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第二章
祈 三
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戸惑いの視線を、工兵衛は怯えと取ったらしい。
「わしが居るゆえ、安心おし。ご挨拶を、と言うからそのときに名前を言うんだ。その後は何も言うことはない。次の間で、ただお辞儀をしておれば良い」
上の屋敷は広い。
その奥の客間に国主とその子息が居る。朝餉を終えて、真由を相手に寛いでいた。
「養い子にご挨拶をさせていただきたく」
工兵衛がそう言って、みなほを従えて客間の次の間に入った。
みなほを一人だけ次の間に残し、工兵衛は客間の中に入り、真由の傍らに座した。
みなほは敷居をまたぐことなく、その場に正座して膝の前に手を付いて頭を下げた。高貴の人を直接に見てはならないと工兵衛は言った。それゆえに顔は決して上げない。
ただ指の間の板敷きをみなほは見て、平伏する。
「幼き頃に両親を失いまして、我が家の離れにて養っておる、一族の娘でございます」
工兵衛は国主と子息に説明をする。
そのうえで、申し合わせどおりに
「みなほ、ご挨拶を」
工兵衛がみなほに呼びかけた。
「みなほでございます」
教えられたとおりに、みなほは声を発した。一間を隔てて遠くの人に話しかけるなど初めてであり、力の無い声は震えた。
「いくつであろう」
国主が言った。
みなほは自分に問われていると気づいたが、対処がわからない。直に答えては成らないと先ほど工兵衛に言われている。
「十五歳になります」
国主の傍らから工兵衛が言う。その声が聞こえて、みなほは喉にせりあがった緊張が腹に下りていくのを感じた。
まかせておけと言う工兵衛の声が耳によみがえる。本当にただ頭を下げて居ればいいのだと悟ると、少し肩の力が抜けた。実際は十六歳なのだが、それを言う必要もあるまい。
「養い子であるか」
「左様でございます。遠き縁者になります。今は、養女として、我が娘でございます」
「みなほと申したか。顔を上げよ」
国主の子息が言う。彼がみなほに興味を示したことに、工兵衛の傍らの真由が少し不快げな表情をする。
だが、そう言われては拒むわけにもいかない。
「みなほ、顔をお上げ」
工兵衛はそう告げざるを得ない。
打ち合わせに無かったことであるが、工兵衛が言うからには顔を上げなければならない。沈黙の後、はい、と小さな声で言いながら、少しだけみなほは顔を上げた。
「これはまた愛らしい」
若殿は自らの顎先をなでながらみなほへの讃を述べた。
「ありがとうございます」
工兵衛としては、不本意であったが、我が娘であると言ってしまった以上、礼を言うしかない。
「しかしずいぶんと細いな。もう少し肥えたほうがいい」
「食の細い娘でございまして、こちらの真由ともども、案じております」
背中に冷や汗を感じながら工兵衛は苦しい言い訳をする。みなほにも聞こえているだろう。彼女はどう思うのだろう。この場で、十分な糧など与えられていない、とみなほに反論されては困る。工兵衛も真由も嫌な汗が浮かんだ。
「目が綺麗だの。いま少し肥えれば見違える」
「お褒めいただき光栄でございます。……こ、このみなほは」
まさか、真由をやめて、みなほを城へ、などと若君が言い出しはしないかと、工兵衛は危惧しながら言う。
「みなほは、この秋の祭礼で大役を務めることとなっておりまして」
いささか強引に、話を変えた。
みなほは初めて耳にする話に、驚いて工兵衛を見た。彼は顔を赤くして、奇妙なほど汗をかきながら、国主とその子息だけを見て言葉を継いでいる。
父の傍らで、娘の真由は静かな様子でみなほに横顔を向けていた。目は、父と同じく客人だけを見ている。言葉を継ぐ工兵衛より落ち着いた顔だった。
「この山の頂の龍神湖をご存知でございますか?」
「無論、存じている。深山の奥の奥、めったに姿を現さぬ霧の深い湖であると。まこと龍神の住処と呼ぶにふさわしき神秘の湖であったな」
国主が重厚な声で答えた。
「その少しふもとに、龍神の御子の成したと言われる池がございます。御子ヶ池と呼び習わしております。池の底からこんこんと澄み切った水の湧く、それはそれは美しい池でございます。これまでに涸れたことの無い豊かな湧き水の池でございます。我が村を含む麓の六か村の豊穣は、まさにこの御子ヶ池の恵みであろうかと、皆、感謝しております」
