貴の一族

七生雨巳

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私の愛しいピアニスト

4話目

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 よそから転入してきた少女は、陸人にも分け隔てなく接してくれる数少ない存在だった。
 少女が話しかけてくるたびドキドキと高鳴る胸に、陸人は病気を心配した。が、病気になどなってしまっては、ピアノを弾かせてもらえなくなるかもしれないと、誰にも言わなかった。
 年に数度会うことができる姉に口が滑ったのは、胸が苦しくてならなかったからだろう。
 誰かに聞いてほしかったからだろう。
 今度その子を連れてらっしゃいと、症状を初恋と診断した姉に、陸人は真っ赤になった。
 もしかしてと考えなかったといえば嘘になるだろう。
 けれど、そんなことはあり得ないと、あってはならないと、自分を縛めていたのだ。
 無意識のうちで、星辰が許すはずがないことを悟っていたに違いない。
 星辰の自分に対する束縛が、常軌を逸したものだとは常々感じていた。だからこそ、恐ろしかったのだ。時折、自分に向けられているまなざしが、いつかの異形を思い出させる。あの異形は、食べようとしている自分に何を言ったのだったか。記憶の中の異形の爛々とした瞳の輝きばかりが、星辰のそれを彷彿とさせるのだった。
 どういう経路をたどったのか、陸人の初恋は星辰の知る所となった。
 ピアノ室に続くささやかな居間のソファに腰をかけて、無表情のまま自分を見てくる星辰の眼鏡越しの瞳が震えがくるほど恐ろしくてならなかった。
 開いた窓からは、心地好く乾いた風が花の匂いをはらんで入ってくる。
 薄い磁器のカップを皿に戻した星辰が、
『奏でる音色に艶が出てきたと教師が褒めていたな』
と、口を開いた。
 そのことばに肩の力を抜いた刹那、
『だが、まだ早いだろう』
 そう断ぜられて、息が止まった心地に襲われた。
 何が早いのか。
 星辰の示唆する物事が何なのか、陸人にはすぐにわかったのだ。
 誰かを想う心は自由なはずなのに、それすらも早いと切って捨てた星辰に、怒りが込み上げてくる。
 もうすぐ高校生になる。決して早くなんかはないはずだ。ひそやかにそれでも確かに、クラスに色めいた話が飛び交っていることを陸人だとて知っている。ただ、自分には関係ないと、ときめきをそうと認められなかっただけで。
 それもこれも、この男のせいなのだ。
 心は自由だ。
 自由なのに、それすらも縛めようとしてくる星辰がに、怒りが込み上げてくる。
『なんで…………なんでだよっ』
 やっとの思いで口にしたことばは、しかし、
『恋などいつでもできる。今はそんなことより、ピアノのテクニックを磨くことだな。音色に艶が出てきても、当の練習がおろそかになっては意味がない。違うか』
 言いながら目を覗き込んでくる。
 眼鏡越しのまなざしからは、裸眼のときほどの苛烈さは感じられない。しかし、陸人は、全身が震えだすのを止めることはできなかった。
 時間ができた時には、星辰が陸人を送り迎えすることがあった。しかし、それ以来、時間を作って星辰が陸人を送り迎えしはじめたのだ。
 一層息が詰まりそうな毎日は、星辰の弟や妹たちを刺激することになった。
 陸人は知らなかったが、星辰の後を人間風情に継がせるのではないかと、そんな、噂が、広まっていた。
 貴の一族では、なによりも血脈が尊ばれる。母親よりも父親の血が重要視される。
 ありえない、そう、一笑に付されるはずだった。なぜなら、陸人は、あくまで、壽盡の妻の弟だからだ。―――しかし、ひそかにささやかれている噂があった。実は、陸人は、香の子供だと言うのである。そうして、なぜ、壽盡が香を、わざわざ日本まで迎えに行き、正妻に迎えたのか。それは、香が、壽盡のこどもを生んでいたからではないのか―――と。壽盡がそれより以前日本に滞在していた時期から逆算すると、陸人に、その可能性がでてきたのだ。
 そうなると、陸人は、壽盡の血を受け継いでいることになる。
 その上に、星辰の、溺愛振りである。
 弟妹に、危機感が芽生えたとしても、不思議はなかった。

 それから二年が流れた。
 ピアノが壊れた。
 壊された。
 朝食前に軽く指を慣らしておこうと練習室に向かった陸人を迎えたのは、愛機の無残な姿だった。
 十年近く愛用してきたグランドピアノは、執拗なほどに破壊されていたのだ。
 呆然と、陸人は、部屋で立ち尽くした。
 次いで、しゃがみこみ、部屋中に飛び散ったピアノの破片を、拾い集めた。
 悲しかった。
 悔しかった。
 白い鍵盤を、陸人の涙が、濡らした。
「おまえでも泣くんだ」
 残骸の上に、いつか、人影が佇んでいた。
 見上げれば、音たてて、ピアノを、踏みにじる。
「やめろっ」
 瞬間、怖さを忘れていた。
 食ってかかって、逆に、残骸の上に、倒れる。
 残骸が、陸人のからだを、擦った。
 人影は、壽盡の末の息子だった。銀瑯と言っただろうか。歳は陸人よりも二つ上だが、見た目は、中学生ていどにしか見えない。
「おまえがっ」
 脇腹を蹴り上げられて、呻きも出せず、身を丸く縮める。
「おまえなんかが、なんで星辰にいさまのお気に入りなんだ」
 ぎちぎちと頭を踏まれ、藻掻く。
 人の形をしていても、相手は、人ではないのだ。
 陸人に勝ち目はない。
「このまま、踏み潰してやろうか」
 そうしたら、おまえなんか簡単に死ぬ。
「たかが、人間のくせに」
 人間風情が、なんだって、にいさまに大切にされるんだ。
 幼い頃の、傷が、掻き毟られる。
 いつもは、心の奥底に閉じ込めていた、恐怖心が、陸人を捕らえる。
 なりふりかまわずもがいて、手に触れたものを、陸人は振りかぶっていた。
 それは、予想外の反撃だったのだろう。
「うわっ」
 ピアノの破片が、銀瑯の足を切り裂いた。
 怯んだ隙に、陸人は立ち上がり、
「出て行け」
 銀瑯を突き飛ばした。
「ここは、オレの部屋だ。勝手に入ってきて、勝手にピアノ壊しやがってっ! そんな権利、おまえなんかに、ないっ」
 何度も押しやりつづける。
 しかし、力でかなうはずもない。
「生意気な」
 片手で、陸人を押し飛ばす。はずみで、陸人のパジャマが大きく開く。少年は、倒れた陸人の剥き出しの腹を、踏みつけた。
「本当に、殺してやろうか」
 陸人の目の前が、真っ赤になる。
 このまま、腹を踏み抜いてやろうか。
 喰らってなんかやらない。
 苦しみにのた打ちまわればいい。
「いやだっ」
 その時だった。
「なにをやっている」
 場違いに冷静な声が、響いた。
 星辰だった。
「兄さん」
 銀瑯の顔が、青ざめる。
「なにをやっていると、聞いている。銀瑯」
 殷の末弟ともあろうものが、他人の部屋に無断で入って、大切にされている楽器を破壊するのか。
 それでまだ足りず、相手を、殺そうとするか。
「だ、だって……」
「なんだ」
 星辰の、闇を宿した鋭い双眸が、銀瑯を射抜くように、見る。
「おまえには、失望したよ。銀瑯」
 そうして、静かに、冷ややかな裁断を、星辰が告げる。
 銀瑯は、ひとつ大きく震え、走り去った。
「陸人」
 振り返って、穏やかな、星辰の声に、しかし、陸人は顔をあげられない。
 怖いという意識が先に立つ。
 いつもは、どうにか隠し通せていると思っている、彼らに対する恐怖が、こみあげて収まらない。

 細い手だった。
 女のような、白い、肌。
 長く尖った爪。
 赤い、くちびる。
 ぞろりと剥き出しになった、鮫のような、歯列。
 ――いい匂いがする。
 首筋に鼻を寄せられた。
 犬のような顔をした、異形だった。
 くすぐったさに、首を竦めて、陸人が笑う。
 しかし、笑いが凍ったように途切れたのは、
 ―――可愛いから、食べてあげる。
 そう言われて、陸人は、逃げなきゃとは思ったのだ。
 けど。
 悲鳴もあげられなかった。
 足が、動かなかった。
 それどころか、すとんと、他愛なく、腰が抜けたのだ。
 腕を掴む手が、伸びた爪が、背中に当たる爪が、痛いくらいに肌に食い込む。
 やっと、足をばたつかせることができるようになって、泣き喚いた。
 そうして、首筋に、鋭い痛みを、感じた。
 その時には、陸人の意識は、現実から遠のいていた。

 真っ青になって震えている陸人の背中に、そっと、星辰は、手を触れた。
「ひっ」
 小さく、胎児のように縮こまる。
 イヤを繰り返す陸人に、星辰の表情が、強張りつく。
「陸人っ」
 肩を掴み、抱き上げる。
 うつろなまなざしが、大きく見開かれた。
「いやだっ」
 腕の中で藻掻く陸人の頬を、星辰が、軽く、叩いた。
「あっ」
 小気味よい音がして、陸人の頬が、赤くなる。
「大丈夫か」
「せ……い………………しん」
「弟が、酷いことをしたようだ」
 すまなかったと、そう言いながら、陸人の赤く腫れた腹部をなでる。
「ひっ」
 刹那、陸人は大きく震えた。
 治まっていた震えが、酷くなる。
「お、おりる」
 下ろされて、息をついた陸人は、
「どうする。落ち着いてから、新しいピアノを見に行くか」
 ここに招いてもかまわないがな。
 部屋を出ようとした瞬間、背中に声をかけられて、その場で固まった。
 声を出せば、悲鳴になりそうで、必死に口を押さえた。
 星辰は、あの時の、あの、異形ではない。
 わかってはいても、怖いのは変わらない。
 目が――――
 そう。自分に向ける、星辰の目が、あの異形を思い出させるのだ。
 必死で、陸人は、首を横に振った。
「なぜだ」
 背中に、星辰の気配を感じる。
 自分を見ているだろう、あの、何かを圧しひそめたような視線が、脳裏によみがえる。
 何かを、答えなければ。
「ピアノがないと、困るだろう」
 答えなければ。
 涙が、こみあげてくる。
 目を閉じて、首を振った陸人は、いつの間にか、星辰が目の前にいることに気づき、息を呑んだ。
「………おまえはっ」
 ぐっと、顔を近づけられ、背けようとした顔を、星辰の両手が、掴みこむように、両側から、つつみこむ。
 目を覗き込まれて、掠れた悲鳴が、ごまかしようもなくくちびるを突いた。
 背中を流れ落ちる冷たい汗の感触に、自分はまだ震えているのだと、止まったと思った震えを意識する。
「いつになったら、この私を見る」
 私が、こんなにも、おまえに捕らわれているというのに!
 ぶつけるように、そう告げられて、息を奪われるかのような激しいくちづけを受けた。
 そのまま、ピアノ室の床に、横たえられる。
 どんなに暴れても、星辰にかなうはずもない。
 陸人は、自分が、星辰に喰らわれるのだと、痛いくらいに、思った。

 翌日には、新しいピアノが、届けられた。
 しかし、体調の悪さから陸人は、しばらく、ベッドから起き上がることすらできなかった。
 気は焦るものの、今は、ピアノを見るのも苦痛だった。
 それを自分から弾こうという気には、なれなかった。
 せめて気分を変えようと、ピアノを別の部屋に移動させたのは、体調が戻った二日後のことだった。
 そうして、陸人は、ピアノの椅子に座った。
 楽譜を開く。
 目を閉じて、深呼吸を繰り返す。
 ピアノに触れるのは、十日ぶりになる。
 指が、前のとおりに動くとは、考えられない。
 それでも、ピアノの感触は、陸人を、励ます。
 ピアノが、ささやく。
 大丈夫――と。
 わたしを、弾いてください――と。
 陸人が、そっと、鍵盤に触れる。
 やわらかな音色が、部屋に、響いた。
 それからは、迸るように、陸人は、鍵盤を叩いた。
 ピアノ教師が、ドアを開けたことも、佇んでただ陸人の奏でるピアノに耳をかたむけていることにも、気づいてはいなかった。

 あれから、何度も星辰に抱かれた。
 無理矢理の情交は、怖かった。イヤだった。からだも辛い。なのに、どんなに言っても、星辰は、許してくれなかった。
 ほんの少しの自由すら、陸人からは奪われてしまった。
 いつも、星辰の目がある。
 なにをしていても、学校にいてすら、星辰に見られているような気がしてならなかった。
 星辰の束縛から逃れる術は、陸人には、なかった。
 けれど、それは、天恵のように、陸人の目の前に現われた。
 世界的なピアニストだった日本人を偲んで設立されたという、コンクール。その優勝者には、コンセルバトワールの留学が待っている。
 ピアノ教師が陸人にそれを薦めたのは、ある意味当然なことであったろう。

 陸人は、今、その舞台に立っていた。
 最終審査だった。
 自分を励ましつづけてくれた、ピアノのやさしい音色を、今だけは、陸人は、楽しんでいた。
 そうして、気がつけば、スタンディングオべーションが、陸人を包みこむ。
 呆然と、陸人は、ただ、涙を流していた。
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