24 / 34
第三章
密 八
しおりを挟む湖水に小さな波が立ち、あゆとますが顔を見せた。
「おきさきさま」
「おきさきさま」
「おはよう」
みなほは横たわったままで二人に声をかける。何を言って良いか解らない。身を起こすことが出来ない。
「おきさきさま、お辛いのでございますか?」
あゆが今にも泣きそうな顔になっている。みなほを心配しているのだ。
(嬉しい、というのも変だけど)
みなほの身体の具合を心に掛け、苦しげな様子が辛いと思ってくれる。温かく優しい気持ちがあゆにもますにもある。嬉しかった。
「ありがとう。二人とも」
誰かの心の優しさに触れることが、己の心を温める。乾きを潤す。龍彦に出会わなければ、あゆやますにも会えなかった。二人の優しい思いを知ることもなかった。
このまま命が無くなるとしても、優しい思いの中で果てるのなら良い。
「おきさきさま」
目を閉じかけた目蓋の隙間から、あゆとますが互いに目を合わせてうなずいたのを見た。
ざぶん、と大きな水音がして、みなほの顔にまで水がかかる。冷たくはないが、その感触に驚いて目を開いた。
目の前の床に一尺ほどの魚が二匹、跳ねていた。つやつやとした身体がうねり、跳ねるたびに飛沫が散って光る。
贄になると聞かされて村長の屋敷に住んでいた頃に、魚を食べたことがある。跳ね回る姿そのままに身をうねらせた魚に串を打ち、塩を振って炭火で焼いたものだった。非常に美味だった。
滋養に良いということで、日に一度は膳に上がっていた気がする。葉や根などの野菜より、食べると力になるのはよく知っている。
「おきさきさま」
聞こえてくる声は、あゆとますのものだ。だが二人の姿が湖水の中に見当たらない。
「おきさきさま」
何度も声をかけてくれるが、姿が見えず、不安になって、みなほは重い身体を起こした。床に手をつき、震えながら肘を伸ばしていく。
声がするたび、目の前の魚たちが激しく跳ねる。
「ああ……!」
この子達は、とみなほは目を見張った。
「おきさきさま、お辛いのですか?」
「どうか、早くお元気になってくださいまし」
「御子様のためにも」
どうか、どうか、とあゆとますの声が響く。
「私達を、どうぞ、召し上がって下さいまし」
「そのために御子様は私達を残されました」
鮎と鱒だった。
焼いた身がほのかな塩味とともに口の中で溶け崩れる風情は美味で、思い出すと口の中が潤うほどだ。炭火で焼いた皮が歯に触れるとぱりっと割れる。あの歯触りは嬉しいものだった。美味しくて、骨のそこここに付いた身をもしゃぶるように食べ尽くした。
大きく、よく肥えた魚たちが、みなほの目の前で跳ねている。
みなほは飢えている。記憶の中に在る魚たちの味が、空っぽの腹を刺激する。
「やめて、お願いだから……!」
「いいえ、おきさきさま、どうぞ」
「召し上がって下さい」
手を伸ばして、かぶりついてしまいたい衝動に駆られる。
「いやよ、いや!」
「私達は構わないのでございます」
「おきさきさまのお力になりたいのでございます」
みなほは拳を握りしめて、床にうずくまる。彼女たちの言うとおり、魚を食べれば身体の力は戻るだろう。心許ないほどの飢えから、逃れることも出来る。何より、腹が減っている。
「やめて!」
ぬめりを帯びた魚を掴んだ。鮎だった。せごしと言って、生の身体を輪切りにして酢味噌で食べることもある。あれも美味しかった。
目を閉じたまま、みなほは鮎を湖水に投げた。続いて鱒も拾って投げる。二つの水音がした。
たったそれだけの動作だけで、肩が波打つほど息が切れる。
「おきさきさま、どうぞ」
「お元気になるために」
「お願いだから、二度とそんなことを言わないで」
悲しくなってしまった。
「二人を、食べるなんて、できない……!」
かすれた声で叫び上げる。胸が苦しい。吐きたいほど空腹であることは確かだ。身体に力がない。苦しみは、もしかしたら魚を食べたら治まるかもしれない。
だが、心が苦しい。
あゆもますも、可愛い少女達で、みなほを大切に思ってくれた。心を温めてくれた。