「なるほど」
「それゆえ我が村を含め、御子ヶ池の恵みを受ける村々はかの池を神と崇めております。当地の社も御子ヶ池の神、龍彦様を祭神としてございます。毎年秋には感謝の祭りを行いますが、今年は辰年ゆえに大祭となります。その大祭には、御子ヶ池の龍彦様に贄を差し上げるのでございます」
「にえ? 生贄か」
剣呑な響きの言葉に、国主が眉を寄せて怪訝な顔をした。
「贄と申しても命を奉げるわけではございませぬ。いわば龍彦様への一夜の嫁として、献上するのでございます。贄を差し上げるのは龍彦様を祭る六か村の持ち回りでして、今年は我が村からと定められました」
「それがこのみなほであるのは、何故であろうか?」
若君が問う。よほど、みなほを気に入ったのか。
「神籤により決めまする。昨年の秋の例祭の折、六か村の社の宮司が寄り合いまして、神籤を引きました。そこで定められた者が、贄と成ります。神籤、すなわち、神の思し召しで選ばれし贄でございます」
「なるほど。それでは」
仕方が無い、と国主が息子に言った。
「神の嫁ではのう」
おさがり、と告げられて、みなほはまた深々とお辞儀をして立ち上がった。
少し足がしびれた。しかし、足の感覚などよりも、たった今聞いた話で頭がくらくらとするようだった。
客間を出て、濡れ縁の廊下を渡り、屋敷の中庭に近い渡り廊下を通り、先ほど通ってきた経路を思い出しながら台所へたどり着く。屋敷に入ったのも台所からだった。
さがれといわれてもみなほには上の屋敷に居る場所はない。台所から勝手口を出て、北の裏門をくぐって、住まいの小屋へ戻る。来たときは侍女らと一緒だったが、帰りは一人だった。
土間からの上がり框に腰を下ろす。ひどく背中がだるいような疲労を感じた。
暗い室内の隅に、布切れの塊がある。それが今朝ほどまで身につけていた衣類だと解った。
今みなほが身に纏っているのは、真由の御下がりだ。しなやかな生地の、綺麗な浅葱色の着物である。
それに比べればなんと惨めなボロ布だろうか。膝の上にそのボロを持って、なにやらわからぬような涙に襲われて、ふと膝に突っ伏して泣いた。
朝まで身につけていた襤褸切れが、獣じみた臭いに感じた。
「わしが居るゆえ、安心おし。ご挨拶を、と言うからそのときに名前を言うんだ。その後は何も言うことはない。次の間で、ただお辞儀をしておれば良い」
上の屋敷は広い。
その奥の客間に国主とその子息が居る。朝餉を終えて、真由を相手に寛いでいた。
「養い子にご挨拶をさせていただきたく」
工兵衛がそう言って、みなほを従えて客間の次の間に入った。
みなほを一人だけ次の間に残し、工兵衛は客間の中に入り、真由の傍らに座した。
みなほは敷居をまたぐことなく、その場に正座して膝の前に手を付いて頭を下げた。高貴の人を直接に見てはならないと工兵衛は言った。それゆえに顔は決して上げない。
ただ指の間の板敷きをみなほは見て、平伏する。
「幼き頃に両親を失いまして、我が家の離れにて養っておる、一族の娘でございます」
工兵衛は国主と子息に説明をする。
そのうえで、申し合わせどおりに
「みなほ、ご挨拶を」
工兵衛がみなほに呼びかけた。
「みなほでございます」
教えられたとおりに、みなほは声を発した。一間を隔てて遠くの人に話しかけるなど初めてであり、力の無い声は震えた。
「いくつであろう」
国主が言った。
みなほは自分に問われていると気づいたが、対処がわからない。直に答えては成らないと先ほど工兵衛に言われている。
「十五歳になります」
国主の傍らから工兵衛が言う。その声が聞こえて、みなほは喉にせりあがった緊張が腹に下りていくのを感じた。
まかせておけと言う工兵衛の声が耳によみがえる。本当にただ頭を下げて居ればいいのだと悟ると、少し肩の力が抜けた。実際は十六歳なのだが、それを言う必要もあるまい。
「養い子であるか」
「左様でございます。遠き縁者になります。今は、養女として、我が娘でございます」
「みなほと申したか。顔を上げよ」
国主の子息が言う。彼がみなほに興味を示したことに、工兵衛の傍らの真由が少し不快げな表情をする。
だが、そう言われては拒むわけにもいかない。
「みなほ、顔をお上げ」
工兵衛はそう告げざるを得ない。
打ち合わせに無かったことであるが、工兵衛が言うからには顔を上げなければならない。沈黙の後、はい、と小さな声で言いながら、少しだけみなほは顔を上げた。
「これはまた愛らしい」
若殿は自らの顎先をなでながらみなほへの讃を述べた。
「ありがとうございます」
工兵衛としては、不本意であったが、我が娘であると言ってしまった以上、礼を言うしかない。
「しかしずいぶんと細いな。もう少し肥えたほうがいい」
「食の細い娘でございまして、こちらの真由ともども、案じております」
背中に冷や汗を感じながら工兵衛は苦しい言い訳をする。みなほにも聞こえているだろう。彼女はどう思うのだろう。この場で、十分な糧など与えられていない、とみなほに反論されては困る。工兵衛も真由も嫌な汗が浮かんだ。
「目が綺麗だの。いま少し肥えれば見違える」
「お褒めいただき光栄でございます。……こ、このみなほは」
まさか、真由をやめて、みなほを城へ、などと若君が言い出しはしないかと、工兵衛は危惧しながら言う。
「みなほは、この秋の祭礼で大役を務めることとなっておりまして」
いささか強引に、話を変えた。
みなほは初めて耳にする話に、驚いて工兵衛を見た。彼は顔を赤くして、奇妙なほど汗をかきながら、国主とその子息だけを見て言葉を継いでいる。
父の傍らで、娘の真由は静かな様子でみなほに横顔を向けていた。目は、父と同じく客人だけを見ている。言葉を継ぐ工兵衛より落ち着いた顔だった。
「この山の頂の龍神湖をご存知でございますか?」
「無論、存じている。深山の奥の奥、めったに姿を現さぬ霧の深い湖であると。まこと龍神の住処と呼ぶにふさわしき神秘の湖であったな」
国主が重厚な声で答えた。
「その少しふもとに、龍神の御子の成したと言われる池がございます。御子ヶ池と呼び習わしております。池の底からこんこんと澄み切った水の湧く、それはそれは美しい池でございます。これまでに涸れたことの無い豊かな湧き水の池でございます。我が村を含む麓の六か村の豊穣は、まさにこの御子ヶ池の恵みであろうかと、皆、感謝しております」
「なるほど」
「それゆえ我が村を含め、御子ヶ池の恵みを受ける村々はかの池を神と崇めております。当地の社も御子ヶ池の神、龍彦様を祭神としてございます。毎年秋には感謝の祭りを行いますが、今年は辰年ゆえに大祭となります。その大祭には、御子ヶ池の龍彦様に贄を差し上げるのでございます」
「にえ? 生贄か」
剣呑な響きの言葉に、国主が眉を寄せて怪訝な顔をした。
「贄と申しても命を奉げるわけではございませぬ。いわば龍彦様への一夜の嫁として、献上するのでございます。贄を差し上げるのは龍彦様を祭る六か村の持ち回りでして、今年は我が村からと定められました」
「それがこのみなほであるのは、何故であろうか?」
若君が問う。よほど、みなほを気に入ったのか。
「神籤により決めまする。昨年の秋の例祭の折、六か村の社の宮司が寄り合いまして、神籤を引きました。そこで定められた者が、贄と成ります。神籤、すなわち、神の思し召しで選ばれし贄でございます」
「なるほど。それでは」
仕方が無い、と国主が息子に言った。
「神の嫁ではのう」
おさがり、と告げられて、みなほはまた深々とお辞儀をして立ち上がった。
少し足がしびれた。しかし、足の感覚などよりも、たった今聞いた話で頭がくらくらとするようだった。
客間を出て、濡れ縁の廊下を渡り、屋敷の中庭に近い渡り廊下を通り、先ほど通ってきた経路を思い出しながら台所へたどり着く。屋敷に入ったのも台所からだった。
さがれといわれてもみなほには上の屋敷に居る場所はない。台所から勝手口を出て、北の裏門をくぐって、住まいの小屋へ戻る。来たときは侍女らと一緒だったが、帰りは一人だった。
土間からの上がり框に腰を下ろす。ひどく背中がだるいような疲労を感じた。
暗い室内の隅に、布切れの塊がある。それが今朝ほどまで身につけていた衣類だと解った。
今みなほが身に纏っているのは、真由の御下がりだ。しなやかな生地の、綺麗な浅葱色の着物である。
それに比べればなんと惨めなボロ布だろうか。膝の上にそのボロを持って、なにやらわからぬような涙に襲われて、ふと膝に突っ伏して泣いた。
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