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1 化け物と人間の話
しおりを挟む街灯の光も届かない狭い裏路地を駆け抜ける。月は分厚い雲に隠されて少しの光も届かない。けれど昼と何ら変わらず機能する眼は、余計な物まで拾ってしまう。脚に力を込めて大きく跳躍し前に回り込む心算が誤って先頭を走っていた獣を踏み貫いた。
「嗚呼、間違えた。殺す心算は無かったのだけど」
獣だった残骸から脚を抜きながら釈明してみるが、意味は無い。突然現れた邪魔者を排除するべく、飢えた歪な獣達は一斉に牙を剝いて僕に飛び掛かった。
「……弱い」
数の割には手応えが無い。余りの呆気なさに思わず呟く。すると小さく息を呑む音がして、漸く目的を思い出した。
「忘れてた。もう出てきて良いよ。僕は帰るから」
「まっ、待って!」
物陰から転げ出たのは服も身体もボロボロの、痩せ気味な人間の子供。見当違いな所を見ながら転げ出た格好のまま固まっている。
「………」
「………………」
動く気配が無い。
「もうい「あああのっ」……」
声が被った。
「………何?」
「あのっ、あ、ありがとう」
驚いた。逃げられるなら未だしも感謝されるとは思ってもみなかった。
「そう。人間に感謝されるなんて初めてだ」
「君は、人間じゃ、ないの……?」
「さぁ?如何だろう」
そう言えば、此処は真暗なんだったか。相手は只の子供だ、適当に返事をする。
「追いかけてきた化け物は?」
子供は頻りに辺りを見回している。見える筈も無いのに。
「腹の中に入れた」
「え?どういうこと?」
疑問には答えず子供に背を向けて歩き出すと、子供が慌てた様子で動き始める。
「ねぇ!ここどこ?」
呆れた。思わず振り向くと子供は不安そうな顔で此方を見ている。
「…………家は何処」
「家?ボクの?」
「そう」
子供は顔を歪ませながら俯く。
「帰りたくない」
「御前の事は聞いてない」
「ボクのお父さん、お酒飲んでばっかりでボクたちを叩くんだ。お母さんもあまり帰ってこないし」
「だから聞いてない」
「今日も、お酒買いに行けって言われたんだけど、子供には買えないよってお店の人に言われたの」
「……」
「このまま帰ったら絶対怒られて殴られる……帰りたくない。でも帰らなかったらヒロが殴られちゃう……どうしよう」
「…………」
「どうしよう、どうしようぅ」
嗚呼、面倒だ。話すだけ話して泣き始めた子供を見ながら後悔する。余計な物を良く見つける眼が恨めしい。
「御前が如何なろうが如何でも良いけれど、面倒だから泣かないで。人間が多い所まで連れて行くから」
人間は人間に押し付けるに限る。歩き出そうとすると子供が手を差し出してきた。
「何?」
聞いても子供は鼻を啜るだけで答えない。数秒の間を置いて、子供が焦れたように口を開いた。
「てぇつないで?」
「手を繋ぐ?僕と?」
「うん」
「……それは出来ない」
手を繋ぐ?人間と?この手で?こんなにも人間と違う異形の手で?
「手は繋がない。でもこれなら掴んで良い」
子供の腕より太い人差し指で触れる。子供は疑う様子も無く掴んだ。
「この辺りかな」
煌びやかなネオンが見える手前で子供の手を振り払う。何時も通りすると潰してしまうから、細心の注意を払って。
「僕は此処までしか行かない。後は一人で行って」
「なんで?」
「何でも」
子供は未だ僕の姿が良く見えていないらしい。
「後は好きにして。僕は帰る」
「うん。バイバイ」
子供は僕に手を振ると、ネオン街に向かって走り出した。
「人間は本当に勝手だな」
とても疲れた。人間は苦手だ。特に子供は、煩いから。でも今日は。
「……ありがとう、か」
ほんの少しだけ、人間に近付けた気がする。……否、気の所為か。
何時の間にか見詰めていた人差し指から目を離す。雲の隙間からゆっくり月が顔を出す。今日の月はとても明るい。柔らかな光から逃げるように闇に身を溶け込ませた。
聞き覚えの有る声が聞こえた気がして目を開ける。可笑しいな、さっき別れた筈なのに。昼夜問わず良く見える眼は簡単に声の主を見つけ出す。
「ごめんなざい!ごめんなざい!おどうざん!おがあざん!ごめんなざい!」
泣き喚いている子供を引き摺るようにして歩く人間が二人。子供の言葉からして両親なのだろうが……成程碌でも無さそうだ。
「ほんっとにテメェは使えねぇなぁ!!酒も買いに行けねぇのか!」
男の方は完全に駄目になっているのだろう、子供を引き摺りながら男自身も躓いている。その後ろを歩く女は何も言わず付いていくだけ。意味も必要も無い女の行動は僕では理解出来ない。
「テメェみてぇな使えねぇゴミはな!捨てるんだよ!こうやってな!」
男が勢い良く腕を振り回す。投げられた子供は縮こまって痛みに耐えている。
「オイ!帰るぞさっさと車出せ!」
男は女の髪を鷲掴んで騒ぐ。女は運搬係か。これだから人間は嫌いだ。特に大人は、醜いから。
子供は蹲ったまま謝りながら泣いているし、男は女に当たり散らしながら叫んでいる。嗚呼、煩い。此処は僕の寝床だぞ。それに、此処が何処だか分かっているのか、あの人間共。そんなに騒がしくしたら……
ほら、来た。
「ヒィッ……!ば、化け物……!」
活きの良い餌に有り付けると、わらわらと小物が集まってくる。此処は人間が多い街から差程遠くも無い、廃工場と呼ばれる場所だ。大きな事故やら不可解な現象やらが頻繁に起こると最近稼働を停止したらしい。人間も寄り付かないから様々な異形が住み着いている。そんな事は向こうも分かりきっている筈だが、この愚かな人間共は頭が回らなかったらしい。
「嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ!死にたくない!死にたくないよぉ……!誰か、誰かたすけっ」
半狂乱になった男が女を押し退けて車に走って、首から上が飛んで行った。嗚呼、煩い。
「いやぁぁぁぁぁぁあ!来ないでぇええぇ!ア゛ッ」
女の身体が二つに裂ける。甲高い断末魔も、男の汚い命乞いも、不愉快で仕方が無い。これだから人間は嫌いだ。死ぬ時くらい静かに出来ないのか。
骨の砕ける音、肉の裂ける音。小物共に貪られる両親を見ながら子供は放心しているようだ。餌に有り付けなかった残りの小物が子供に狙いを定め、襲い掛かる。何時もの僕なら上から見ているだけで、人間が如何なろうが知った事では無い。でも、今は。あの人間だけは。
「その人間に、触るな!」
一気に距離を詰め小物を殴り飛ばす。小物は粉微塵に消し飛んだ。
「失せろ、雑魚共」
睨み付ければ小物は怯え、蜘蛛の子を散らすように掻き消えた。
子供を見ると、酷く怯えた顔で僕を見ている。僕が近づくと這いずる様にして後退る。
「如何して?僕はまた御前を助けてやったのに。如何して逃げるの」
「いや、いやだ、来ないで」
意味が分からない。理解が出来ない。僕は同じ事をしただけなのに。
「如何して?御前を殴る人間は死んだ。御前は自由になったのに」
子供の両親だった残骸を指差す。其処には僅かな骨と布切れが転がっているだけだった。
「お、おとう、さん……?おかあさん……?」
子供は蹌踉けながら残骸に近付く。そして、大声で泣き始めた。……嗚呼、煩い。
「如何して泣くの。嬉しくないの?御前を害する者はもう居ないのに」
そう聞くと、子供は泣き叫ぶのを止めてゆっくりと此方を振り返った。
「そんなこと望んでない!お父さんとお母さんを返して!このバケモノ!」
その子供は泣いていた。恐怖に顔を歪ませながら、けれどその眼は怒りに満ちていた。
──嗚呼、これだから人間は、嫌いだ。
今夜は月がとても明るい。この明るさなら人間の眼も良く見えるのだろうか。刳り貫いた目玉を月の明かりに透かしてみても、その眼が僕を見ることは無い。
「……つまらない」
目玉を腹に入れる。異形より断然美味いが、如何せん小さくて物足りない。僕の指より細い腕を持ち上げる。二の腕から上は千切れてもう無い。
僕に触れた唯一の人間だったのに。会話が出来た初めての人間だったのに。……そうか、僕は期待したんだ。なんて愚か。馬鹿馬鹿しい。……そう言えば、あの子供は他にも身内が居るように言っていた気がする。確か名前は……まぁ良いか。
「如何でも良い」
腹から伸びる手を払い除けて、小さな手に齧り付く。久しぶりに口から食べた人間の味は、甘く、そして少し塩辛く感じた。
けたたましいサイレンの音に眼を開ける。眼下に見えるのは眠る事を忘れた人間の街。
随分と懐かしい事を思い出していた。一体何時の出来事だったか……大分街並みも変わっている様だし、それなりに古い記憶らしい。
全く可笑しな話だ、自分の事すら一つも覚えていないのに。朧げな記憶を探ったとて生まれも何も分かりはしない。唯一分かっている事と言えば、如何やら僕は何処にも行けないらしいという事だけだ。
人智を超えた獣の咆哮が夜の街に轟く。いけない、物思いに耽って本来の目的を忘れる所だった。
「余り僕の気に障る事をしないで欲しい。面倒事が増える」
誰に言うとも無く呟いて、空を見上げる。
今日の月もとても明るい。人間に見つかる前にさっさと済ませてしまおう。深く深呼吸をして、月夜の街に身を躍らせた。
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