「おきさきさま、人は、そういうものではありませんか」
「眷属の者達は、皆、そうして人に力を与えています。だから」
あゆとますの言うことは確かだ。みなほもかつてそうやって、魚を食べて力を得た。何匹、口にしたか覚えていないが、膳に上がれば喜んで食べた。
「私達を召し上がっても、明日にはまた」
「同じあゆとますが参りますよ。気になさらないで」
「同じじゃない。同じではないわ」
貝あわせが上手で、みなほに勝って困った顔をするあゆは、一人しか居ない。一緒にがんばろう、と言って大らかにうなずくますは、やはり一人だけだ。代わりはいない。
「確かにこれまで、貴方たちの仲間の命を頂いてきたけれど」
「そうでございましょう?」
「それゆえ」
「お願い、もう言わないで」
村の外れに川があって、御子ヶ池に湧いた水もそこに注ぎ込んでいただろう。魚は、恐らくその辺りから獲った物だ。
どんな顔をして、どんな暮らしをしてきた魚たちだったのだろう。やはり貝合わせが上手だったり、双六が強かったり、したのだろうか。
そんな命を、頂いてきたのだろうか。魚たちにとっては、人は何と残酷な生き物だったのだろう。
「あゆと、ますを、私は食べられません」
「そんなことおっしゃらないで」
「おきさきさまがお命をつなぐためなら、私達は喜んでこの身を差し上げますのに」
「おきさきさまと、御子様が、お元気になるためなら」
「私達は嬉しいのでございますよ」
誰かの喜びになるのなら、力になるのなら。
それが嬉しいと思う気持ちは、今のみなほには理解ができる。
こういうときは、何と言えば良いのか。
「ありがとう、……二人とも、ありがとう」
そうだった。
そう言うのだよと、ずっと以前、生きていた頃の父と母に教わった。兄や姉も教えてくれた。父母やきょうだいの命があったころ、みなほの命も生まれてきたのだった。
0
あなたにおすすめの小説
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
【完結】異世界に転移しましたら、四人の夫に溺愛されることになりました(笑)
かのん
恋愛
気が付けば、喧騒など全く聞こえない、鳥のさえずりが穏やかに聞こえる森にいました。
わぁ、こんな静かなところ初めて~なんて、のんびりしていたら、目の前に麗しの美形達が現れて・・・
これは、女性が少ない世界に転移した二十九歳独身女性が、あれよあれよという間に精霊の愛し子として囲われ、いつのまにか四人の男性と結婚し、あれよあれよという間に溺愛される物語。
あっさりめのお話です。それでもよろしければどうぞ!
本日だけ、二話更新。毎日朝10時に更新します。
完結しておりますので、安心してお読みください。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
肉食御曹司の独占愛で極甘懐妊しそうです
沖田弥子
恋愛
過去のトラウマから恋愛と結婚を避けて生きている、二十六歳のさやか。そんなある日、飲み会の帰り際、イケメン上司で会社の御曹司でもある久我凌河に二人きりの二次会に誘われる。ホテルの最上階にある豪華なバーで呑むことになったさやか。お酒の勢いもあって、さやかが強く抱いている『とある願望』を彼に話したところ、なんと彼と一夜を過ごすことになり、しかも恋人になってしまった!? 彼は自分を女除けとして使っているだけだ、と考えるさやかだったが、少しずつ彼に恋心を覚えるようになっていき……。肉食でイケメンな彼にとろとろに蕩かされる、極甘濃密ラブ・ロマンス!
【完結・おまけ追加】期間限定の妻は夫にとろっとろに蕩けさせられて大変困惑しております
紬あおい
恋愛
病弱な妹リリスの代わりに嫁いだミルゼは、夫のラディアスと期間限定の夫婦となる。
二年後にはリリスと交代しなければならない。
そんなミルゼを閨で蕩かすラディアス。
普段も優しい良き夫に困惑を隠せないミルゼだった…
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる