交流があり、この臨海学校も伝統行事として百年の前から続けられている。

 五日間も離島に閉じ込められて、生徒たちはさぞ不満だろうと思いきや、意外にも皆見慣れない環境での生活を楽しみにしているようだ。どうやら去年さんざん先輩たちから土産話を聞かされたらしい。

 そして僕たちは今、鯱神島に向かう連絡船の中にいる。

「あっ!見えてきた!」

 誰かが甲板で叫んだ。
「普通」の生徒であれば期待と幸せで胸いっぱいのはずのこの状況でも、僕の表情は全く変わらない。幸せを手放して代わりに得たものといえば、周りから気味悪がられるほどの無表情だけだ。

「コラ、騒ぐな!他のお客さんもいるんだぞ!......おいそこ、危ないだろうが!」

 そこら中で唾を飛ばすのは、僕たちの担任であり今回の臨海学校の引率、島津だ。
 民俗学者としての顔も持つが、授業中にまで民俗学の話をし始める厄介者。しかもやけに観察眼が鋭く、白髪混じりの髪に年齢不詳の顔立ちと合わさって、「妖怪教師」というあだ名までつくほど生徒からの評判は悪い。

 僕は読んでいた小説をバッグにしまうと、船の揺れに転ばないよう立ち上がった。もうじき船は島に着く。
 僕はこの先の限りなく面倒な五日間を思い、溜息をついた。



 島に着くとまず僕たちを出迎えるのが、この島の村長とこれから五日間滞在する民宿の人たちだ。
 1日に一本しか定期便の来ないような田舎だが、豊かな自然と村民の優しさに惹かれて観光客もそこそこ来る。僕たちが帰ったすぐ後には世界中からお偉いさんが集まるG20が行われるらしい。なぜ知っているのかというと、僕たちの街も自分の事のように盛り上がっていたからだ。

 後は確か、不思議な伝説が宿る島でもあり、民俗学者にとっては楽園のような場所だと島津が目を輝かせながら言っていただろうか。
 とにかく、僕たち全員を受け入れられるような民宿も、退屈しない程度の土産物屋や観光地も、この島には備わっている。

「湾岸南高校の皆さん、ようこそ鯱神島へ。見渡す限り何もない島ですが、目には見えない魅力が沢山あるので、五日間楽しんでいってください」

 そんな村長の簡単な挨拶の後は、民宿で昼食をとった後バスで5分ほど移動して海水浴場へ。定期便の都合でこの島には昼前にしか来られないので、今日はこの後ずっと海水浴、というかなり適当なスケジュールだ。
 とはいえ、皆早速持ってきた水着に着替えて思い思いに楽しんでおり、あの調子だとどれだけ遊んでも遊び足らないくらいだろう。これを機に女子と仲良くなろうという不届き者もいるが、残念ながらウチの高校の女子はそんなに暇じゃない。

 僕は予定通りパラソルの下で小説を読もうとするが、予想より観光客の数が多く空いているパラソルが見つけられない。しかも笑い声がうるさくて全く集中できないというおまけ付きで、要らないストレスばかり溜まっていく。

 少しでも静かで涼しい場所はないものかとさまよっているうちに、海水浴場の端まで来てしまった。砂浜にロープが張られていて、その先には人影が全くない。
 そして僕はその先に、読書にとても都合の良さそうな岩陰を見つけた。

 だが、ルールは理由があって存在するのであって、とても大切である。
 何故この先に立ち入ってはならないのか書いていない以上、ロープをまたいだ瞬間埋まっていた地雷が爆発したとしても文句は言えない。

 だがよく見ると、僕が今立っている砂浜には空き缶がたくさん落ちている。
 どう見ても漂着物ではないから、他の観光客か僕たちの高校の生徒が捨てていったのだろう。
 つまり彼らもルールを破っておきながら、何のお咎めも受けていない。

 そう考えると馬鹿正直な自分に腹が立ってきて、恐る恐るロープの先へ歩を進めた。
 幸いなことに地雷は爆発しなかった。


 ちなみに後から知ったことだが、あのロープは天然記念物である海を保全するためのものであり、特に危険という訳ではないらしい。
 そんなことも知らない僕は、適当に選んだ推理小説の目新しいトリックに脱帽しながら空が茜色になるまで読み耽る。

 そろそろ集合時刻だと思い、本に栞を挟んで畳もうとしたその時、ポンと肩を叩かれ、驚いて振り向く。


「ここ、立ち入り禁止だよ?」


 彼女はそう言って、悪戯っぽく笑った。


  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 人に、ましてや異性に話しかけられることに慣れていない僕は少しだけ動揺した。
けれど、相手が自分と同年代であること、そして僕たちの高校の生徒では無さそうな事を見てとると、「君も思いっきり立ち入ってるじゃないか」と当然の反論を試みる。

「へへ、まぁそうなんだけどね。君、湾岸南高校の生徒でしょ?この辺りじゃ見ない顔だもんね」

 白いワンピースに貝殻の髪飾りという出で立ちの彼女はどうやら僕を咎めようという訳ではなさそうなので、一応頷く。

「そう言う君は島の生まれか。こんなところで何をしてるんだい?」

 ちなみに僕はこれを、と小説を差し出す。彼女はたどたどしい手つきでそれを開き、即座に首を振ってそっと閉じる。
 返しながら、つまらなそう、と呟いたのを僕は聞き逃さなかったが、敢えて言い返すほどのことでもない。

「私はね、大シャチ様に会いに来たの」

「大シャチ様?」

 耳慣れない単語に眉をひそめて聞き返すと、彼女は少し考える素振りを見せた後、ニヤリと笑って言った。

「見た方が早いよ。そんな本よりよっぽど面白いから」

 それは聞き捨てならない、と僕は時計を見る。もう少しだけ彼女に付き合う時間はありそうだ。
 僕がどうぞご勝手に、という仕草をすると、彼女はまた悪戯っぽく笑い、目を閉じて口笛を吹き始める。その調べは聞いたこともないのに何故か懐かしさを感じて、僕は音楽というものに初めて心を動かされるのを感じた。

 しばらくその音色を聴いていると、やがて海に明らかに大きな魚影が見えた。僕は彼女と魚影を交互に見ながら、少しだけ焦る。
 彼女の口笛もどんどん力強くなって、その波が最高潮に達した、その時。



 黒い影が海面を破るように姿を現し、大きく跳躍した。


  ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 民宿に帰ってきて、夕食を食べて部屋の電気が消えても、あの巨大な生き物、いや生き物と呼んでも良いのか分からない「其れ」の姿は目に焼き付いて消えなかった。

「其れ」は彼女の言う通り、確かに鯱の姿をしていた。だがその大きさは、図鑑で見た鯱よりもはるかに大きいように見えた。



 そんな大きさの鯱が果たしているのか、僕は知らない。

 けれど、「其れ」は、ただの鯱でもなかった。

「其れ」を見た瞬間、得体の知れない神々しさと、温もりを感じた。その温もりは、島全体を包み込んでいるようだった。


「彼女は、誰なのか」


 僕は頭の中で呟く。

 彼女が奏でたあの音色もまた、「其れ」の姿とともに耳を離れない。五人が一組になって眠る部屋中は、凄まじい音量のいびきで満ちているというのに、だ。

 これまで僕の人生の中で、こんなにも一人の人間のことを考えたことがあるだろうか。あの不思議な現象のせい、と自分を納得させても、もう一人の自分がそれを否定する。

「もしかしてお前は、彼女に恋をしているんじゃないか?」と。


 もやもやしているうちに睡魔がさざ波のようににじり寄ってきて、僕は眠ってしまった。
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